名著です
ヘレン・ケラーの生涯も苦難と同時にそれ以上の神さまからの栄光が共にあったと思うのですが、サリバン先生の生涯もまた……あまり一般に知られていない気がしますけれども、苦労の多い大変なものだったようです。
ヘレン・ケラーは恵まれた家庭に育ちましたが、サリバン先生はそうではありませんでした。極貧の中で育ち、その上幼くして視力まで失うという不幸に見舞われています。
その後、周囲の人々の助けや励ましなどがあり、闇の中から光の世界へと這い上がる努力をされた、不屈の忍耐力を持つ人でした(視力のほうは、数度に渡る手術によってある程度までは回復したそうです)。
そしてそんなサリバン先生だったからこそ――ヘレンの<魂>が理解できたのだと思うんですよね。
わたしも一度だけですが、目が見えなくて知的障害のある重複障害の男の子と接したことがありました。耳から聞こえることは(彼のわかる範囲内で)理解しているとのことだったのですが、自分から言葉を発することがないため、正直何を考えているかわからないんですよね
もちろん、なんとなくの雰囲気で「こう思ってるんじゃないかな」、「ああかもしれないな」、「こうかもしれないな」と想像しつつ接していくわけですけれども、コミュニケーションを取るのはとても難しいと感じました。もっともわたし、その子のことが大好きでしたし、なので、こっちから一方的に色々話しかけたりする分にはまったく苦痛ではないものの……でも、返答の返ってくることのない子なので、自分の接し方で本当に彼は満足なのだろうかとか、そうしたことが一切わからないんですよね。
こうしたことから視覚障害を持つ方に興味を持ち、その関連でかなり前にヘレン・ケラー関連の書籍を何冊か読んだのですが、今回はその中から<神さま>や<魂>、<天国>といったことについて、サリバン先生がヘレン・ケラーの質問にどんなふうに答えたか――といった箇所について抜粋したいと思いますm(_ _)m
>>「私は、私によくわからないことについて書きたいと思います。地球や、海や、その他のすべてのものは誰が作ったのですか?誰が太陽を熱くしたのですか?お母さんのところに来る前には、私はどこにいたのでしょう?私は土に播かれた種から植物が生まれることは知っていますが、人間はそんなふうには生まれないことは確かです。私は子供のなる木を見たことがありません。小鳥やひよこは卵から生まれます。それはみたことがあります。卵は卵の前には何だったのでしょう?地球はとても大きくて重いのにどうして落ちないのでしょうか?父なる自然のすることを教えてください。聖書という本を読んでもいいですか?先生に時間があったら、小さな生徒のために多くのことを話してください」
(中略)
心の中にゆっくり育ってきた観念をまとめられるようになると、彼女はこれらの観念は彼女のすべての思考力を吸収し、彼女はすべてを説明してほしいとしきりに願った。
彼女が質問を書いたすぐあとで、私たちが大きな地球儀のそばを通りすぎようとしたとき、彼女はその前に立ちどまり、
「<本当>の世界は誰が作ったの?」
と尋ねた。
そこで私は、
「地球や太陽や私たちが星と呼んでいるすべてのものがどこからやってきたのか、誰もわかりません。でも、多くの賢人たちがその起源をさぐり、自然の神秘的な力の説明をしようと試みてきたのです」
と答えた。
ギリシャ人は、太陽や稲妻やその他多くの自然の力は独立した超人的な力であると考え、いろいろな力をもつ多くの神がいると考えていた、ということを彼女は知っていた。
しかし、多くの思索と研究の結果、これらのすべての力は一つの力の現われであり、その力に人間は<神>という名を与えたということを、私は彼女に話した。
彼女は一生懸命考えながら数分間黙っていた、それから、
「誰が神を作ったの?」
と尋ねた。
私は彼女の質問をはぐらかさないわけにはいかなかった。
なぜなら、私には自立的な存在者の神秘を説明することなどできなかったからである。
事実、彼女の熱心な質問の多くは、私より賢い人をも悩ませたことであろう。
ここにそのいくつかがある。
「神は何から新しい世界を作ったのですか?」
「彼は土や水や種子や最初の動物たちをどこで手に入れたのですか?」
「神はどこにいるのですか?」
「先生は神を見たことがあるのですか?」
私は彼女に、神はどこにでもいるのだから、彼を一個人として考えるのではなく万物の生命、心、魂などとして考えなくてはいけない、と教えた。
彼女は私をさえぎって、
