神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖霊さまの蜂蜜シロップ漬け。

2020年01月27日 | キリスト教

 >>その方は私に仰せられた。

「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」

 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。

「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ」

 そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

(エゼキエル書、第3章1~3節)


「聖霊さまの蜂蜜シロップ漬け」……もちろん、こうしたものがそこらへんのお店で売られていることはありません(笑)。

 ただ、人がイエスさまのことを信じて聖霊さまのバプテスマを求めて祈り、聖霊さまの満たしや内住を感じつつ、信仰生活を歩みはじめる時――最初に信じた時のみならず、その後も聖霊さまの臨在に満たされるといった経験を何度もすることになると思います。

 前々回もお書きしましたとおり、このあたりのことは本当にまったく理屈ではなく、ちょっとゆずの蜂蜜漬けを想像していただくとわかると思うんですけど、この大きな瓶の中の蜂蜜が神さまの愛や恵みだとしたら、わたしたちはこの中のゆずみたいなものです(笑)

 そして、いつでも神さまの愛や恵みの中にあったとしても、この世の試練に負けそうな時や、あるいは経済的に困窮している時などは、自分がこの蜂蜜にべったり漬けられて包まれている……ということについては、つい忘れてしまいそうになるんですよね(^^;)

 でも、たとえば祈りの中でとか、あるいは礼拝の賛美や牧師さんのメッセージを通してなど、聖霊さまの臨在に満たされた途端、自分が実は蜂蜜べっとり、べたべた☆状態で神さまに愛されているということをあらためて思い出したりするわけです。


 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
   わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書、第43章4節)


 個人的に、キリスト教の凄い、というか面白いところは、「人間的な理屈では信じられないように出来ている」ということのような気がします。ところが、とりあえずそうした理屈的なことは一旦脇に置いておいて、「なんでもいいからとにかく信じてみよう。それで特に自分に損になることがあるわけでもないのだから」くらいの気持ちで教会で信仰告白した時……魂が救われるという奇蹟を、何故か人は体験することが出来るのです。

 というのも、イエスさまのことを信じて、その十字架の血の贖いが自分のためのものであったことに人が同意する時――その瞬間、聖霊さまの存在を強く感じられる方もおられると思いますが、その時何も感じなくても、その後、少しずつでも必ずわかってくることがあると思います。

 わたしも信じることに同意した途端、すぐに聖霊さまの注ぎかけを感じた……といった信じ方ではなく、牧師さん御夫妻に「聖霊のバプテスマを求める祈りをするといいよ」と言われ、そもそも「聖霊のバプテスマってなんじゃろう?」くらいな感じでそう祈り続けていたところ――ある時突然わかったんですよね。「あーっ!これが聖霊さまっていうことだあ!!」みたいに。

 この時、わたしまだ、新約聖書から読みはじめて、新約聖書も読み終わっていなければ、旧約聖書もまだ読んでいない……といった状態でした。それでもわかるわけですよね。教会には神さまの霊である聖霊さまが満ちておられ、その導きがあればこそ、毎週日曜日に礼拝を守ったり、その他自分でも祈ったり、賛美したりすることがいかに重要かということが。

 そして、聖霊さまを受けた途端、イエスさまの十字架の贖いと復活を信じる信者の方は、こうした事柄が人生の主軸となって自分の肉と霊を構成するようになり、その前まであった己の古い考えや自我に死ぬ、ということになると思います。


 >>だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

(コリント人への手紙第二、第5章17~18節)


 こうして、イエスさまによって新しくされ、かつての罪は死に、生まれ変わった人生をわたしたちクリスチャンは生きさせていただくわけですが、かつての古い自我がまたもや甦ってきて、イエスさまの教えと戦ったりですとか、こうしたわたしたちの骨にまで染み渡っているような罪の性質というのは、まるでゾンビのように何度も甦ってきては、イエスさまと戦うということがあると思います。

 また、イエスさまを信じた途端、あらゆるこの世的試練はわたしを避けていくようになった……ということが120%実現するかといえばそんなこともなく、むしろ神さまに感謝し賛美し、祈り聞き従うことを決意してからこそ、前まではなかった色々な試練に襲われるようになった――ということすらありえます(少なくともわたしの場合はそうでした^^;)。

 でも、ノンクリスチャンの方の目から見て、「あの人はイエス・キリストという神を信じているにも関わらず、随分ひどい有様をしている。それなのに『イエスさまは素晴らしい』とか言われても、説得力0%やわ」といったように見える時にも、何故わたしが神さまのことを信じ続け、感謝し賛美すらしているかといえば……そのこともまた<聖霊さまの働き>によることなのです。

 預言者のエレミヤやエゼキエルがちょうどそうであったように、彼らもまた神さまの御言葉を信じ、その御言葉を民衆に語りながらも――目に見える彼らの身分や扱いというのは、実際のところ悲惨極まりないものでした。けれど、表面の目に見える肉の欠乏がどうあれ、霊においては天上に挙げられてでもいるような喜びに満たされてもおり、エレミヤなどはその対比のあまりの違いゆえか、「生まれてこなければ良かった」(エレミヤ書、第20章)とすら言っているわけですが……これは彼が神さまの御言葉をいくら語っても、そのことに王や時の権力者の人々や民衆が従わなかったからであって、そうでなければエレミヤも預言者としてのプライドが満たされるだけでなく、自分に見合う身分や収入なども与えられ、毎日枕を高くしてぐっすり眠れたことでしょう。

