神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

キリスト教的観点から読む『マクベス』-【4】-

2016年06月25日 | キリスト教
【マクベスと三人の魔女】テオドール・シャセリオー


 さて、今回はマクベスの人生観や死生観といったことについて、少し触れてみたいと思います♪(^^)


 マクベス:「やってしまって、それで事が済むものなら、早くやってしまったほうがよい。暗殺の一網で万事が片付き、引きあげた手もとに大きな宝が残るなら、この一撃がすべてで、それだけで終りになるものなら……あの世のことは頼まぬ、ただ時の浅瀬のこちら側で、それですべてが済むものなら、先ゆきのことなど、誰が構っておられるものか。だが、こういうことは、かならず現世で裁きが来る――誰にでもよい、血なまぐさい悪事を唆してみろ、因果は逆にめぐって、元凶を倒すのだ。この公平無私の裁きの手は、毒酒の杯を、きっとそれを盛った奴の唇に押しつけて来る……」

(『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア、福田恒存さん訳/新潮文庫)
 

 マクベスの人生観・死生観というのは、クリスチャンの人々が言うところの「この世的」なものといっていいかもしれません。

 まず、マクベスが最初に登場して言う言葉というのが、「こんないやな、めでたい日もない」というものなわけですが、他に、魔女たちの言う「きれいは穢い、穢いはきれい」など、作中には矛盾した言い回しがいくつか出てきます。そしてこのことに絡めて天国と地獄といったことが対比されているわけですが、作中でマクベスやマクベス夫人、それに登場人物の多くの人々がいるのは「この世」と呼ばれる場所ですよね。

 そして、天国は毎日がめでたい場所であり、きれいなものだけがある所であり、地獄と呼ばれる場所は毎日がいやな日、そして穢いもので溢れているところらしい……と聞きますよね(^^;)

 けれど、マクベスやマクベス夫人が今現在いるのは、その両方の入り混じった、どちらか片方だけというわけにはいかないある意味天国や地獄よりも混沌とした世界とは言えないでしょうか。そしてマクベスは君徳高き温厚な人柄で知られるダンカン王をその手にかけた時点で、自分は地獄へ行く……ということをかなり自覚していることがわかりますよね。


 マクベス:「「神のお慈悲を!」一人がそう言うと、もう一人が「アーメン!」と言う、この首斬り役人の手が見えたのだ。「神のお慈悲を!」その恐怖の叫びを耳にしながら、おれは、どうしても「アーメン!」と言えなかった」

(第二幕第二場)

 マクベス:「一時間まえに死んでいたら、幸福な一生を過ごせたろうに、今を境に、この世に本物はなくなったのだ、何もかも玩具同然、栄誉も徳も死に絶えた。命の酒が飲み干され、この穴倉に残されたのは、ただ滓(おり)だけか」

(第二幕第三場)

 マクベス:「最初、あの女たちがおれに王と呼びかけたとき、あいつは、いきなり相手をどなりつけ、自分にも何か言えと命じた、すると、奴らは、いかにも預言者ぶって、子孫が代々王になると祝いの言葉を浴びせかけた、このおれは、頭上には実らぬ王冠、手には不毛の笏、つまりは赤の他人にもぎとられ、一代かぎりで終らせようという魂胆か。そうだとすれば、バンクォーの子孫のために、おれはこの手をよごし、奴らのために、慈悲ぶかいダンカン王を殺したということになる!おのれの澄んだ心の杯を、燃ゆる憎悪の毒で濁したのも、もっぱら奴らのためだというのか!何ものにも代えがたい不滅の宝を人間なべての敵の手に譲り渡してしまったのも、ただ奴らを王に、バンクォーの子孫を王にしてやるためなのか!その手は食わぬぞ、運命め、さあ、姿を現わせ、俺と勝負しろ、最後の決着をつけてやる!」

(第三幕第一場)


 ではそれなら、何故マクベスはダンカン王を殺害したのか、また、スコットランドの王となり、この世の繁栄を楽しむということを選択したにも関わらず、彼の心には何故安らぎがなかったのか……まずここには、マクベスの信仰心の問題があると思います。

 旧約聖書は、イスラエルという国の建国史であり、また背信史として読めると思うのですが、歴代の王様の中には奥さんが異教的だったがゆえに神さまの教えの道から背いてしまった王様がいます。アハブ王はその代表格と思うのですが、マクベスの場合はマクベス夫人が異教的とまでは言いませんけれども、あまり信仰心といったものが厚い女性には思われません。

 マクベスは、合間合間に読み手が想像力で埋めなくてはいけないというか、むしろ行間に「ここはこういうことではないだろうか」と読者の想像力をかき立てるところがあって――わたしのこの読みはあくまで個人的なものではあるのですが、マクベス夫人はおそらく、自分の死んだ幼い我が子が生き返るというのなら、マクベスが惑わされたあの魔女たちを頼って、怪しげな魔術によってでも自分の子供を甦らせようとする……そうした傾向の強い女性だと思います。

 またマクベスは、ダンカン王を殺害する以前までは、他の味方の貴族たちから「正義の士」と言われており、最後はマクダフの手にかかって死ぬマクベスですが、その彼もまた自分の妻子を殺される前までは、そんな彼のことを慕っていたようでした。マクベスがコーダの領主となったのは、コーダの領主がダンカン王に裏切りを働いたからでしたが、ダンカン王は武勲を立てたマクベスにこのコーダの領地を与え――「奴の失ったものを、心の正しいマクベスが手に入れたのだ」とさえ言っています。