「すべてのものが命をもっているとは限りません、石には命がありませんし、考えることもできません」
と言った。
世界でもっとも賢明な人にもわからないことが無数にあるのだということを、彼女に思い起こさせる必要がしばしばあった。
(中略)
ある日、彼女は悲しそうに、
「私は目が見えないし、口がきけません。だから神さまが見えないのです」
と言った。
私は彼女に<目に見>えないという単語を教え、神は霊魂であるから目では見ることができない、しかし、私たちの心が善と優しさでいっぱいになったときには、彼に似てくるので彼を見ることができる、と話してやった。
またあるとき、彼女は、
「霊とはなんですか?」
と尋ねた。
「霊がどのようなものか誰も知りません、けれども私たちはそれは肉体ではなく、私たちのなかの、考え、愛し、希望を持つ部分であり、クリスチャンが信じるように肉体が死んだ後にも生きるものだということを知っています」
と私は答えた。
(中略)
大分前に、彼女は私に、
「1600年も生きたいわ」
と言った。
天国と呼ばれる美しい国で<いつまでも>生きたいとは思わないかと聞かれた時の彼女の最初の質問は、
「天国はどこにあるのですか?」
だった。
私は私も知らないと白状せざるを得なかったが、それは星のひとつにあるかも知れないと暗示しておいた。
すぐあとで、彼女は、
「先生がどうぞ最初に行ってらっしゃって、私に話してくださいませんか」
と言い、さらに付け加えた。
「タスカンビアは小さな美しい町です」
(※タスカンビアはヘレンの出身地)
これは一年以上も前の話であったが、彼女が再びこの質問に戻ってきた時には、彼女の質問は数多く、より執拗になっていた。
彼女は、
「天国はどこにあって何に似ているのですか?なぜ私たちは外国を知るように天国を知ることはできないのですか?」
と尋ねた。
私は、非常にやさしい言葉で、天国と呼ばれる場所はいっぱいあるが、本質的にはそれは一つの状態――心の願望の充足、欲望の満足――であり、天国は<正義>が認識され、信仰され、愛されるところにはどこにでも存在する、ということを話してやった。
(中略)
ヘレンを困らせ、悩ませた問題のうちでも、悪の存在とそれから起こる苦悩の知識ほど彼女を困らせたものはない。
長い間、彼女にこのことを言わないでおくことができた。
そして彼女が悪徳や不正と接触することを防ぐのは、比較的容易なことであった。
悪が存在し、それから大きな悲惨が生まれるという事実を、彼女は周囲に起こるそのような経験や、人生をよりはっきり理解するにつれて、少しずつわかりはじめた。
法律と罰の必要性が彼女に説明されなければならなかった。
彼女の心の中にすでに存在する神の概念と、現実の世界に存在する悪とを調和させることの難しさを、彼女は知った。
ある日彼女は、
「神さまはいつも私たちのことを心配しているのですか?」
と尋ねた。
彼女は肯定的な答えを得た。
「それならなぜ、彼は今朝妹が落ちて頭をあんなにひどくぶつけて怪我をするようにしたのですか?」
また別のとき、彼女は神の力と善について質問した。
彼女は前に、何人かが生命を奪われた恐ろしい海の嵐についての話を聞いていて、
「神さまは何でもできるなら、何故あの人たちを助けなかったのですか?」
と尋ねた。
愛情深い友人とおだやかな人たちに囲まれて、ヘレンはごく初期の知的開花のときからずっと変わらず、常に喜んで正義を行なった。
彼女は的確な本能で何が正義であるかを知り、楽しそうにそれを行なった。
彼女はたった一つの悪い行為も無害だとは考えなかったし、重要なことでないとも、故意ではないとも考えなかった。
彼女の純粋な魂には、すべての悪は等しく醜いものだった。
(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)
おそらくヘレン・ケラーは、目が見えなかったからこそむしろ……想像力溢れる子供であったがゆえに、サリバン先生の度肝を抜く質問の数々を無邪気にいくつも繰り出したのではないでしょうか
なんにしても、サリバン先生のこの本を読むと、健常児・障害児関係なく「教育」というものの根幹に関わる非常に重要なことについて考えさせられる思いがします。
他にも、目も見えず耳も聞こえないヘレンにどんなふうにサリバン先生が物の名前を教えていったかなど、とても興味深く、同時に心あたたまるエピソードで満ちた本と思いますので、すべての方にお薦めしたい、本当に素晴らしい本だと思います
それではまた~!!