 パウロもまた、こう告白しています。>>「幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しぱしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(コリント人への手紙第二、第11章26~27節)といったように。にも関わらず、この世が生まれる遥か以前から立てられた神さまの御言葉、またその言葉そのものでもある方は、真実にして不動であるがゆえに、エレミヤもパウロも、その御言葉のために粉骨砕身して仕えることに対し、惜しむことはありませんでした。

 わたし自身はエレミヤやパウロほどの生活の困難や大変さを味わったことはありませんが、それでも自分にとっての苦労や困窮によって、見たところ他の人の目には「あんな人とともに神がおられるということが果たしてあるだろうか」といった状態を経験していると思います。

 ところが、ですね。霊においては毎日、あるわけです。ゆずはもう、周囲の蜂蜜でべたべた☆なので、神さまの愛とか恵みについてはなんらの疑問の気持ちも抱いていないのです。また、このことこそが、「あの人はあんな悲惨を体験していてなお、何故『わたしは神を信じている』などと言えるのだろうか」ということの根源にあることなのではないでしょうか。

 多くの人々が、肉においてはなんらかの悲惨を経験するものだと思います。ところが、同時に霊においては、第七天国、至高天とも呼ばれる場所へ一気に飛翔するかのような喜びの霊に満たされ、満ち満ちていることが出来、それでいてこのことは、肉における人間の限界の範囲内で起きることですから、ゆえにわかるのです。

 いつか、この肉体というものを人が脱ぎ捨てたとしたら、霊だけでこのような場所にまで飛翔し、味わうことの出来る喜びには限りも限界もないだろう、ということが。

 そして、このような「天国」があると確信できること、また、その世界をちらとでも祈りの中などで体験したことのある方にとっては――肉の目に見えるところがいかに悲惨であれ、霊においては遥かに優れた世界に触れることが出来るゆえに、「我々は生きる間、何ゆえに耐え抜かねばならないか」がわかる、ということでもあるのです。

 ただ、苦しみのただ中にある時、つらいことにはつらいですし、そうした時に束の間神さまのことを忘れてしまったり、色々と不信仰になってしまう出来事というのは、誰の身の上にも起きてくることかもしれません。

 でも、そんな時にも必ず聖霊さまが信じさせてくださいます。「ほら、この蜂蜜を味わってごらん」と。するとたちまち霊は、肉の悩みや困難にも関わらず喜びに満たされ……この世の与える困難に耐え忍ぶ、あるいは打ち勝つための力が新しくされ、その霊の力が肉にまで及ぶことによって――祈りを通してなんらかの事態の打開や変化といったものを、必ず与えていただくことが出来るのです。

 そして、そんなことが最初の一度か二度起きたといったくらいだったら……「ただの偶然かもな」くらいで話は終わってしまうかもしれません。でも、こうした種類の<奇跡>というのは、個人的に何度となく経験させていただきましたし、そうすると「必ずまた神さまが助けてくださる」という信仰が強まるわけです。この、イエスさまとの個人的な信頼関係を聖霊さまを通して築いていくうちに――マーリン・キャロザース先生の「(神さまへの)感謝と賛美の教え」を実践していくうちに、信仰は三撚りの糸のようにしっかりしたものとして成長してゆくのです。

 こうして、生ける石とされたわたしたちは、神さまの建物を築くための素材としていただけるわけですが、こうした信仰のテストに合格する、あるいは合格し続けるというのは、容易なことではありません。もちろん、わたしが落第点を取っても、神さまの蜂蜜漬けの愛には一向変化はないにしても……蜂蜜に漬かっていない、昔の霊肉ともに欠乏状態にあったことを思い出したり、あるいは神さまが蜂蜜の量を減らされるといったことがあった時、初めてわかるわけです。

「あ、もしかしてわたしは今、神さまの愛があるのが当たり前すぎて、イエスさまの十字架を軽んじていたりしないだろうか」と……個人的に、神さまの蜂蜜が減るとか、これがなくなったらどうしようといった焦りを感じるような経験はないのですが、そのかわり、「蜂蜜の量があまり増えていかないな」、といったわたしの信仰の状態には問題があるのではないだろうか……という状態というのは、ずーっと続いてはいるんですよね(^^;)

 神さまへの愛というのは、強制されるものではなく、あくまで自発的なものです。ゆずの蜂蜜漬けのゆずのように、これだけ神さまの愛に包まれてべっとり☆していたら、その愛に応え、他の方にもこのイエスさまの十字架の愛が広がっていくようにすべきなのに――「あなたもこの、イエスさまの愛に、蜂蜜漬けにされたゆずのように包まれてみませんか?」と伝えても、「いや~、何言うとんのや、あんた」とか、「いえ、結構です。間に合ってますんで」みたいにしか言われないのではないかと恐れる心があるということ、この部分をなかなか越えられないことが、わたしの信仰が今以上に成長していかない原因かな~と、思っていたりします

 それではまた~!!





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