神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

祈りきり、信じきり、委ねきる。

2022年12月05日 | キリスト教
【善き羊飼いとしての幼児キリスト】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ


 教会の礼拝メッセージで、「神さまの通りよき管となれるよう……」とか、「祈りきる祈りが大切」といったように聞くたび、「本当にそのとおりだなあ」と思って聞いてきたのですが、よく考えるとやっぱりこれも結構難しいことのような気がするわけです(^^;)

 まず普段、というか一年365日、毎日毎日「祈りきる祈り」を祈れるか、そんなに時間を確保できるかという問題もあり、また時間に制限のある中で「自分なりに最大限祈ったつもり」=「祈りきる祈り」だったかどうか、確信までは持てない……などなど。

 あくまでこれはわたしが個人的に思ってることなのですが、神さまは神さま御自身のために時間を使おうとする者のことを喜んでくださるので、仮にそれが一日20分程度の祈りでも、聖霊さまを通した祈りは力がありますから、必ず祝福の道を開いてくださいます。また、「あんまり祈れる時間がないなあ。もっと祈りたい。祈る時間を増やしたい」とわたしが心から願うなら、必ずイエスさまはそのようにもしてくださいます。

 早々毎日、「今日はもうこれ以上は祈れない。ハァハァ☆」みたいには、なかなかなれないのが普通でないかとわたしなどは思うのですが(単なるわたしの不信仰である可能性もあります^^;)、でも、祈れば祈るほど、自分から不純物が取り除かれ、「神さまの通りよき管」となっていけるのは本当のことだと思います。

 また、この場合の不純物というのは――そうした不純物が一度取り除かれたら、誰か人を嫌ったり嫉妬したり恨んだりすることは二度となくなる……ということでもないような気がするんですよね。そうした傾向が取り除かれ薄くなる、ということはあっても、昔ほどそれが大きな石として管を詰まらせることはないにせよ、ほんの小さな石程度のものは発生することがあるかもしれない……という感じのことのような気がします。

 そして、「祈りきる祈り」を仮に日々心がけていたにしても、それでイエスさまを完全に信じきり、委ねきっているかといえば――ここもまた、時と場合によって「信じきっていない」、「委ねきってはいない」ということが、あるんじゃないかな……という気がするんですよね(自分比☆)。

 ひとつ前の記事のところで、「腹筋をピクピク☆させて、イエスさまによりかかる1センチ手前のところで必死にこらえろ!それが真の信仰力というものだ」というのは間違いではないかと思う……的なことを書いたのですが、これは実際結構ありうることのような気がしています。クリスチャンの方で、イエスさまのことをすでに信じている方の場合で、その1センチがなかなか埋まらないとすれば悲劇ですし、ノンクリスチャンの方であれば、この神さまとの永遠に埋まらぬ1センチを持ち続けている方というのは、たくさんいらっしゃるような気がします。

 ここのブログ内で時々話題(?)になる、「何故神がいるならあんなことが起きたのか」、「あれがあーでこーでそーではなかったのだ」ということもそうですし、宇宙物理学など、何かの科学的現象に造詣が深いあまり、神さまという存在を非科学的存在として否定される方もいらっしゃると思うのですが……神さまを「信じる」か「信じない」かにおいては、とかくゼロか100かという、そのどちらかというのが問題にされがちな気がします(仏教や東洋思想においては、この中間的なところが存在するように感じるところが凄いところなのかもしれません^^;)。

 つまり、この考えでいくと、1信じることが出来たなら、100信じきることは可能なはずである、1委ねることが出来たなら、100でも1万でも10万でも――無限に神さまに委ねる、委ねきることが可能になるはずなのに、どうすればそのゼロを1にすることが出来るのか……といったような問題でもあるかもしれません。

 でも、確かにわたしはイエスさまを信じることで、ゼロが1になる奇跡を経験した者ですが、そこからはじめて10万信じきったり、100万信じきったり、1000万……あるいは那由多、不可思議、無量大数信じきることが出来るかといえば――それはまた別の信仰における難しい問題だとわかっているわけです。

 そして再び問題は最初のシンプルなゼロに戻ってくるのです。「ああ、わたしはイエスさまのことを信じたけれども、信じきることは出来ない弱い者だ」ということが。そもそも、イエスさまのことを信じて救われたこと自体、自分の力によることではまったくなかったわけですから――「祈ることはできるけれども、祈りきることが出来ないので、祈りきる祈りを祈れる者とさせてください」と祈るですとか、「信じきることが出来ないので、信じきる者とさせてください」、「委ねているつもりでも、委ねきっていないということは委ねていないということなので、委ねきる者にイエスさまが変えてくださいますように」……といったようになっていく、信仰の道は大体、年に一度とか、数年に一度くらい、再びゼロ地点へ戻ってきて、そこから再びより高く深く固いものへと変えられていくという過程を通るものではないでしょうか。

 一切なんのヒビも入らず、苦しまず、悩まず、胸が張り裂けるような痛みを覚えることもない……それは神さまがわたしとわたしの人生を祝福してくださっているからだ、という期間を過ごすことも確かにあります。また、わたしのこの書き方だとなんとなく、苦しみ、悩み、痛みを常に覚える信仰のほうが偉い……という誤解を生んでしまいそうなのですが(汗)、放っておいても大体、信仰の潮目が変わる瞬間というのはやって来るのですから、「今は比較的安楽で幸せな期間」であるように感じる時は、そのこともまた、神さまにあって喜び楽しみ、「出来るだけこうした幸せな時間が続きますように」と祈っていたらいいと思うのです。

 でも、苦しい時こそ、悩みが深い時こそ、痛みが激しい時こそ、「祈りきってるか」、「信じきっているか」、「委ねきっているか」と、魂に深く沈潜するように思考する時間が生まれると思うので、そうした瞬間を通る時というのは、信仰生活において非常に重要なことであるように感じます。

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神により頼み、委ね、よりか... | トップ | 電球の切れる夢。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事