
本当に久しぶりの「赤毛のアン」シリーズの更新です(^^;)
先の記事で、「赤毛のアン」はまず、一般の勉強といったことよりも宗教教育ということが先に来ている……と書いたのですが、もちろんマリラもマシュウもこれが初めての子育てであり、ましてや相手は女の子

どうしたものやらと思いつつ、マリラは自分なりに「最善を尽くす」ことを心に決めるわけですが、その時に確か「手を鋤につけてから、後ろを見ない」という聖書の言葉を引用していたと思います。
これはルカの福音書、第9章62節からの引用で、次の箇所を指すものと思われます。
>>さて、彼らが道を進んでいくと、ある人がイエスに言った。
「私はあなたのおいでになる所なら、どこでもついて行きます」
すると、イエスは彼に言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」
イエスは別の人に、こう言われた。
「わたしについて来なさい」
しかしその人は言った。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください」
すると彼に言われた。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」
別の人はこう言った。
「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」
するとイエスは彼に言われた。
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」
(ルカの福音書、第9章57~62節)
わたしの持っている聖書の欄外注には、>>「二つの関心事に心を裂いては、神の国の務めにふさわしくない。鋤がイエスを指すとすると、「手を鋤につけてから、うしろを見ない」とは、主キリストを見つめて悔いないこと」とあります。つまり、もうすでに「アンを引き取って育てる」ということに心を決めたのだから、そうと決めた以上は後ろを振り返らない、そのことで後悔しない……ということですよね。
=イエス・キリストを信じると決めた人が後悔することなどありえないのと同じように、という意味でもあるのだと思います。
そしてマリラは実際にアンを引き取ったことを後悔するどころか――やがてアンのいなかった頃のグリンゲイブルズのことなど考えられなくなっていくのです。
また、マシュウのほうは妹のマリラとは違い、アンがグリンゲイブルズにいることには大賛成(笑)であり、厳しくアンを教育しようとするマリラとは反対に、折に触れてアンのことを甘やかしています。
アンの子供としての面白さが物語をお道徳くさくなくしているとわたしは思うのですが、でもやっぱりマリラの厳しさだけでは子供は健全に育たず、マシュウの甘さだけでもやはりそれは同じであり……この部分って、読者全員の了承事項だと思うんですよね(^^;)
そして、子供のない男の子の欲しかった夫妻のところに間違って女の子がやって来た……というのだったら、もしかしたら「アン」はこんなに面白くなかったかもしれません。でもそうではなく、互いに未婚のままいい年になってしまった兄妹の元に、農業の働き手として男の子を求めたところ間違って女の子がやって来た――というところが、「赤毛のアン」をよりいっそう魅力的な物語にしていると思うんですよね

さらに、一般的に子供に甘い=母親、そして厳しい=父親という場合が多いのに反して、マリラのほうがその厳しいという損な役割を引き受けており、マシュウのほうではアンを助け、ひたすら保護するというふうに、父・母、男・女の役割が逆転しているようなところも、「赤毛のアン」の面白い設定のひとつと思います。
ただ、「赤毛のアン」は(わたし含め)ファンの方が多いのと同時に、純粋に児童文学としてどうなのかというと……一般に批判される次のような部分があるそうです。つまり、非常な不幸を負った孤児というのは児童文学世界によくある設定ということなんですが、アンの場合は一度グリンゲイブルズに引き取られて以後、とにかく勝利が続くということなんですよね(^^;)
もちろん、アンにも試練や試しや不安なことなど、色々あるわけですけど――それを彼女が持つ独特のユーモアや明るさで乗り越えていくところが読みどころであるのと同時に、とにかくアンはそのひとつひとつの試練に勝っていくわけです。
つまり、アンは光の子供であるのと同時に勝利の子であり……「赤毛のアン」を「あんましおもしゃくないな

