神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神は、脳がつくった。-【1】-

2021年06月14日 | キリスト教


 最近、「神は、脳がつくった」という本を読んだのですが、簡単に本の内容の紹介をするとしたら、たぶん章のタイトルを並べるのが一番わかりやすいかもしれません。


 第1章 ホモ・ハビリス~より賢くなった自己~

 第2章 ホモ・エレクトス~自分がわかる自己~

 第3章 古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人)~思いやりのある自己~

 第4章 初期ホモ・サピエンス~自分の心を見つめる自己~

 第5章 現代ホモ・サピエンス~時間を意識する自己~


 ちなみに、全部で第8章まであるのですが、わたしたちのご先祖さまのホモ・ハビリスはまだ今日のわたしたちのように心の理論を得ておらず、その心は「空白」だったと言います(これが今からおよそ200万年前)。そして、次にホモ・エレクトスとして進化したわたしたちのご先祖さまは、自己認識能力を発達させました(今からおよそ180万年前)。それから古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人)は、他者が考えていることに気づく能力、つまり心の理論を手に入れたと言います(今からおよそ20万年前)。

 また、ネアンデルタール人が死者に花を手向けるといった、「思いやりのある心」を持っていた……というエピソードを、学校で習った記憶のある方も多いのではないでしょうか。

 さらに人類の進化は続きます。今から約10万年前、初期ホモ・サピエンスは「自分について考えている自分について考える内省能力」を身に着けたと言います。そしてとうとう――ホミニン(ヒト族)は、およそ4万年前に現代ホモ・サピエンスとして自伝的記憶を手に入れました。この自伝的記憶というのは、自分を過去や将来に投影する能力のことで、過去の経験を活かして将来に向けた計画を立てる能力でもあります。

 この現代ホモ・サピエンスというのは、わたしたちのことだったりするわけですが(笑)、本の大筋として大切なのは、「まず、我々人類が神殿などを造って神を崇めだすためには――心の理論を得て、ここまで脳が進化してこない限り、ありえないことだった」とうことだと思います。

 そして、「人はいつか必ず死ぬ」ということにこんなにもはっきり気づいたのは、現代ホモ・サピエンスだけだそうです。ネアンデルタール人なども、人が死ぬと埋葬するといった行動は見られるものの、他人が死ぬことに気づく=自分も同じように必ず死ぬ、といったように認識するとは限らないということなんですよね。たとえば象などでも、死んで亡くなった仲間に対して、水をかけたりとか色々、人間の目から見れば「気遣っている」ように見える行動があります。でも、だからいって象が「自分もいつか同じように死ぬ」と認識しているとは限らないわけです。

 また、埋葬行為といったことについては、死体が腐ってくると他の危険な動物が近くにやってくる可能性もありますし、そうした実際的な脅威から身を守るためでもあったのではないかと考えられているそうです。つまり、この心の理論というのは、子供の成長にたとえるとわかりやすいということでした。子供は二歳くらいには、鏡に映っている自分に気づく……これが、ホモ・エレクトスの「自分に気づく自己」ということであり、また、自分以外にも他者がいるということにも気づいているにしても、相手が自分と同じように何かの物事について感じたり考えたりする、このことに気づくのが次の段階で、心の一次理論と呼ばれているそうです(つまり、古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人)の段階で、彼らは「心の理論」を手に入れた)。そして、初期ホモ・サピエンスはさらに次の段階である心の二次理論――「他者が自分をどう見ているかに気づく、そして、他者が自分についてどう考えているかを自分自身でも考える」……これが初期ホモ・サピエンスが手に入れた<内省的な自己>ということのようです。

 そして我々現代ホモ・サピエンスは、ここにくわえてさらに、「過去に起きたことに思いを馳せ、また過去の経験を未来に投影して考えることまで出来る」計画立案能力を手に入れた……ここまでやって来て初めて、計画的に農耕計画を立てたり、牧畜計画を立てたりすることが出来るようになってくるそうです。

 そして、過去の経験を未来に投影できるということは……我々人間という存在は「いつか必ず死ぬ」ということに決定的にはっきり気づく、ということでもあった。そこで、この<死>ということが及ぼす恐怖や不安をやわらげるために、人類の脳は<神>、あるいは<神々>というものを無数にも等しい数、次から次へと歴史上に作りだしてきた――という、本の主旨としては大体のところ、そうしたことなのではないでしょうか。

 あ、わたし、一応ちゃんとした(?)キリスト教徒ですよ(^^;)けれども、特に進化論について否定もしていませんし、こうした科学的事実を並べた本を読んでも、わたし個人のイエス・キリストに対する信仰は一切揺るぎません。

 それで、今回はまず、人間が「いつか我々は必ず死ぬ」ということに気づいたことがおそらく、我々のご先祖の現代ホモ・サピエンスが神や神々を崇めはじめる大きな理由だったのだろう……というところまで、とりあえず説明しましたm(_ _)m

 もしわたしたちが「いつか死ぬ」存在であるとしたら――毎日食べることにも、食べるために労することにも、子孫を作ることも、その子孫に財産を残すことにも、一体なんの意味があろう……ということになるわけですが、肉体は死んでも、わたしたちの精神・心・霊魂といったものは死後も生き続けるのだ……そう考えることで、わたしたちは「人生に意味などない」という結論から、「より良い人生を生きるべく、努力することには意味があるのだ」といったように、どうにか残酷な運命の結末に抗弁することにした、ということなのではないでしょうか。

 さて、次回は少し話が飛ぶように思われるかもしれませんが、わたしたちの脳がこのように「我々、あるいは自分が生きることには必ず意味があるはずだ」と考えたがる理由について、少し考えてみたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!






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