神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

全人類の全人格的幸福。-【2】-

2021年11月26日 | キリスト教
【ソロモンの裁き】ギュスターヴ・ドレ


 >>その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。

「あなたに何を与えようか。願え」

 ソロモンは神に言った。

「あなたは私の父ダビデに大いなる恵みを施されましたが、今度は父に代わって私を王とされました。

 そこで今、神、主よ、私の父ダビデになさったあなたの約束を堅く守ってください。あなたは、地のちりのようにおびただしい民の上に、私を王とされたからです。

 今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか」

 神はソロモンに仰せられた。

「そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう」

 こうして、ソロモンはギブオンにある高き所から出て行き、会見の天幕の前を去ってエルサレムに行き、イスラエルの王となった。

(歴代誌第二、第1章7~13節)


 たぶん、クリスチャンの方で、聖書で歴代誌のこの部分を読む時……最低一度くらいは「わたしがソロモンだったら、何を主に願うだろうか」と考えられるのではないでしょうか。

 そして、自分の願おうと思ったことが、ソロモンの完璧に近い回答とは逆に――何かしら自分の利得に関わることが含まれていると思い、「やっぱソロモンは神の器だよ。また、ソロモンがそうした人間だったからこそ、主も彼にそう訊ねられたのだろう」みたいに思うわけです。

 で、ですね。わたし、前回とかその前に『マーフィの成功法則』という本について書いていて……まあ、この宇宙の潜在意識に願えばなんでも叶う的法則がもし本当であるとして、「本当にそう願えば必ず叶う」とした場合、自分なら何を願うだろうかと、本を読んでてちらと思ったわけです。

 それで、この場合、自分なら「全人類の全人格的幸福」ということを願うだろうと、そう思ったというか(^^;)

 というより、SDGsで上げられている課題のすべてを事細かく祈ったり、また「全人類の全人格的幸福」の【1】に当たる記事のところで書いたように、新彊ウイグル地区の人々の解放や民族の真の自由について祈ったり、あるいはこのことを祈る方……というか、今現在も祈ってる方は多いと思いますが、新型コロナウイルスが完全に撲滅されますようにと願うとか――自分的に大体そんなところだろうと思ったわけです。

 もちろん、悪魔(サタン)は言いますよね。「自分の利害に関わることについて、祈らなくていいのかい?」といったようには。でも、地球上の人類が、お互い時間を決めて、民族や宗教のすべてを越えてこうした課題について心をひとつにして祈るなら……それもかなり粘り強くしつこく長い時間をかけて祈り続けるなら――宇宙の法則がそれを叶えるというよりは、神さまが必ず聞いてくださるということ、これこそイエスさまにある確信といっていいと思います。


 >>信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたものではないことを悟るのです。

(ヘブル人への手紙、第11章1~3節)


 聞かれる祈りと聞かれない祈りの差として、この「望んでいる事柄を確信」できるかどうかということがあると思います。

 ただなんとなく漠然と「世界が平和でありますように」と祈っても、「確信」にまで至れる方は少ないのと同じように……この自分の祈りを「確信」にまで繰り返し高めていくというのは、本当に骨の折れる大変なことではないでしょうか。

 また、「マーフィの法則」によれば、そのような形で自分の潜在意識に自分の願いごとを叩き込まなければならないわけですから――正直、日記書いても三日坊主系の人間であるわたしなどは、なるべく早い段階で「そうなる」という兆し的なものでもないことには、飽きてすぐやめてしまう可能性大と思う、というか(^^;)

 これは、前にも書いたことですが、聖霊さまを通してのイエスさまへの祈りというのは、何よりこの点においても優れています。何故といって、イエスさまを信じる前までもわたしは祈ることがありましたが、大抵の場合最終的に神さまに聞かれている感じ(確信)が得られず、中途半端なところで終わってしまうんですよね。そして、そんなことを繰り返し、人生の中で何か不幸なことでもあれば「この世に神さまなんていないんだ……」となって落ち込むという、何かそんな感じでした。

 でも、イエスさまのことを自分の救い主であるとして受け容れ、聖霊さまを受けて以降――毎日絶対祈りを欠かしたことはない……とまでは言い切れなくても、う~ん。どうでしょうね。ノンクリスチャンの方と旅行へ行って祈りの時間が取れなかったとか、そうしたことがあった場合でも、夜ベッドの中で祈りながらその途中で寝てしまったとか、そんな感じなので、祈りに関してはむしろ逆に三日坊主というのでなくて、三日祈ってなかったらもう落ち着かなくてしょうがない感じだろう……というのはまず間違いないところです。

 もちろん、「そんなのはただのあなたの自己満足なのではないのか」と思う方もあるでしょう。けれども、わたし自身としては「祈っていて損した」とか、そんなふうに思ったことはまずほとんどないです。まあ、他の方の証しなどでもよくあることと思いますが、イエスさまを信じたあとは「もうわたしは真実の神さまを信じたのだから、これからは人生でいいことだけがあるはず!」みたいに思う方は多いと思います。でもむしろ、そこからが戦いで、「イエスさまを信じて祈ってもいるのに、どうしてこんなことが……」的なことは、信仰の建て上げの試練として必ず起きてきます(また、その方の信仰を倒そうとしてその部分に悪魔(サタン)が強く働くことも多いので、そうした対応を意識する最初の機会となる方も多いと思います)。

