(オールポスターズさんの商品ページよりm(_ _)m)
これはキリスト教界では大体似たお話というか、たとえ話があるかと思います(^^;)
わたしたちがイエスさまのことを信じ、心の中にイエスさまのことを受け容れることを決意し、そのことを告白する時――わたしたちは聖霊のバプテスマを受け、聖霊さまがわたしたちの内に内住されます(使徒の働き、第8章など)。
マザーテレサは確か、神さまに聞き従うことを「シンプルパス(単純な道)」と呼んでいた気がするのですが、神さまに聞き従うということは、確かにそのような道だとわたし自身も思います(ただ、わたしたちのほうで聞き従いたくないがゆえに、色々と複雑に難しくしている……ということはよくあると思うんですよね^^;)
そして、神さまの聖霊さまを通した語りかけがはっきりしていてわかりやすいことのある一方で、時々神さまは「何故それが<今>必要なんだ?」とか「何故<今>そのことをしなくてはいけなんだ?」といったように、わたしたちの側にはよくわからない、理解できないことを語られることがあるかと思います。
たとえて言うならそれは、神さまに「海へ行きなさい」と語られ、「う~ん。なんとなくそう言われた気がするな」と思い、海へ出かけていき――「舟を出しなさい」と語られて舟を出し、沖へ出たところで何かよくわからない魚のしっぽと遭遇する……といったことに似ています。
そして神さまはおっしゃるのです。「その魚の尻尾にロープを括りつけ、ついていきなさい」と。
「え?わっけわかんねえ!!」って感じですよね。まあ、せいぜいのところを言って、人間的な知性で理解できるのは、舟を出して沖合いに出たところくらいまでです。けれど、長く信仰生活を送っていると、「神さまのおっしゃることは正しいから、とにかく言われたとおりにしよう」と思うようになります。しのごの理屈を並べて「そんなことしてなんになるだ??」だの言っても仕方ない、といったように悟るようになってくるというか。
しかも、この魚というのがもう……ぐいぐいこっちを引っ張るばかりでついていくのが大変なのですよね。でも神さまは「いいからついて行きなさい」とおっしゃるし、荒波乗り越え、凍えそうな夜にひとりぼっちでもとにかくずっとロープを離さないでいると――ついには神さまの目的といったことのわかる日がやって来ます。
最初、魚のしっぽだと思ったものは、実は巨大クジラで、ついにはその巨大クジラの背に乗って、まったく見も知らぬ新しい大陸を発見し、そこを開拓していくということ――それこそが神さまのみこころだったのでした。
つまり、神さまは御存知なのですよね。最初からそれがクジラの尻尾だとわかっていれば、わたしたちがそんなものにロープを引っ掛けてついて行こうとは絶対にしないこと、けれど、訓練と試練を乗り越えたのちにはクジラの背にも乗れるようになる……ということを。
主の十字架クリスチャンセンターの考え方としては、すでにもう日本にリバイバルが起きているし、そのことを信仰をもって受け止めているのですが、一般的にはこれから日本に大リバイバルが起きると言われています(もちろんわたしの立っているのも前者の見解ですけれども^^;)。
リバイバルというのは、日本語に訳すとしたら「信仰復興運動」、「聖霊回心運動」などと訳されるようなのですが、簡単に言ったとすれば、大いなる刈り入れの時がやって来た……ということではないかと思います。
>>「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」
(ヨハネの福音書、第4章35~38節)
日本のクリスチャン人口は全人口のうち、ほんの1~2%だそうですが、もし日本にリバイバルが起きたとすれば、クリスチャン人口が短い期間に驚くべき速さで一気に増えると言われています。つまり、本当の意味で世界の終末が近づいた時――ひとりでも多くの人々を神さまの救いにあずからせるため、そのような現象が日本だけでなく、全世界レベルで起きると言われている、というか。
「リバイバル?そんなもの、一体いつ起きるんだよ??」みたいな、今はそんな感じかもしれなくても、神さまの時というのは一度「来た」となると本当にあっという間なので、わたしも日々祈りつつ、そのような時に少しでも用いられる者として常に備えていたいと思っています。
そして、とにかく神さまのことを第一にしていると、あとのことは大体シンプルになっていく……というのは本当のことだと思うんですよね。いえ、そこさえしっかりしていたら、あとのことはすべて神さまにお任せしておけばいい……という意味合いにおいて(^^;)
ただ、わたし自身もそうですが、神さまのこと以外で自分に成し遂げたい欲望があったりすると、自然生活のほうは忙しくなっていきます。それは健全な信仰者であろうとする生活とそちらを平行させて存続させ、両方成功させようと思うからなのですが、やっぱり人はそんな時に神さまから突然呼びだしを受け、「海へ行って船に乗り、くじらのしっぽにつかまりなさい」と命じられたりするものなのではないでしょうか
けれど、そうして神さまから矯正の訓練を受けることは苦しいと同時に喜びであり恵みですし、くじらの背中に乗って新大陸へ行くといったような素晴らしい冒険を体験できる……ということでもあると思うのですよね。
そしてわたし自身、現状を見るとほど遠いものの(汗)、そのような聞き従いの器になれたならと、切に望むものです
それではまた~!!
