神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

荊の冠。

2018年03月14日 | キリスト教
【十字架を担ぐキリスト】ヒエロニムス・ボス


 >>ピラトは彼らに言った。

「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか」

 彼らはいっせいに言った。

「十字架につけろ」

 だが、ピラトは言った。

「あの人がどんな悪い事をしたというのか」

 しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。

「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」

 すると、民衆はみな答えて言った。

「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」

 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。

 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。

 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。

「ユダヤ人の王さま。ばんざい」

 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。

(マタイの福音書、第27章22~31節)


 今から約2000年以上も昔に十字架に磔にされた男の死と、現代を生きるわたしたちとの間に一体なんの関係があるのか――という、普通に考えたとすればそうしたことだと思うんですよね、キリスト教って(^^;)

 でも一度、教会へ行ってイエスさまを受け容れる祈りをし、聖霊のバプテスマを受けると……民衆たちが名の知れた囚人であるバラバを釈放させ、なんの罪もないイエスさまのことを「十字架につけろ!」と叫び、ローマ兵がイエスさまのことを嘲弄したあげく、十字架につけたのは――他でもないこのわたしがしたことだ、というような罪の自覚が生まれます。

 もし仮にわたしがイエスさまの生きた時代に存在していたとしたら、おそらくはこの民衆の中のひとりのように、イエスさまに対し「十字架につけろ!」と叫ぶか、あるいはわたしがローマ兵であったとすれば、やはり自分が何をしているかもわからず、「今、神に助けていただくがいい。自分は神の子だと言っているのだから」と嘲笑っていたことでしょう。

 イエスさまがこの世に受肉され、人々を教えつつ、癒しや悪霊の追い出しなどの奇蹟を行ったのち……十字架上で苦しみの極みの内に亡くなられたのは、色々な言い方というか、表現の仕方があると思いますが、そのひとつが神とわたしたち人間の間を取り持ち、和解の務めをまっとうされるという、そのためでした。

 ローマ兵たちがイエスさまに荊の冠をかぶせたのは、「ユダヤ人の王」という、嘲りをこめてのことだったでしょうけれども(実際はこのユダヤの民に裏切られ、イエスさまは十字架につけられたのでした)、最近、この荊の冠ということにはもっと深い意味があるのではないか――と感じるようになりました。

 イエスさまに対して、「十字架につけろ!」と叫んだのもわたしなら、この方こそが世の救い主キリストであるとも知らず、イエスさまにつばを吐きかけ、嘲笑ったのちに彼を十字架につけたのも、荊の冠を彼にかぶせたのも、他でもないこのわたしがしたことだ……という罪の自覚が今のわたしにはあるわけですが、実をいうとわたしがイエスさまに荊の冠をかぶせたのは一度だけではないのではないか、という気がしてきたのです。

 誰か人の悪口を言う、陰口を叩く、その人がもし聞いていたとしたら、チクリと荊の棘に刺されたように感じるに違いないことを言う……といったことにはじまって、人と人の間にはサタン(悪魔)が小躍りして喜ぶ、不和の土壌が育まれていきます。

 これをもし庭にたとえるとしたら、ちょっと雑草が生えているのを抜けばいい……くらいのレベルから、もう大きな憎しみの木が育ってしまって、自分の力ではもう抜くことが出来ない――というレベルのものまで、家族や親戚、学校や会社内、あるいは民族同士の争いに至るまで、色々な状態があると思います。

 けれど、イエスさまのことを信じるなら、わたしに出来ないことを神さまはかわってなしてくださるのです。わたしが人から荊の棘のように傷つけられた傷を癒し、のみならず、わたしが傷つけた人の心の傷をも癒し、神さまとの関係において和解させてくださるのです。


 >>この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

(使徒の働き、第4章12節)


 以前、とあるお寺(笑)の前を通りかかったところ、「人は殺さないと言いながら、心を殺すということがある」という言葉を掲示板に見かけたことがありました。けれども、すべての人と民族を和解させることの出来る神さまは、誰かわたしが殺した人の心をも生き返らせることが出来ると信じます。

 いえ、そこまでひどいことをした記憶はないとは思うものの(汗)、自分のことに関して言うなら、イエスさまは死んでいたようなわたしの心を生き返らせてくださったということだけは間違いなく真実といっていいと思います。

 また、イエスさまは人の心のみならず、わたしたちの死後に、わたしたちの死すべき肉体をも、霊的に甦らせ、再び命を与えてくださる方でもあるのです。

 このことは、イエスさまが十字架につけられた三日後に甦られたのと同じように、イエスさまを信じたひとりひとりに必ず起こり、天国への道が開かれます。

 この全宇宙を造ったのは神さまですから、わたしたちの肉体が滅び、地のちりとなっても、「まあ、人間はそのようなものだから」ということで、人間のひとりひとりが生まれては滅び……ということを繰り返すのでも、神さまには「それもまたよし」とお定めになることも出来たと思います。

 けれども、聖書に>>「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネの福音書、第3章16節)」とあるとおり――神さまは愛のゆえに御子をこの罪多き穢れた世へお遣わしになってくださいました。そしてそれはイエスさまの流された十字架の血潮の力ゆえに、わたしたち全人類の罪が赦され、罪なき方が罪ある者たちのために血を流し、贖いの業を完成されるという、他でもないそのためでした。


 >>あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

(コロサイ人への手紙、第1章21~22節)


 わたしたちの心にも、誰かから刺された荊の棘、あるいは自分で自分を貫き通した荊の棘、あるいはその傷痕があることでしょう。そしてそれは抜いたとすれば、そこから血が溢れてくるほどの大きな傷かもしれません。

 けれども、イエスさまは十字架上で御自身がそのような傷をお受けになったがゆえに(イエスさまの荊の冠のことだけでなく、イエスさまの手足や脇腹の傷のことも思いましょう)、その自らが激しく痛んだことゆえに、わたしたち人間の心や体の傷や痛みのことを、御自身が傷ついたのと同じように感じてくださり、なおかつ癒してくださる方でもあるのです。


 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書、第43章)


 >>「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
 自分の胎の子をあわれまないだろうか。
 たとい、女たちが忘れても、
 このわたしはあなたを忘れない。
 見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ」

(イザヤ書、第49章15~16節)


 手のひらにあなたを刻む……わたしたちがもし、誰か愛する人の名を手のひらに刻む時、そこには相当の痛みが伴うと思います。そして、その痛みゆえに彼/彼女の名前を永遠に忘れることはないでしょう。

「神はわたしのことになど無関心だ」、「だから平気でこんな不幸な目に遭わせるのだ」……わたしも自分がノンクリスチャンだった頃にはそんなふうに感じたこともありましたし、またクリスチャンになってからは、悩みなど何ひとつなくなったという、これはそうしたことでもありません。 

 けれども、神さまの永遠の書に名前が書かれているというのは、イエス・キリストを信じる者にとっては、同じくらいリアルな現実といっていいのではないでしょうか。

 そして、かの日にはおそらく、この地上で起きた(わたし個人の)苦しみのことなどは、すっかり忘れてしまうかもしれません。御使いたちによって神の永遠の書が開かれ、自分の名前が呼ばれる時――この世のありさまはすべて過ぎ去り、わたしたちが神さまや天国を信じた、その信仰だけが残る(あるいは問われる)瞬間がやって来ます。

 その日には、わたしの心を貫き通した荊の傷も癒されてなくなり、イエスさまが御自身の手足や脇腹の傷を喜ばれたのと同じ喜びのみがあるものと信じています。


 >>しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書、第53章10~12節)


 それではまた~!!





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