神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

希望のない人生。

2023年04月06日 | キリスト教
【「母さんや、今日はしけたツラした客ばっかだな」、「人間の世界も色々大変なのよ」】

 地球上に存在する動物の中で、人間だけが唯一、希望がないと生きられない生き物だ……と、昔新聞の記事か何かで読んだことがありました。

 それで、割と最近『疲労回復専門医が教える、疲れないからだになれる本』(梶本修身先生著/三笠書房刊)という本を読んだのですが、そこにこう書いてあったんですよね


 >>「ライオンは過労死しない」といわれています。

 これは、ライオンの場合、「前頭葉」が発達していないからです。そのため、「疲れた」という感覚が、正直に行動に反映されます。疲れたら、たとえ獲物を獲るという目標が達成されていなくても、追いかけるのをやめてしまうので「ライオンは絶対に過労死しない」のです。

 人間は、「欲の塊」といわれます。前頭葉が発達しているので、何かを達成できると、その体験が成功体験として記憶に刻まれ、「もっと成果を上げたい」という次への欲求につながっていきます。

 仕事をしていて達成感や充足感が湧いたときには、「β-エンドルフィン」といわれる快楽物質が脳内を支配している状態になります。そのため、実際には疲れていても、疲労感を覚えづらくなり、つい無理をしてしまうことがあります。

 ですから、たとえあまり疲労感を感じていなかったとしても、「少なくとも仕事をしたぶんだけ、いつもと同じように疲れているのだ」と自覚することが必要なのです。

(『疲労回復専門医が教える、疲れないからだになれる本』(梶本修身先生著/三笠書房刊))


 また、別の本を読んでいて、人間は脳の進化の過程において、高度に発達したがゆえに希望がないと生きられないようになった……ということなんだなって思ったことがあります。

 つまり、自分の人生をある程度細かいところまで振り返って(内省する能力)、さらにはそのことによって未来をこうすべきだろう――といった見通しをつけることが出来るようになったことで初めて、農耕するということが可能になった、ということなんですよね。

 簡単にいえば、種を蒔いたら、大体このくらいで発芽して成長し、収穫できる……といったことって、今のわたしたちにとってはその作物をどのくらいの時期に種を蒔いて手入れをし、収穫できるのはいつ頃かって、育てたことのあるものなら大体わかると思います。また、自分で育てたことのない植物については、本かネットででも調べればすぐ出てきます。

 でも、そうした食糧計画についてって、やっぱり辿っていくと「このあたりに発祥がある」みたいなことが当然あって(興味のある方はジャレド・ダイアモンド博士の名著、『銃・病原菌・鉄』を読みましょう・笑)、そこまで脳が発達する前は逆にいうと人間って「他の動物同様希望がなくても生きられた」ということでもあると思うわけです(^^;)

 動物だって当然、人間に虐待されたとか、罠があったとか、嫌なことがあった場所には二度と近寄らないといった本能に根ざした能力があると思うんですけど、人間は同じ動物でももっと細かいところまで過去の経験と照らし合わせて理解してると思うんですよね。そして、わたし的に思うに、「これこれのことをしたら、これだけの報酬(報い)がある」っていうのは、生きる欲望の計画とかなりのところ直結してると思うわけです。

 人間にとっての希望がない状態っていうのは――「これだけのことをしたのに、なんの報いもなかった」っていうことの積み重ねって、結構大きいと思います。運のいい人、悪い人……という考え方が正しいのかどうかはわかりませんが、割と人生の最初から環境的に条件が揃っていたことで努力した分の報いを受けやすい方っていうのは、確かに存在すると思います。一方、反対にいつでも誰か他の人が報酬の一番いい部分を取ってしまって、その残りが自分にようやく回ってくる……ということが何度となく繰り返され、いつしか「それが自分が生まれ持った運命なのではないか」とさえ思う方もいると思います。

 ここはキリスト教について何か書くというブログなので、時々話のほうが極端にそちら寄りになるわけですが、キリスト教徒、クリスチャンと呼ばれる人々は、究極イエス・キリストにのみ希望を見出します。これは人間の脳の構造にはある意味反することのような気がするのですが、とにかく祈っていると必ず何か起きます(笑)。

