神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

引き寄せ系。

2018年08月20日 | キリスト教


 結構前に、某本屋さんへ行った時……いわゆるスピリチュアル系の本がたくさん並んでいる書棚の前を通りました

 で、大抵そういうのの横とか隣に宗教関係の本も並んでることが多いんですよね(^^;)

 それで、わたし買いはしないんですけど(笑)、そーゆー系の本を読むのも嫌いではないので、まあ、パラパラ読んでみたり。。。

 結構前からいわゆる「幸運引き寄せ系」っていうんでしょうか。そういう本が多く並んでいるのを見かけていて、わたしもちゃんと読んでないので確定的なことは言えないものの……一部分、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」にすごく似てるところがあるな~なんて思ったりしてたんですよね。

 つまり、「あらゆる物事に感謝する」というのは、宇宙の法則として、その人が幸運になる習慣のひとつ――みたいに書いてある本ってありますよね(^^;)

 親に対して感謝とか、自分の配偶者に感謝とか、友だちや恋人や同僚に感謝とか……何ひとつとして当たり前のことなどないんだと気づくことが大切とか――いえ、すごくいいことだと思います、ほんとに

 でも、「祈りましょう。祈ると開運があなたについてまわります」とか……いえ、いいんですよ。祈るという行為自体がとても美しいものだと思うので――でも、自分的になんとなく引っかかりを覚えたと言いますか。。。

「あらゆる物事に感謝する」=(自分が得をするために)、「祈りましょう」=(自分の運が開けて得をするために)……いえ、これだと金太郎飴みたいにどこ切っても自分・自分で苦しくならないのかなあと思ったり(^^;)

 もちろんわたしも、祈って神さまに叶えていただいたことはたくさんあるとはいえ、中核にあるのがそれでないからこそ、神さまは祈りに応えてくださるというか、いいことにも悪いことにも感謝するっていうのも、なんていうか、神さまに対する信頼ですよね。

 結果として、自分の願ったとおりでなくても、神さまにとってそれが最善なら、そのことにも感謝し、喜び讃美するというか♪

 感謝と讃美も祈りも、すべて中核にあるのは「神さま」であって「自分」ではないんですよね。

 でも、特にそういう本を批判しようとか、そういうふうに思っているわけでもなく、結構読むと「いいこと書いてあるな~」と思う部分もありつつ、また、「この部分の考えは自分には合わないな」と思ったら、その部分は取捨選択すればいい……みたいな感じのことなので(^^;)

 なんていうか、結構大きな本屋さんのスピリチュアル系とか宗教の書棚あたりを見ると、本のタイトル見てるだけでも面白いんですよね(笑)宗教も、仏教とキリスト教だけじゃなくて、インドのヨギの瞑想系とか……わたし、こういうのも(自分でも試そうとかじゃなく^^;)、思想としてはすごく興味あるものの、常時なんかしら読まなきゃいけない本があるので、なかなか手が回らないといいますか。。。

 仏教とかイスラム教も、それで偶像崇拝しようとかじゃなくて(笑)、キリスト教ともこうした部分では共通点があるとか、そういうのを知るのか好きなんですよね(^^;)

 まあ、もしそれ系の本を読むことがあって、「霊界から帰還したわたし」とか「これであなたもヨガマスター!超インド瞑想術」とか、面白いのを読んだら感想書こうとは思ってます(笑)

 祈りと瞑想も、似たところがありますし、精神の状態として、仏教を信じてる方が山奥に篭もって祈っても、クリスチャンが同じように山奥に篭もって祈っても、同じように悪魔というか悪霊のようなものが出てきて祈りや瞑想を邪魔された……とか、結構共通点自体は多いんですよね。また、特にそれほど「これ」といって神さまのことを信じてる感じの方じゃなくても……携帯の電波も届かないような山奥に篭もってると、意識レベルに変化が起きて、瞑想の中で変なものと出会ったり、実際夜中に変なものを見る――とかいうのは、そうした実験(?)みたいなものを通して証明されているそうです。。。

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたしの中にいない神。 | トップ | 五つのパンと二匹の魚で、今... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事