神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

無間地獄。

2019年12月28日 | キリスト教
【至高天を見つめるダンテとベアトリーチェ】ギュスターヴ・ドレ


 無間地獄とは、仏教でいうところの八大地獄のひとつで、別名阿鼻地獄と言うそうです


 >>地獄の最下層に位置する。大きさは前の7つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ2万由旬(8万由旬とする説もある)。最下層ゆえ、この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて2000年、かかるという。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦、1000倍もあるという。剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間(寸分・刹那)なく受ける。背丈が4由旬、64の目を持ち火を吐く奇怪な鬼がいる。舌を抜き出されて100本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる。これまでの7つの地獄でさえ、この無間地獄に比べれば夢のような幸福であるという。

(ウィキペディアさまよりm(_ _)m)


 他の第一~第七地獄よりも相当な恐ろしい地獄だそうですが(でも、第一~第七地獄だって結構なものだよ!)、仏教ウェブ入門講座さまによりますと、無間地獄は地獄の中でも最も苦しい世界、また、間がないと書くように、休む間もなく苦しみ続けるという世界だと言います(ちょっと想像してみただけでも、本当に怖いですね^^;)。

 いえ、仏教の極楽浄土とキリスト教の天国、キリスト教の地獄と仏教の地獄は思想として似たところがあると思うので――その比較をしてみたいっていうようなことではなかったりします

 なんていうか、天国と地獄については、「死後にそんないい世界があるよー、生きてる間に悪いことすると、死んでからそんなおっそろしい世界へ行くことになるよー」と聞かされても、特定の宗教を持たない方、あるいは無神論の方にとっては「だから、それで??」といった向きがあるのではないかと思います。

 あるいは、「今自分が生きている人生こそが地獄だ」とか、「今目の前にある自分の地獄をこそどうにかしたい」と思って日々を生きられている方にとっては――死後がどうこうではなく、差し迫った現実世界の地獄をどうにかしたいし、どうにかしてくれっていう話でもあると思うんですよね(^^;)

 二つ下、また三つ下くらいの記事のところで、「神経症」のことについて書いたんですけど、統合失調症の方や鬱病の方にも同じく<地獄>としか表現しようのない症状の領域があると思うのですが、神経症の方もまた同じような精神的地獄を経験します。

 それで、自分がこうした病気になって唯一良かったことのひとつとして、「人の痛みがよくわかるようになった」ということがあるのですが、これは言い方を変えると「人の心の地獄がよくわかるようになった」と言い換えることが出来るかもしれません。

 たとえば、神経症と一口に言っても症状のバリエーションがあまりに多いと思うのですが(汗)、割とわかりやすいのはガスの元栓を本当に締めたかどうか、鍵をちゃんとかけたかどうかが気になる「確認恐怖」、人にどう思われるか気になる不安が元になっている「対人恐怖」や「視線恐怖」、「表情恐怖」症、その他パニック障害など、「自分はこのまま死ぬのではないか」というくらいの不安と恐怖を感じているのに、実際は死ぬことはなく、ただ無限にその不安と恐怖を感じ続けなければならない、また再びこうした過呼吸といった発作の症状がいつ訪れるかと絶えず不安におののいていなくてはならない「予期不安」といった状態にがんじがらめにされる……しかもこの間、神経症の人というのはある程度自分を客観的に見て、「だからといってこうした言動や態度を取れば人から変に思われる」ということもわかっていますから、そんなふうに自分が見えないように「普通に」見せる努力をしつつの水面下での、この心理的蟻地獄をずーっと経験していなくてはならないわけです。。。

 神経症の症状のひとつとして、「計算恐怖」症と呼ばれるものがありますが、これは自分が眠っている以外では常にずっと数字を計算している状態に精神が追い込まれる症状です。「<計算恐怖>なんていう言葉、初めて聞いた」という方も多いと思うのですが、神経質な数学者の方などがかかる病いということではなく、ごはんを食べていても仕事をしている時でも、映画を見ている時でも……人と話している時でもとにかく、常に頭のどこかで計算をしている状態で、本人は目の前の仕事にだけ、映画にだけ、あるいは本の内容にだけ集中していたい。でも、自分では計算なんてまったくしたいと思ってないのに、計算せずにはいられないわけです。しかもほんの束の間この計算恐怖から解放されていたかと思えば、目の前の看板にどっかの会社の電話番号なんかかが書いてあって、再びそのことを契機に脳内で計算がはじまる――神経症というのはノイローゼということですが、この計算ノイローゼにやられると、みるみる食も細り、鬱病のような感じになってきて元気がなくなります。