 もう少し正確にいうと、マーリン・キャロザース先生の「すべての起きたこと、いいことも悪いことも神さまに感謝し、賛美する」ということを実践しつつ、とにかく祈るわけです。それで、祈ってる時に「こういうものを取り除け」とか、何か指示されるようなことがあったら、吟味ののち、それを実行します。このあたり、自分が解決して欲しい問題と全然関係ないように思われることもあります。また、自分でも「そう語られたような気がするんだけど、ただの気のせいかも……」くらいのことでも、「とりあえず、やるだけやってみよう」ということをやってみるだけでも全然違うと思います。

 人間の行動には、基本的に限界の枠のようなものがあって、「自分では自分なりに自分の出来ることを精一杯やったつもりなのに~!!」みたいなことを繰り返していても結果が出ない場合、それはもう自分の限界を超えた出来事なので、「これはもうわたしには出来ません」として、そのことをすべて感謝した上で、イエスさまにお渡しするわけです。


 >>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

(コリント人への手紙第一、第15章19節)


 >>神に信頼する者は、失望させられることがない。

(ローマ人への手紙、第10章11節)


 単なる希望、とはなんでしょう。

 わたしたちは毎日、おそらくは朝起きてから夜眠るまでの間、特に無意識の内にも「なんらかの希望」を見出そうとする性質を持っているものだと思います。

 ところが、もともとが割と楽観的で明るい性格の方でも――「あれをやってもダメだったし」、「これをやってもダメだった」ということが重なると、いつしか無意識の内にも「どうせわたしなんか、何に挑戦したってダメなんだ」みたいなことが刷り込まれてしまい、これが人間に限界の枠を作ります。

 コリント人への手紙、第15章にある「希望」とは、前節のほうを読んでみると、「イエス・キリストが三日後に甦ったことを信じていないなら」、そのことに希望を抱いていない信者の信仰は虚しい……といった意味に読めることが書いてあります。

 これはイエス・キリストの復活を信じていないノンクリスチャンの方にとっては、「そうした種類の希望のことではなくて」、「人生一般の希望の話について聞きたいんだけど」ということであるかもしれません。でも、自分では超えられない限界の枠を神さまが超えさせてくださるというのは――そのことを心の底から信じ、魂の奥底から同意するなら――わたしたちの無意識の内から、聖霊さまによる限界のない神さま、イエスさまの解放が起きてくるということです。

 また、逆にいうとしたら、そのくらいのことをしてくださる神さまでもない限り、信じても仕方ないのではないでしょうか。もうひとつの聖書からの引用は、>>「神に信頼する者は失望させられることがない」というものですが、まあ、普通思いますよね。これはクリスチャンの方でも「神さまに信頼していたのに、失望させられるような経験をした」という方はいらっしゃると思います。

 わたしの場合、自分の人生上の都合の良いことに希望をおき、そのせいで裏切られたとかひとりで勝手に思っていたようなものなので、神さまに信頼していたのに失望させられた……といったこととは、意味が違うとは思います。でも、信仰を持った最初の頃というのは特に、こうした勘違いをしやすいものなので、聖霊さまの解き明かしと導きというのは、とても大切と思うんですよね。

「これこれのことをしたら、これだけの報酬がある」といったことは、人間の脳には報酬系と呼ばれる原始的な回路があるそうなので、そうしたことが生きる強い動機となるのは当然のことだと思います(=「そうした欲望を持つな!」という意味ではなく)。また、人間が強い意欲を持って大きく行動したりすることを決断できるのは、基本的に「そうした見通しがある」、「そうした希望を持てる」時だけだとも言います。

 でも、おそらく運といったこともあるでしょうけれども、それでうまくいけばまあ、後付け的になんとでも言えるにしても、「そうしたところのどこかで人生がうまくいかなかった人」にも、限界に囚われないチャンスがあると思います。それは証しの書かれている本風に書くとしたらようするに「イエス・キリストを信じるというチャンスです」ということなのですが、「人生で成功するかしないか」というのはようするに、人間の限界を縛る枠なわけです。

 その「枠」に囚われない人生の側に舵を切る……そうした新しい人生に希望を置くことも出来るというのは、とても大切なことだと思います。

 それではまた~!!






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