神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖なる楽しみ。-【21】-

2019年06月05日 | キリスト教
【叛逆天使の墜落】ピーテル・ブリューゲル


 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。

 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

(エペソ人への手紙、第6章11~18節)


 >>いったんこのような霊的戦いに入ると、他の戦士たちとの間に絆が生まれ、その人たちのために祈ることもたやすくなります。戦争は説明しにくいのですがある仲間意識を生みだします。お互いをかばい合い、時にはその人のために命をも投げ出すこともあります。

 私たちの戦いは危険で、重症を負うかもしれません。しかし神の軍の戦士たちは霊的病院に入院することもありません。ただ傷が癒され、第一線に戻れるようになるまでしばらく待てばよいのです。

 もう一つ第二次大戦中発見したことは、たいていの後方梯隊戦士は彼ら独特の取り決めがあることです。それは「我々はあなたがたフロントラインの英雄を支援しよう。しかし自分たちはもっと状況を把握している。あなたがたは栄光をもらうかもしれないが、自分たちは命が助かるだろう」

 多くのクリスチャンは後方梯隊戦士で、他の戦士を支援はします。神様の側にいることを望みますが、できるだけ後ろの方から仕えることを望みます。教会をささえ、細々とした仕事もしますが、戦闘地域から離れて、もっと快適な生活をより好みます。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 さて、マーリン・キャロザース先生の『聖なる楽しみ』も今回が最終章となりましたm(_ _)m

 そして、最後の章である第20章のタイトルは「よき戦いに挑む」なのですが、このよき戦いとは、血肉(この世)のものではなく、神の軍に属する者として悪魔(サタン)・悪霊に対して挑んでいく、戦っていく……という、霊的戦いのことを指しています。

 前回と今回の記事の内容は、おそらくノンクリスチャンの方にとっては「ハァ?」というものかもしれませんが、クリスチャンとなって信仰の道が進んでいくと、このような存在に必ずぶち当たる、というのは本当のことなのです(^^;)

 前回は、この霊的戦いの最前線に出ていかずに、後方梯隊クリスチャンでい続けようとすることの危険性について軽く触れましたが、聖書には次のように書かれています。


 >>キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

 また、競技するときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。

(テモテへの手紙第二、第2章3~6節)


 また、マーリン・キャロザース先生は次のようにも書かれています。


 >>神様は霊的戦いがますます危険性を帯びてきているので、もっと前線で戦う戦士を必要としておられます。この世の娯楽に惑わされていない心の持ち主である戦士を必要とされています。つまり聖霊で満たされた戦士のことなのです。

 戦火では、後方梯隊軍は火をおこしたり、快適なベッドで眠ったり、暖かい御飯を食べることもできるかも知れませんが、塹壕の兵士はこのような贅沢などできません。敵を監視し、命令を聞きます。このことを怠ったら、誰か死ぬことになるかも知れないことを知っています。

 神様の前線の兵士たちと霊的な絆ができていますか。そうなら、彼らとともにいたいと思うでしょう。神の民はあなたを必要とし、あなたも彼らが必要であることが分かっています。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 まず、「生ぬるいクリスチャン」が霊的最前線に出て戦う場合、十分な決意によって準備が出来ていないなら、まわりの戦士に迷惑をかけたり、足手まといになるだけかもしれません。

 けれども、正しい信仰生活を立派に守っているのに、唯一霊的最前線にだけは出ていくことがない……つまりは、イエスさまの御声に聞き従うことがない、主がもっとも必要とされる場所へ出ていくことのないクリスチャンというのは、敵(悪魔・悪霊)に対しても無防備である場合が結構あると思います(自分比☆^^;)。

 そして、唯一霊的最前線に出ていくことだけはないものの、他の祈り、賛美し、日曜礼拝を守り、十一献金をし――といった他の聖書的原則は守っているはずなのに、何故自分にはこんな問題が許されるのだろう、信仰生活がこれ以上は上に上がっていきそうにないのは何故なのだろう、それどころか自分は今、信仰生活の袋小路にいる……ですとか、何かそうした悩みや迷いが生まれる、あるいはそれのみならず、病気や事故、人間関係の複雑な問題が許されるなど、勝利をみない信仰生活(=実をみない信仰生活)を送ることにもなりかねないと言いますか。。。

 つまり、イエスさまにある勝利をみない信仰生活というのは、イエスさまのことを知らない、あるいは信じていないノンクリスチャンとまったく同格だということであり、クリスチャンの醍醐味である主にある勝利と祝福に満ちた信仰生活ではなく、まるでイエスさまのことを知ってもいないかのような生活に逆戻りしてしまう……ということさえ時としてあるかもしれません。

