
「曲がりくねった直線道路?

まあ、言葉としては矛盾してますよね(^^;)
でも、他のクリスチャンの方の「イエスさまを信じるに至るまで」のお証しを聞いたりしてると……割とぴったり来る言葉のような気もしたり。
わたしもそうですが、多くの方は「イエスさまを信じるに至るまで」色々ある場合のほうが普通と思います。中には「偽宗教の難」と言いますか、仏教がどうこうというのではなくて、仏教・キリスト教双方に、仏典や聖書を元にして、その教えを曲げたような形の「偽宗教」というのが存在していて、そちらで金銭的被害を被るなどしたのち、ようやく正統的なキリスト教会と出会った……そうしたお証しも聞いたことがあります。
他にはアルコール中毒、借金苦のただ中にあって救われた、もしその時イエスさまに出会えていなければ自殺していたに違いない、重い鬱病で、死ぬことばかり考えていた時、イエスさまに出会って救われた――などなど、イエスさまとの出会いというのは、人それぞれ本当に不思議です。
>>「この曲がった時代から救われなさい」
(使徒の働き、第2章40節)
聖ペテロがこの言葉を言ったのは、今から2千年ほども昔のことでした


でも、わたしの十代の頃から「世紀末」という言葉が流行って(?)いたように、新型コロナウイルスや、災害や戦争といった事柄が次々起きるその前から……「これから、我々人類の目の前には素晴らしい未来社会が待っている!


聖書には他に、「曲がっているものを、まっすぐにはできない」(伝道者の書、第1章15節)という言葉もありますが、そう言われると、「あ~、まったく今という時代は曲がった時代だよ。まあ、そんなこと今にはじまったこっちゃないがね



わたしも、自分のことを「曲がった人間だなあ

神さまは、人間をよい目的のために創造したと聖書にはあるわけですが、その存在は罪のために歪められ、神さまが本来「よし」とされたところから、生命の力を曲がった方向へ使ってしまう者となってしまいました。この曲がったところから「まっすぐな者」として再び歩むためには、イエスさまを信じて教会で聖霊を受ける必要があると聖書は言っています。
本来、人間が「おぎゃあ!」と生まれてから、死に至るまでの間、(実際には不可能にしても)一番自分が正しいと思う道のみ選べたとしたら(クリスチャンの方の場合はイエスさまに祈り、聖霊さまの声に聞き従うという道のみ選べたとしたら)、人生は本当に真っ平らの直線道路で、時折何か障害物が置かれてもなんのそので、ゴールへと至ることが出来るのではないでしょうか。
けれど、言うまでもなくそんな人などこの世に存在しません。右の道に金のなる木がなっていれば、ふらふらそっちへ迷いこんでいってみたり、つらい坂道が続いているのを見て嫌になり、楽そうに見える道へ逸れていったところ、ドロ沼のような行き止まりの道へ辿り着くなど、こうした間違った道を進んでいって、八方塞がりになって初めて……「神さま、助けてください~!!

神さまの恵み深いところは、「そりゃおまえがそうと望んで、自分の自由意思に基づいて行った結果じゃないかね。だから、自分の責任は自分で取りなさい


>>「彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
私は彼の道を見たが、彼をいやそう。
私は彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。
(イザヤ書、第57章17~19節)
>>「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ』」
(マタイの福音書、第3章3節)
>>知恵ある者はだれか。
その人はこれらのことを悟るがよい。
悟りある者はだれか。
その人はそれらを知るがよい。
主の道は平らだ。
正しい者はこれを歩み、
そむく者はこれにつまずく。
(ホセア書、第14章9節)
割と最近、「人間は間違う生き物で、人が生きる以上死ぬまでの間にある一定の間違いを犯すことからは逃れられない」といった話を聞きました。といっても、ここまでなら「そんなこと、あらためてもったいぶって言われなくてもわかっとることやがな

つまり、これが人間とAIといったコンピュータの違いということでした。AIの場合は、その時点で与えられた情報の中から「これが最適にして最善であろう」と思われる行動や結果を選びとろうとするわけですが、人間の場合、ここで間違うわけです。その時点で自分なりに考えて、「これを選ぶしかない」という道を人は選択する傾向にある(この場合、他に「道徳的に正しい、人間として選ぶべき道」があったとしても、それよりも自分にとって得な欲望の道を選んでしまったりする。そして、「人間なんてそんなものじゃないか」と、わたしたちの脳は自己弁護するわけですよね)。
でも人間は間違うからこそ、そこから本当の意味での創造性やオリジナリティーが生まれるという、そうしたことらしく。たとえば、人間って何かの選択をして間違ったり、その時は「それが正しい」と思っても、あとからそれが間違いだったとわかる時――物凄く反省したり、心が暗くなって落ち込んだり、ひどい場合は鬱状態になったりする。そして、そうした状態から這い上がろうとする時、人間として「より深みのある」人格へ成長したりするわけですけど、人の新しい創造性の獲得って、こうしたところから生まれる場合ってとても多いと思います。
そして、神さまはわたしたちを間違わないコンピュータのようにお造りになることも出来たはずですが(簡単にいえば、アダムとエヴァが罪を犯さないようにすることも出来た)、むしろわたしたちに自由意思を与えられ、間違う存在としての人間を愛する道のほうを神さまご自身が選ばれたのではないか……と、そんな気がします。
北海道は今年、道の両側に雪の山がそそり立つくらいの大雪で、今それが溶けはじめていて道路が大変なことになっています


人間はこれからも、人間が人間である限り、間違った道を選び続けるということのほうが、むしろ「普通」かもしれません。けれども、イエスさまは目に見える現実世界の道路というよりも、わたしたちの内面の道、そこを掘り返して霊的に曲がったところのない真っ直ぐに歩める者となすために、この地上にやって来られました。ぬかるんだ道があれば埋め立て、水浸しの道にも土や砂利を敷き……それでもなおわたしたちが間違った道を選ぶ時ですら、悔い改めの道だけは残しておいてくださり、必ず赦してくださるのです。
このような方、この地上で神と呼ばれる方は、イエス・キリストをおいて他に、誰も存在しないと思います

それではまた~!!

>>やみと死の陰に座す者、
悩みと鉄のかせとに縛られている者、
彼らは、神のことばに逆らい、
いと高き方のさとしを侮ったのである。
それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
主は彼らを苦悩から救われた。
主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、
彼らのかせを打ち砕かれた。
彼らは、主の恵みと、
人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。
(詩篇、第107編10~16節)
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