【キリストとマグダラのマリア】アルバート・エーデルフェルト
「なぜ、人はがんになるのか」、「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」、「スピリチュアルペインと代替医療」と書いてきて……ここのブログの主旨に合致したテーマにようやく到達しました(^^;)
「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」の【2】のところで、ホリスティック医療のことに少し触れたんですけど、
~ホリスティック医学の定義~
1.ホリスティック(全的)な健康観に立脚する。
人間を「体・心・気・霊性」等の有機的統合体ととらえ、社会・自然・宇宙との調和にもとづく包括的、全体的な健康観に立脚する。
2.自然治癒力を癒しの原点におく。
生命が本来、自らのものとしてもっている「自然治癒力」を癒しの原点におき、この自然治癒力を高め、増強することを治療の基本とする。
3.患者が自ら癒し、治療者は援助する。
病気を癒す中心は患者であり、治療者はあくまでも援助者である。治療よりも養生、他者療法よりも自己療法が基本であり、ライフスタイルを改善して患者自身が「自ら癒す」姿勢が治療の基本となる。
4.様々な治療法を選択・統合し、最も適切な治療を行う。
西洋医学の利点を生かしながら中国医学やインド医学など各国の伝統医学、心理療法、自然療法、栄養療法、手技療法、運動療法、などの各種代替療法を総合的、体系的に選択・統合し、最も適切な治療を行う。
5.病の深い意味に気づき自己実現をめざす。
病気や障害、老い、死といったものを単に否定的にとらえるのでなく、むしろその深い意味に気づき、生と死のプロセスの中で、より深い充足感のある自己実現をたえずめざしていく。
(NPO法人 日本ホリスティック医学協会様のHPよりm(_ _)m)
まあ、なんというか……わたしがここで書きたいのは、キリスト教信仰に立脚した癒しということですので(汗)、まずその点をご了承いただいて、ここから先はお読みください、的な感じだったりしますm(_ _)m
ええとですね、このホリスティック医療は西洋医学や東洋医学、その他、西洋医学の科学的見地に立った場合ちょっとうさんくさいと思われるような治療も含めた総合的な医療、という意味だと思うんですよね。
そしてわたし自身はここに「神さまに祈ることによる癒し」ということも含めたいと思っていて……でも、「神に真実祈れば末期がんですらも必ず癒される!!」とか、そうしたことを強調したいわけではなく……神さまに祈って癒されることもあれば、そうではないこともある、というのが事実とは思うんですけど(汗)、癒しの原則として「御心ならば癒される」というのがあると思うんですよね(^^;)
じゃあ、病気が治らなかったり死んだりしたら神の御心でないとか、神に見放されたからその人はあんなにも病いによる苦痛を耐え忍んでいるのか……っていうと、そういうことではないと思います。「なぜ、人はがんになるのか」のところで見てきたように、人間は我々の御先祖さまが進化の歴史の最初期に「多細胞生物」になることを選択した時から、正常細胞が将来がん化するリスクを背負った……みたいに書いたんですけど、つまり、その人が何か悪いことをしたからがんになったということではまったくないということですよね。
ただ、若い頃にさんざん浮気をして奥さんを泣かせた人が前立腺がんや膀胱がんになったりすると、「罰が当たったんだべ☆」とか、人はついそうしたことを言いたくなるものだ……というのは、心情として理解できます(^^;)
聖書の中にも、イエスさまが「生まれつき目が見えなかった人」を癒した箇所があるのですが、ここにはこうあります。
>>またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」
そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネの福音書、第9章1~7節)
でも、いくら現代のわたしたちが祈っても、全盲の方がまったく視界良好になった……といった癒しは、話として聞く限り極限られていると思うんですよね
では、神に縋って祈ることにどんな意味があるのか、意味などないのにあなたはそこに縋って祈るのか――と聞かれたとすれば、わたし自身は祈ることに意味はあるし、実際に癒されている方もたくさんいる、と答えると思います。
というのは、祈ることには心と体の両方に影響のあることですし、祈り会などで人から病いの癒しについて祈ってもらうと……本当に癒されるかどうか以前の問題として、まず心が癒されるという領域があると思います。これはそう言われて頭で理解するよりも、実際に教会などで誰かに真摯に祈ってもらうととてもよくわかります。
