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前回、ヘレン・ケラーのことに少し触れたので、今回は彼女がサリバン先生からどんなふうに<愛>ということを教えられたのか、その感動的なエピソードについて触れてみたいと思いましたm(_ _)m
以下、「ヘレン=ケラー自伝~三重苦の奇跡の人~」(今西祐行さん訳/講談社)からの抜粋となります
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~「愛」ということば~
ある朝のことです。
わたしは、庭にすみれの花が咲いているのを見つけました。
その春はじめて見つけたすみれでした。
(そうだ、サリバン先生にあげよう)
とっさにそう思って、わたしはそれを摘みとりました。
そして、先生のところへ持っていきました。
すると先生はとても喜んでくださって、わたしに頬ずりをなさろうとしました。
でも、わたしはそのころ、母以外の人から、頬ずりされるのは好きではありませんでした。
わたしは顔を背けたのです。
すると先生は、わたしを静かに抱いて、
「わたしは、ヘレンを、愛していますよ」
と、指で話してくださいました。
「『愛』ってなんですか」
わたしはたずねました。
先生は、
「それはここにありますよ」
というように、わたしの胸を指差しておっしゃいました。
その時はじめて、わたしは、心臓の鼓動に気がつきました。
でも、わたしはそれまで、手で触れることのできるものの他は知らなかったのですから、先生のおっしゃることは、どうしてもわかりませんでした。
わたしは先生が手にしているすみれの匂いをかいでから、半分は言葉で、半分は手まねで、
「愛って、この甘い花の香りのことですか?」
と、たずねました。
「いいえ」
そこで、またわたしは暫く考えました。
わたしたちの上に、暖かい太陽が輝いていました。
わたしはその暖かさのくる方向を指差して、
「これが愛ではないのですか」
と、たずねました。
すべてのものを暖め、成長させる太陽ほど、美しいものはないように思えたからです。
しかしサリバン先生は、やはり首を横にお振りになりました。
わたしは戸惑ってしまいました。
これがミモザ、これがスイカズラ……というように、先生はこれまで、何度もわたしの手に触れさせて教えてくださいました。
それなのに、なぜ先生は「愛」を見せてくださらないのでしょう。
わたしは不思議でなりませんでした。
それから一日、二日たってからのことです。
わたしは、大きさの違うビーズ玉を糸に通すことを教えてもらっていました。
大きいのを二つ通すと、次に小さいのを三つ、というふうに、釣り合いの良いように通していくのです。
いくらやっても、わたしはすぐに間違えました。
そのたびに、先生はわたしの間違いを根気よく、親切に教えてくださいました。
それでもまだ、わたしは間違えてしまいました。
(どうしたらいいのかしら)
わたしは暫く手を休めて、考えこんでいました。
すると、サリバン先生は、わたしの額に指で、「考える」と、お書きになりました。
わたしは、はっとしました。
今自分の頭の中に起こっている不思議な働き、それが「考える」ということなのだなと、はじめて気がついたのです。
手にさわることの出来ないもの、形でいうことの出来ないものにも、名前があるのだということが、はじめてわかったのです。
長いこと、わたしはじっとしていました。
膝の上のビーズのことを考えていたのではありません。
(あの「愛」というものも、この「考える」と同じような、形のない、手にふれることの出来ないものではないかしら)
わたしは、そんなことを考えていたのでした。
その日は朝から、どんよりと曇って、時々雨さえ降っていました。
ところがその時、急に南国の輝かしい太陽が、ぱっと差しこんできたようでした。
わたしはもう一度、先生に伺ってみました。
「これが「愛」ではないのですか?」
すると、先生はちょっと考えるようにしてから、
「そうね。『愛』というのは、太陽が出てくる前に、空にあった雲のようなものよ」
わたしには、一層わからなくなりました。
すると、先生はすぐに、もっと優しい言葉で、続けてくださいました。
「雲は、さわることは出来ないでしょう。でも、雨は感じますね。そして、雨が降ると、草木や乾いた土がどんなに喜ぶかも、ヘレンは知っているでしょう。『愛』もさわることは出来ないの。でも、その『愛』がすべてのものに注がれる時、その優しい喜びは、感じることが出来るものよ。『愛』がなければ、幸せもないし、きっと遊びたくもなくなってしまうわ……」
先生のおっしゃることが、初めてよくわかりました。
わたしは自分の心と他の人々の心との間に、目に見えない、さわることの出来ない、美しい糸が結ばれていることがわかったのです。
(「ヘレン=ケラー自伝~三重苦の奇跡の人~」今西祐行さん訳/講談社より)
……とても感動的なお話ですよね
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では、次回もヘレン・ケラーの書籍の中でわたしがとても心に残った文章を抜き書きさせていただきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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そもそも一神教の神しかいないならなんで日本や辺境の地にその神がいないんだ?
コメントありがとうございますm(_ _)m
そうですね。わたしも自分がクリスチャンになる前まではそうした考え方でした。昔から漫画とゲームが大好きだったので、妖怪の出てくる話や妖精や精霊の出てくる話などがとにかく大好きでした
わたしも、全知全能の神がいるなら、すべての人がその神さまに触れることが出来るようにすることが平等というものではないか、だが現実的にそうでないのだから、この世界に神などいない……あるいはいたにしても、宇宙のどっか☆にでもいて、わたし如きゴミのような人間の願うことにいちいち関心など払ったりしないだろうし、そもそも地球上にいる人類ひとりひとりにそのようにすることなど、流石の神にも無理だろう、といった考えでした。
日本人なのに、日本の歴史に詳しくなくて恐縮なのですが(というより、わたしより芋田さんのほうがよほど詳しいのではないかと思います^^;)、日本では確か、まず神道系の考え方があって(天照大神とかが登場人物のあれ☆)、今ではこれほど浸透している仏教も、元は外から入ってきたものですし、キリスト教はさらにそのずっとあとに入ってきた新参者(?)の宗教といった感じだと思います。
なので、そんなずっと後にフランシスコ・ザビエルなんつー、教科書に載ってるハゲたおっさんの伝えた宗教の神なんかがほんとの神なわけあるか、神がほんとの神なら誰もが最初から知ってるような神じゃないなんておかしい……と感じるのは、当然のこととも思います。
ちょっと長くなるのでここのコメント欄に書いたりできないのですが(汗)、そのあたりが「何故なのか」というのは、わたしの場合、自分がクリスチャンになってからよくわかるようになったことでした
それで、ここはしがない一クリスチャンが、一キリスト教徒として自分なりの信仰表明として、キリスト教の神であるイエスさまのことを知って欲しいと思って細々運営してるサイトなのですが、他の記事のどこかにそのあたりの「何故」ということについて、多少書いたような記憶があります。
ただ、ここの管理人馬鹿☆なので、「なんかどっかにそんなこと書いたなー
芋田さま、コメントありがとうございました♪