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つい先日、とあるキリスト教関係の書籍を読んでいたところ、ふと「愛の破産者」(コリント人への手紙第一、第13章3節)という言葉が目に留まりました。
これはわたしの持っている聖書の訳では、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」と書かれてあったりします(=愛の破産者にすぎません)。
こちらの訳のほうにずっと親しんでいたもので、「愛の破産者」という言葉にちょっとドキッ☆としてしまったのですが、では逆に、自分は果たして「愛の資産者」かといえば、決してそうとは思われず……ちょっと「う゛~ん
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>>イエスは答えられた。
「一番たいせつなのはこれです。
『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
次にはこれです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つより大事な命令は、ほかにありません」
(マルコの福音書、第12章29~31節)
と、イエスさまはおっしゃいました。
わたしの場合、自分の内に愛はない、とまでは言いませんが、自分のことを「愛の資産者」か「愛の破産者」かで分類した場合、どうも「愛の破産者」側に近いのではないか、という気がします(^^;)
それは、わたし自身に愛を行いたいという清い願いがあったにしても、それを実際にどの程度実行しているのか――という意味合いにおいて、「まあ、そう大したことは実際にしていない
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また、個人的にある程度の一般的な普通の愛というのでしょうか。そうした種類のものはまあまあくらいか、あるいはまあまあよりはちょっと上くらいか下くらいかはわかりませんが、そのくらいの通常の愛――たとえば、突然道端で倒れた人に声をかけるとか、救急車を呼ぶとか、困った人がいて「助けてくれ」と言われたら、自分なりに助けようとするといったような――は、それなりにあるような気はします。
でも、実際はこれもわからないことではありますよね。突然「うっ!」と叫んで、倒れた方がいたら、助けたいし助けようとも思うでしょうけれども、自分以外にまわりに人が十人ばかりもいたとしたら、「他の人が助けるだろう。何より余計なことをして、失敗でもしたら大変だ
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自分的に思いますのに、こうした「自己保身の壁」のようなものを越えてまで、どのくらい人を愛そうとするか、助けようとするか――ということに、<愛>と呼ばれるもののすべてがかかってくる……ような気がしています。
たとえば、親子、夫婦、兄弟、姉妹、友人、恋人の間でなど、一般的に「愛のあるのが当たり前」といった関係性では、自己保身の壁がどーのと難しいことを考えるでもなく、親は子のために犠牲となることなど当たり前だといった愛情を持っていたり、家族であるならなおのこと、お互いに助けあうことに対し、疑問を持つことはまずないでしょう(もちろん、親子間や兄弟間などで、憎しみの限りを尽くして憎みあっている場合もあるかもしれませんが、一応一般論として^^;)。
自分が何も失わない範囲であるなら、恥をかいたり嫌な思いをしたり、欠乏を感じない範囲でなら、わたしも言えるかもしれません。「まあ、その範囲内でなら、わたしもひとつ、人助けでもしてみようかね」と。
でも、自分にとっての貴重な時間を捧げ、他の何をおいても一番にあなたを助けるですとか、そのことであなたがわたしになんらの恩義も感じず、さらには後ろ足で犬が土をかけるような真似までしてきた――といった場合、聖書では「右の頬を打つ者には、左の頬も差し出せ」とあるにも関わらず、その土でどろまんじゅうを作り、相手に十個ばかりも連続して投げ返す……わたしの持っている愛というのはどうやら、その程度のものらしいなと、自分的にはそう自覚します(^^;)
一方、わたしたちが愛の師として見習うべきイエス・キリストは、自分の全存在を、このような価値のないわたしたちのために、すべてお捧げになってくださいました。元は神さまの御子として光り輝いておられる方であったのに、人間によって穢された罪深き地上へおくだりになり、自分のために贅沢といったことは何ひとつなさらず、人々を苦しみや病いから解放し、のちの世のために決して賢くない弟子たちを訓練し……敵対する者たちからは罵られつばを吐かれ、辱めを受け、最後には十字架におかかりになって苦しみの極みを体験されたのでした。
何より、神さまのおひとり子である方なのですから、水をぶどう酒をお変えになったように、お金持ちになるためにそのお力を使うことも出来たでしょうし、自分に敵対する者たちをねじ伏せることも、そうしようと思えばお出来になりました。でも、それでは旧約聖書に記された、救世主(メシア)の預言が成就しないということで、イエスさまは天の父なる神さまの御心に御身のすべてをお委ねになられたのでした
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>>キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ人への手紙、第2章14~16節)
この和解の務めをまっとうするということが、愛の実践となることなのだろうと思います。
大きな意味で言えば、民族や人種、肌の色、金持ちかそうでないかといった金銭的格差、信じている宗教の違いなど……わたしたちを隔てる壁はたくさんあって、そこを壊して互いに和解しあうというのは非常に難しいことです。
また、敵の妨害というのが常にあって、この敵というのはこの壁がさらにたくさん出来るよう、また一度出来たあとは、さらにこの隔ての壁を厚くしようと働く、悪魔(サタン)とか悪霊と呼ばれる存在のことですが、わたしたちは愛の実践のための他に、こうした事柄についても、霊の感覚を鋭くして、より祈っていかなくてはなりません。
わたしは何より、自分の身の内に愛のないことを感じる者ですが、そのような惨めな者にさえも、むしろ身内に何もない空の状態の者をこそ神はお選びになり――イエスさまの愛によってお満たしになってくださる方なのです(そしてこれが前々回の記事の、聖霊さまの蜂蜜シロップ漬け、ということでもあるわけです^^)。
ゆえに、わたしは人間的には愛の破産者ですが、神さまの愛においては愛の資産者なのです。
ただし、せっかくの神さまの愛を、自分だけのものにしておかないで、もっと縦にも横にも縦横無尽に増やしていかなくてはいけない……という部分に関してはやはり、「自己保身の壁を越えて」行なっていかなくてはいけないことですので、自分的にこの部分が難しかったりするわけですけれども(^^;)。
なんにしても、今日も祈りの初めの一歩からはじめていきたいと思っています♪
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それではまた~!!
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