【瞳を閉じて】オディロン・ルドン
今回もまた、ある部分前回の記事の続きといったところですm(_ _)m
個人的に、そんなふうに聖霊さまを通して神さまが語られることは普段あまりないように感じることなのですが……「あなたは何もせず、ただ神さまに委ね、イエスさまによりかかったままでいなさい」と語られることが、時としてあると思うんですよね。
わたしなどは、「あの人に福音を語りたいな」とか、「この人に福音を語らなくちゃ!」と思っていても、なかなか舌が動かないという困った不信仰人間なので、福音を語るという行動を起こさなくっちゃ!ということに関して、もし仮に「黙っていなさい」なんて言われたら……「いやあ、イエスさま。オラそんなわけにいかねえだよ☆」みたいに絶対なると思います(あくまで基本的には、ということですけど^^;)
今回のタイトルは、「イエスさまにより頼み、委ね、よりかかる」というものですが、たぶんクリスチャンの方にとっては、「そんなことわかってらあな☆」といった、至極一般的なこととは思うわけです。
でも個人的に、あらためてそう語られてみると――「あ、わたし、イエスさまにより頼んでないな、委ねてないな、よりかかってないな」と思うようになってきました。何故かといえば、聖霊さまは自由なお方ですから、本当になんでもお出来になります。もちろん、聖霊さまがその上で色々な助けを与えてくださることもわかっています。でも、わたしたちはまず、「人間的なあらゆる手法を尽くして努力してからでないと」、イエスさまにただ「これやっといてー!」と聖霊さまを通してより頼んだり、「わたしなんにもしないけど、委ねたからね、神さま!」と何かの全責任を押しつけたり、イエスさまに全依存して、自分は一切なんの努力もせずだらしなくよりかかる……とか、信仰的態度として絶対ありえないと思うのが普通ですよね。
でも、一応祈りの中でそう祈りつつも、「神さまに実際にはより頼まずに全部自分の力でやってしまう」、「神さまに委ねる前に全力で努力したら、それ以前になんとかなった」とか、「イエスさまによりかかるだって?とんでもない!もっと腹に力を入れて、腹筋力によってピクピクしながら、神さまによりかかる一センチ前でこらえろ!それが真の信仰力というものだ!!」というのも、何かこう……信仰的態度として間違ってるような気がする、と言いますか(^^;)
では、どんなふうなのが信仰的態度として正しいかというと――個人的に思いますのに、正しい・正しくない以前の問題として、このうちのすべて、イエスさまは喜んでくださるとは思うのです。たとえば、わたしが何か困ったことがあって、神さまの御前にごろごろごろっ☆と転がっていって、その昔の直訴する農民よろしく、「助けてくだせえ!」と言っても、そのボロい服を着替えて、お風呂に入って垢を落としてからまた来なさい……とおっしゃることはないように、直訴状自体は聖霊さまが代わりに読み上げてくださるわけです。でも、返答として、わたしたちが気に入る答えが書いてあるとは限らないし、また白紙の返答が戻ってきた場合――まあ、わたしたちは考えますよね。自分の信仰のこの部分が良くなかったのではないだろうかとか、悔い改めが足りなかったのではないかとか、色々。
割と、個人的な感覚として多いように感じるのは、腹筋ピクピク☆タイプの場合、「わたしがこんなに頑張ってる姿を、神さまはご存知でないのかー!」みたいになることがあるっていうことなんですよね。簡単にいえば、あと1センチ自分からイエスさまに近づいてよりかかればいいだけのことなんですけど、「神さまのほうでわたしのがんばりを認め、よりかからせるようにしてくださるべき」というのでしょうか。また実際、イエスさまはそのようにしてくださる場合も多いと思います。でも、信仰的にある種のコツ☆という言い方はおかしいのですが、神さまはそもそも、御自身の御前に数々の財宝を惜しみなく広げ、それを自分から取りに来る者を求めておられる――という方でもあるので、もしわたしたちのほうで遠慮するか、「ただで持っていってもいいと言われたが、これは何かの罠ではないか」などと思い、怖れ退くなら、イエスさまとの距離は縮まらないままです。
