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【大魚に吐き出されたヨナ】ギュスターヴ・ドレ
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
人類の始祖、アダムが罪を犯した時、神さまは仰せられました。
>>あなたはチリから生まれたのだから、チリに帰らなければならない(創世記、第3章19節)と。
ですが、神さまはこのチリ(土)から生まれたに過ぎない者を惜しまれ、御自身がお造りになった人間に対する愛ゆえに――わたしたちの肉体はいずれ土に帰すけれども、その内にある霊は御子イエス・キリストにより、栄光輝く霊のからだを与えられ、甦ることが出来る……そのようなお約束を人間にくださったのでした。
まあ、普通に考えた場合、「霊の体だって?
」といったところかもしれません(笑)。
わたしの持っている聖書の欄外注には、
††人間=神が造られた被造物を支配する者として、神のかたちに創造された存在。肉体と霊の二つの構成要素からなる。人間は罪を犯して堕落したため、神のかたちはゆがめられたが、神の恵みにより、キリストの贖いを信じる者は救われ、神のかたちを回復することができる。
とあります。
つまり、わたしたち人間の肉体はいつか滅びるが、霊はその後も生き続けるということです。
また、キリスト教のみならず、これと似たことを言っている宗教は他にもありますし、そもそも人間の間で宗教なるものが生まれたのも――人間が「いつか自分は死ぬ」ということを十分理解できるまでに脳が進化したからだ……ということのようです。
それはさておき、キリスト教の場合、「十字架上でわたしたち人類の罪を贖い、イエス・キリストがその三日のちに甦られたこと」、このことを信じる者が唯一、キリストと同じように死してのち、同じように霊のからだをいただいて甦ることが出来るとされています。
されています……という言い方はまあ、おかしいかもしれません。何故かというとわたしはキリスト教徒であり、絶対に甦ることが出来ると太字で書いてもいいくらい、そのことを信じているわけですから。
ですが、ノンクリスチャンの方々にしてみれば「何故そんな馬鹿らしいことを信じることが出来るのだろう、あのキリスト教徒という連中は……
」という、そうしたことになるのではないでしょうか。
とにかく、常人の神経で理解しようとした場合、このことはどう考えても理屈に合わないことであるような気がします。わたしも自分がクリスチャンになる前、日本人以上に科学の力を信奉している欧米の人々が、そのような宗教心をどのようにして同時に持つことが出来るというのか――とても不思議でした。
もちろん、今は理解しています。
聖書にこう書かれていることによって。
>>神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊(聖霊)を私たちの心に与えてくださいました。
(コリント人への手紙第二、第1章22節)
>>またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国(天国)を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
(エペソ人への手紙、第1章12~13節)
神さまが、イエス・キリストがわたしたち人間を愛しており、天国という御国をすでに備えてくださっているとわかるのは……この聖霊によってです。もっとも、それは肉体のどこかに目に見える形によって表れるものではありませんから、わたしたちの霊・魂そのものに押された証印ということになるでしょう。
ですから、キリスト教の信者同士では、「あなたにもわたしにもそのような印がすでに霊・魂に証印として押されている」と理解しているわけですが、未信者の方がこうしたことを聞かされたとすればどうでしょうか。
「イエス・キリストを信じた瞬間、あるいはそれ以後にそのような印(しるし)が体のどこかにでも聖痕のような形によってでも表れる……というのなら、信じてもいい
」ということになるのではないか、という気がします。
けれども、神さま、イエス・キリストの知恵はそんなしるしを求める人間の知恵や知識などより、遥かに上回ってます。もしかしたらこう書くのは少々語弊があるかもしれませんが、イエスさまの十字架上の罪の贖いを信じるというのは、土地の売買契約でいうところの、手付金を支払ったその保証として聖霊(御霊)が与えられる……そうたとえたとしても、間違いではないでしょう。
つまり、「わたしたちはイエスさまを信じました。だから、天国にはわたしたちの魂が住むべき土地があります。その土地の代金として、信仰という名の手付金を支払います」、「では、あなたに天国に住むべき土地が与えられた保証として、わたしはあなたに聖霊(御霊)をあげましょう」……こう表現しても、聖書の文脈からいって、間違いではないと思います。
けれど、やはりこうしたこともまた、信じておられない方には馬鹿らしいことではないでしょうか。まるで、小さな子供が砂場で城を立て、隣の友達に「将来、死んで魂だけになったら、オレはこの天国の城に住むんだ。そしたら、おまえのことも住まわしてやってもいいよ」と言い、その小さなお友達のほうでは、「わあい!じゃ、そのかわりにこれあげる」と言って、コインの形をしたチョコレートをいくつかあげる……といったような行為にしか見えないだろうからです。