ただ、わたし自身はキリスト教信仰に立った「癒し」を信じているわけですが、大体病いに関する癒しって、どの宗教でも似たことをしていると思うんですよね。そして、実際に「癒される方」がある一定の割合でいるのは何故かといえば、アンドルー・ワイルさんの理論でいけばおそらくそれは「自己治癒力の解放」ということなんだと思います。
たとえば、誰か高名な呪術師の方などに「呪われた」といったことがあったりしますと、その日その時以来、何故か悪いことばかりが続くとか、実際本当に体の調子が悪くなる、また実際に死亡する方なども出るのは何故かというと、簡単にいえば「癒し」と逆のことが起きているからなのだと思います。
一度「呪われた」、「呪われている」ことがわかると、「たまたまちょっと悪いことがあった」だけでも、なんでもその「呪い」と関連づけて考えてしまう、ということですよね。そして心や精神がそうしたものに常に囚われていると、心身に影響がでるものですし、また信心深い方や縁起を担ぐといった傾向の強い方の場合、「自分は呪われたから、もう駄目だ。死ぬような憂き目にあうと思ってたら、本当に病気になった」とか、あると思うんですよね(^^;)
でも、「自己治癒力の解放」としての癒しが起こる人というのは、「神さまに祈っているから」、「こんなにみなさんに祈ってもらったから」ということで心が上向きになり、さらには実際には癒されなくても、そうした人とのあたたかい心の交流が嬉しく、神さまを喜べる自分のことも嬉しく、そんなふうにいつもしていたら「本当に病気だなんて思えない」くらいの明るい顔色で毎日を生き、○△さんは息を引き取られた……といったことは、実際にとても多く起きていることだと思います。
この場合、結局のところ病いに負けたとか、最後には亡くなったのだから、それは敗北である……といった言葉は当たらないと思います。
ですから、癒されても癒されなくても神さま(この場合イエスさまということですけれども^^;)に祈るって本当に意味があります。もっとも、わたしは誰かの病気に関して祈る時、「神さまの御心ならば癒される」といったようにはあまり考えません。原則としてはそうかもしれませんけれども、とにかく癒されると信じて祈るのです。
わたし、頚椎損傷の首から下が動かない方についても、「いつか口から自分の手でごはんが食べられますように」とか「人工呼吸器がなくても自発呼吸できるようになりますように」、「自分の足で立って歩くことができるようになりますように」……みたいに、随分長く祈っています。「いや、それはあんたがどんなに祈ろうと無理だよ」と言われたとしても――話は飛躍しますけれども、「アフリカの難民の方を助けても意味などない」という意見がありますが、でもそれは遠くに離れた今目の前にいる方が相手でないからであって、もし今目の前に何かのことで困っている人がいた場合、まったく助けない、何もしないっていう選択肢を選べる人はまずいないと思うんですよね(^^;)
わたしの言う「祈らずにはいられない」というのは、イエスさまのことを信じて聖霊を受けてからそうなったというのと同時に、そうしたことであったりもします。
つまり、わたしたちクリスチャンも普段は西洋医学にとても頼っていますし、病気になってまず診てもらうのは当然お医者さんです。病気になったらまず牧師さんや教会の信徒の方々に癒しを祈ってもらって、病院へは一切かからない……ということは、神さまからのよほど明確な示しでもなければありえないことなんですよね。
「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」のところでも見てきたように、この場合、身体的苦痛についてはお医者さんに当然見てもらい、不眠や不安やうつといった精神的な症状についても多くは精神科医の方などに相談し、スピリチュアルペインといったことについては……その方に何か信じる特定の宗教があるかどうかというのは、確かに大きいと思います。
やっぱり日本は(葬式)仏教国ですし、わたしも仏教の聖典を少し読んだことがありますが、思想として救いになるというのはとてもよくわかります。ようするに、特にがんの末期などの不治の病いに関しては、死が極めて近くなり、それが避けられないものとなった時――「人は死んだらどこへ行くのか」、「神はいるのか」、「天国なんて本当にあるのか」といったことと直面せざるをえないと思うのですが、ホスピスなどではやはり、医療者にそうした部分についても頼るといった側面があると思います。
ホリスティック(全的)医療というのは、西洋医学ではおもに身体、また心や精神といったところを診るわけですが、この他に霊とか魂といったことも含んでいる、ということで、身体を診てもらう場合においては、当然人は誰しも西洋医学に頼るわけで、でも死に際して人はもう、究極的な意味では誰にも頼れないということですよね。