>>ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第4章16節)
神さまは、大胆に求める者を求めておられるので、それは言い換えると、「より頼み、委ね、よりかかる者」を求めておられるとも言えるのではないでしょうか。そのためにわたしたちの側で何をしなければいけないかというと、まず神さまのことを第一にし、祈り聞き従うことだと思います(+すべてのことを神さまに感謝し、賛美すること)。
先に書いた、「神さま、これやっといてー!」とか、「わたしなんにもしないけど、委ねたからね、神さま!」というのは、基本的にまず、祈りの中で聖霊さまを通して神さまに聞く、イエスさまに聞く態度が欠けているわけです。それで、直訴状に自分の人生の困ったことなどをリストとして書き連ねたり、「宝くじで3億円当たりますように!」と書いて、イエスさまから返事が来るのを待ったとしても……「では、こうしなさい」といった具体的な指示がやってくるですとか、「その宝くじは当たりません」といった返答は聞き取れない気がします、たぶん。
祈りと聞くこと、というのは基本的にセットで、祈りというのは、ただ自分の神さまに叶えてほしいことをマシンガンのように並べ立てて終える、ということではありませんから、祈りつつ、耳を澄ませて聞く、という態度というのは、同時に必要なもののような気がします。それで、具体的に人間の肉声として神さまの声が聞こえるということは少ないと思いますが、「こう語られた気がする」といったことは、霊的感覚としてわかることがあります。他に、聖書を通しても聖霊さまは語られますし、それが祈りの答えということもあれば、「こう語られた気がする」ということを行なううち、「あれ?ちょっと違ったみたい」ということもあれば、次にしるしが与えられて、聞き従いの次のステップへと進む……といったように、具体的に行動した時に何かの確認が与えられるということもあると思います。
そして、祈りと聞くこと、まではなんとかなるにしても(自分比☆)、一番難しいのが、最後の聞き従うの、「従う」ということだったりします。祈りの答えとして、自分に都合のいいことばかりが返ってくるわけではありませんから、都合の悪い時には「聞こえなかった振りをする」ことによって、聖霊さまの語りかけを「落とす」、御言葉を落とすということは、実際のところよくあることだと思います(自分がそうだからよくわかるという話)。
それから、「宝くじで3億円当たる」ですが、これは摂理の部分に当たることのような気がします。つまり、テレビで高額な宝くじの当たった人のその後……というのを海外ニュースを集めたバラエティ番組で見たことがあるのですが、突然大金が転がり込んでくること=幸せになれるかといえば、必ずしもそうとは限らないと言いますか。また、馬券で「明日△□が1位になりますように!」と祈って当たったとしても――基本的にそれはただの偶然である可能性が高いわけです。その法則によって、次もその次もその次も勝ち続ける……といったことは、まずないと思うというか、そもそも神さまの御心とは何か……ということと、わたしが万馬券を握りしめていることとは、あまり関係性がないのではないかと思われます
つまり、わたしたちが「神さまの御心はなんだろう」と、最初は純粋に思いを潜めていたとしても、そうした何がしかの自分の欲望が祈りに入り込むということはよくあり、信仰的に真っ直ぐ伸びている道と、最初は真っ直ぐに見えたのに、途中から砂利道に変わって深い森の中へと迷いこんだ……といったふたつの道について、どちらの道を選ぶのが正しいか、わたしにはわからないことが多いですし、アダムとエヴァのように、自分の欲望に惑わされると、大抵は途中で砂利に変わる道のほうが「見目麗しく」見えたりするものだろうと思います。
こうした時でも、「神により頼み、委ね、よりかかる」という法則は生きます。つまり、そうした失敗を何度も繰り返していると、自分でもわかってくるわけです。功利主義的に、「ああしてこうしてそうするのが、最短で一番得の出来る道だ」とわたしの頭が計算し、それを行なった場合――途中で何かしら問題が起きてきて、結局ものすごく遠回りをした上、その目的を達することも出来なかったなど、イエスさまに聖霊さまを通して祈り聞き従う道と、わたしの頭が考えだした道とを比較した場合、遥かに優れているのは間違いなく神さまの道のほうです。