 もちろん、イエスさまは恵み深い方なので、霊的最前線に出ていかないまでも祝福されるということはたくさんあると思います(わたしもそうでしたし、今現在も実際にそうです^^;)。けれども、主にある最善、もっとも祝福された道というのは、この霊的最前線に出ていく人々だけに与えられるものだといっていいと思うんですよね。

 マーリン・キャロザースさんのこの御本、『聖なる楽しみ』は、マーリンさんが長く牧師として神さまにお仕えになられ、年齢や体にお悪いところがあったりしたことから引退されることにし、けれども神さまから霊的最前線へ戻ってくるよう呼びかけを受け……その過程のことを文章によって書き記すことで、他の、足腰の弱っている「生ぬるい」クリスチャンに奮起してもらうこと、またその信仰のコツのようなものを伝授することを目的として書かれたといっていいのではないでしょうか。

 これまで見てきた、テレビやゲーム、インターネットの誘惑、金銭欲や浪費の誘惑、スポーツやフィットネスや食べ物の誘惑……など、こうした人生上の何かがイエスさまよりも優先順位として上に来ているクリスチャンというのは、霊的最前線に出ていく準備がまだ出来ていない、ということになると思うのですが、そこに悪魔(サタン)・悪霊といった存在が強く働いている場合、そこもまた信仰の戦いの場になるといっていいと思います


 >>もしあなたがまだ、後方梯隊軍にいるなら、敵と戦っている激戦に入っていく熱意はないかも知れません。あなたはまだサタンの激しい憤りを経験していません。実のところ、戦争がおこっていることも知らないかもしれません。そうです。私たちは戦いの中にいるのです!

 後方梯隊クリスチャンは十分休む時間があり、のんびりと時間を過ごします。サタンを打ち負かすことも急ぎません。しかし神の兵士たちは軍隊らっぱを聞いています。「かまえよ!神の敵を打ち負かせ。サタンに捕えられている家族や友だちを奪い返せ」

 本当に、戦争は犠牲が多いのです。特にあなたが知っている人たちが全部「後方梯隊戦士」だとしたら、なかなか前線に留まることは難しいのです。イエス様は戦いに一人で行かれました。イエスさまはいのちを与えることになんの迷いもなかったので、後ろ髪を引かれることも決してありませんでした。

 そもそも私たちは私たちがもっとも楽しめる生き方をしたいという思いに傾きがちです。その生き方とは、他の人たちが良き戦いをしている間のんびりと過ごすことを許します。家でのんびりとして、娯楽を楽しんでいると、戦いの音を消してしまうことはたやすいことです。しかし戦いは激しくなる一方です。サタンはかっては御国の要塞だった私たちの国のありとあらゆる部門をコントロールする方法を盗んでしまいました。

 神様は私たちが仕えることを奨励します。しかし「なまぬるい」クリスチャンに前線に出ていってほしくはありません。私たちは邪魔になります。そして地上の揺れは霊的戦いの激しさであると感じている人たちを一つにしている「家族」の霊を壊してしまいます。

 最前線とは、霊的に前に出ざるを得なくする燃えた人たちのことです。彼らは気楽な人生を求めるよう誘惑されるかもしれませんが、彼らは司令官であるイエスさまに喜んでもらうためにねばり強く頑張ります。イエスさまは彼らのために決してあせることのない栄光の冠を保管されています。「最前線戦士たちのみ」と記した場所をも用意なさっています。聖書はこのような人を「勝利者」と呼んでいます。勝利した者たちには素晴らしい報酬が準備されているのです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 今回は結論として、最後に神さま、イエスさまの約束された、聖書の勝利の言葉を列記してこの連載の終わりとしたいのですが、実をいうと一番大切なのは「どうやってこの神さま、イエスさまにある勝利をとっていくか」であり、またその方法、霊的戦いが何故必要かについてなど、ここだけでは書き切れないと思いましたので(汗)、次回、補足記事として「主にあって<破れ口>に立つ信仰」という記事を上げたいと思っています。

 最後、何か結論が中途半端というか、宙に浮いた形で終わってしまい、大変申し訳ないのですが、そのような形でよろしくお願いしますm(_ _)m

 それではまた~!!



 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

(ヨハネの黙示録、第2章7節)


「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかにはだれも知らない、新しい名が書かれている」

 また彼に明けの明星を与えよう。


(ヨハネの黙示録、第2章17、28節)


 勝利を得る者は、このように白い着物を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名を私の父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

(ヨハネの黙示録、第3章5節)


 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

 勝利を得るものを、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。


(ヨハネの黙示録、第3章11~12節)


 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

(ヨハネの黙示録、第3章21節)


 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」

「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」


(ヨハネの黙示録、第21章3~4、6~7節)


 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知識と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。


(コロサイ人への手紙第一、第1章9~12節)





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