神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あるがままを感謝する。~その2~

2022年02月20日 | キリスト教

 >>不潔恐怖、確認恐怖、閉所恐怖から脱出した竹下さん。

 真夜中に、家族が寝静まったころを見はからって、そっと布団から出て玄関や勝手口のカギ、ガスの元栓を確認する――一見異様な行動に見えますが、竹下和代さん(仮名 東京都 54歳 主婦)にとっては真剣な一日の締めくくりの行事なのでした。

 和代さんは強迫性の神経症のさまざまな症状を体験しています。幼稚園のとき、公園で遊んでいて手を洗わないままお菓子を食べた子が赤痢にかかる、という紙芝居を見ました。園児に衛生について教える目的でしたが、彼女は過度に反応し、何かにさわると手にばい菌がついた気がして、すぐに手を洗うようになりました。手洗いを繰り返しているうちに、手はひび割れ血が噴き出してしまいました。

 その上さらに、口の中にばい菌が入ったのではないかという感覚にとらわれ、口を開けるたびに唾を吐くのでした。祖母も母もその様子を気にしていましたが、当時は心療内科や精神科に行くなど思いもよらなかったので、そっと見守るだけだったようです。

 小学校では体育が苦手で、とくに水泳が嫌いでした。母は心配して、スイミングスクールに通わせたのですが、行く時間が近づくと緊張のせいか便が緩くなり頻尿にもなるせいで、ほぼ十分おきにトイレに行くようになりました。

 六年生のときの健康診断で心臓に悪いところが見つかり、中学一年で手術をしましたが、術後は順調に回復し、主治医が「もうどんな運動をしても大丈夫ですよ」と言ってくれました。その言葉に、体育が苦手の彼女は「ずっと運動できなくてもよかったのに……」と喜ぶよりもがっかりしました。その後友人からスケートに誘われたときも、やはり動悸と胃の不快感に悩みました。

 また、授業で指名されて教科書を音読するうちに動悸が激しくなり、そのことに注意が向いてますます苦しくなって、息も絶え絶えに声を振り絞って読むといったことがありました。みんなにそんな見苦しい姿を見られるのが恥ずかしく、授業中は「また読まされるのではないか」という不安と戦っていました。

 高校生のころ、夜、近所で火事があり、ショックで朝まで一睡もできませんでした。これがきっかけで、火元の確認を繰り返す強迫行為が始まりました。幼いころの手洗いは家族も知っていましたから、他人に知られてもあまり気にはならなかったのですが、思春期の感じやすい年頃です、火元の確認行為は、人に知られたら恥ずかしいと思うようになりました。

(『神経症からの「回復の物語」』岸見勇美さん著、生活の発見会監修/柏揚社より)


 ええと、本の中には色々な神経症患者さんのことが出てきます。にも関わらず、竹下さん(仮名)の例を抜粋したのは何故かというと、他の方のケースの場合は「こうした症状に悩まされている」という文章が長いわけですけど(もちろん、共感できて感動的です)、竹下さんの場合は割と文章短かったので、引用しやすいと思ったというかm(_ _)m

 人が神経症になる場合、原因が「これではないか」、「この人生の悪い経験だろう」と思い当たる場合がある一方、そのあたりが曖昧ではっきりしない場合もあるわけですが(それでも、その方の性格や生育歴が密接に絡みあっていると言われています)、竹下さんの場合は、そもそもお父さんが似たような強迫行為を持っており、それを受け継いでしまったのではないか……ということだったんですよね。

 それで、こういった種類の症状を持ってる方っていうのは、その後も劇的に治ったりすることもなく、理解されず家族とも反目し、友達もなく孤立するのではないか――と想像されるかもしれません。でも、竹下さんの場合、お友達もいて、この友達から「いい人がいるから会ってみない?」と薦められ、その方と結婚してお子さんにも恵まれています。

 不思議に思われるかもしれませんが、「自分が確認恐怖を持っている」といったことは、友達との交際関係において、隠すことは十分できると思うんですよね。本人も、「自分がそうしたものを持ってると知られたら変な奴と思われる」といった自覚がありますから、なるべく他人に気づかれないようにして、自分の心の中でだけ苦しむことになるわけです。また、竹下さんの場合、結婚するまで実はそうした強迫行為に苦しめられているということは、旦那さんに知られないようにした……といったように書いてあります。でも、「一緒に暮らすようになったらバレるのでは?」という話ですが、結婚した旦那さんがとても良い方で、すごく理解のある方だったのでしょう。夫婦仲はとても良かったと、本には書いてあります。

