神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人の悩み事を聞く。

2023年04月22日 | キリスト教

 割と最近、人の悩みを聞いていて、ふと思ったことがありました。

 わたしもそうとは思いますが、何か悩み事があると、常にそのことが頭の片隅にあって楽しいことをしていても本当には楽しくなかったり、その悩みや苦しみが重くのしかかるあまり、喜んでいるように見えても本当には喜んでいない……など、そんなふうになったりするものだと思います。

 つまり、検索項目に今のトレンドとして第1位とか第2位とか、そんな順位があるらしいのですが、自分の心の「悩み・苦しみ」のトレンド(?)として、毎日、毎分毎秒第1位としてそれがまず真っ先に心の第1位になる――ということですよね。

 それで、検索項目のトレンド的なことは、次の日には入れ代わっている場合が多く、そんなに長続きしたりしません。でも、わたしたちの「悩み・苦しみ」の第1~3位くらいにあるものって、ものすご~く長くそこに居座り続けているからこそ、悩んだり苦しんだりしているという、そうしたものだと思うわけです。

 まあ、恋愛上の悩みとか、結婚生活の苦しみについてとか、人の話を聞いてると、大体のところ別れたり、パートナーを変えたりでもしない限り、毎回同じところをループするように繰り返ししゃべってるって、結構多いと思います。特にそのことの何が悪いとか、「またその話ィ!?」と思うでもなく、「そのことが今、一番重いか面倒くさいこととして心に何度も思い浮かんでくるんだな」というのはよくわかるので、適当に相槌打ちつつ聞きます。なんでかと言えば、大抵の悩みごとってそうですよね。単になんとなく共感して聞いてもらえればいいっていうことって、ほとんど日常的にあることだと思うので。

 それで、悩み事の深刻度って、相手の顔の表情や声のトーンなどによってもわかる場合があると思うんですけど、わたし的に割と最近、「病的・どこか脅迫的なくらい、同じことを繰り返ししゃべる」パターンを久しぶりに経験しました。

 いえ、その方の場合は病気のことだったので、何度も同じことを繰り返し話されても、割と根気よく聞きました……というか、そうするのが当然と思って、話してること毎回同じなんだけれど、大体のところ「うん、うん」と頷きつつ、「ああしたらどう?」、「こうしたら?」みたいに時々意見しつつ、残りの部分は相手が欲求不満的に感じている部分をただ黙って聞いてる感じでした。

 以前、ガンになった方の話を聞いてる時にも同じようなことがあったなあ……なんて思ったりしたんですけど、その方の場合は、命に何か関わるという病状ではなく、最初にかかったお医者さんには、暫くの間は薬を飲み続けて、腫瘍が小さくなったら手術しましょう、と言われたということだったんですよね。喉に出来た良性の腫瘍ということだったんですけど、結構キツい薬らしく、髪の毛が抜けることをすごく気にしていました。そして、その1年後――薬で腫瘍も小さくなってきたし、そろそろ手術……という段になってから、すごく不安になってきたわけです。手術したあとに声が掠れるであるとか、そういうことがあったらどうしよう、と。

 それで、その1年の間、大体一月に一度結構大きめの総合病院にかかっていたわけですが、どうもその先生に対して「ほんとに大丈夫かなあ、この先生」という、不審の念が育ってもきた。その先生は内科の先生なんだけれど、手術するとしたら当然外科の先生が行なうわけで、今度は外科を受診してみたところ……手術をせずに、このまま薬を飲み続けてもいいし、放射線療法などもある――と、言われたとのことでした。でも内科の先生は手術したほうがいい、ちょっと腫瘍取るだけのことだから、すぐ済みますよ、と言われたと説明すると、「いや、そんなに簡単なものじゃないですよ。心配されてるように、声が掠れるとか、そういうことも絶対100%ないとも言い切れないし、腫瘍自体、今はまだ手術しなきゃならないほど大きくもない」……まあ、彼女にしてみれば、この時心の中で「こ~の~や~ろ~!!」と、この感じのいい外科の先生ではなく、内科の先生に対して思ったそうです。