そもそもヘレンケラーより立派な偉人は、あのアバズレマザー○○ックイカサマ野郎が生まれる以前に大勢いるし、あんな全ての芸術家と、全て障害者の役に立つ物を作った人達を冒涜した発言をした奴がなんで未だに偉人として紹介されてるのか全然理解出来ない。
あんな奴が偉人としてほめたたえられてるから障害者差別が無くならないんだ。
あいつは俺が一番尊敬している偉人であり、障害者を冒涜した。
あいつが生まれる以前に、目が見えないのに点字を発明したルイ・ブライユというレオナルド・ダヴィンチ並みの天才であり、仏陀の生まれ変わりが作ったものを「素晴らしいものではない」とまで言いやがった。
俺だったらあいつが障害者じゃなきゃ張り倒してやるぜ。
「世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。
それは、心で感じなければならないのです。」
「自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。」
「はじめはとても難しいことも、続けていけば簡単になります。」
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」
「安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。
現実には安全というものは存在せず、子供たちも、誰一人として安全とは言えません。
危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。
人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。」
「目に見えるものは移ろいやすいけれど、目に見えないものは永遠に変わりません。」
「 第六感は誰にもあります。
それは心の感覚で、見る、聴く、感じることがいっぺんにできるのです。」
「私たちにとって敵とは、「ためらい」です。
自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。」
「あきらめずにいれば、あなたが望む、どんなことだってできるものです。」
「元気を出しなさい。今日の失敗ではなく、明日訪れるかもしれない成功について考えるのです。」
「人の苦しみをやわらげてあげられる限り、生きている意味はある。」
「物事を成し遂げさせるのは希望と自信です。」
これ以外にもまだ基地○にして意味不明の屁理屈をあの悪魔専門の売春婦はほざいていたが、ここに書かれているのは、全て俺のその場限りの思いつきの世迷言でも、植松が言ったことでも、極右の軍国主義者が言ったことでも、イカレたカルト集団の教祖様が言ったことでもなく全て例のあの魔女が言った言葉だ。
あんな奴や昭和天皇を偉人伝に載せるなら、ムッソリーニや、イタリアで精神病院を廃止するという画期的な政策を始めた当時のイタリアの医者か厚生労働大臣を偉人伝に載せやがれ。
それは、心で感じなければならないのです。」
ふざけるな。これが俺が一番傷ついたし、怒りと悲しみを覚えたヘレン・ケラーの暴言だ。
ヘレン・ケラーが生まれる以前にも障害者の役に立つ物を作った人達はいたし、実際にそれらができたから障害者も健常者も共に生きれる世界になってきてるのに、そういうものを作った人達をなんだと思ってんだこいつは?障害者の芸術家だっているのに、そういう人達にどういう神経をしていたらこう言う暴言を吐けるんだ?
あいつは何様だ?お前はそんなに偉いのか?多くの人がそうであるように、俺だってメガネかけてるから、だからこそメガネを作った人が素晴らしい人だと尊敬してるし、だからこそ目が見えないのに、それでも点字を作った人がいたと知った時は、その場で泣いたし、その日から俺は「神々はたくさんいるんだ」とも「障害者の役に立つものを作った人たちが評価されないで、ないがしろにされているから障害者差別がなくなんないんだ」と確信した。
そもそも俺は幼稚園の時から眼鏡をかけてたからいじめられてたが、子どもの時ならまだしも、大人になってさえ眼鏡や点字や補聴器など、障害者の役に立つものを作った人たちが素晴らしいと評価しない奴こそどんなに控え目に言っても犯罪者予備軍だし、それこそ植松予備軍だろ。
大量破壊を使って大量○人をやった国の指導者やそういうテロ組織の指導者は障害者になって一生刑務所にぶち込まれろ。
「日本はドイツ以上に過去の戦争の反省をしろ」というやつは障害者になれ。