 ただ、結婚後もそうした強迫行為はあったわけですし、子供が成長すればPTAに参加したり、あるいは人から仲人を頼まれるなど……「神経症の症状に悩まされつつ、そんなことまでするのは絶対無理!」ということでも、竹下さんはがんばってやり通したということでした。

 あ、誤解のないように書いておきますと、「だから神経症その他の精神病はガンバれば乗り越えられるのだ」と言いたいわけではまったくありません。とにかく、治療というか、そうした過程において――なんと言ったらいいか、仲人を頼まれて緊張しない方はいないわけですし、PTAの役員といったことも、引き受けたくないのは、そんなのみんな同じや……というのは、確かにみんな同じなわけです。

 ただ、神経症のツライところは、何か身体のはっきり目に見える病気であれば、「それじゃ引き受けられなくても無理はない」というふうに同情されるところを、「他人の理解できない苦しみを抱えつつ、普通の人がこなすのと同程度の能力を求められる」という側面があることなんですよね。

 でも、そうした目に見えない苦しみを抱えつつ、どうにか「自分に出来ることを精一杯」やっていく過程においても、必ず「気づき」というものがあると思うというか。わたしもそうですが、神経症の症状に悩まされてる方っていうのは、「これさえなければ」みたいに思ってる場合がほとんどなわけです。でもこれは、他のなんらかの病気を持ってる方もみんなそうと思います。「いっそのこと、これが死に至るくらいの病いなら良かったのに」と心密かに思いつつ、病気の慢性的な疾患と長くつきあってる方もたくさんいらっしゃいますし、「耐えられるギリギリのところを通っていく」症状に悩まされつつ、毎日、一日一日を精一杯生きてる方もいらっしゃいます。

 その他、人間誰しも、それが病気でなくてもなんらかの精神的出来事として「ああ、自分にこれさえなければ……」と思いながら生きている方というのは、おそらく世の中の大半を占めているといって過言でないでしょう。そうした中で「よりよく生きる」とはどういうことか、「人間が本当に生きているって?」、「人生を生きることと、人生を活かすことの違いって?」といったように、みんな迷いつつ、がんばって精一杯生きている。

 わたしの場合、こうした事柄について、割と若い頃にキリスト教を信じることが出来たことが、とてもプラスになったと思います。この場合、ただ思想としてプラスになったということではなく――まず人生の視点として、「神さま、イエスさまが第一で、それ以外のものは二番目以下」となったことが、たぶん一番大きなことだったような気がします。もちろん、もっとも大切なのは言うまでもなく、聖霊さまを通した救いと癒しということですが、自分の自我といったものはイエスさまが十字架にかかってくださったことに比べたら、そう大したことではない……といったように、強く意識するでもなく自然とそうなったわけです。

 神経症になりやすい方の性格の特徴として、この自我が強いと言いますか、「生きることに対する欲望が強い」、「成功願望が強い」みたいに書いてあった気がするのですが、自我が強いというのは誰しもそうでしょうし(というか、わたしの経験上「この人、自我の弱い人だな」と思ったことなど、一度もありません・笑)、「生きることに対する欲望が弱い」方についても、ガンといった闘病治療中の方以外で会ったことがありません。また、自分的に「成功願望が強い」というよりも、「ある程度それなりに成功してないと、人に迷惑かけることになる」という、どちらかというとこっちの「人に迷惑をかける」ことへの恐怖心のほうが強いんですよね(=べつに人生で成功しなくてもいいけど、必要最低限人に迷惑かけずに生活するためにはそこそこ成功したラインにいなくてはけない)。

 まあ、こんなふうに屁理屈をこねてる時点で、深層心理的に「やっぱりあんたは生きる欲望や成功願望の強い人だよ」ということになるのでしょうが(笑)、結局のところ最終的に、そうした欲望も含めたすべてをイエスさまに聖霊さまを通してお委ねする……という時、自我が強ければ強いほど、すべてを神さまにお委ねするのは難しくなるのではないでしょうか。

 今読んでる小説にたまたま、確か4度くらい「すべてはなるようになったのだ」という言葉が出てきましたそして、自分的に思ったわけです。「すべてはなるようにしかならない」という諦めと、「あるがままを受けとめる」とか「あるがままを感謝する」、「イエスさまにあるがままの自分を申し上げ、そのことで神さまを褒め称える」――ということには、何か違いがあるようだ、と。