 そこで、家族など周囲の人にも「△□はどうも、何かのことで悩んでいるようだ」的なことはなんとなくわかって、「仕事で何か悩みでもあるのかい?」と聞いてみるものの、本人は「いや、べつになんでもないんだ」としか言わない。本人は客観的に自分を分析する能力がありますから、「どうしても計算をやめられない。自分でも馬鹿げているとわかっているのに、どうしてやめられないのか。それに、こんなことを誰に話したところでわかってもらえるわけがない」――ということで、「このままでは仕事もままならない」というところまで追いつめられて初めて、心療内科や精神科の門を叩くといったところではないでしょうか。

 そして、精神科医の先生などに「他にもあなたのような患者さんはいらっしゃいますよ」、「症状は違うかもしれませんが、喉のごくりという音が気になって人とうまく離せない対人恐怖症の方など、色々な神経症で悩んでおられる方がいます」……的なことを聞いて、本当に心からほっとする。

 でも、精神科医の先生などに話を聞いてもらって共感してもらい、本人も涙ながらに話して「わかってもらえた」ことに安堵するのも束の間、大切な治療の部分は何より、どうやったらこうした症状のない元の状態に戻れるのか、ということですよね(^^;)

「神経症は治りにくい病気だ」とよく言われるように、今は昔と違っていい薬もある――と言われたりもしますが、幻聴の症状のはじまった方が、<それ>が聞こえない元の状態に戻りたいと願いつつ、最終的にその幻聴と根気よくつきあっていく選択をした時に、ある程度症状がよくなった……ということがあるように、神経症も完全に治癒するというよりは、そうした<寛解>の状態を目指す、といった治療の主流はそうしたことはではないかという気がするんですよね。。。

 つまり、<計算恐怖>症の症状が完全には去っていかなかったとしても、日常生活に支障はない、食欲もあってぐっすり眠れるし、頭のどこかで計算しつつ仕事にも集中するんじゃなくて、仕事の内容にだけ集中したいけど、でもそんな状態にも今ではすっかり慣れた……とか、まあ今もちょっとくらいは計算するし、意識に余裕のある時にはそうしてばかりいる、でもそうした症状とうまくつきあいつつ、充実した生活も送れているよ――といったような、そうしたラインを目指す、というのでしょうか。

 今回の記事タイトルは「無間地獄」というものなのですが、神経症など、何かの精神的症状に悩まされたことのある方は……「まさしくこれこそ、いつ終わるとも知れない無間地獄だ」と感じられることがあると思います。また、癌などの病気の治療でも、この無間地獄としか言いようのない状態を経験される方がおられると思うんですよね。

 たとえば、抗がん剤の治療の間など、「この苦しみは一体いつ終わるのか」という無間地獄を経験される方はたくさんいらっしゃると思います。今は昔と比べて抗がん剤も随分よくなった……と言われたりもするそうですが、どうも自分的にはそう思えない。自分が経験したことではありませんが、それでも最初の抗がん剤治療の時はまだいいそうです。何故かというと、まだ「これで治るかもしれない」、「今暫くの辛抱だ」など、縋れる希望の材料が多くありますし、一度目の手術や治療と平行しての抗がん剤治療ということであれば、「何もこうした苦しい思いをしているのはわたしだけじゃない。もっと大変な病気の患者さんだっているんだから」など、色々と考え、周囲の人々の励ましや優しさにも支えられつつ、どうにか頑張ろうとも思える。

 でも、その患者さんにもよるかもしれないと思うのですが、一度目に「あなたは癌です」的に聞かされた時より、二度目に「再発しました」と言われる時のほうがよりショックと絶望が大きいとお聞きします。何故といって、前回はわけもわからずとにかくお医者さんや看護師さんの言うとおりにした……といった入院生活だったにしても、これが二度目ともなると、「またあれことこれとそれを繰り返すのか。まったくもってうんざりする」といった絶望の気持ちが強まり、以前はあった希望は鉛筆のように痩せ細りゆき、今にも折れんばかり……といったような心理状態になるからだそうです

 その他、わたしの場合自分が煙草を吸ったりお酒を飲んだりする習慣があるわけでないにしても、アルコール中毒の方やギャンブル中毒の方、あるいは麻薬中毒の方の気持ちなどが本当によくわかるところがあります。

 いえ、これもパチンコ屋さんに行ったり、競馬場で馬券を握りしめつつ声を張り上げたりとか、そうした経験はないわけですから(でもテレビでレースを見たりするのは普通に好きです)、絶対的に「わかる」はずなどないのです。

