立花隆先生のドキュメンタリー、「死ぬとき心はどうなるのか」と「見えた 何が 永遠が~立花隆、最後の旅~」を、HKのおんでまんど。で見ました
知の巨人が亡くなられた……という訃報のほうを知ったのが、実際にはお亡くなりになられてから結構経ってからのことで、立花先生って確か臨死体験系の御本なども書いておられたと思ったので(未読です。すみません)、そのあたりの死生観の変遷のことなどが語られているのだろうか……そんなふうに思って見てみたわけです。
こんなことをいちいち書くのを躊躇われるほど、「見事な生き様であり死に方であった」と、誰もが感じるような知の巨人の死。それで、ドキュメンタリーの中でわたしが特に興味を持ったのが、臨死体験に関わる脳領域というのがあって、それが人間が昔から持っている古い脳領域の大脳辺縁系ということだったと思います。
なんというか、脳科学系の本を読んだりして「へえ~」とか、「ふむふむ」と感じられた方ならたぶん、「あ~、なるほど!!」と感じるようなことなんですよね。死に際して、神のように思われる「大いなる存在」が現れて、この方の存在に我が身のすべてを委ねれば、安心して平安のうちに死んでゆける……これは、何かの宗教を信じていても、あるいは無神論の方であっても、臨死体験をして結局のところその時はお亡くなりになられず、この世に生還を果たされた方が共通しておっしゃることのあることだそうです。
あとは大いなる光に包まれたとか、お花畑が出てきたりとか、臨死体験をされた方が共通項として似たことをおっしゃっている場合があって、それが何故か……ということの答えでもあるかもしれません。また、この時本人が(肉体のほうは意識不明のはずなので)知りえないはずのことを知っていたりなど、確かにすべて科学的に説明のつくことばかりというわけでもないと思います。でも、わたしたち人間は死に際して、実は「今際の際」には安心して死んでゆけるような機構をそもそも昔から自分の身内に持っていた――ということなのではないでしょうか。
もちろん、そうとわかったからとて、「死が怖くなくなるか」と問われれば、多くの方にとってその答えは否かもしれません。それでも、日本人のように葬式仏教徒であったり、ある特定の宗教を信じておられない方で、がんやその他の病いで近いうちお迎えが来るとお医者さんに言われている方などにとって……立花先生のこのドキュメンタリーは、とても大きな救いになることではないかという気がしました。
わたしが知の巨人の著作を初めて読んだのは「なぜ人はがんになるのか」という素晴らしい本によってでした。その後、アメリカの軍需産業におけるロビー活動のことなどを調べていて、ロッキード社がどんな会社か――みたいなことを本で読んでいた時、その昔あった「ロッキード事件」のことにも触れられていて、立花先生のジャーナリストとしての偉大さにあらためて驚嘆した……といったような次第です(^^;)。
それはさておき、「なぜ人はがんになるのか」は、立花先生自身が膀胱がんになられ、そこから「がんに対して思った疑問」を調べていく――といった内容だったと思います。がんのそもそもの原因は細胞のコピーミスなのですが、多少のコピーミスであればさらに修復する機能がわたしたちには備わっている。ところが、全身の細胞は約37兆個くらいだったでしょうか。この細胞が毎日新しく生まれ変わってゆく過程を辿っているわけですが、それがわたしたちの指先の皮膚を見てもまったくわからないように、それは目に見えぬ本当に小さな世界で行われていること。胃や腸の細胞なども、何日間かおきに細胞が入れ替わっているということだったと思いますが、これだけのコピーに次ぐコピーを繰り返していたら、コピーミスというのは当然起きる。でも、そのミスさえもカバーする機構が人間の身体には備わっているにしても……何十年も生きていたら、見過ごされるコピーミスが出てきて、最初それはがんの検診などにも引っかからないほど小さなもの。ところが、このコピーミスされたものがやがて病院の検査などで引っかかるくらい大きく成長すると……お医者さんからこう宣告されることになるわけです。「あなたは△□がんです」といったように。
ドキュメンタリー映像の中の立花先生は、常にジャーナリストとして中立と言いますか、極めて冷静で分析的な態度であり、そこによくユーモアが織り交ぜられていて、立花先生の人間としての器の大きさが際立つような構成になっていると思うんですけど――ドキュメンタリーの中で語られないこととして、わたしが個人的に勝手に感じたのが、「淡々と病院で治療を受けておられるように見えるけれども、実際は入院生活その他もっと大変だったろうなあ」ということだったり、膀胱がんっていうのも、がんの部位としてかなりのところかかりたくない部位だと思うんですよね。もちろん、肝臓がんや膵臓がんのほうが病名として多少なり格好いいとか、そんなことではないのですが、それでも嫌なものは嫌だという、わたしならそうした心境だろうと思います。また、手術した七年後に再発したというのも、実際のところかなりガックリくる話ですよね何故かというと、五年生存率という言葉があるとおり、五年すぎてやり過ごせたら……このまま再発しないのではないかということのほうに、人はどうしても希望を持つ。ところが七年して再発を宣告されたら、「やはり人はがんには勝てないのか」との思いに悩まされるのが普通ではないでしょうか。
立花先生のドキュメンタリーの中には、こうした先生の「個人的にあったかもしれない苦悩」についてはほとんど触れられておらず、あくまでも<死>というものに対して科学的かつ冷静に、分析的にアプローチする……という先生の姿が際立っています。
それでまあ、そうした立花先生であるだけに、大脳辺縁系がどうやら死に際して死が怖くないように、我々が安楽に死んでゆけるよう、脳がそのような幻を見せる――といった核心に至るまで、さらに順に、そのあたりに詳しい最先端の脳科学者やお医者さんなどにインタビューしていくわけですが、最後にレイモンド・ムーディさんという、臨死体験の本でとても有名な方と再会しておられます。