>>「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」
(コリント人への手紙第一、第2章9節)
そうしたことが体験的にわかってくると、最終的に肩に力を入れて力み、「自分の力であれやこれやのことを成し遂げるぞー!」という力からいい意味で解放され、人間的な努力の力を積み上げることより、最初から「イエスさまにより頼み、委ね、よりかかる」道のほうが、目的達成の一番の早道であることがわかってるくるわけです。
ただ、これはわたしもそうですし、他の信仰者の方のお証しなどを聞いていても思いますが、イエスさまを信じて以降、自分自身で信仰を積み上げていって学ぶしかないことでもあったりするんですよね。つまり、最初は自分が叶えて欲しいことをリスト化したものを読み上げるような祈り方でも、「あっ、そうか!祈るのと同時に聖霊さまがなんとおっしゃるかに耳を澄ませるかっていうのはこのことなんじゃないかな」といったように、これはもう祈りの時間の積み上げによって、自分自身がイエスさまに聖霊さまを通して学ばさせていただくしかない領域の事柄だと思うので。また、「聖霊さまを通して霊に語られるってどういう意味だろう?」とか、「聖書を通しても神さまは語られるってどういうことだろう?」など、信仰初心者からはじめて、大体同じようなところをクリスチャンは通っていくものだと思います。
そして、「自分でもっと最大限努力してから」、「腹筋が切れそうになる直前になってようやく」イエスさまによりかかる……というよりも、最初から「自分が最大限努力してもこの程度」という無力さを認め、何も捧げるものを持っていない素手の状態で、恐れかしこみつつ御前へ出ていく――信仰的態度として、そのことが一番正しいことがある、ということなんですよね。
もちろん、わたしたちは「何も捧げるものを持たずに神さまの前に出ていくなんて……」と思うわけですが、結構これ、「わたしは神さまに捧げるためにあれあれのことやこれこれのことを最大限努力して頑張りましたから、さあ神さま、ご褒美ちょうだいな」という信仰的態度であることもあるわけです。
そうではなく、ルカの福音書に出てくるラザロのように、最初からイエスさまの懐(ラザロはアブラハムの懐でしたが)に入れさせていただく……そうすることで何かクリスチャンの中でも特別ラクをするということではなく(そういう部分もありますが)、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し、賛美する」道をクリスチャンになった最初から知っている場合とそうでない場合とで差があるように、神さまが何かくださるまでただじっと待っている、でも何も起きない――と思っていたら、他の人々は天使のはしごを昇って神さまの御前にありあまる財宝を自分で取りに行っていたらしいと知った……信仰の道にもそうした領域があると思うんですよね。
簡単にいえば、100段分ある階段を1段1段地道に上っていく方法もあるわけですが、誰かにお御輿を担いでもらっていく方法、実は隠されたエレベーターがあって、それで一気に一番ラクに昇っていける方法など……正直、わたしも、この場合地道に1段1段上っていった信仰者がもっとも褒められるべきでないかと思うのですが、これらの人々が隠されたエレベーターが実はあったと知った場合、「ややっ!?なんということだ。神さま、あんな奴ら、もう一度一番下の段からやり直させてください」と訴えるなら――それだけ苦労して頂上まで上った1段1段の意味がまったくなくなってしまう……ということでもあるわけですよね(ぶどう園の労働者のたとえを思い出してください)。
つまり、自分自身でも祈ることで、聖書を読むことで、日曜礼拝や聖会を守ることで、あるいは他の方のお証しを聞いたり、信仰書を読んだりすることで……そうしたキリスト教の正しい霊的情報に触れ続けることで、信仰のコツ☆と言いますか、そうした違いや差が生まれることのあるのが何故かわかってくることもまた――クリスチャン生活における大きな学びのひとつ、なのではないでしょうか。
それではまた~!!