それでも、その直前にある寸前までは、周囲の人々誰かしらの助けを受けることが出来ます。わたし、以前とあるお医者さんの書かれた本で、(クリスチャンになる前の)わたしとまったく同じこと――つまり、死んだあとは<無>である、との――考えを持つ方の文章を読んだことがあったんですけど……わたし個人の考えとしては、やっぱり本当に<死>というものが目前に迫って来たとしたら、普段そう考えていてもこれはやっぱり変わりうる、むしろ変わる場合のほうが多いのではないかという気がしています。
なんにしても、神さまに癒しを祈る時の祈りって、実は結構単純なのかな……とわたし自身は時々思ったり(^^;)
前にもどこかで書いた気がするのですが、まず、自分の体のあらゆる箇所について、感謝するってとても大切です。目の見えることを感謝しますとか、耳が聞こえることを感謝しますとか、手や足が動くことを感謝しますっていうところからはじめて、鼻とか口とか喉とか胃、小腸、大腸、肝臓、腎臓、膵臓、膀胱……といったように、内臓のあらゆる諸器官についてひとつひとつ、健康に働いてくれていることを感謝します。
あとは、どこか体に悪いところがあれば、その部分について重点的に「○△が癒されますように」と祈ったり、他に、将来的に自分は「△□といった病気になるのではないだろうか……」と不安な方の場合は、たとえば自分や妻や夫が将来的に「認知症になったりしませんように」とか「脳梗塞や心筋梗塞になりませんように」と祈ったりするといいと思います♪(^^)
それと、一口に認知症といっても、「アルツハイマー型」、「脳血管性型」、「レビー小体型」などがありますから、「アルツハイマー型」の認知症にも「脳血管性型」の認知症にも、「レビー小体型」の認知症にも決してなりませんように……とか、具体的にお祈りされるとよいかもしれません。
また、将来がんになることが心配であるとするなら(というか、これもやっぱりみんな心配ですよね^^;)、「病院の検査に行ったわけではありませんが、今体のどこにもがん細胞が生じていませんように」とか「DNAのコピーミスが起きていませんように」とか、予防的(?)に祈られるとよいと思います。
ただ、やっぱり「医食同源」という言葉があるとおり、認知症予防のためにもがん予防のためにも、その他どんな病気のためにも「食事」ってとても大切ですから……では、次回はこの食事療法と癒しの祈りという組み合わせについて何か書いてみたいと思います♪
それではまた~!!
「なぜ、人はがんになるのか」、「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」、「スピリチュアルペインと代替医療」と書いてきて……ここのブログの主旨に合致したテーマにようやく到達しました(^^;)
「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」の【2】のところで、ホリスティック医療のことに少し触れたんですけど、
~ホリスティック医学の定義~
1.ホリスティック(全的)な健康観に立脚する。
人間を「体・心・気・霊性」等の有機的統合体ととらえ、社会・自然・宇宙との調和にもとづく包括的、全体的な健康観に立脚する。
2.自然治癒力を癒しの原点におく。
生命が本来、自らのものとしてもっている「自然治癒力」を癒しの原点におき、この自然治癒力を高め、増強することを治療の基本とする。
3.患者が自ら癒し、治療者は援助する。
病気を癒す中心は患者であり、治療者はあくまでも援助者である。治療よりも養生、他者療法よりも自己療法が基本であり、ライフスタイルを改善して患者自身が「自ら癒す」姿勢が治療の基本となる。
4.様々な治療法を選択・統合し、最も適切な治療を行う。
西洋医学の利点を生かしながら中国医学やインド医学など各国の伝統医学、心理療法、自然療法、栄養療法、手技療法、運動療法、などの各種代替療法を総合的、体系的に選択・統合し、最も適切な治療を行う。
5.病の深い意味に気づき自己実現をめざす。
病気や障害、老い、死といったものを単に否定的にとらえるのでなく、むしろその深い意味に気づき、生と死のプロセスの中で、より深い充足感のある自己実現をたえずめざしていく。
(NPO法人 日本ホリスティック医学協会様のHPよりm(_ _)m)
まあ、なんというか……わたしがここで書きたいのは、キリスト教信仰に立脚した癒しということですので(汗)、まずその点をご了承いただいて、ここから先はお読みください、的な感じだったりしますm(_ _)m
ええとですね、このホリスティック医療は西洋医学や東洋医学、その他、西洋医学の科学的見地に立った場合ちょっとうさんくさいと思われるような治療も含めた総合的な医療、という意味だと思うんですよね。