>>律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに言った。
「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです」
イエスはお答えになった。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」
(マタイの福音書、第12章38~40節)
このヨナという人物は、旧約聖書のヨナ書に出てくる人物です。
簡単にいうと、「神さまにしなさい」と言われたことが気に入らなかったので、その神さまの言葉から逃げて船に乗ったところ、その船が嵐にあってしまうのですね。そこで、船に乗っていた人々は、「この嵐は一体誰のせいだろう」というのでくじ引きをし、くじに当たったヨナは船から放り出されてしまいます。
けれども、ヨナはこの苦難の最中にあっても生き延びました。大きな魚に飲み込まれ、その中にいる間、神さまに聞き従わなかったことを心から悔い改めたのです。
手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』の中に、このヨナのお話をヒントにしたのではないかと思われる、鯨か何かに食べられてなお生き延びた男性のお話があったと思うのですが……それはさておき、以下にヨナの神さまへの祈りを書き記します。
>>ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、
主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、
あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真中の深みに
投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、
私の上を越えて行きました。
私は言った。
『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
仰ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを絞めつけ、
深淵は私を取り囲み、
海草は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元まで下り、
地のかんぬきが、
いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです」
主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
(ヨナ書、第2章1~10節)
「大魚の中に三日三晩いて助かった?![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0246.gif)
」、「十字架につけられてのち、三日後に甦った??」……普通に考えた場合、一体誰がこんな話を信じるでしょう。
でも、少なくともわたしは信じていますし、日本中、世界中にこのことを「聖霊(御霊)の一致をもって」信じている人々が、数え切れないほどたくさんいる――というのは、間違いなく事実です。
そもそも、わたしたちが生きているのは、なんによって知られるでしょう。心臓が動いていることによって?それとも、脳が活動していることを、なんらかの形によって他の人に知らせ、コミュニケーションを取ることによってでしょうか?けれど、わたしたちの脳の隅々までを調べ、「これこそわたしだ」、「オレだ」と言える意識のみをメスによって切り分けることはどんな優秀な外科医にも出来ません。
ただ、脳に十分血流が行き渡らなくなると、わたしたちの意識は朦朧とし、その後脳の機能のどこも損なわれることなく、再び血流が十分行き渡るようになると、わたしたちは意識を回復します。また、わたしたちの思考なるものも、絶え間ない脳内の電気信号のおしゃべり……科学的にはどうもそうしたことのようです。
そんなわたしたち人間の一体どこに、霊的いのちがあるかというと――確かに間違いなく、それはあるのです。以前、とある有名な牧師さんが言っていました。「わたしがイエス・キリストを信じて聖霊をいただいたあと体重計に乗っても、キリストを信じる前と体重は変わらないでしょう。けれども、確かにわたしの内側にはイエスがおられるのです」と。また、こうしたお話をした方もあります。「酸素は目に見えません。でも、わたしたちは目に見えなくても酸素のあることを疑いません。何故って、呼吸することが出来ていますからね。ところで、神さまは目に見えません。でも、わたしは酸素の存在を疑わない以上に神を信じています。何故でしょう?聖霊さまによって、これほど強い霊的確信を与えられているのに……否むことは到底不可能だからです」と。
どうか、ひとりでも多くの方が、この神さま、イエス・キリストにより、霊的に深い確信を与えられ――目に見えない「霊的いのち」をいただくことが出来ますように!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