今回もまた、ある部分前回の記事の続きといったところですm(_ _)m
個人的に、そんなふうに聖霊さまを通して神さまが語られることは普段あまりないように感じることなのですが……「あなたは何もせず、ただ神さまに委ね、イエスさまによりかかったままでいなさい」と語られることが、時としてあると思うんですよね。
わたしなどは、「あの人に福音を語りたいな」とか、「この人に福音を語らなくちゃ!」と思っていても、なかなか舌が動かないという困った不信仰人間なので、福音を語るという行動を起こさなくっちゃ!ということに関して、もし仮に「黙っていなさい」なんて言われたら……「いやあ、イエスさま。オラそんなわけにいかねえだよ☆」みたいに絶対なると思います(あくまで基本的には、ということですけど^^;)
今回のタイトルは、「イエスさまにより頼み、委ね、よりかかる」というものですが、たぶんクリスチャンの方にとっては、「そんなことわかってらあな☆」といった、至極一般的なこととは思うわけです。
でも個人的に、あらためてそう語られてみると――「あ、わたし、イエスさまにより頼んでないな、委ねてないな、よりかかってないな」と思うようになってきました。何故かといえば、聖霊さまは自由なお方ですから、本当になんでもお出来になります。もちろん、聖霊さまがその上で色々な助けを与えてくださることもわかっています。でも、わたしたちはまず、「人間的なあらゆる手法を尽くして努力してからでないと」、イエスさまにただ「これやっといてー!」と聖霊さまを通してより頼んだり、「わたしなんにもしないけど、委ねたからね、神さま!」と何かの全責任を押しつけたり、イエスさまに全依存して、自分は一切なんの努力もせずだらしなくよりかかる……とか、信仰的態度として絶対ありえないと思うのが普通ですよね。
でも、一応祈りの中でそう祈りつつも、「神さまに実際にはより頼まずに全部自分の力でやってしまう」、「神さまに委ねる前に全力で努力したら、それ以前になんとかなった」とか、「イエスさまによりかかるだって?とんでもない!もっと腹に力を入れて、腹筋力によってピクピクしながら、神さまによりかかる一センチ前でこらえろ!それが真の信仰力というものだ!!」というのも、何かこう……信仰的態度として間違ってるような気がする、と言いますか(^^;)
では、どんなふうなのが信仰的態度として正しいかというと――個人的に思いますのに、正しい・正しくない以前の問題として、このうちのすべて、イエスさまは喜んでくださるとは思うのです。たとえば、わたしが何か困ったことがあって、神さまの御前にごろごろごろっ☆と転がっていって、その昔の直訴する農民よろしく、「助けてくだせえ!」と言っても、そのボロい服を着替えて、お風呂に入って垢を落としてからまた来なさい……とおっしゃることはないように、直訴状自体は聖霊さまが代わりに読み上げてくださるわけです。でも、返答として、わたしたちが気に入る答えが書いてあるとは限らないし、また白紙の返答が戻ってきた場合――まあ、わたしたちは考えますよね。自分の信仰のこの部分が良くなかったのではないだろうかとか、悔い改めが足りなかったのではないかとか、色々。
割と、個人的な感覚として多いように感じるのは、腹筋ピクピク☆タイプの場合、「わたしがこんなに頑張ってる姿を、神さまはご存知でないのかー!」みたいになることがあるっていうことなんですよね。簡単にいえば、あと1センチ自分からイエスさまに近づいてよりかかればいいだけのことなんですけど、「神さまのほうでわたしのがんばりを認め、よりかからせるようにしてくださるべき」というのでしょうか。また実際、イエスさまはそのようにしてくださる場合も多いと思います。でも、信仰的にある種のコツ☆という言い方はおかしいのですが、神さまはそもそも、御自身の御前に数々の財宝を惜しみなく広げ、それを自分から取りに来る者を求めておられる――という方でもあるので、もしわたしたちのほうで遠慮するか、「ただで持っていってもいいと言われたが、これは何かの罠ではないか」などと思い、怖れ退くなら、イエスさまとの距離は縮まらないままです。
>>ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第4章16節)
