【キリスト教徒の殉教】ジャン=レオン・ジェローム
>>キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威をのかしらです。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
(コロサイ人への手紙、第2章9~15節)
いつ、神さまを信じるべきなのか――林修先生流に言うなら、「今でしょっ!!」ていうことになるんでしょうか(もう古いよ☆^^;)
でも、意外に思われるかもしれませんが、人が神さまを真実本当に必要として信じるのは、実は「人生でこの上もなく嫌な思いや惨めな思いを味わっている時」であったり、「信じていた人から裏切られ、捨てられた時」であったり、「病気やその他自分のせいではないことで苦しんでいる時」……など、そうした時なのではないでしょうか。
自分の人生がある程度自分のコントロール下にあり、大小様々な悩みがありつつも、それらが対処不可能というほどでもなく、それなりに努力をすれば克服可能であったりする時……そんなに必死になって神さまに祈り求めるとか、叫び求めるっていうことはない気がします(^^;)
もちろん、わたしも今はクリスチャンであり、どんな小さなことも聖霊さまによってイエスさまに頼っていいということを知っていますし、またマーリン・キャロザース先生の「どんなことも神さまに感謝し賛美する」――ということを実践してもいるわけですが、少なくともわたしがノンクリスチャンだった頃は、常に自分の努力の力や「肉の腕に頼る」という生き方だったわけです。
今回取り上げた聖書箇所の中で、聖パウロは、>>「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」と述べているのですけれども、普通は、何かのことで戦争が起き、負けた側の軍隊やその国民というのは捕虜として相当惨めな思いをしなくてはなりませんでした。
家々は火で焼かれ、そこから引き立てられた人々は自由を奪われ、敵の軍隊の命令に従わなくてはなりませんでした。たとえば、自分が今住んでいる場所から強制的に敵の命じるままに移動していかなくてはならなかったり、またその移動というのも悲惨極まりないものだったと思います。
長時間歩いて移動する間、逃げないように体の一部を拘束されたり、モタモタしていたとすれば、敵の兵士が暴力を振るってきたり……十分な食料や水も与えられぬまま、まったく自分の知らない土地まで歩いていかなくてはならなかったのです。
また、その時に家族の全員が一塊になって移動できるわけではなかったでしょうし、その安否が絶えず気になったり、あるいは父親や兄弟が一緒だったにしても、目の前で突然見せしめとして敵兵士に殺されるといったこともあったでしょう。
けれども、こうした悲惨極まりない中でこそ、人というのは「神などいないに違いない」と考えるというよりも――もはや、「嗚呼、神さま!嗚呼、神さま!!」といったこの上もなく打ち砕かれた心情にある時にこそ「神さまを真実必要とし、信じる」ものなのではないでしょうか。
旧約聖書には神さまに選ばれた民イスラエルが、この神さまに背いた結果として、他の国の軍隊に破れ、最終的に捕虜として捕え移されるという姿が描かれているわけですが、その後、イエスさまがこの世界にお生まれになり、新約聖書の時代となりました。
>>「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた」
(コリント人への手紙第二、第6章2節)
つまり、「今」という恵みの時代にイエスさまのことを信じるなら……わたしたちは本当なら罪の奴隷として惨めさの極みの中でとぼとぼと歩いていかなければならないはずなのに、そうではなく、イエスさまの勝利の凱旋行列に加えていただけるということなのです。
この<違い>というのがどれほどのことか、わかっていただけるでしょうか。
普通、捕虜というのものは、首に縄をかけられた状態で敵の兵士に引き立てられ、自由もなく惨めな思いで「何故こんなことになったのだろう」とか「自分の何がいけなかったのか」と思いながら、とぼとぼと長い距離を歩いていかなくてはならないものだと思います。
でも、イエスさまのことを信じるなら、この罪のくびきから解放され(何故なら、わたしたちを訴える罪の書かれた証書を、イエスさまが十字架の血潮の力によって無効にしてくださったからです)、どんな長い距離も足どり軽く、勝利の思いに満ちて小躍りしながら歩いていくことが出来るのです。
また、仮に敵の捕虜になっていなくても、人の歩みというのは「自分もいつそうなるかわからない」という不安や恐怖に満ちたものでもあり、イエスさまはそのような人の不安や恐怖といったものも理解し、救ってくださる方でもあるのです。
>>あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。
あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。
「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である」
(申命記、第20章1~4節)
>>「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」
(歴代誌第二、第20章15節)
どうか、神さまの恵みによって、このイエスさまの救いを受け取ってくださるよう願います
聖書に「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日のときのように、心をかたくなにしてはならない」とあるとおり、またいつの日にか、この<恵みの門>が閉じられる日のやって来る前に……。
それではまた~!!