 もちろん、こんなふうに書いてくると「クリスチャンってのも結構大変なんだね」とノンクリスチャンの方には思われしまうかもしれません。けれども、誰の人生にも「神さまがいるならどうしてこんなことが……」ということは必ず最低でも一度は起きてくるのではないでしょうか。ただ、クリスチャンにとっては「何故」についてわからないのは同じでも、イエスさまを信じ続ける信仰や、この方こそ神であるという感覚というのは、聖霊さまを通しての霊的繋がりがあるので、絶対的に揺るがないわけです。


 >>悪を行なう者に対して腹を立てるな。
 不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
 彼らは草のようにたちまちしおれ、
 青草のように枯れるのだ。

 主に信頼して善を行なえ。
 地に住み、誠実を養え。
 主をおのれの喜びとせよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

(詩篇、第37編1~6節)


 大切なのは、この場合は特に第4、5節でしょうか。

「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」というところ。

 イエスさまは、わたしの願ったことをそのまま叶えてくださるというよりは……「確かにわたしはあなたの祈りを聞いている」といった形で叶えてくださることのほうが多いと思います。

 生活の上で「これが必要」とか「あれが必要」ということもそうですし、また神さまは一度与えるとなると「最上のもの」や「最善の事柄」を与えてくださることが多いです。ですので、だんだん感覚としてわかってくるんですよね。「あれが与えられないのは、そのほうがわたしのためだという、そうしたことなんだろうな」とか、大体そんなようなことですけど(笑)。

 そうした微妙なところも含めて、長く祈っているとわかってくるわけです。「神さま、あれあれをください」とか「これこれをそれそれしてください」とか、自分の願望については(誰かの不幸を願うとか、罪になることでない限り)、祈りの原則としてはなんでも祈っていいのです。「百万円与えられますように」でも「景品でフェラーリが当たりますように」でも、それは確かになんでも……でも、その祈りが叶えられなくても、神さまがいない証明ではないというのは、誰でもわかることと思います(^^;)

 ただ、本当にお金が必要であれば、その時自分の必要な分だけきっちり与えられたり、フェラーリでなくても、中古の車を知人から譲ってもらえた……など、確かに「あなたの祈りは聞いているよ」といった形で、イエスさまは必要な物や事柄について叶えてくださると思います。

 また、こうしたことを通して神さまへの畏敬の念がますます深まってゆきます。何故かというと、聖霊さまを通してのイエスさまへの健全な祈りというのは――「わたし、このことのためにあれあれのことをこれこれしますから、それそれしてください」といったような、これは<取引>ではないからです。たとえば、「大好きなマグロの刺身を一年間食べません。だから、次のピアノのコンクールでミスしませんように」とか、そうした祈り方は間違っているということです(また、こうした<取引>を仕掛けてくる霊的存在は悪魔(サタン)や悪霊が関係していることが多いですので、注意が必要です)。

 イエスさまは、わたしたちが「何かした」から祈りを聞いてくださるのではなく、ちょうど親が子供に衣服を与えて食物も食べさせ、十分な暮らしを与えようとするのと同じように……信仰的な霊的養い親として、わたしたちが祈ってもいなかったような、さらに素晴らしいことを行なってくださる方でもあるからです。

 ダビデも言っています。「あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです」(詩篇139編、14節)と。ただ、冒頭に引用したダビデの息子ソロモンは、彼から王位を継いだ時は心正しく主と心がひとつだったのに――ソロモンはたくさんの異教の国の女性を側女としていましたから、そうした女性たちからの影響で、「ダビデのようには主と心がひとつでない」霊的状態へ陥っていったと言います(列王記第一、第11章)。

 イエスさまのことを信じた最初の頃は、信仰的に忠実だったのに、イエスさまが聖霊さまを通して良くしてくださったことが原因で(申命記には「エシュルンは肥え太ったとき、足で蹴った」とあります)……その後、この方から心から離れた時に、あるいは信仰の目が曇り中途半端な状態になった時に、以前ほど神さまの栄光を見ないようになる、ひどい場合は没落した人生を送るようになる――ということはありえるわけですよね(^^;)

 なんにしても、自分的には『マーフィの法則』というのは、イエスさまを信じていなかったとしたら、多くの方が多少は生き方の参考にする気持ちというのはわかりますし、何かと迷いやすい人がこうした宇宙の法則こそ真実であるとしたい気持ちについても、ある程度理解はできるという意味で、とても参考になりました

 そして、すべての人がほとんど同時に毎日『全人類の全人格的幸福』ということについて、祈りのどこかで意識を留めるなら……「今日、せめても世界はわたしが祈ることで1つくらいは良くなった」という確信を持って祈り続けることが出来るなら――確かに今日、間違いなく世界は1つ以上は良くなったということ、それこそがわたし自身の祈りの確信です。

 それではまた~!!


 



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