【最後の審判】ミケランジェロ・ブオナローティ
義、という言葉を辞書で引いてみると、
>>義(ぎ)は、人間の行動・思想・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」
……といったようにあります。
たぶん、多くの方が「なんだか堅苦しい言葉だなあ」と思ったり、「そんな人、今時本当にいるかなあ。いたとしても、マザー・テレサのような、極一握りの人だけなのでは」といったように思われるのではないでしょうか。
キリスト教におけるイエスさまを信じる人々に与えられる「義」とは、「神さまにある正しさ」ということだと思います。つまり、わたしたち人間には、自分の努力等によってでは、「義」という状態に到達することが出来ません。
それゆえ、イエス・キリストのことを信じた時に……イエスさまの十字架上の贖いの業が自分のためのものであったと信仰告白する時、イエスさまの十字架上で流された血がわたしたちひとりひとりに振りかかり、「今まで犯してきた罪のすべてが赦され、一切何ひとつとして罪を犯していない状態にしていただける」ということ、これが神さまが人間に与えたイエスさまを通しての御業でした。
教会の礼拝メッセージなどでは時々、「罪を犯していない状態にさせていただくというのはようするに、赤ちゃんと同じくまったく罪を犯していない状態ということです」と聞くことがあります。もしかしたらノンクリスチャンの方が聞いた場合、「??赤ちゃんと同じ?そんなのおかしくない?」と感じられるかもしれません。何故といって、確かに「信じたその瞬間」はそうなのかもしれない。でも、その後も続く人生の中では絶対的に人に嘘をつくであるとか、必ずなんらかの罪がまとわりつく。そして、「義を行ないたい」、「人間として出来得る限り正しくありたい」といくら願ったとしても……そうした事柄から逃れられないのが人間の人生なのに、「イエスさまの御前で罪を悔い改めるごとに、罪を犯していないのと同じ状態にしていただける?」、「そんなの、欺瞞もいいところじゃないか」――とすら感じられるかもしれません。
けれどもそうではなく、わたしたち人間は正しくなくとも、イエスさまを信じることによって、イエスさまが十字架上で流された血潮の御力によって、神さまにある義によって、少しも……どころか、これっぽっちも正しいところのないわたしたち人間が、神さまにある義を着させていただくことが出来るということなのです。そうすることで、「正しくないわたしたち」が、神さまの御目には「正しい者とされる」ことが出来るわけです。
ある意味、わたしたちには「神さまのために出来ること」など、何ひとつとしてありません。わたしもそうですが、自分なりに「神さまのため」、「イエスさまのため」と思ってしてみたことも、「単なる自己満足ではないか」とか、「きちんとした信仰生活を自分なりに出来得る範囲内でがんばって行なっているつもり」であるとか……冷たい言い方をすれば、この全世界、全宇宙を治めておられる神さまにとって、ひとりの人間がそのように「神さま、ああ神さま」と祈っていることなど――人間が一匹のアリを見て、「やあ、君も大変だね。でもがんばって生きていくんだよ」と一瞬思う程度の気持ちでもあれば……まだしもマシとすら言えはしないでしょうか。
でもそうではなく、神さまは御自身のひとり子イエスをこの世に遣わすことによって、イエスさまを信じる者すべてを救うという計画をお立てになりました。旧約聖書を読むと、このことは本当にもう、神さまにとって極初期の頃からあった御計画なのだろうということがわかります。
>>あなたはわたしの目には高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書、第43章4節)
>>見よ。わたしはあなたの名を手のひらに刻んだ。
(イザヤ書、第49章16節)
そう神さまはおっしゃっていますが、このことも人間的価値観に照らし合わせてみれば、「あの人は立派な人生を送っているからそうかもしれないが、自分はダメだ」など、神さま、イエスさまの前に自分を取るに足らない存在だと感じる方は多いと思います。
けれど、人間には全能の神さまのことなど理解できません。そこで神さまは、「わたしは人間が見るようには見ないからだ」(サムエル記第一、第16章7節)とおっしゃっているわけです。ですから、イエスさまの十字架上の血潮の御業を信じる者は、その血が自分のために流されたことを信じる者は、その血が自分の身に降りかかったことによって清くなり、「まるで赤ん坊のように罪を犯していない者」として扱われ、そして死後にはイエスさまが復活されたように、天の御国でイエスさまのみそばで永遠に輝くことが出来るのです。
とはいえ、理屈でだけこう聞かされても、「う゛~ん。でもなんか、そんなの納得いかないなあ」と思われる方もおられるかもしれません。けれど、重要なのは、神さまの見方と人間の見方は違うということです。わたしも自分がクリスチャンになる前までは、「イエスは自分を信じる者だけを救う」的なことを噂で聞いていたので、「そんな変な神さま、絶対ほんとの神さまじゃないよ」みたいに根強く思っていたものでした。
でも、「ああいう罪も犯せば」、「こういう罪も犯す」、そしてそのことに対する罪悪感その他でがんじがらめになってどうにも救いようのない人間を救う方法として――「人間ではまず思いつきようのない御計画」を持って、神さまは御自身の造った人間を救おうとされたのでした。
>>私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
(コリント人への手紙第一、第2章7~11節)
この人の心を探り窮める方(ローマ人への手紙、第8章27節)に、これからのちも永遠に栄光がありますように
それではまた~!!