>>キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威をのかしらです。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
(コロサイ人への手紙、第2章9~15節)
いつ、神さまを信じるべきなのか――林修先生流に言うなら、「今でしょっ!!」ていうことになるんでしょうか(もう古いよ☆^^;)
でも、意外に思われるかもしれませんが、人が神さまを真実本当に必要として信じるのは、実は「人生でこの上もなく嫌な思いや惨めな思いを味わっている時」であったり、「信じていた人から裏切られ、捨てられた時」であったり、「病気やその他自分のせいではないことで苦しんでいる時」……など、そうした時なのではないでしょうか。
自分の人生がある程度自分のコントロール下にあり、大小様々な悩みがありつつも、それらが対処不可能というほどでもなく、それなりに努力をすれば克服可能であったりする時……そんなに必死になって神さまに祈り求めるとか、叫び求めるっていうことはない気がします(^^;)
もちろん、わたしも今はクリスチャンであり、どんな小さなことも聖霊さまによってイエスさまに頼っていいということを知っていますし、またマーリン・キャロザース先生の「どんなことも神さまに感謝し賛美する」――ということを実践してもいるわけですが、少なくともわたしがノンクリスチャンだった頃は、常に自分の努力の力や「肉の腕に頼る」という生き方だったわけです。
今回取り上げた聖書箇所の中で、聖パウロは、>>「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」と述べているのですけれども、普通は、何かのことで戦争が起き、負けた側の軍隊やその国民というのは捕虜として相当惨めな思いをしなくてはなりませんでした。
家々は火で焼かれ、そこから引き立てられた人々は自由を奪われ、敵の軍隊の命令に従わなくてはなりませんでした。たとえば、自分が今住んでいる場所から強制的に敵の命じるままに移動していかなくてはならなかったり、またその移動というのも悲惨極まりないものだったと思います。
長時間歩いて移動する間、逃げないように体の一部を拘束されたり、モタモタしていたとすれば、敵の兵士が暴力を振るってきたり……十分な食料や水も与えられぬまま、まったく自分の知らない土地まで歩いていかなくてはならなかったのです。
また、その時に家族の全員が一塊になって移動できるわけではなかったでしょうし、その安否が絶えず気になったり、あるいは父親や兄弟が一緒だったにしても、目の前で突然見せしめとして敵兵士に殺されるといったこともあったでしょう。
けれども、こうした悲惨極まりない中でこそ、人というのは「神などいないに違いない」と考えるというよりも――もはや、「嗚呼、神さま!嗚呼、神さま!!」といったこの上もなく打ち砕かれた心情にある時にこそ「神さまを真実必要とし、信じる」ものなのではないでしょうか。
旧約聖書には神さまに選ばれた民イスラエルが、この神さまに背いた結果として、他の国の軍隊に破れ、最終的に捕虜として捕え移されるという姿が描かれているわけですが、その後、イエスさまがこの世界にお生まれになり、新約聖書の時代となりました。
>>「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた」
(コリント人への手紙第二、第6章2節)
つまり、「今」という恵みの時代にイエスさまのことを信じるなら……わたしたちは本当なら罪の奴隷として惨めさの極みの中でとぼとぼと歩いていかなければならないはずなのに、そうではなく、イエスさまの勝利の凱旋行列に加えていただけるということなのです。
この<違い>というのがどれほどのことか、わかっていただけるでしょうか。
普通、捕虜というのものは、首に縄をかけられた状態で敵の兵士に引き立てられ、自由もなく惨めな思いで「何故こんなことになったのだろう」とか「自分の何がいけなかったのか」と思いながら、とぼとぼと長い距離を歩いていかなくてはならないものだと思います。
でも、イエスさまのことを信じるなら、この罪のくびきから解放され(何故なら、わたしたちを訴える罪の書かれた証書を、イエスさまが十字架の血潮の力によって無効にしてくださったからです)、どんな長い距離も足どり軽く、勝利の思いに満ちて小躍りしながら歩いていくことが出来るのです。
また、仮に敵の捕虜になっていなくても、人の歩みというのは「自分もいつそうなるかわからない」という不安や恐怖に満ちたものでもあり、イエスさまはそのような人の不安や恐怖といったものも理解し、救ってくださる方でもあるのです。
>>あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。
あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。
「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である」
(申命記、第20章1~4節)
>>「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」
(歴代誌第二、第20章15節)
どうか、神さまの恵みによって、このイエスさまの救いを受け取ってくださるよう願います
聖書に「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日のときのように、心をかたくなにしてはならない」とあるとおり、またいつの日にか、この<恵みの門>が閉じられる日のやって来る前に……。
それではまた~!!
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