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【カナの婚礼】パオロ・ヴェロネーゼ
>>夜中のミサに行くとき、心が砕けそうでした。カルメル会の格子のうしろから与れるものとあれほど期待していましたのに……!これはわたしの信仰にとって大きな試練でしたが、「眠っているが、心は覚めている」(ソロモンの雅歌、第5章2節)お方は、次のようなことを悟らせてくださいました。からし種ほどの信仰しかない者(マタイの福音書、第17章19節)に対しては、主はそのわずかな信仰を固めるために奇跡を行い、山を動かしますが、ご自分の親しい友だちやおん母に対しては、彼らの信仰を試したうえでなければ奇跡を行いません。
マルタとマリアが、ラザロの病気を知らせても(ヨハネの福音書、第11章3節)主はラザロを死ぬままにしておおきになったではありませんか……?カナの婚宴の際にも、家の主人を助けるように願ったマリアさまに、イエスさまは、「私の時はまだ来ていません」(ヨハネの福音書、第2章4節)とお答えになりました。
けれども試みのあとには、なんという報いでしょう……!
水はお酒になり……、ラザロはよみがえりました!イエスさまは、ご自分の小さいテレーズに対しても、これと同じようになさいました。長いあいだ試したあと、その心のすべての望みを満たしてくださったのです……。
(『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』伊従信子さん訳/ドン・ボスコ社より)
もし、通りすがりのノンクリスチャンの方が読まれた場合、聖書の出典をそれぞれ明らかにしないと「なんのこっちゃら☆
」という感じだと思うのですが(汗)、おそらくわたしと同じくクリスチャンの方にとっては――「わかる!!
」という部分があると思いますので、今回は「試練の意義」ということについて、何か書いてみたいと思いましたm(_ _)m
そうなんですよね。ここでテレーズの上げている聖書箇所の他にも、五千人の給食の奇跡の前にもイエスさまはまず、「あなた方で、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と弟子たちにチャレンジしています。
また、悪霊につかれた娘を癒して欲しいとカナン人のお母さんがイエスさまに願った時、イエスさまはまず「わたしはイスラエルの滅びた羊以外のところには遣わされていません」、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言われています。そしてこの女性が「子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と大きな信仰を示したことから、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」とおっしゃられたのでした(そして、このイエスさまの御言葉どおり、カナン人の女性の娘さんはすっかりよくなったのです)。
わたし、不信心にも今までこのことに気づきませんでした(^^;)
確かに、結果としてただの水はぶどう酒にかわり、死んだラザロは生き返り、イエスさまについてきた五千人以上もの人々は食べて満腹し、カナン人の女性はイエスさまに悪霊つきの娘を癒していただきました。
結果から見ると、イエスさまは最終的にすべての人の望みを完全にして完璧に満たしておられます。けれども、その前に人々に信仰を求めている……という、これはそういうことですよね。
もちろん、「えっ!?今ごろそんなことに気づいたの?
」と思う方もおられると思うんですけど――「試練」ってようするにそういうことなんだなあとあまりに当たり前のことに今さらながら気づいたというか(^^;)
>>信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
(ペテロの手紙第一、第1章7~8節)
マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実践していても、完全には喜んだり感謝したり、踊りあがったり出来ない……ということが時に許されることがあると思うのですが、「試練」を抜けた時にはイエスさまが聖霊さまを通して言われた通りだった、なんていうことがよくありますよね。
けれども、「試練」のただ中にある時には、黒猫が空の全面を覆い尽くしている(笑)と感じられるくらい空が真っ暗で、その上にある神さまからの黄金の光がその黒雲に遮られて何も見えなかったりします(そして、このような父なる神との霊的断絶をイエスさまは十字架上で経験なさったのでした
)。
>>今、雨雲の中に輝いている光を
見ることはできない。
しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現われ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。
私たちが見つけることのできない全能者は、
力とさばきにすぐれた方。
義に富み、苦しめることをしない。
だから、人々は神を恐れなければならない。
神は心のこざかしい者を決して顧みない。
(ヨブ記、第37章21~24節)
もっとも、わたしたちはイエスさまが十字架上で経験したのとは違い、父なる神さまともイエスさまとも聖霊さまを通して繋がっているわけですけれども、「毎日お祈りしてるのに、なんでこんなことが起きるのかなあ
」とか、そうした試練というのは人生上に必ず起きてきます。
そういう時、クリスチャンと呼ばれる人々は、イエスさまが忍んだ苦難のことを思って、「イエスさまほどの苦しみを自分は耐えているわけではないのだから」と思い、なんとかそのことを祈りを通して、感謝や賛美を通して、その他の信仰的な実践を通して耐え忍ぼうとします。
でも、「天国」というのも同じでしょうけれども、わたしたちが「なんでこんな苦しみがあるのだろう
」、「悲しみがあるのだろう
」と地上的歩みの中では思ったとしても、最終的にイエスさまがなさったように、「みなが完全完璧に満足する」業がなされると信じること――これが信仰なのだなと、あまりに当たり前のことに、今さらながら気づいたという次第です(^^;)
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
>>夜中のミサに行くとき、心が砕けそうでした。カルメル会の格子のうしろから与れるものとあれほど期待していましたのに……!これはわたしの信仰にとって大きな試練でしたが、「眠っているが、心は覚めている」(ソロモンの雅歌、第5章2節)お方は、次のようなことを悟らせてくださいました。からし種ほどの信仰しかない者(マタイの福音書、第17章19節)に対しては、主はそのわずかな信仰を固めるために奇跡を行い、山を動かしますが、ご自分の親しい友だちやおん母に対しては、彼らの信仰を試したうえでなければ奇跡を行いません。
マルタとマリアが、ラザロの病気を知らせても(ヨハネの福音書、第11章3節)主はラザロを死ぬままにしておおきになったではありませんか……?カナの婚宴の際にも、家の主人を助けるように願ったマリアさまに、イエスさまは、「私の時はまだ来ていません」(ヨハネの福音書、第2章4節)とお答えになりました。
けれども試みのあとには、なんという報いでしょう……!