義、という言葉を辞書で引いてみると、
>>義(ぎ)は、人間の行動・思想・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」
……といったようにあります。
たぶん、多くの方が「なんだか堅苦しい言葉だなあ」と思ったり、「そんな人、今時本当にいるかなあ。いたとしても、マザー・テレサのような、極一握りの人だけなのでは」といったように思われるのではないでしょうか。
キリスト教におけるイエスさまを信じる人々に与えられる「義」とは、「神さまにある正しさ」ということだと思います。つまり、わたしたち人間には、自分の努力等によってでは、「義」という状態に到達することが出来ません。
それゆえ、イエス・キリストのことを信じた時に……イエスさまの十字架上の贖いの業が自分のためのものであったと信仰告白する時、イエスさまの十字架上で流された血がわたしたちひとりひとりに振りかかり、「今まで犯してきた罪のすべてが赦され、一切何ひとつとして罪を犯していない状態にしていただける」ということ、これが神さまが人間に与えたイエスさまを通しての御業でした。
教会の礼拝メッセージなどでは時々、「罪を犯していない状態にさせていただくというのはようするに、赤ちゃんと同じくまったく罪を犯していない状態ということです」と聞くことがあります。もしかしたらノンクリスチャンの方が聞いた場合、「??赤ちゃんと同じ?そんなのおかしくない?」と感じられるかもしれません。何故といって、確かに「信じたその瞬間」はそうなのかもしれない。でも、その後も続く人生の中では絶対的に人に嘘をつくであるとか、必ずなんらかの罪がまとわりつく。そして、「義を行ないたい」、「人間として出来得る限り正しくありたい」といくら願ったとしても……そうした事柄から逃れられないのが人間の人生なのに、「イエスさまの御前で罪を悔い改めるごとに、罪を犯していないのと同じ状態にしていただける?」、「そんなの、欺瞞もいいところじゃないか」――とすら感じられるかもしれません。
けれどもそうではなく、わたしたち人間は正しくなくとも、イエスさまを信じることによって、イエスさまが十字架上で流された血潮の御力によって、神さまにある義によって、少しも……どころか、これっぽっちも正しいところのないわたしたち人間が、神さまにある義を着させていただくことが出来るということなのです。そうすることで、「正しくないわたしたち」が、神さまの御目には「正しい者とされる」ことが出来るわけです。
ある意味、わたしたちには「神さまのために出来ること」など、何ひとつとしてありません。わたしもそうですが、自分なりに「神さまのため」、「イエスさまのため」と思ってしてみたことも、「単なる自己満足ではないか」とか、「きちんとした信仰生活を自分なりに出来得る範囲内でがんばって行なっているつもり」であるとか……冷たい言い方をすれば、この全世界、全宇宙を治めておられる神さまにとって、ひとりの人間がそのように「神さま、ああ神さま」と祈っていることなど――人間が一匹のアリを見て、「やあ、君も大変だね。でもがんばって生きていくんだよ」と一瞬思う程度の気持ちでもあれば……まだしもマシとすら言えはしないでしょうか。
でもそうではなく、神さまは御自身のひとり子イエスをこの世に遣わすことによって、イエスさまを信じる者すべてを救うという計画をお立てになりました。旧約聖書を読むと、このことは本当にもう、神さまにとって極初期の頃からあった御計画なのだろうということがわかります。
>>あなたはわたしの目には高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書、第43章4節)
>>見よ。わたしはあなたの名を手のひらに刻んだ。
(イザヤ書、第49章16節)
そう神さまはおっしゃっていますが、このことも人間的価値観に照らし合わせてみれば、「あの人は立派な人生を送っているからそうかもしれないが、自分はダメだ」など、神さま、イエスさまの前に自分を取るに足らない存在だと感じる方は多いと思います。
けれど、人間には全能の神さまのことなど理解できません。そこで神さまは、「わたしは人間が見るようには見ないからだ」(サムエル記第一、第16章7節)とおっしゃっているわけです。ですから、イエスさまの十字架上の血潮の御業を信じる者は、その血が自分のために流されたことを信じる者は、その血が自分の身に降りかかったことによって清くなり、「まるで赤ん坊のように罪を犯していない者」として扱われ、そして死後にはイエスさまが復活されたように、天の御国でイエスさまのみそばで永遠に輝くことが出来るのです。
とはいえ、理屈でだけこう聞かされても、「う゛~ん。でもなんか、そんなの納得いかないなあ」と思われる方もおられるかもしれません。けれど、重要なのは、神さまの見方と人間の見方は違うということです。わたしも自分がクリスチャンになる前までは、「イエスは自分を信じる者だけを救う」的なことを噂で聞いていたので、「そんな変な神さま、絶対ほんとの神さまじゃないよ」みたいに根強く思っていたものでした。
でも、「ああいう罪も犯せば」、「こういう罪も犯す」、そしてそのことに対する罪悪感その他でがんじがらめになってどうにも救いようのない人間を救う方法として――「人間ではまず思いつきようのない御計画」を持って、神さまは御自身の造った人間を救おうとされたのでした。
>>私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
(コリント人への手紙第一、第2章7~11節)
この人の心を探り窮める方(ローマ人への手紙、第8章27節)に、これからのちも永遠に栄光がありますように
それではまた~!!
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