神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

脳のクセとドーパミンとSNS。

2023年07月19日 | キリスト教

 先日、こんな話を聞きました……マラソンを愛好してる方は、マラソンをする→ドーパミンが出るという循環が脳の中で出来上がってるので、それが最初は渋々ながらはじめたとしても、嵌まって長く続く習慣になる理由だろう、みたいな話。。。

 また、これが水泳である場合もあれば、ヨガやピラティス、その他なんらかのスポーツである可能性もあるわけですけど、わたし、自分的にそれって「ご褒美脳」ってことなのかなってちょっと思ったりしたというか(^^;)

 これがスマートフォンといったSNSの場合、ポケットやカバンなどに入れて、いつでも見れる状態にしておくと、それだけでドーパミンってちょっと出てるそうです。学校や職場にいて勉強したり働いたりしてる間って、基本的にスマートフォンって操作できない。でも、ちょっとしたスキマ時間にも「見るのが楽しみ」というご褒美があると、何かでストレスがかかっても、ドーパミンが出ることで「耐えよう。だって、あとで△□という楽しみがあるから!」みたいにもなれる……ということだったと思います。

 一般的に、ストレスがかかるとコルチゾールという物質が出るそうですが、コルチゾールは生命維持に欠かせないホルモンである一方、あまりに強いストレスにさらされると、鬱状態の慢性化を招いたり、体にも老化といった症状が出たりして心身ともに良くないと聞いた記憶があります。コルチゾールは抗ストレスホルモンなので、ストレスがかかる→コルチゾールが出る→過剰に分泌されるのが当たり前のようになる→抗ストレスホルモンが十分な量、作られなくなっていく……といったようなことでなかったかと思います(確か)。

 それはさておき、こういう種類のドーパミンには中毒性があるそうです。つまり、人がいつでもポケットやカバンにスマートフォンがないと安心できないのはそうしたせいでもあり、「いつでも見れる状態にしておく」ことが、ストレス解消の対策として日常生活に組み込まれてるっていうことですよね。

 また、「本当の意味で集中できない」という弊害もあるということでした。もし授業と授業の間の十分休みにスマートフォンを見ることが楽しみだから、それまで集中しよう!となれるというよりは、そちらのほうが常に気になってるので、授業に集中できない……とか、その他毎日特に何もない時でも検索したり、そういうので「何かをした気になる」と錯覚しているだけで、実際には何も身に着いてない――ということが、結構多い、ということでもあるとか。

 いえ、わたしユーチューブとかあまり見ないタイプではあるんですけど、何か調べものしてて、たとえば宇宙に関することとか、ほんの十五分とか一時間の間にものすごーく濃密な内容のものが詰まってて、「勉強になるなあ」と思ってます、ほんとに。でも、ユーチューブの動画を次々に見るといった形の場合、その時は「へ~、なるほど!」と思ったことでも、次々色々なものを見てると、案外頭に入ってこないということらしく。。。

 まあ、それの何が悪いんだ……と思わなくもないのですが、脳のクセとして「いいか悪いか」でいうと、ほんの一時間ストレスのかかることがあって、すぐにご褒美としてスマートフォンの何かを見る――ということの繰り返しが当たり前だったとしたら、これがすでに小学生の頃から脳のクセとして当たり前のことになった場合、どういうことになるか、ということだったと思うんですよね。

 その子の性格や生育環境や経済的なことその他とも関係してくる気がするので、ケースバイケースとは思うものの、勉強といったことに限っていえば、やっぱり何時間かは集中して勉強して、そのあとご褒美として一時間だけスマートフォンを見るとか、そういうほうが基本的には良いそうです。以前、「人間はどういう時にやる気が出ると思いますか?」と聞かれて、「やる気の出たときー!!」と子供が答えていて笑ってしまったことがあるのですが、その講師の先生のお話では「脳からドーパミンの出た時です」ということだったんですよね。