 でも、医者・患者の関係性の中でよくあることだと思うんですけど、基本的に「医者や看護師・介護員といった医療関係者と喧嘩して、いいことはあまりない」っていうのは、個人的に本当にそうだと思います(とか言って、わたしも一回怒鳴ったことあるけど^^;)。

 つまり、彼女にしてみれば「薬で腫瘍が小さくなったら手術……」ということが常に頭にあるため、その一年の間、ずっとそのことが心にあって、何をしている時も心がモヤモヤしていた。もし最初から外科の先生にそう聞いていたら、その一年の間の心のモヤモヤは、そんなにひどいものでなくて済んだということなわけです。

 今は手術しなくても他の治療法もあるということで、その方向でお願いしようと思ってる……ということなんですけど、実は他の病院でもまったく見立ては同じなのか、いわゆるセカンドオピニオンをしようかどうしようかでも悩んでいるということでした。普通の意見としてはまあ、「うん、絶対そうだよ。そうしたほうがいいよ」となると思うのですが、結局のところその内科の先生のお世話にならなければならない結果で終わるかもしれず、そのことでも心がモヤモヤして悩んでいる――ということでした。

 それで、そうした話を何度もずっと聞いてるうち、ふと思ったことがありました。今まで人の悩み事を聞く過程において、特に「これこそナイス・アドバイス!!」的なものを語ろうと思ったことは一度もないのですが、人間は誰しも「これが本当に最良の選択か否か」ということで悩むのではないだろうか……ということを。

 人は朝起きてから夜眠るまで、朝ごはんに何を食べるか、昼ごはんを誰と食べるか、夕食の食材をスーパーで選ぶといった選択も含め、大体3万5千回は無意識のうちにも何かを決定しているという話。人間は常に、右でも左でも、実際はどちらでもあまり変わりないことも含め、「最良の選択」をしていたい。でも結局、それは選択した時は「正しい」ように思ったとしても、その後その結果の刈り取りをする過程で、実は自分が間違っていたとわかった……そんなことがあったりするのが普通と思います。

 また、その間違いがすぐリカバリー出来る範囲内のものならいいのだけれど、大抵はそうもいかないことについて人はくよくよ悩むものだ……という話でもありますよね。

 なんにしてもわたし、このことでも彼女が「手術せずに癒されますように」と祈っていて、確かに手術ではない、別の治療法が選択されつつあるわけですけど、なかなか難しいというか、微妙な問題だなあと思ったりもしていて。イエスさまのことを信じてほしいなと思ったので、彼女がそうした病気になるずっと前に教会へ一緒に行ったこともあるのですが、「う~ん。私はあまり……」という感じで終わっていました。

 とはいえ、そのことでふと思いだしたことがあったというか。これは結構前のことなんですけど、「最近痩せてきて、自分はガンなんじゃないかと思う」と、すごく心配されていた方のことを祈っていたところ、病院へ行ったらガンではなく、まったく別の病気で、投薬治療で劇的に回復された方がいました。あと、こちらは割と最近、「医者に大腸ガンの疑いが濃厚と言われた。言葉を濁してはっきり言いたがらないところをみると、相当ガンが進んでるんだろう」……ということで、この方の場合ほとんど入院して手術する覚悟まで決めていたものの、病院へ行ったらガンということではなく、手術もしなくてもいいということでした。

 わたし自身も「祈っても、ガンはガンで消えるということまでは難しいかなあ」とか思ってました。一応、証しではそうしたお話は聞いていても、その方はノンクリスチャンでもあるし、難しいかな……とか思ったりしてたわけです。

 でも、本当に癒されて良かったと思います。その他、普段日々祈っていて無駄ということはないというか、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し、賛美する」ことに基礎を起きつつ、祈ることには本当に力があると思わされることが多いです。

 それではまた~!!





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