 新型コロナウイルスその他、あるいは自分の人生の状況について、「すべてはなるようにしかならない」と思ってる方は多いと思います。わたしも、もし自分がイエスさまのことを信じてなかったり、あるいはマーリン・キャロザース先生の「(すべてのことを)神さまに感謝し賛美する」ということを知らなかったら……不敬な言い方ですが、「やれやれ。神の奴は一体何を考えてるんだ」、「いや、そもそも神なぞいやしねえ」といった感じで、力なく首を振っていたことでしょう。

 また、自分を取り囲む諸状況について「わたしは今のまま、あるがまま変わりたくありません。周囲の人々や状況のほうを変えてください」と祈りの中で言ってなくても、実質的にはそう言ってるも同じだな……ということが、たぶんクリスチャンの方なら誰しも心当たりがあると思うんですよね(わたしもそうです^^;)。

 こうした場合、一般論としては「世界はこれからも変わらない。変わる努力をしなくちゃいけないのは君のほうだろう」ということかもしれません。もちろん、「血を流すほどの痛みを感じても、あなたのほうが変わらなければならない」と祈りの中で聖霊さまに言われたり、あるいはそうした方向へ促されることもあると思います。けれども、神経症や鬱病の症状がちょうどそうであるように、「自分で自分を変えられない苦しみ・つらさ・痛み」といったものを、イエスさまは必ずわかってくださいます。

 ちょうど、確認恐怖の方がその強迫行為をやめられないのと同じで、これは他の方の目から見れば「そんなにしつこく確認しなくても、ガスの元栓は締まってるし、ドアの鍵だってかかってるよ」という、こうした一見馬鹿らしく、本人も馬鹿らしいとわかっていてやめられない事柄についてまでも、そのことの「あるがままをイエスさまに感謝し、賛美し、踊りあがるほど喜ぶなら」――その後も「まったく何も変わらない」ということはありません。むしろイエスさまが「そんな小さなことにまで気を配ってくださる」ことが、きっとどこかの時点でわかるに違いないと思うのです。


 >>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

(ローマ人への手紙、第8章26~27節)


 イエスさまは、このわたしたちの「なんとも言えない、表現しようのない悩ましい思い」を、必ずわかってくださいます。また、わたし自身の神経症というか、心身症については癒されなかったと前回書きましたが、こうした事柄に関するわたし個人の信仰は変化するということがまったくありません。何故かというと、それ以外のことについて、「驚くほど良いこと」や、「世界は変わらない。自分を変えろ」というのではなく、神さまの特別なお取り計らいによって「自分なりに努力したけど世界は変わらなかった」わたしに対して、「じゃあ、わたしのほうであなたを取り囲む世界のほうを変えてあげよう」と思えるようなことが確かに人生に起きたからです。

 人間の心を探り窮める方である神は、変われないわたしたちのために世界を変えてくださいます。新型コロナウイルスのようなことがあるのに、何故そう言えるのかといえば……自分自身の罪ゆえに人間ががんじがらめになって己を変えられないゆえにこそ、イエスさまは十字架におかかりになり、わたしたちのために血を流されたのですし、そうした意味では確かに「世界はすでに変えられて」いるのです。

 そして、そのことに気づき、知っている人々は、そのことを神さまに感謝し賛美し、祈っています


 >>しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

(ガラテヤ人への手紙、第6章14節)


 >>あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

(コロサイ人への手紙、第2章13~14節)


 この十字架は、本来であれば、わたしが自分で背負うべきところのものを、言うまでもなくイエスさまが代わりに背負い、血を流して罪の刑罰を受けてくださったものです。そして、そのイエスさまの血潮の御業を信じる者は、すべての罪、罪悪感からすでに解放されているのです。

 神経症のクリスチャンの方の場合、言ってみればイエスさまが血潮の御業を完成させてくださった十字架の御元へ一日のうち何十回、何百回と行き、罪の負債証書を無効にしていただくだけでなく――「またガスの元栓をしつこく確認してしまいました」、「鍵がかかっているかどうか、何度も確認してしまいました」と言って、神さまの御元で祈っているにも等しいところがあると思います。

 普通に考えてみれば、こう思いますよね。「いやあ、そんなガスの元栓だの、鍵がかかってるかどうかだの……宇宙を創造された神と一体なんの関わりがある?」といったように。けれど、イエスさまの偉大なところは――「世界が平和でありますように」とか、「戦争が起きませんように」といった祈りの他にも、こうした人間のどんな小さな悩み・苦しみに対しても、聖霊さまを通して必ず「取り合ってくださる」という、そうしたことだと思います。

 それではまた~!!






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