そしてわたし自身はここに「神さまに祈ることによる癒し」ということも含めたいと思っていて……でも、「神に真実祈れば末期がんですらも必ず癒される!!」とか、そうしたことを強調したいわけではなく……神さまに祈って癒されることもあれば、そうではないこともある、というのが事実とは思うんですけど(汗)、癒しの原則として「御心ならば癒される」というのがあると思うんですよね(^^;)
じゃあ、病気が治らなかったり死んだりしたら神の御心でないとか、神に見放されたからその人はあんなにも病いによる苦痛を耐え忍んでいるのか……っていうと、そういうことではないと思います。「なぜ、人はがんになるのか」のところで見てきたように、人間は我々の御先祖さまが進化の歴史の最初期に「多細胞生物」になることを選択した時から、正常細胞が将来がん化するリスクを背負った……みたいに書いたんですけど、つまり、その人が何か悪いことをしたからがんになったということではまったくないということですよね。
ただ、若い頃にさんざん浮気をして奥さんを泣かせた人が前立腺がんや膀胱がんになったりすると、「罰が当たったんだべ☆」とか、人はついそうしたことを言いたくなるものだ……というのは、心情として理解できます(^^;)
聖書の中にも、イエスさまが「生まれつき目が見えなかった人」を癒した箇所があるのですが、ここにはこうあります。
>>またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」
そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネの福音書、第9章1~7節)
でも、いくら現代のわたしたちが祈っても、全盲の方がまったく視界良好になった……といった癒しは、話として聞く限り極限られていると思うんですよね
では、神に縋って祈ることにどんな意味があるのか、意味などないのにあなたはそこに縋って祈るのか――と聞かれたとすれば、わたし自身は祈ることに意味はあるし、実際に癒されている方もたくさんいる、と答えると思います。
というのは、祈ることには心と体の両方に影響のあることですし、祈り会などで人から病いの癒しについて祈ってもらうと……本当に癒されるかどうか以前の問題として、まず心が癒されるという領域があると思います。これはそう言われて頭で理解するよりも、実際に教会などで誰かに真摯に祈ってもらうととてもよくわかります。
ただ、わたし自身はキリスト教信仰に立った「癒し」を信じているわけですが、大体病いに関する癒しって、どの宗教でも似たことをしていると思うんですよね。そして、実際に「癒される方」がある一定の割合でいるのは何故かといえば、アンドルー・ワイルさんの理論でいけばおそらくそれは「自己治癒力の解放」ということなんだと思います。
たとえば、誰か高名な呪術師の方などに「呪われた」といったことがあったりしますと、その日その時以来、何故か悪いことばかりが続くとか、実際本当に体の調子が悪くなる、また実際に死亡する方なども出るのは何故かというと、簡単にいえば「癒し」と逆のことが起きているからなのだと思います。
一度「呪われた」、「呪われている」ことがわかると、「たまたまちょっと悪いことがあった」だけでも、なんでもその「呪い」と関連づけて考えてしまう、ということですよね。そして心や精神がそうしたものに常に囚われていると、心身に影響がでるものですし、また信心深い方や縁起を担ぐといった傾向の強い方の場合、「自分は呪われたから、もう駄目だ。死ぬような憂き目にあうと思ってたら、本当に病気になった」とか、あると思うんですよね(^^;)
でも、「自己治癒力の解放」としての癒しが起こる人というのは、「神さまに祈っているから」、「こんなにみなさんに祈ってもらったから」ということで心が上向きになり、さらには実際には癒されなくても、そうした人とのあたたかい心の交流が嬉しく、神さまを喜べる自分のことも嬉しく、そんなふうにいつもしていたら「本当に病気だなんて思えない」くらいの明るい顔色で毎日を生き、○△さんは息を引き取られた……といったことは、実際にとても多く起きていることだと思います。
この場合、結局のところ病いに負けたとか、最後には亡くなったのだから、それは敗北である……といった言葉は当たらないと思います。
ですから、癒されても癒されなくても神さま(この場合イエスさまということですけれども^^;)に祈るって本当に意味があります。もっとも、わたしは誰かの病気に関して祈る時、「神さまの御心ならば癒される」といったようにはあまり考えません。原則としてはそうかもしれませんけれども、とにかく癒されると信じて祈るのです。