水はお酒になり……、ラザロはよみがえりました!イエスさまは、ご自分の小さいテレーズに対しても、これと同じようになさいました。長いあいだ試したあと、その心のすべての望みを満たしてくださったのです……。
(『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝』伊従信子さん訳/ドン・ボスコ社より)
もし、通りすがりのノンクリスチャンの方が読まれた場合、聖書の出典をそれぞれ明らかにしないと「なんのこっちゃら☆
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そうなんですよね。ここでテレーズの上げている聖書箇所の他にも、五千人の給食の奇跡の前にもイエスさまはまず、「あなた方で、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と弟子たちにチャレンジしています。
また、悪霊につかれた娘を癒して欲しいとカナン人のお母さんがイエスさまに願った時、イエスさまはまず「わたしはイスラエルの滅びた羊以外のところには遣わされていません」、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言われています。そしてこの女性が「子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と大きな信仰を示したことから、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」とおっしゃられたのでした(そして、このイエスさまの御言葉どおり、カナン人の女性の娘さんはすっかりよくなったのです)。
わたし、不信心にも今までこのことに気づきませんでした(^^;)
確かに、結果としてただの水はぶどう酒にかわり、死んだラザロは生き返り、イエスさまについてきた五千人以上もの人々は食べて満腹し、カナン人の女性はイエスさまに悪霊つきの娘を癒していただきました。
結果から見ると、イエスさまは最終的にすべての人の望みを完全にして完璧に満たしておられます。けれども、その前に人々に信仰を求めている……という、これはそういうことですよね。
もちろん、「えっ!?今ごろそんなことに気づいたの?
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>>信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
(ペテロの手紙第一、第1章7~8節)
マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実践していても、完全には喜んだり感謝したり、踊りあがったり出来ない……ということが時に許されることがあると思うのですが、「試練」を抜けた時にはイエスさまが聖霊さまを通して言われた通りだった、なんていうことがよくありますよね。
けれども、「試練」のただ中にある時には、黒猫が空の全面を覆い尽くしている(笑)と感じられるくらい空が真っ暗で、その上にある神さまからの黄金の光がその黒雲に遮られて何も見えなかったりします(そして、このような父なる神との霊的断絶をイエスさまは十字架上で経験なさったのでした
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>>今、雨雲の中に輝いている光を
見ることはできない。
しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現われ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。
私たちが見つけることのできない全能者は、
力とさばきにすぐれた方。
義に富み、苦しめることをしない。
だから、人々は神を恐れなければならない。
神は心のこざかしい者を決して顧みない。
(ヨブ記、第37章21~24節)
もっとも、わたしたちはイエスさまが十字架上で経験したのとは違い、父なる神さまともイエスさまとも聖霊さまを通して繋がっているわけですけれども、「毎日お祈りしてるのに、なんでこんなことが起きるのかなあ
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そういう時、クリスチャンと呼ばれる人々は、イエスさまが忍んだ苦難のことを思って、「イエスさまほどの苦しみを自分は耐えているわけではないのだから」と思い、なんとかそのことを祈りを通して、感謝や賛美を通して、その他の信仰的な実践を通して耐え忍ぼうとします。
でも、「天国」というのも同じでしょうけれども、わたしたちが「なんでこんな苦しみがあるのだろう
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それではまた~!!
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