【ダイヤのエースを持ついかさま師】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」
(ルカの福音書、第16章1~13節)
この不正な管理人はなんだかまるで、ジャイアンのようです(笑)
いえ、「おまえの物は俺のもの、俺の物も俺のもの」という……つまり、「神さまの物は私のもの、私の物も私のもの」といったような図々しさがあるというか
そして、まるで当たり前のように主人の財産を自分のもののように扱って、借りのある人々の借金を減らしてあげています。
ここで不思議なのは、不正をした管理人がさらに不正を重ねたことを、主人が褒めているということかもしれません。
ここも色々な解釈が可能と思うのですが、神さまがお持ちの財産というのは、地球を含めた全宇宙のすべてですから、べつにケチケチ精神によって財産を預けた管理人のことを責めたわけではないのだと思います。
そうではなく、もし仮にわたしが神さまから百万円預かったとして、これをどう使うかという、<質>について責めたということなのではないでしょうか。
たとえば、この管理人が最初、百万円という財産を神さまから預かって、最初のうちは割とそれなりに正しく神さまと自分の生活のために使っていたとして――その後だんだん堕落していったとしたらどうでしょう。そのお金をもとでに高利貸しをはじめ、そのもうけた利息をギャンブルなどにつぎこむようになっていったとしたら……。
けれど、不正な管理人はこの時、おそらく悔い改めたのだと思います。神さまがなかなかお怒りにならないのをいいことに、長く堕落した生活を送ってきたけれども、本当は管理人自身、そうした生活から抜け出るためのきっかけを欲していたのではないでしょうか。
そこで、主人に借りのある人々の借金を減らしてあげたということに対して、主人は褒めたのかもしれません。
普通に考えたとしたら、「図々しいにもほどがある」と怒り心頭に発するところですが、神さまはおそらくこの管理人が<永遠の信仰の友>を作ったことを、特に褒めておられるのではないでしょうか。つまり、彼が主人への借り(いわば借金)を減らしてあげたことによって、これらの人々はノンクリスチャンだったところを救われたか、あるいは生ぬるかった信仰生活を変えられ、聖霊に燃やされて熱心に神さまに仕えるようになった……ということだったとしたらどうでしょう。
そうすることで、自分の窮地のみならず、他の人々の魂をも救ったということ、もしかしたら神さまはそのことを何より「抜け目なくやった」と言って、褒めたのかもしれません。
神さまは信仰に関することではわたしたち信徒に対し、「もっと欲深く、貪欲であって欲しい」と望んでいらっしゃるのかもしれませんよね。ヘブル人への手紙、第4章にも次のようにあるとおり……。
>>さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第4章14~16節)
神さまの恵みというのは、基本的にすべての信徒にオープンに開かれているものだと思うのですが、「いえいえ、いくら正しいことのためだったとしても、そんな神さまの財産に手をつけるだなんてとんでもない!!」というのではなく、むしろ神さまのほうで「いくらでもただで持っていきなさい」とおっしゃっているのだから、背中のリュックにぎゅうぎゅうに詰め、両手に持つボストンバッグにもぎゅうぎゅうに詰めて、他の人にも同じようにただで与える……というのがおそらく、信仰的に正しい態度だということなのではないでしょうか。
そしてクリスチャンのひとりびとりが喜んでそれをする時に、人生のほうも自然と祝福され、経済や生活のほうも満たされて神さまにあって真に価値ある生を生きていくことが出来るのかもしれません。
それではまた~!!
イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」
(ルカの福音書、第16章1~13節)
この不正な管理人はなんだかまるで、ジャイアンのようです(笑)
いえ、「おまえの物は俺のもの、俺の物も俺のもの」という……つまり、「神さまの物は私のもの、私の物も私のもの」といったような図々しさがあるというか
そして、まるで当たり前のように主人の財産を自分のもののように扱って、借りのある人々の借金を減らしてあげています。
ここで不思議なのは、不正をした管理人がさらに不正を重ねたことを、主人が褒めているということかもしれません。
ここも色々な解釈が可能と思うのですが、神さまがお持ちの財産というのは、地球を含めた全宇宙のすべてですから、べつにケチケチ精神によって財産を預けた管理人のことを責めたわけではないのだと思います。
そうではなく、もし仮にわたしが神さまから百万円預かったとして、これをどう使うかという、<質>について責めたということなのではないでしょうか。
たとえば、この管理人が最初、百万円という財産を神さまから預かって、最初のうちは割とそれなりに正しく神さまと自分の生活のために使っていたとして――その後だんだん堕落していったとしたらどうでしょう。そのお金をもとでに高利貸しをはじめ、そのもうけた利息をギャンブルなどにつぎこむようになっていったとしたら……。
けれど、不正な管理人はこの時、おそらく悔い改めたのだと思います。神さまがなかなかお怒りにならないのをいいことに、長く堕落した生活を送ってきたけれども、本当は管理人自身、そうした生活から抜け出るためのきっかけを欲していたのではないでしょうか。
そこで、主人に借りのある人々の借金を減らしてあげたということに対して、主人は褒めたのかもしれません。
普通に考えたとしたら、「図々しいにもほどがある」と怒り心頭に発するところですが、神さまはおそらくこの管理人が<永遠の信仰の友>を作ったことを、特に褒めておられるのではないでしょうか。つまり、彼が主人への借り(いわば借金)を減らしてあげたことによって、これらの人々はノンクリスチャンだったところを救われたか、あるいは生ぬるかった信仰生活を変えられ、聖霊に燃やされて熱心に神さまに仕えるようになった……ということだったとしたらどうでしょう。
そうすることで、自分の窮地のみならず、他の人々の魂をも救ったということ、もしかしたら神さまはそのことを何より「抜け目なくやった」と言って、褒めたのかもしれません。
神さまは信仰に関することではわたしたち信徒に対し、「もっと欲深く、貪欲であって欲しい」と望んでいらっしゃるのかもしれませんよね。ヘブル人への手紙、第4章にも次のようにあるとおり……。
>>さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第4章14~16節)
神さまの恵みというのは、基本的にすべての信徒にオープンに開かれているものだと思うのですが、「いえいえ、いくら正しいことのためだったとしても、そんな神さまの財産に手をつけるだなんてとんでもない!!」というのではなく、むしろ神さまのほうで「いくらでもただで持っていきなさい」とおっしゃっているのだから、背中のリュックにぎゅうぎゅうに詰め、両手に持つボストンバッグにもぎゅうぎゅうに詰めて、他の人にも同じようにただで与える……というのがおそらく、信仰的に正しい態度だということなのではないでしょうか。
そしてクリスチャンのひとりびとりが喜んでそれをする時に、人生のほうも自然と祝福され、経済や生活のほうも満たされて神さまにあって真に価値ある生を生きていくことが出来るのかもしれません。
それではまた~!!
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