わたし、レイモンド・ムーディさんの臨死体験系の本、いつか読みたいと思っていて読めてないのですが(汗)、実はてっきり「臨死体験」をした人がこうした不思議な体験をいっぱいしてる、だから死後の世界はあるんだ……的な、そうした系の本なのかと思ってました。ところがこのレイモンドさん、「死後の世界なんてない」という立場に立脚していたのが、立花先生と再会されたこの時、その後色々と考えが変わる体験があったらしく、この時には「死後の世界はある」という立場に変わっておられた……ということらしいのです(このあたりのことについても、自分的に興味を持ったのでいずれ調べてみたいと思います)。
とはいえ、久しぶりに会われた立花先生とレイモンドさんの再会はとても心温かいものであり、なんというか、人には死というものに対して色々な立場、真実の見方があってよい……というのでしょうか。そうした感じの会話であったように思います。
つまり、人の死をもし仮に百例観察しても、千例あらゆるデータを客観的に分析できたとしても、己の死、この自分という存在が死ぬという瞬間に際しては、そうしたあらゆる知識やデータといったものは無力でしかない――と言える気がするのですが、それでもそこには人間という存在の、ホモ・サピエンスという種にまで進化した、「死」というものと向き合う精神と心のこの上もない豊かさがある……といったように感じたりしました。
今回のタイトルは「魂のパラダイムシフト」というものなのですが、わたしはキリスト教徒なので、もちろんキリスト教の天国について疑いなく信じているとはいえ……でも、すべての人にとって死というものが平安なものであって欲しいと昔から願っていますし、それは今後も変わりなくいつまでもずっとそうだと思います。
そして、立花先生は立花先生で、この上もなく豊かで見事な生き様を地上に刻み、先生がお信じになっておられたに違いないところの「天国」と言いますか、そうした世界におられるのではないかと想像したりします。魂のパラダイムシフトというのは、人の精神・心が死ぬという時に突如として起こるもので、どうも立花先生的には「死後が無でも構わない」くらいの死生観であったように思われたりもするのですが、ドキュメンタリーの中で先生が「生命の連続体」、「生命の連環体」といったように語っておられたことは、そのような集積体が死後にもあり続け、「魂の連続体」、「魂の連環体」とでもいったような世界が実は存在し、人はみな、死後にそうした世界へ行くのではないか――といったようにも、自分的には感じたりしました。
このあたりについては、キリスト教の教える天国とは当然矛盾するものですが、わたし自身はこうした人間の「死後の世界の多様性」といったことに、クリスチャンであると同時にとても強い興味を持っています。そして、「キリスト教では天国についてこう語っているけれど……」ということと同時に、他の方が思う天国、考え想像する死後の世界について色々語りあえることのほうが、より豊かに<死>についてオープンに話し合えるということは、とても大切なことでないだろうか……といったように思っている、というようなことだったりします。。。
それではまた~!!
P.S.これは、わたし自身はあまり「霊的な夢」とも思っておらず、あくまでもわたし個人が信じているのは「キリスト教の天国」、「イエスさまのおられる天国」ということで、120%まったく揺らぎのないことなのですが――でも時々、死ということに関連して、実は電車の夢を見ることがあるんですよね夢の中のわたしは、自分が死んでいるとも思っておらず(まあ実際のところ、生きているわけですしね^^;)、ある駅のターミナルに到着します。大抵、他にもたくさん人がいます。それで、そこが結構国際線っぽい雰囲気の、かなり入り組んだ場所なのです。誰か案内してくれる人でもいないと、普通に考えたらすぐ迷子になってしまいそうな感じの……と、同時に、とても面白くてわくわくするような場所でもあります。わたし的に、死後の天国というのは――何かこう、むしろ中世くらいに時代が戻って、父なる神や子なる神であるイエスさまに、他の信徒の方々と清らかな祈りや礼拝を捧げるといったイメージがあったのですが……ちょっと近未来的なイメージですらありました。つまり、人々はそこに死んで魂だけになった人を迎えにやって来ているらしいのです。このあたり、すでに「時間の観念がないらしい」ということも、興味深いところでした。つまり、わたしたちが電車で誰か家族や友達などを迎えるとしたら、「何時何分の△□号っていう高速列車で行くから、到着するのは、午後の3時34分ごろ……」みたいに連絡しあうのが普通ですよね。ところが、迎えに来ている人々にはどこの何番線ホームに誰がやって来るのか、どうやらわかっているらしい。そして、再会を果たすと、それが物凄く当たり前のことであるように一緒にどこかへ行ってしまいます(たとえば、わたしが夢の中で何年も前に亡くなってしまった人と会っても、感動のあまり涙を流すとは限らないように)。つまり、何を言いたかったかというと、もし仮に「誰も迎えに来る心当たりがない」という場合でも、実はあまり心配いらないのではないかということなんです。もし、おじいちゃんやおばあちゃんといった身近な人の死を経験する、ずっと幼い時分に亡くなってしまった子供のような場合でも……その場合は、必ず天使が迎えに来てくれます。天使、といっても、ブロンドの神の美青年で白い服を着ていて背中から翼が生えているとは限らないんですよね。「よく知らない、綺麗な人だけど……なんでこの人、自分なんかのために迎えになんて来てくれたんだろ」というのでしょうか。よくわからないけれど、必ずそうした親切な人が迎えに来てくれますし、天国の入口のような場所を見ただけでも――そんなにうきうきわくわくするような場所なのですから、その先には一体わたしたちの魂をどんな世界が待ち受けているのか、本当は心配する必要など、少しもないのかもしれません。
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