神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

雲に乗ってのちに来られる方。

2020年02月07日 | キリスト教


 >>主は、王であられ、みいつをまとっておられます。
 主はまとっておられます。
 力を身に帯びておられます。
 まことに、世界は堅く建てられ、
 揺らぐことはありません。
 あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、
 あなたは、とこしえからおられます。
 
(詩篇93編1~2節)


 >>さて、これから先ほどお話ししたこの最後の水について考えてみましょう。それは、大変豊かに降り注ぐので、この地上でそれが許されるのなら、いと高き御者御自身の雲が私たちとともにこの地にいてくださると信じうることを思い巡らしてみましょう。私たちが力の限り善業を行ない、この偉大なる幸福に対し主に感謝しますとき、主は霊魂をお取りになり、ちょうど雲が蒸気を地から吸い上げるように、地上からすっかりお引き上げになります。

 雲だったか、太陽だったかが、蒸気を吸い上げると聞いたことがあります。神的雲は天に昇り、御自分とともに霊魂もお連れになり、御自分の王国の輝しいありさまをお示しになり始めます。この比喩が正しいかどうか分かりませんが、とにかく、実際そのように行なわれるのです。

(「アビラの聖テレサ~神の憐れみの人生~」高橋テレサさん訳、鈴木宣明さん監修/聖母文庫より)


 神さまはこの世界の終わりの時……雲に乗って御使い(天使)とともにやって来られると言います。


 >>だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が太陽と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。

 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

(マタイの福音書、第24章29~31節)


 わたしもこのお話は、自分がクリスチャンになる前から「キリスト教ではどうもそうらしい」くらいのことを、なんとなく知っていたと思います。

 確かになんとなくイメージとして……「この世の終わる時こそ、神さまが来られる」というのは、何か特定の宗教を持っていない方でも、「なんとなくわかるし、そんな気がする」とか、「もしこの世の終わる時にまだ自分が生きていたら、そうであって欲しい」と望む方もおられると思います。

 ただし、ですね。この時イエスさまは、御自身を信じておられる人のみをお救いに来るのであって、それ以外の方は黙示録の非常な困難な時代の中に残される……といったように聖書にはあります。

 そして、前にもどこかに二度くらい書いたような記憶があるものの、アメリカでアンケートを取ってみたところ、大体64%とか、66%だったか67%だったか正確な数字は忘れてしまいましたが、そのくらいの方が「イエス・キリストの再臨」、つまりはイエスさまが雲に乗り、再び地上へやって来られることを信じている……ということでした。

 アメリカはキリスト教国ですから、そんなに驚くにあたらない――という方もおられるかもしれませんが、でもこのことを伝えていたテレビのアナウンサーの方は首を捻っていたという記憶があります。つまり、こんなに科学が進んだ現代で、「終末の時、神が雲に乗ってやって来られる」という話を、アメリカのように合理的な国民が何故こんなにも信じているのか……といったことだったと思います。

 わたしはありがたいことに信じる者とされた側ですが、「そんなことは信じられない」という方の気持ちもよくわかります(^^;)

 ところで、つい割と最近、詩篇93編にある、「みいつ」という言葉の意味を知りました。


 >>みいつ【御稜威】

「いつ(厳)」の尊敬語。御威光。御威勢。

(コトバンク、大辞林 第三版の解説より)


 >>み‐いつ【▽御▽厳/▽御稜=威】 の解説。

「厳 (いつ) 」を敬っていう語。天皇や神などの威光。「―津々浦々に及ぶ」

(goo国語辞書より)


 初めて詩篇の93編を読んだ時、この「みいつ」という言葉の意味はよくわからなかったものの、なんとなく言葉のイメージとして、「神の栄光」、「満ち満ちた主の臨在」といったような意味かな……なんて漠然と想像していました。

 いえ、意味的にはほとんど合っているとは思うものの――漢字では「御稜威」と書くということや、「神の尊厳な威光。栄光」といった意味であると、今回ふと気になってググってみてわかったというか(^^;)

 で、ですね。今回、アビラの聖テレサの言葉を引用させていただいたんですけど……何故わたしたちはこんなにも、雲の上に神さまの王国(天国)があるですとか、神さまが雲に乗って現れるといったように、特に何か誰かに教えられたわけでもないのに、漠然とそんなイメージを小さい頃から持っているのでしょう。

 わたしの両親も親戚のすべても葬式仏教徒ですから、誰か身近に特定の宗教を持っている方がいて、そのように教えられたとか、あるいは幼稚園の先生にそのような何かの絵本を読んでもらったことがある……といった記憶もまったくありません。

 にも関わらず、ほとんど人類の全員の方が、住んでいる地区や持っている宗教などの別なく、「神」、「天国」、「地獄」といった事柄について、大体似たようなイメージを持っているわけですよね。

 確か心理学者のユングがこのことを、<元型>(アーキタイプ)と読んでいたと思います。たとえば、西洋には西洋のドラゴンが、東洋には少し種類が異なるように見える東洋的な竜が存在したりしますよね。こうしたわたしたちの意識の井戸を掘っていった時に、共通して存在するものをユングさんは<元型>と読んでいる……みたいなことを、その昔何かの本で読んだことがあります(※出典については確かめておりませんので、正確性を欠くかもしれませんが、意味は合ってると思います)。