人類の始祖、アダムが罪を犯した時、神さまは仰せられました。
>>あなたはチリから生まれたのだから、チリに帰らなければならない(創世記、第3章19節)と。
ですが、神さまはこのチリ(土)から生まれたに過ぎない者を惜しまれ、御自身がお造りになった人間に対する愛ゆえに――わたしたちの肉体はいずれ土に帰すけれども、その内にある霊は御子イエス・キリストにより、栄光輝く霊のからだを与えられ、甦ることが出来る……そのようなお約束を人間にくださったのでした。
まあ、普通に考えた場合、「霊の体だって?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0202.gif)
わたしの持っている聖書の欄外注には、
††人間=神が造られた被造物を支配する者として、神のかたちに創造された存在。肉体と霊の二つの構成要素からなる。人間は罪を犯して堕落したため、神のかたちはゆがめられたが、神の恵みにより、キリストの贖いを信じる者は救われ、神のかたちを回復することができる。
とあります。
つまり、わたしたち人間の肉体はいつか滅びるが、霊はその後も生き続けるということです。
また、キリスト教のみならず、これと似たことを言っている宗教は他にもありますし、そもそも人間の間で宗教なるものが生まれたのも――人間が「いつか自分は死ぬ」ということを十分理解できるまでに脳が進化したからだ……ということのようです。
それはさておき、キリスト教の場合、「十字架上でわたしたち人類の罪を贖い、イエス・キリストがその三日のちに甦られたこと」、このことを信じる者が唯一、キリストと同じように死してのち、同じように霊のからだをいただいて甦ることが出来るとされています。
されています……という言い方はまあ、おかしいかもしれません。何故かというとわたしはキリスト教徒であり、絶対に甦ることが出来ると太字で書いてもいいくらい、そのことを信じているわけですから。
ですが、ノンクリスチャンの方々にしてみれば「何故そんな馬鹿らしいことを信じることが出来るのだろう、あのキリスト教徒という連中は……
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0200.gif)
とにかく、常人の神経で理解しようとした場合、このことはどう考えても理屈に合わないことであるような気がします。わたしも自分がクリスチャンになる前、日本人以上に科学の力を信奉している欧米の人々が、そのような宗教心をどのようにして同時に持つことが出来るというのか――とても不思議でした。
もちろん、今は理解しています。
聖書にこう書かれていることによって。
>>神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊(聖霊)を私たちの心に与えてくださいました。
(コリント人への手紙第二、第1章22節)
>>またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国(天国)を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
(エペソ人への手紙、第1章12~13節)
神さまが、イエス・キリストがわたしたち人間を愛しており、天国という御国をすでに備えてくださっているとわかるのは……この聖霊によってです。もっとも、それは肉体のどこかに目に見える形によって表れるものではありませんから、わたしたちの霊・魂そのものに押された証印ということになるでしょう。
ですから、キリスト教の信者同士では、「あなたにもわたしにもそのような印がすでに霊・魂に証印として押されている」と理解しているわけですが、未信者の方がこうしたことを聞かされたとすればどうでしょうか。
「イエス・キリストを信じた瞬間、あるいはそれ以後にそのような印(しるし)が体のどこかにでも聖痕のような形によってでも表れる……というのなら、信じてもいい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0202.gif)
けれども、神さま、イエス・キリストの知恵はそんなしるしを求める人間の知恵や知識などより、遥かに上回ってます。もしかしたらこう書くのは少々語弊があるかもしれませんが、イエスさまの十字架上の罪の贖いを信じるというのは、土地の売買契約でいうところの、手付金を支払ったその保証として聖霊(御霊)が与えられる……そうたとえたとしても、間違いではないでしょう。
つまり、「わたしたちはイエスさまを信じました。だから、天国にはわたしたちの魂が住むべき土地があります。その土地の代金として、信仰という名の手付金を支払います」、「では、あなたに天国に住むべき土地が与えられた保証として、わたしはあなたに聖霊(御霊)をあげましょう」……こう表現しても、聖書の文脈からいって、間違いではないと思います。
けれど、やはりこうしたこともまた、信じておられない方には馬鹿らしいことではないでしょうか。まるで、小さな子供が砂場で城を立て、隣の友達に「将来、死んで魂だけになったら、オレはこの天国の城に住むんだ。そしたら、おまえのことも住まわしてやってもいいよ」と言い、その小さなお友達のほうでは、「わあい!じゃ、そのかわりにこれあげる」と言って、コインの形をしたチョコレートをいくつかあげる……といったような行為にしか見えないだろうからです。
