神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

不信仰の処方箋。

2016年01月14日 | キリスト教
 マルティーヌ・モーチ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)


 不信仰の処方箋なんて本当にあるのかどうか、わたしにもわからないのですが、実をいうと落ち込んだ時などにわたしはエミリー・ディキンスンの詩を読むのが好きです

 というのも、彼女の詩の中には神さまに対する<不信仰の表明>とも読めるものが含まれており、でもそれらの詩もまた『神さまに対して本当は信頼しているからこそ、そうした愚痴もこぼせる』といったような種類のものだと思うんですよね。

 おそらくエミリーは、身近な誰かや友達が亡くなったりした時や、人生がやりきれないように感じた時にそうした詩を書いていたのだろうと推察されるのですが、<不信仰>などといっても、彼女の詩を読む人はみな「その気持ち、わかる」といったような形で魂を慰められ、むしろ励まされるのだと思います。

 ディキンスン関連の本の一冊に『空よりも広く~エミリー・ディキンスンの詩に癒やされた人々~』という本があって、この本の中にはたくさん方々が人生でつらかった時(パートナーを亡くしたり、子供を亡くしたり、ご自身が重篤な病いであったりした時)に、いかにエミリー・ディキンスンの詩、あるいは彼女の生き方に慰められたか……といったことが書かれています。

 ただし、ディキンスン詩の入門篇としてオススメかと問われると、自分的にはちょっと「う~ん」といった感じかもしれません(^^;)

 けれど、生前にはまったくの無名で、死後に詩集が出版されたディキンスンですが、彼女自身今天国でとても喜んでいるのではないかと思うのです。

 何故といって、死後に自分が生前書いた詩が、これほどまでに多くの人々に影響し、癒しを与えただけでなく、その魂の危機をも救ったのだと知ったとしたら……。

 では、エミリーの詩のどのような点がわたしたちにとって魅力なのでしょうか?

 以下にいくつかご紹介して、この記事の終わりにしたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



       1

 失意の胸へは
 だれも踏み入ってはならない
 自身が悩み苦しんだという
 よほどの特権を持たずしては――


       2

 一瞬の喜びを
 苦悩で支払わねばならない
 その喜びに比した
 厳しい身もふるえる割合で

 一時のしあわせを
 なが年のひどい貧苦で
 争って貯めたわずかの端金(はしたがね)と
 涙で満たした手箱とで

       3

 もし駒鳥たちがやってくるころ
 わたしが生きていなかったら
 記念のパン屑をひとつ
 赤いネクタイをした者にあげて下さい

 もしわたしがよく眠っていて
 あなたにお礼が言えなくても
 固い石の唇で
 言おうとしてるのを知ってください

       4

 わたしは思う この世ははかなく
 苦悩がさけがたく
 痛手に満ちていると
 だがそんなことが何だろう

 わたしは思う わたしたちはやがて死に
 どんなに若々しい生命も
 やはり死にはかてないと
 だがそんなことが何だろう

 わたしは思う 天国では
 とにかくすべてが公平にされ
 何らかの新しい配分にあずかると
 だがそんなことが何だろう

       5

 今迄に見たなによりも
 淋しいものを思ってみた
 遠い極地での罪のあがない――
 死のひじょうな近さを示す

 骨のなかの不吉なきざし――
 私自身の似姿をさがすために
 救いがたいものをあたってみた
 するとあるやせこけた慰めが生じてきた

 そのいくつかの連想のうちに
 どこかにいま一人
 神の愛を失った者が
 生きていると考えて――

 私は互いの仕切りの引っぱった
 向かいあった牢屋で
 同じ恐怖のいとことのあいだの
 壁をほじくろうとするひとのように

 私はほとんど相手の手をにぎりかけ
 得もいわれぬ喜びが湧いてきた――
 私が彼に同情しているように
 彼もたぶん私に同情していると

       6

 苦痛には空白という要素があって
 苦痛がいつ始まったとも
 苦痛のない日が一日でもあったかとも
 思いだせないもの

 苦痛に未来はない ただ「いまある」だけ
 だがその無限のひろがりは過去を含み
 新しい苦痛の時代を見つけようと
 あかあかと輝いている

       7

「過去」というのは 奇妙な生き物
 その顔を覗きこんでご覧なさい
 恍惚が見えて来たり
 恥辱が見えたり――

 武装なしで 「過去」と出会ったりしたら
 すぐ逃げること――
 錆びついた弾丸が
 また 飛んできますよ

       8

 もし私が一人の心の傷をいやすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない
 もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ
 一人の苦痛をさますことができるなら
 気を失った駒鳥を
 巣にもどすことができるなら
 私の生きるのは無駄ではない

       9

 もう祈るだけ 祈るだけしかないのです
 ああ イエスよ 空の中の
 あなたのお部屋がどれかもわからず
 私はそこら中をノックして回るのです

 あなたは南の国に地震を
 海に竜巻をひき起こすことのできるひと
 ああ ナザレびと イエス・キリストよ
 あなたは私に差しのべる腕をお持ちではないのですか

      10

 時がたてばなぜかわかるだろう
 そうすれば なぜかと怪しむこともやめるのだ
 キリストがめいめいの悩みを解いて下さるのだから
 あの空の美しい教室で――

 ペテロの約束のことも教えて下さるだろう
 私はキリストの苦しみを思うあまり
 このひと雫の悩みなど忘れてしまうのだ
 ああ 私をこんなにもこんなにも痛めつけている悩みを――


(1、『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』(中島完さん訳/国文社刊)、2~5『ディキンスン詩集』(新倉俊一さん編・訳、思潮社刊)6、8~10『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~』(中島完さん訳/国文社刊)7、『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集~』(中島完さん訳/国文社刊)より)





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