わたし、頚椎損傷の首から下が動かない方についても、「いつか口から自分の手でごはんが食べられますように」とか「人工呼吸器がなくても自発呼吸できるようになりますように」、「自分の足で立って歩くことができるようになりますように」……みたいに、随分長く祈っています。「いや、それはあんたがどんなに祈ろうと無理だよ」と言われたとしても――話は飛躍しますけれども、「アフリカの難民の方を助けても意味などない」という意見がありますが、でもそれは遠くに離れた今目の前にいる方が相手でないからであって、もし今目の前に何かのことで困っている人がいた場合、まったく助けない、何もしないっていう選択肢を選べる人はまずいないと思うんですよね(^^;)
わたしの言う「祈らずにはいられない」というのは、イエスさまのことを信じて聖霊を受けてからそうなったというのと同時に、そうしたことであったりもします。
つまり、わたしたちクリスチャンも普段は西洋医学にとても頼っていますし、病気になってまず診てもらうのは当然お医者さんです。病気になったらまず牧師さんや教会の信徒の方々に癒しを祈ってもらって、病院へは一切かからない……ということは、神さまからのよほど明確な示しでもなければありえないことなんですよね。
「全人的苦痛(トータルペイン)・スピリチュアルペイン」のところでも見てきたように、この場合、身体的苦痛についてはお医者さんに当然見てもらい、不眠や不安やうつといった精神的な症状についても多くは精神科医の方などに相談し、スピリチュアルペインといったことについては……その方に何か信じる特定の宗教があるかどうかというのは、確かに大きいと思います。
やっぱり日本は(葬式)仏教国ですし、わたしも仏教の聖典を少し読んだことがありますが、思想として救いになるというのはとてもよくわかります。ようするに、特にがんの末期などの不治の病いに関しては、死が極めて近くなり、それが避けられないものとなった時――「人は死んだらどこへ行くのか」、「神はいるのか」、「天国なんて本当にあるのか」といったことと直面せざるをえないと思うのですが、ホスピスなどではやはり、医療者にそうした部分についても頼るといった側面があると思います。
ホリスティック(全的)医療というのは、西洋医学ではおもに身体、また心や精神といったところを診るわけですが、この他に霊とか魂といったことも含んでいる、ということで、身体を診てもらう場合においては、当然人は誰しも西洋医学に頼るわけで、でも死に際して人はもう、究極的な意味では誰にも頼れないということですよね。
それでも、その直前にある寸前までは、周囲の人々誰かしらの助けを受けることが出来ます。わたし、以前とあるお医者さんの書かれた本で、(クリスチャンになる前の)わたしとまったく同じこと――つまり、死んだあとは<無>である、との――考えを持つ方の文章を読んだことがあったんですけど……わたし個人の考えとしては、やっぱり本当に<死>というものが目前に迫って来たとしたら、普段そう考えていてもこれはやっぱり変わりうる、むしろ変わる場合のほうが多いのではないかという気がしています。
なんにしても、神さまに癒しを祈る時の祈りって、実は結構単純なのかな……とわたし自身は時々思ったり(^^;)
前にもどこかで書いた気がするのですが、まず、自分の体のあらゆる箇所について、感謝するってとても大切です。目の見えることを感謝しますとか、耳が聞こえることを感謝しますとか、手や足が動くことを感謝しますっていうところからはじめて、鼻とか口とか喉とか胃、小腸、大腸、肝臓、腎臓、膵臓、膀胱……といったように、内臓のあらゆる諸器官についてひとつひとつ、健康に働いてくれていることを感謝します。
あとは、どこか体に悪いところがあれば、その部分について重点的に「○△が癒されますように」と祈ったり、他に、将来的に自分は「△□といった病気になるのではないだろうか……」と不安な方の場合は、たとえば自分や妻や夫が将来的に「認知症になったりしませんように」とか「脳梗塞や心筋梗塞になりませんように」と祈ったりするといいと思います♪(^^)
それと、一口に認知症といっても、「アルツハイマー型」、「脳血管性型」、「レビー小体型」などがありますから、「アルツハイマー型」の認知症にも「脳血管性型」の認知症にも、「レビー小体型」の認知症にも決してなりませんように……とか、具体的にお祈りされるとよいかもしれません。
また、将来がんになることが心配であるとするなら(というか、これもやっぱりみんな心配ですよね^^;)、「病院の検査に行ったわけではありませんが、今体のどこにもがん細胞が生じていませんように」とか「DNAのコピーミスが起きていませんように」とか、予防的(?)に祈られるとよいと思います。
ただ、やっぱり「医食同源」という言葉があるとおり、認知症予防のためにもがん予防のためにも、その他どんな病気のためにも「食事」ってとても大切ですから……では、次回はこの食事療法と癒しの祈りという組み合わせについて何か書いてみたいと思います♪
それではまた~!!
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