作者のモンゴメリが敬虔なクリスチャンだったからということもあるとは思うのですが、「赤毛のアン」は注意してよく読むと本当にキリスト教的というか、そうした聖書的価値観の道徳で貫かれており、先に宗教教育があってから、次に大切なのが学校の教育……という構造になっているとおり、神さまを第一にしていたら、とにかくそれより次以降のものは祝福されるという、アンの人生はそのような形で進んでいきます。
たとえば、クイーン学院受験時に受験番号が「13」だったことから、「落ちるのではないか」という不吉な予感にアンは囚われるわけですけど――学校での成績はギルバートと一、二を争っているというアンですから、結局のところもちろん受かるわけです(^^;)
こうした形で色々と試練や失敗などがありつつも、結局のところアンは勝利の子として次々に勝ち鬨を上げていきます。けれど、そんなアンにもどうすることも出来ない問題がありました。それは自分の赤毛は染め粉によっても黒くは出来なかった……ということではなく、マリラが失明するかもしれないという問題、そしてマシュウの死です。
アベイ銀行という銀行に資産のほとんどを預けていたマシュウは、その銀行が倒産したと聞いて心臓発作を起こして亡くなります。こうしてクスバート家はグリンゲイブルズを売りに出さなければならないかもしれない……というくらい、経済的にも困窮し、一方マリラはといえば、失明するかもしれないという不安を抱えつつ、このグリンゲイブルズに独りで住んでいるのです。
アンはこの頃、グリンゲイブルズを離れ、クイーン学院のあるシャーロットタウンで暮らしていたわけですが、クイーン学院を卒業後、レドモンド大学への奨学金を獲得していたにも関わらず、グリンゲイブルズへと帰ってくることにします。
「あんたにそんなことはさせられないよ」と言うマリラ。けれど、自分がクイーン学院へ行ってから、すっかり老け込んでしまったように見えるマリラにアンはこう答えるのでした。
>>「ああ、アン、あんたがいてくれたらどんなに心強いかしれないけど、そんなことはできないよ。わたしのためにあんたを犠牲にするなんて」
「とんでもない!」
アンは明るく笑って見せた。
「ちっとも犠牲じゃないことよ。グリン・ゲイブルズを手放すことほど堪えられないことはないわ――そんなつらいことってないわ。とにかくこの大事なグリン・ゲイブルズを何としても守っていきましょうよ。あたし、もう決めたのよ、マリラ。レドモンドへは行かないわ。ここに残って先生になるの。だからあたしのことは心配しないでね」
「でもあんたには夢があったじゃないか――それに――」
「いままでどおり夢はあるわ。ただ夢のあり方が変わったのよ。いい先生になろうと思っているの――そしてマリラの視力を守っていくのよ。それに家で勉強は続けて、独学で大学の課程を取ってみようと思っているの。ああ、いろいろなことを計画しているのよ、マリラ。この一週間ずっと考えていたの。ここで精一杯やってみるつもりよ。そうすればきっと最高のものが返ってくるはずよ。あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。その道がどんなふうにのびているかわからないけれど、どんな光と影があるのか――どんな景色がひろがっているのか――どんな新しい美しさや曲り角や、丘や谷が、そのさきにあるのか、それはわからないの」
(『赤毛のアン』モンゴメリ著、村岡花子さん訳/新潮社より)
「赤毛のアン」は、光の子であり勝利の子であるアンが、次々勝利を得ていくというただ楽観的なだけの物語ではなく――どんなに楽観的な人でも打ちのめされる身近な人の死をどう乗り越えていくかということや、自分の夢を諦めたとしても別の形で幸福になることは出来るという、聖書に内在するメッセージで満ちていると思います。
つまり、モンゴメリ自身もそうと認めているとおり、とてもお道徳的であるのと同時、その人間が生きていく上で一番大切なことをどう物語として面白く、興味深く伝えていくか……という点で、非常に優れていると思うのです。
アンは言います。>>「ところがいま曲り角にきたのよ」と。わたしたちも長く生きていけばいくほど、この「曲り角」に行き当たります。時々それが「曲り角」ではなく袋小路の行き止まりのように見えて、人生に絶望することもあるけれど――それは袋小路でもどんづまりの行き止まりでもなく、「曲り角」と表現できるところに、アンの強さがあるのではないでしょうか。
>>あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
これはコリント人への手紙第一、第10章13節の言葉ですが、こんなふうに物語のあちこちから聖書のエコーが聞こえてくるというところも、「赤毛のアン」を読むもうひとつの楽しさ、面白さだと思うのです♪(^^)
それではまた~!!

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