 ドーパミンは神経伝達物質で、アドレナリン・ノルアドレナリンの前駆体。簡単に言うと、「快感や多幸感を得る」、「意欲を作ったり感じたりする」神経伝達物質なのだそうです。つまり、言い換えると人はドーパミンが出るために生きている……とも言えるのだとか。何故かというと、「ぼかぁ幸せだなあ」みたいに人がなるためには、脳からドーパミンが出る必要があり、「自分が幸せになるためにはどうしたらいいか」と言えば、むしろ逆に「ドーパミンがオレの脳から出るにはどうすりゃいいのよ」と逆算して考えたほうが早い――とも言えるからですよね(^^;)

 また、コルチゾールという抗ストレスホルモンっていうのは、たとえば鹿さんがオオカミさんに追いかけられた時などに、生命に脅威を感じ、力の限り逃げようとする時に出るものだと聞いたのですが、たぶん人間も一緒と思うんですよね。自分が誘拐されて車のトランクに入れられた時などにも当然出るでしょうけれども、学校や職場へ行きたくなくてどうしようもないのに毎日無理に行こうとすると、コルチゾールって自分で思ってる以上に出てる気がする。。。

 それで、そういう種類のストレスって、「そんなことくらい誰でもあらあな」とか、「常にストレスを感じないゼロストレスで生きとる奴が、この世界のどこにいんねん!」というふうに捉えられる一方、やっぱり怖いのは「それがほとんど体に条件反射的に刷り込まれる」ということだと思うんですよね。思春期とか十代の頃は、特にこれは怖いことだと思う。部活の人間関係に疲れてやめようと思ったこともあったけど、その環境に三年耐えて乗り越えたら、その後怖いと思うものはほとんどなくなった……というふうな経験を持てる方というのは、(わたしが思うに)全体の数としてそんなに多くない気がする。どちらかというとそれよりも圧倒的に多いのは、中学・高校といった時期に重いストレスに耐えたことで、その後ほんの少し体がストレスを感じただけで、条件反射的にコルチゾール的なものが普通以上に出るようになってしまい、何もかもが嫌になる、鬱病になるなど、二十代になっても三十代になっても後遺症が残る……ということはある気がする。。。

「この人にとって生きがいになることは、どんなことなんだろう」って考えるのは、ある意味「この人の脳からドーパミンが出るにはどうしたらいいんだろう」みたいに考えることに、もしかしたら似てるのかもしれません。それで、ここのブログで何度も書いてるマーリン・キャロザースさんの感謝と賛美にも通じることなのかもしれないな~と思ったりしたというか(^^;)

 クリスチャンの方の脳っていうのはたぶん、「あれも神さまに感謝」、「これも神さまに感謝」、「イエスさまありがとうございます」、「このことで御名を賛美します」……みたいに、一日中ちょっとしたことにもすぐ神さまに感謝したり賛美したりする時、きっと脳からドーパミンが出てるんでしょうね。あとは神さま、イエスさまに関する何かを目にするたび、ほとんど条件反射にも近いくらいの多幸感に満たされることが出来る、という意味でも。

 ただ、神さま・イエスさま・聖霊さまは本当に人の思いを越えておられる方なので、聖霊の満たしや臨在を強く感じる時――それはもう、人間の脳や体の構造がどうだとかこうだとかいうことを圧倒的に越えた、魂や霊といったものに深くイエスさまが臨まれる感覚のことだと思います。


 >>何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

(ピリピ人への手紙、第4章6~7節)


 元の話に戻りますと、たとえば子供さんが「学校へ行きたくない」ということでもし仮に悩んでいた場合……「そっか。この子に無理に学校行かせて、コルチゾール分泌たっぷり副腎大疲労な生活送らせても仕方ないってことか。逆に、ドーパミンが出てやる気と多幸感に溢れた青春時代を送る――みたいになってもらうには、どうしたらいいもんか」と、ちょっと考え方を変えてみるとか、それだけでも少しは何かが違ってくるかもしれません。。。

 もちろん、「このくらいのストレスなら頑張って乗り越えさせたほうがいい(そのほうがのちのち本人のためになる)」ということと、「同じストレスや苦痛に耐えるエネルギーを、他の生きがいややりたいことのために使えるようにしてあげたほうがいい」っていうボーダーラインみたいなものは見極めが難しいわけですけど、十代の多感な時期についてしまったクセっていうのは、本人にも一生乗り越えらない枷になる場合があるっていうのは本当だと思います。

 それではまた~!!






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