>>律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに言った。
「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです」
イエスはお答えになった。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」
(マタイの福音書、第12章38~40節)
このヨナという人物は、旧約聖書のヨナ書に出てくる人物です。
簡単にいうと、「神さまにしなさい」と言われたことが気に入らなかったので、その神さまの言葉から逃げて船に乗ったところ、その船が嵐にあってしまうのですね。そこで、船に乗っていた人々は、「この嵐は一体誰のせいだろう」というのでくじ引きをし、くじに当たったヨナは船から放り出されてしまいます。
けれども、ヨナはこの苦難の最中にあっても生き延びました。大きな魚に飲み込まれ、その中にいる間、神さまに聞き従わなかったことを心から悔い改めたのです。
手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』の中に、このヨナのお話をヒントにしたのではないかと思われる、鯨か何かに食べられてなお生き延びた男性のお話があったと思うのですが……それはさておき、以下にヨナの神さまへの祈りを書き記します。
>>ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、
主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、
あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真中の深みに
投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、
私の上を越えて行きました。
私は言った。
『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を
仰ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを絞めつけ、
深淵は私を取り囲み、
海草は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元まで下り、
地のかんぬきが、
いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです」
主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
(ヨナ書、第2章1~10節)
「大魚の中に三日三晩いて助かった?
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でも、少なくともわたしは信じていますし、日本中、世界中にこのことを「聖霊(御霊)の一致をもって」信じている人々が、数え切れないほどたくさんいる――というのは、間違いなく事実です。
そもそも、わたしたちが生きているのは、なんによって知られるでしょう。心臓が動いていることによって?それとも、脳が活動していることを、なんらかの形によって他の人に知らせ、コミュニケーションを取ることによってでしょうか?けれど、わたしたちの脳の隅々までを調べ、「これこそわたしだ」、「オレだ」と言える意識のみをメスによって切り分けることはどんな優秀な外科医にも出来ません。
ただ、脳に十分血流が行き渡らなくなると、わたしたちの意識は朦朧とし、その後脳の機能のどこも損なわれることなく、再び血流が十分行き渡るようになると、わたしたちは意識を回復します。また、わたしたちの思考なるものも、絶え間ない脳内の電気信号のおしゃべり……科学的にはどうもそうしたことのようです。
そんなわたしたち人間の一体どこに、霊的いのちがあるかというと――確かに間違いなく、それはあるのです。以前、とある有名な牧師さんが言っていました。「わたしがイエス・キリストを信じて聖霊をいただいたあと体重計に乗っても、キリストを信じる前と体重は変わらないでしょう。けれども、確かにわたしの内側にはイエスがおられるのです」と。また、こうしたお話をした方もあります。「酸素は目に見えません。でも、わたしたちは目に見えなくても酸素のあることを疑いません。何故って、呼吸することが出来ていますからね。ところで、神さまは目に見えません。でも、わたしは酸素の存在を疑わない以上に神を信じています。何故でしょう?聖霊さまによって、これほど強い霊的確信を与えられているのに……否むことは到底不可能だからです」と。
どうか、ひとりでも多くの方が、この神さま、イエス・キリストにより、霊的に深い確信を与えられ――目に見えない「霊的いのち」をいただくことが出来ますように!
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