 そして、このイメージの<元型>のようなものは、日本人にも中国人にも韓国人の方にも、あるいは欧米の方にもインドの方などにも――大体イメージとして共通しているわけです。わたしがキリスト教徒だからこうした書き方になってしまう向きもあるかもしれませんが(というのは、ノンクリスチャンの方がこの文章を読まれた場合、という意味ですけれども^^;)、この雲の上にあるような天国のイメージ(ちなみに、天国というのはもともとキリスト教に特有の言葉です)、雲に乗って神さまがやってくるイメージというのは……わたしたちすべての人間の内に、霊的情報として組み込まれているものだと思います。

 人には誰しも、生まれながらにして<神を求める心>というのがあって、生まれた場所の環境によっては、わたしはもしかしたら熱心なイスラム教徒として育ち、場合によっては今ごろ自爆ベルトを腰に巻き「アッラーフ、アクバル!」と叫んでいた可能性というのは、当然ありえます。

 そして、この<神さまを求める心>が、仏教と限りなく強く結びついている方も、日本にはたくさんおられるでしょう。また、普段は「自分は仏教徒だ」とそれほど強く意識されない方でも、年に2~3度お墓をお参りするといった行事だけはとても大切にしているとか、神道に対してそれほど強い信仰心があるわけでもないのに、家から神棚を外したら絶対に何か悪いことが起きると固く信じていたり……その他、これに類することはたくさんあって、わたしの母なども「いつまでこれを支払わなきゃなんないのかしら」と溜息を着きつつも、毎月お坊さんに仏壇の前でお経を上げてもらい、お布施を支払っています。

 こうしたことをわたしたち日本人は、「いい・悪い含めて、それが日本の文化だから」といったように理解しています。そして、こうした日本人の方がクリスチャン、キリスト教徒になった場合――それまで心(霊)の中で結びついていた神さま的イメージというのは大体、仏教的な何かの漠然としたイメージである場合が多いわけですが(もちろん、このイメージをさらに強く押し進めて仏教について学び、立派な信仰を持っている方もたくさんおられます)、教会でイエスさまのことを信じて受け容れる告白をしたのち、聖霊さまがその方に内住されますと、元あった神さまに関する事柄のイメージというのがすべて、イエスさま、キリスト教の教えと結びついていきます。

 これをキリスト教では<新生>と呼びます。簡単に言えば、古い罪に死に、霊において新しく生まれ変わった者、ということですが、聖霊さまの内住されたこの状態に達すると、普通に考えた場合、「こんな分厚い物、ほんまに全部読めるやろか」としか感じられない聖書を読むのが逆に楽しくなったり、その他日曜礼拝のあと、キリスト教についての学びをするのがとても嬉しい……といったように変わっていきます。

 何故なら、その前(新生以前)までは「この方こそ、神である」ということが、目隠しでもされたように霊的には遮られていて見えなかったのが見えるようになったからであり、そのような確信を聖霊さまが与えてくださることにより、神さまからの霊的情報を聖書から得たり、また教会でその学びをするのが楽しくて仕方なくなる……といった変化が起きてくるからです。

 もっとも、何故ある人はこのような道に導かれることが出来、また別の人には開かれないのか――といったことは、わたしにもわかりません。わたし自身にしても、ほとんどある種の<運の良さ>によって信じることが出来たとしか言いようのない、主の業の不思議、また神さまの愛の一方的な恵みだったと思います。

 そして、この状態に達することの出来た主の霊(イエスさまの御名)を告白する方というのは、聖書に書かれているイエスさまの再臨――再び、イエスさまが雲に乗って地上にやって来るとのお約束――を信じるのが、極めて容易となります。

 何故なら、いまや、生まれた時からあった<神さまを求める心>が、聖霊さまによってイエスさまとがっちり結びあい、「この方こそ主」と喜びをもって霊が告白するからです。

 そしてこのような状態にあるクリスチャンの方だけが、死後天国へ行くことが出来る、あるいはこの世の終末の時、雲に乗って来られたイエスさまの元まで一気に引き上げられるという<携挙>に与ることの出来る者とされるということ……また、イエスさまのことを告白しない地上に残された人々がその後、黙示録の時代において恐ろしい悲惨を体験する、といったことが聖書には書かれています。

 人がイエスさまを信じることになる道は様々で、中には「死後の地獄が恐ろしいから」、「そのような永遠に続く世界で悪魔に苦しめられたくないから」といった動機によってキリスト教を信じる方もおられるかもしれません。でもどちらかというと多くの信仰者の方は――聖霊さまによる神さまの輝かしい栄光、イエスさまのみいつによって霊的な喜びに満たされたことによって……その素晴らしい喜びでさえ、地上では束の間である。けれど、天国では肉体における制限を越えた、これよりもさらに最上の喜びで満ち満ちていることが出来るとの確信を霊によって与えられるがゆえに、地上ではどのようなことがあろうとも、イエスさまと離れているということは決して出来ないといったようになるのです。

 神さまのことはもちろん、目には見えません。天国も人の目には見えません。けれども、聖霊さまを与えられたクリスチャンの方は、聖霊さまによって霊に直接イエスさまや天国といったこの世で一番大切な情報を教えていただける恵みゆえに……その信仰心が揺らぐ、ということが決してないのです。

 もちろん、このことの確信を薄れさせようとして、悪魔(サタン)、悪霊といった敵からの霊的攻撃もありますから、人生の中で<信仰の危機>に会うこともあります。けれども、そんな試練の時でさえも、最後の最後まで信仰を守り通すよう、聖霊さまが必ず助けてくださいます。そして、信仰の破船に会いそうなギリギリのところを守られた魂たちは、再び風が凪ぎ、朝陽が昇って海が輝くのを見つめながら――再び、イエスさまを賛美するのを喜び楽しむことでしょう

 それではまた~!!





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