神さまは、大胆に求める者を求めておられるので、それは言い換えると、「より頼み、委ね、よりかかる者」を求めておられるとも言えるのではないでしょうか。そのためにわたしたちの側で何をしなければいけないかというと、まず神さまのことを第一にし、祈り聞き従うことだと思います(+すべてのことを神さまに感謝し、賛美すること)。
先に書いた、「神さま、これやっといてー!」とか、「わたしなんにもしないけど、委ねたからね、神さま!」というのは、基本的にまず、祈りの中で聖霊さまを通して神さまに聞く、イエスさまに聞く態度が欠けているわけです。それで、直訴状に自分の人生の困ったことなどをリストとして書き連ねたり、「宝くじで3億円当たりますように!」と書いて、イエスさまから返事が来るのを待ったとしても……「では、こうしなさい」といった具体的な指示がやってくるですとか、「その宝くじは当たりません」といった返答は聞き取れない気がします、たぶん。
祈りと聞くこと、というのは基本的にセットで、祈りというのは、ただ自分の神さまに叶えてほしいことをマシンガンのように並べ立てて終える、ということではありませんから、祈りつつ、耳を澄ませて聞く、という態度というのは、同時に必要なもののような気がします。それで、具体的に人間の肉声として神さまの声が聞こえるということは少ないと思いますが、「こう語られた気がする」といったことは、霊的感覚としてわかることがあります。他に、聖書を通しても聖霊さまは語られますし、それが祈りの答えということもあれば、「こう語られた気がする」ということを行なううち、「あれ?ちょっと違ったみたい」ということもあれば、次にしるしが与えられて、聞き従いの次のステップへと進む……といったように、具体的に行動した時に何かの確認が与えられるということもあると思います。
そして、祈りと聞くこと、まではなんとかなるにしても(自分比☆)、一番難しいのが、最後の聞き従うの、「従う」ということだったりします。祈りの答えとして、自分に都合のいいことばかりが返ってくるわけではありませんから、都合の悪い時には「聞こえなかった振りをする」ことによって、聖霊さまの語りかけを「落とす」、御言葉を落とすということは、実際のところよくあることだと思います(自分がそうだからよくわかるという話)。
それから、「宝くじで3億円当たる」ですが、これは摂理の部分に当たることのような気がします。つまり、テレビで高額な宝くじの当たった人のその後……というのを海外ニュースを集めたバラエティ番組で見たことがあるのですが、突然大金が転がり込んでくること=幸せになれるかといえば、必ずしもそうとは限らないと言いますか。また、馬券で「明日△□が1位になりますように!」と祈って当たったとしても――基本的にそれはただの偶然である可能性が高いわけです。その法則によって、次もその次もその次も勝ち続ける……といったことは、まずないと思うというか、そもそも神さまの御心とは何か……ということと、わたしが万馬券を握りしめていることとは、あまり関係性がないのではないかと思われます
つまり、わたしたちが「神さまの御心はなんだろう」と、最初は純粋に思いを潜めていたとしても、そうした何がしかの自分の欲望が祈りに入り込むということはよくあり、信仰的に真っ直ぐ伸びている道と、最初は真っ直ぐに見えたのに、途中から砂利道に変わって深い森の中へと迷いこんだ……といったふたつの道について、どちらの道を選ぶのが正しいか、わたしにはわからないことが多いですし、アダムとエヴァのように、自分の欲望に惑わされると、大抵は途中で砂利に変わる道のほうが「見目麗しく」見えたりするものだろうと思います。
こうした時でも、「神により頼み、委ね、よりかかる」という法則は生きます。つまり、そうした失敗を何度も繰り返していると、自分でもわかってくるわけです。功利主義的に、「ああしてこうしてそうするのが、最短で一番得の出来る道だ」とわたしの頭が計算し、それを行なった場合――途中で何かしら問題が起きてきて、結局ものすごく遠回りをした上、その目的を達することも出来なかったなど、イエスさまに聖霊さまを通して祈り聞き従う道と、わたしの頭が考えだした道とを比較した場合、遥かに優れているのは間違いなく神さまの道のほうです。
