神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

悪魔の誘惑。

2014年10月06日 | キリスト教
【山上の誘惑】ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ


 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」

 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」

 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」

 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れていき、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」

 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

(マタイの福音書、第4章1~11節)


 画像が入りきってなくて、申し訳ありませんm(_ _)m

 でもドゥッチョのこの絵、どうしても使いたかったのでww

 いえ、初めてこのドゥッチョの絵を見た時、あんまりインパクトが強くてびっくりしたというか(^^;)

 場面としては、「引き下がれ、サタン」と言っている、ちょうどそのあたりなのかな、なんて。

 そんで悪魔(サタン)のほうでは、「チェッ。行けばいいんだろ、行けば。でもまた戻ってくるぜ☆」とでも言ってそう(笑)←笑いごとじゃないし

 初めて聖書のこの箇所を読んだ時には、実をいうとあんまりピンと来ませんでした。。。

 サタンとかあんまし現実的じゃないしとか思ってたわけでもなく、何かそういう存在って確かにいるよね(←不適切な絵文字☆)みたいには漠然と感じるところがあったので、そのあたりについては特に抵抗もなく……ただ、イエスさまが悪魔の誘惑を退けられたのは、「そりゃー神の子なんだから当然じゃーん!!」みたいな、そんな薄っぺらな読みしかわたしにはなかったのです(恥)

 でも今はやっぱりこう思うんですよね。「イエスさまってすげえ!!マジ、リスペクト!!」みたいに(軽いな、しかし^^;)

 う゛~ん。イエスさまは悪魔の誘惑をすべて退けられたわけですけど、わたしの場合四十日四十夜も断食とかってまず無理だし、ずーっと昔に「このまま何も食べずにもう死のう」とか思った時、まず一番最初に食べたくなったのが「とってもピーチ」というゼリーであり、母が「ごはん食べないのー?」としつこく言うので居間に行ったらば、そこに用意されていたグリーン麺(あったかいほう)のなんと美味しかったことよ……と思います(卑しいな、しかし^^;)

 まずイエスさまはこの食欲に訴える悪魔の試みに勝利され、次に「神は本当にあなたを助けるのか」という信仰の試みにも勝利され、最後にはこの世のすべてを支配するという権力欲にも勝利されたのでした。

 いえ、最初に読んだ時には物語として結構さらっと読んでしまったこの箇所なんですけど……やがて信仰生活が長くなるにつれ、イエスさまの凄さがじわじわじわじわ☆身に沁みるようにわかってきたというか。。。

 人間やっぱり、権力欲というか、物欲とか食欲とか、人によってそれぞれと思うんですけど、そこを攻撃されると弱いな~☆という箇所が絶対ひとつはあると思うんですよね。

 いわゆる、傲慢・物欲(貪欲)、嫉妬・憤怒・暴食・色欲・怠惰という七つの大罪のうち、どれかこれかに人は当てはまってしまうものなんじゃないかな、なんて(ちなみに、「セブン」という映画などで有名なこの「七つの大罪」という概念は、聖書自体には直接言及のないものです

 それと、サタンの側からの働きかけみたいなものが確かにあって、普段は滅多に人に嫉妬しないような人がある人に対してだけ異常なほどの妬みを持ったり、物欲は簡単に言えば買い物依存症、怠惰のうちにはもしかしたら、アルコール中毒なども含めていいのかもしれません。

 人間はこうした欲望のうちのどれかに必ず引っかかってしまうという「弱さ」を必ず持っているわけですけど、イエスさまはそのうちのどの罪に対しても、悪魔がいかように誘惑しようとも負けることはなかった……この点っていうのはやっぱり、イエスさまが神の子であって、我々パンピーとはそもそも格が違うんだぜ☆という明らかな証拠みたいなものですよね。

 でも、その神の子であるイエスさまを持ってしても、肉体を持ってしまった以上はやっぱり相当キツかったはずで……そして悪魔は一時イエスさまから退散するわけですけど、今度はイエスさま本人を攻撃することが出来ないならばその弟子をという感じで、弟子のユダさんがこの悪魔の働きかけと策略により、まんまと信仰の道から転んでしまうのです。

 いえ、最初に聖書を読んだ時はわたし、「自分はユダみたいにイエスさまのことを裏切ったりしないもん☆」と、そりゃ自信満々でした(笑)

 でも今は、別の意見を持つ、もうひとりの自分がいます。「結局そんなのわかんないぜー?溺れてる人がいたら絶対助ける!なんて普段思ってても、実際海や川の深さを見たら、ビビって反射的に逃げちゃうかもしんねーし……」と思ったり(^^;)

 なんていうか、聖書って本当にここらへんの描写が実に見事なんですよね。あらゆる病人の癒しを行い、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行ったイエスさまのことを、最後は見捨ててしまった弟子たち……そして最後は十字架上で父なる神さまとの関係性すらも断絶され、究極の肉体的・霊的孤独の極みを味わわれたイエスさま……そんな彼であればこそ、イエスさまはすべての人の心の孤独や秘密を理解し、癒し助けてくださるということですもんね。

 信者のほうではただ、この方に縋ってより頼むことの出来ることが、本当にひたすらの霊的希望、魂の希望であり、また肉体の目に見える希望でもあると思います。

 そして今日もまた、そのような優しいイエスさまに頼りつつ、日々のあれこれを出来るだけお委ねして過ごしたいと思う某信者(わたし☆)なのでありました(^^;)

 それではまた~!!





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