 つまり、ダンカン王殺害以前のマクベスは、ダンカン王に代わってスコットランドの王になりたいという野心がありながらも、忠誠心厚く彼に従ってもおり、そんなマクベスを他の貴族たちも「忠誠心厚い正義の士」と思っていたのだと思います。マクベスがその地位から転落することになった原因は、魔女たちの予言であり、また奥方の強い、執拗といっていい強要があったせいもあるわけですが、もしマクベスの奥さんが信仰心の厚いタイプの女性であったとしたら……「そんな臣下の道にもとるようなことをしていけませんわ、あなた」とでも言って、マクベスがしようとしていることをむしろ止めたことでしょう。

 どの宗教を信じている人でも、「そんなことをすれば地獄へ行く」といった良心があるものであり、マクベスには天国に対する確固たる信仰はないようなのですが、ダンカン王殺害についてはその自覚があったようであり、「あの世のことは頼まぬ」と言っているわけですよね。「そんなことをすれば天国へは行けなくなる」――けれど、心の中ではどちらかというと、「天国と地獄?そんなあるかどうかもわからぬものを頼みにしてどうする」というのが、マクベスの死生観であり、人生観だったのだと思います。

 日本はキリスト教国ではありませんが、欧米のキリスト教国の方でも、マクベスと似た死生観や人生観だといった方はおそらくたくさんいらっしゃると思うんですよね。「人生はこの世一度きり限り」……また、仮に生まれ変わりや転生といったことを信じていたにしても、まったく同じ人間として生まれるわけではないと考えた場合、やはり「今の人生は今この一度きり」と考える方も多いかもしれません。

 わたしもクリスチャンになる以前はそうでしたし、死んだあとに意識が存続しない、死んだあとは無である――というのが真理だとしても、それはそれでいいのではないか……と思っていました。マクベスもまた「今一度きりの人生」といった人生観で生きており、天国もなく地獄もないというのであれば、この世で王として繁栄してこそ最高の人生だ……そうした思考のほうに比重が傾いていってしまったのでしょう。

 その上、マクベスはダンカン王殺害後、悔いる、あるいは悔い改めるということがありませんでした。もし彼がクリスチャンとして、正しくキリスト教の教義といったものを信じていたとすれば、そのような罪もキリストが赦してくださる……ということに気づいたかもしれませんが、マクベスは結局のところ「自分はすでに救われぬ身だ」として、どんどん罪を犯してその魂を地の底へまで落としてゆきます。

 マクベスが何より気の毒なのは、この点かもしれません。死後に魂は地獄へ行くにしても、その代わりにこの世の栄耀栄華を味わってやると心に決めて、ダンカン王を殺したのに――結局のところ、この世でもマクベスはまったく王としての栄華を味わえず、むしろその心は不安と疑心暗鬼でいっぱいになって、安らぎもなく最後は死へと至るのでした。


 >>マクベス:「どこかで声がしたようだった、「もう眠りはないぞ!マクベスが眠りを殺してしまった」と――あの穢れのない眠り、もつれた煩いの細糸をしっかり撚りなおしてくれる眠り、その日その日の生の寂滅、辛い仕事のあとの湯浴み、傷ついた心の霊薬、自然が供する第二の生命、どんなこの世の酒盛りも、かほどの滋養を供しはしまいに――」

(第2幕第2場より)

 マクベス:「一太刀あびせただけで、蝮(まむし)はまだ生きている、傷口が癒えて生きかえりでもしてみろ、手を出したこっちは、いつまたその毒牙にかかるか知れたものではない。いっそ秩序の枠もこわれ、天地も滅んでしまうがいい、安んじて三度の食事もとれず、夜ごとの眠りも悪夢にさいなまれるくらいなら。あの死者と一緒の方がまだましだ、奴を安らかな眠りにつかせてやったのも、つまりはわが身安かれと思えばこそ、それを、心の拷問台に載せられて、こんな気違いじみた不安におののいておらねばならぬのか。ダンカンはいま墓のなかにいる、生きる不安の発作からのがれ、静かに眠っているのだ、叛逆の嵐も峠を越し、斬り合いも毒殺もなく、内憂外患も跡を断ち、もう何ものも、あの男に手をふれることは出来ないのだ」

(第3幕第2場より)


 ――これが、マクベスが魔女たちの予言を信じた結果招いた、王になることへのあまりに大きい代償でした。

 さらに、バンクォー殺害後、マクベスはさらなる疑心暗鬼に苛まれ、自分に対して予言をした魔女たちと再び会うと、さらなる救いの声を聞こうとします。そして、「ダンシネイン城へバーナムの森が迫るまでは御身は安泰だ」といった言葉や、「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」といった、魔女たちの魔術を伴う再度の予言に、疑心暗鬼になった心をようやく安らがせたというわけなのでした。

 つまり、「バーナムのような大森林がダンシネイン城に迫ってくる?」=そんなこと、あるわけがない!!、「この世に女から生まれない者が誰かあるか?」=そんな者、いるわけがなかろう!!ということで、マクベスのさそりが這い回るような疑心暗鬼の心はようやく落ち着いたわけです。

 と、ところが……イングランド軍の協力を得た、ダンカンの息子のマルコムは、軍隊を樹木に偽装させつつ、マクベスの居城のあるダンシネインの丘へと迫ってくるのでした!!配下の者から「森が移動しております!」と報告を受けたマクベスは「嘘を言うな、こいつ!!」と驚きます。マクベスはこの時、自分の最期が近いことを悟りつつあったかもしれませんが、とはいえ、女から生まれぬ者以外に対しては自分は不死身なはず――その言葉を頼って自ら戦へ出陣していきます。

 そして、出陣前に夫人が亡くなったことを知るわけですが、ここからのことについてはまた、次の回のほうへ回したいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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