>>「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」
(コリント人への手紙第一、第2章9節)
そうしたことが体験的にわかってくると、最終的に肩に力を入れて力み、「自分の力であれやこれやのことを成し遂げるぞー!」という力からいい意味で解放され、人間的な努力の力を積み上げることより、最初から「イエスさまにより頼み、委ね、よりかかる」道のほうが、目的達成の一番の早道であることがわかってるくるわけです。
ただ、これはわたしもそうですし、他の信仰者の方のお証しなどを聞いていても思いますが、イエスさまを信じて以降、自分自身で信仰を積み上げていって学ぶしかないことでもあったりするんですよね。つまり、最初は自分が叶えて欲しいことをリスト化したものを読み上げるような祈り方でも、「あっ、そうか!祈るのと同時に聖霊さまがなんとおっしゃるかに耳を澄ませるかっていうのはこのことなんじゃないかな」といったように、これはもう祈りの時間の積み上げによって、自分自身がイエスさまに聖霊さまを通して学ばさせていただくしかない領域の事柄だと思うので。また、「聖霊さまを通して霊に語られるってどういう意味だろう?」とか、「聖書を通しても神さまは語られるってどういうことだろう?」など、信仰初心者からはじめて、大体同じようなところをクリスチャンは通っていくものだと思います。
そして、「自分でもっと最大限努力してから」、「腹筋が切れそうになる直前になってようやく」イエスさまによりかかる……というよりも、最初から「自分が最大限努力してもこの程度」という無力さを認め、何も捧げるものを持っていない素手の状態で、恐れかしこみつつ御前へ出ていく――信仰的態度として、そのことが一番正しいことがある、ということなんですよね。
もちろん、わたしたちは「何も捧げるものを持たずに神さまの前に出ていくなんて……」と思うわけですが、結構これ、「わたしは神さまに捧げるためにあれあれのことやこれこれのことを最大限努力して頑張りましたから、さあ神さま、ご褒美ちょうだいな」という信仰的態度であることもあるわけです。
そうではなく、ルカの福音書に出てくるラザロのように、最初からイエスさまの懐(ラザロはアブラハムの懐でしたが)に入れさせていただく……そうすることで何かクリスチャンの中でも特別ラクをするということではなく(そういう部分もありますが)、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し、賛美する」道をクリスチャンになった最初から知っている場合とそうでない場合とで差があるように、神さまが何かくださるまでただじっと待っている、でも何も起きない――と思っていたら、他の人々は天使のはしごを昇って神さまの御前にありあまる財宝を自分で取りに行っていたらしいと知った……信仰の道にもそうした領域があると思うんですよね。
簡単にいえば、100段分ある階段を1段1段地道に上っていく方法もあるわけですが、誰かにお御輿を担いでもらっていく方法、実は隠されたエレベーターがあって、それで一気に一番ラクに昇っていける方法など……正直、わたしも、この場合地道に1段1段上っていった信仰者がもっとも褒められるべきでないかと思うのですが、これらの人々が隠されたエレベーターが実はあったと知った場合、「ややっ!?なんということだ。神さま、あんな奴ら、もう一度一番下の段からやり直させてください」と訴えるなら――それだけ苦労して頂上まで上った1段1段の意味がまったくなくなってしまう……ということでもあるわけですよね(ぶどう園の労働者のたとえを思い出してください)。
つまり、自分自身でも祈ることで、聖書を読むことで、日曜礼拝や聖会を守ることで、あるいは他の方のお証しを聞いたり、信仰書を読んだりすることで……そうしたキリスト教の正しい霊的情報に触れ続けることで、信仰のコツ☆と言いますか、そうした違いや差が生まれることのあるのが何故かわかってくることもまた――クリスチャン生活における大きな学びのひとつ、なのではないでしょうか。
それではまた~!!
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