 にも関わらず、息子のひとりがギャンブル中毒で、最後には家の全財産を食い潰して、今は治療のための施設にいる……などと聞くと、本当に「わかる」感じがします。何故かというと、ギャンブルではなくても、同じような脳への刺激によってやめられないことというのは、人によって大なり小なりあるものですし(ゲーム依存症、スマホ依存症、買い物依存症といった言葉もあります)、そうした事柄の何かに夢中になるあまり周囲の人を不幸にしてしまった――といったことは、誰にもそれに近接するようなことは大体ひとつかふたつくらいはあるのが普通と思うからです。

 ですから、癌といった深くてつらい病いについては、誰もが「本人が悪いことでもないのにどうして」といった意味でそのつらさを共に出来たら……という気持ちを持つ方は多いでしょう。一方、アルコール中毒や麻薬中毒やギャンブル中毒といったことになると、本人の自己責任というか、「そんなもん本人が悪いやんけ」ということになりやすいと思うんですね。でも神さまというのは――その両方の方を救ってくださるという意味で、本当に懐の深い方だと思うのです。

 そして、こうした色々な種類の現実世界のどこかで今も起きている<無間地獄>のことを思いますと、自分もそれに相応するものを持っているだけに、「今自分の目の前でそのことが起きているかの如く」、その地獄を理解できる……という意味で、わたしにとっては神経症という病気は一番深い意味を持っている気がします。

 また、この神経症の症状があるゆえに、わたしにとってイエスさまは羨望の的にもなった、と言えるかもしれません。いえ、「もし彼が本当に真実神で、あなたが毎日そのことで祈っていると知っているのなら、今すぐ速やかに癒してくださるものなんじゃないかい?」といった方もおられるでしょうけれども、いつでもイエスさまが十字架にかかった時の深い絶望を思い起こすですとか、「その打ち傷のゆえに癒された」という聖書の言葉の成就を意識できるというのは――これもまた、十字架の恵みであると思うのです。

 これはわたし個人の考えですが、人、というか、少し大きな言い方をすると人類というのは、こうした己の背負うことになった十字架によってしか連帯できないのではないかという気がしています。「十字架」と聞くと、多くの方が抱くイメージは、「嫌々ながら背負わざるを得ない、何か重いもの」といったイメージかもしれません。けれども、背負うことになった十字架の種類は違えども、自分にそのように背負うものがある時、隣で同じように十字架に苦しむ人の気持ちがとてもよくわかるのです。そこには「なんだ。あいつなんか、自分で好きでギャンブルやって背負った十字架じゃないか」といった、そうした種類の違いはないのです。むしろそうした自分を恥じる気持ちすらもよくわかって、「あなたも大変だね」と涙ながらに感じる思いが互いに存在するだけではないでしょうか。

 そして、こうした苦痛にも終わりがあります。仮にそれが「三年の間、わたしはこれだけ苦しんだ」といった、あとにしてみればそうしたことであっても……その三年の間は三年後にこの苦しみは大体のところ収束するなんて知りませんから、それこそ永遠に続く無間地獄だとすら本人は思っています。イエスさまはそうしたわたしたちの悩みや苦しみを現世においても解決し、救いを与え、霊肉ともに解放してくださる方ですが、それよりも遥かに上の最上級の救いといったものは、わたしたちの死後に訪れると言います。

「あ~、ハイハイ。それがキリスト教の言う天国ね」と多くの方は思われるでしょう。「でもそうじゃなくってさあ、わたしたちは今すぐにパパッと問題を解決して欲しいわけ。神さまは神さまなんだからなんだって出来るはずでしょ?」と……もちろんその気持ちもわかります。けれども、信仰の道というのはもっと深いものだと個人的には思います。

 わたしの場合は、自分が「完全に」癒されるといった形ではなくても、他の方のことは「完全に」、「御心の時にもっとも速く」癒されて欲しいといった形で祈りますし、実際そうあって欲しいとも心から望みますが、「仮にそうでなかったとしても」、別の形で神さまから送られる祝福がある――というのは、実際のところわたし自身が一番よくわかっていることなわけです。

 たとえば、「地獄に落ちる連中にはそれ相応のことがあったのだろう。そんなのは本人が悪いのだから仕方ない」というのではなく、今無間地獄にいるあの人の苦しみはわたしのものだ……と思い、十字架上でイエスさまが経験された父なる神との霊的断絶、それはノンクリスチャンの方がイエスさまとは霊的に断絶しているのと同じことなのですから、無間地獄の、こんな場所になど誰も来るまいと思われる場所で、苦しんでいることさえ誰にも知られず絶望している人の元にですら――必ずイエスさまは来て救われるということ、その苦しみを贖ってくださる神がおられるということを伝えることこそ、真の福音であると信じています。

 それではまた~!!





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