これはキリスト教界では大体似たお話というか、たとえ話があるかと思います(^^;)
わたしたちがイエスさまのことを信じ、心の中にイエスさまのことを受け容れることを決意し、そのことを告白する時――わたしたちは聖霊のバプテスマを受け、聖霊さまがわたしたちの内に内住されます(使徒の働き、第8章など)。
マザーテレサは確か、神さまに聞き従うことを「シンプルパス(単純な道)」と呼んでいた気がするのですが、神さまに聞き従うということは、確かにそのような道だとわたし自身も思います(ただ、わたしたちのほうで聞き従いたくないがゆえに、色々と複雑に難しくしている……ということはよくあると思うんですよね^^;)
そして、神さまの聖霊さまを通した語りかけがはっきりしていてわかりやすいことのある一方で、時々神さまは「何故それが<今>必要なんだ?」とか「何故<今>そのことをしなくてはいけなんだ?」といったように、わたしたちの側にはよくわからない、理解できないことを語られることがあるかと思います。
たとえて言うならそれは、神さまに「海へ行きなさい」と語られ、「う~ん。なんとなくそう言われた気がするな」と思い、海へ出かけていき――「舟を出しなさい」と語られて舟を出し、沖へ出たところで何かよくわからない魚のしっぽと遭遇する……といったことに似ています。
そして神さまはおっしゃるのです。「その魚の尻尾にロープを括りつけ、ついていきなさい」と。
「え?わっけわかんねえ!!」って感じですよね。まあ、せいぜいのところを言って、人間的な知性で理解できるのは、舟を出して沖合いに出たところくらいまでです。けれど、長く信仰生活を送っていると、「神さまのおっしゃることは正しいから、とにかく言われたとおりにしよう」と思うようになります。しのごの理屈を並べて「そんなことしてなんになるだ??」だの言っても仕方ない、といったように悟るようになってくるというか。
しかも、この魚というのがもう……ぐいぐいこっちを引っ張るばかりでついていくのが大変なのですよね。でも神さまは「いいからついて行きなさい」とおっしゃるし、荒波乗り越え、凍えそうな夜にひとりぼっちでもとにかくずっとロープを離さないでいると――ついには神さまの目的といったことのわかる日がやって来ます。
最初、魚のしっぽだと思ったものは、実は巨大クジラで、ついにはその巨大クジラの背に乗って、まったく見も知らぬ新しい大陸を発見し、そこを開拓していくということ――それこそが神さまのみこころだったのでした。
つまり、神さまは御存知なのですよね。最初からそれがクジラの尻尾だとわかっていれば、わたしたちがそんなものにロープを引っ掛けてついて行こうとは絶対にしないこと、けれど、訓練と試練を乗り越えたのちにはクジラの背にも乗れるようになる……ということを。
主の十字架クリスチャンセンターの考え方としては、すでにもう日本にリバイバルが起きているし、そのことを信仰をもって受け止めているのですが、一般的にはこれから日本に大リバイバルが起きると言われています(もちろんわたしの立っているのも前者の見解ですけれども^^;)。
リバイバルというのは、日本語に訳すとしたら「信仰復興運動」、「聖霊回心運動」などと訳されるようなのですが、簡単に言ったとすれば、大いなる刈り入れの時がやって来た……ということではないかと思います。
>>「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」
(ヨハネの福音書、第4章35~38節)
日本のクリスチャン人口は全人口のうち、ほんの1~2%だそうですが、もし日本にリバイバルが起きたとすれば、クリスチャン人口が短い期間に驚くべき速さで一気に増えると言われています。つまり、本当の意味で世界の終末が近づいた時――ひとりでも多くの人々を神さまの救いにあずからせるため、そのような現象が日本だけでなく、全世界レベルで起きると言われている、というか。
「リバイバル?そんなもの、一体いつ起きるんだよ??」みたいな、今はそんな感じかもしれなくても、神さまの時というのは一度「来た」となると本当にあっという間なので、わたしも日々祈りつつ、そのような時に少しでも用いられる者として常に備えていたいと思っています。
そして、とにかく神さまのことを第一にしていると、あとのことは大体シンプルになっていく……というのは本当のことだと思うんですよね。いえ、そこさえしっかりしていたら、あとのことはすべて神さまにお任せしておけばいい……という意味合いにおいて(^^;)
ただ、わたし自身もそうですが、神さまのこと以外で自分に成し遂げたい欲望があったりすると、自然生活のほうは忙しくなっていきます。それは健全な信仰者であろうとする生活とそちらを平行させて存続させ、両方成功させようと思うからなのですが、やっぱり人はそんな時に神さまから突然呼びだしを受け、「海へ行って船に乗り、くじらのしっぽにつかまりなさい」と命じられたりするものなのではないでしょうか
けれど、そうして神さまから矯正の訓練を受けることは苦しいと同時に喜びであり恵みですし、くじらの背中に乗って新大陸へ行くといったような素晴らしい冒険を体験できる……ということでもあると思うのですよね。
そしてわたし自身、現状を見るとほど遠いものの(汗)、そのような聞き従いの器になれたならと、切に望むものです
それではまた~!!
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