神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

多様性、共感・共生、持続可能型社会。

2021年12月02日 | キリスト教

 ええとですね、つい先日ラジオで、「これからは多様性、共生が時代のポイントだと思います」といったよーな言葉を聴きました。

 このラジオ番組、毎週欠かさず必ず聴いている……というわけではないのですが、すごく好きで、家にいる時には大体のところ聴いてることが多いかな、と思ったり♪(^^)

 で、番組の内容的に時々LGBTQのことや、障害のある方との共生、またSDGsについてもよく語られていたので――毎週番組聴いてると、大体のところそう語られただけで意味はわかります。社会において男女の性差をなくそう!といったことや、そのためには何が必要かということについて、いわゆる識者の方が今どう考えいるかということや……LGBTQの当事者の方、性的マイノリティと呼ばれる方が今どう思っているかという意見、SDGsについての実際に実践できそうな事柄に対するちょっとしたヒントなどなど。

 それで、今回のタイトルは「多様性、共感・共生、持続可能型社会」というものなんですけど、自分的にはあんまりそう難しく考えてるわけではなく(いえ、本当はとても難しい問題です^^;)、キリスト教的価値観としては同性愛って禁止されてるわけですけど、とにかく時代の流れとしてはその方向性で進んでいくと思うんですよね。同性愛容認というか、ヘテロの方もゲイの方も、まったく同じ権利を有するべきだ――という方向に進んでいくでしょうし、あくまでこれはわたしの個人的な考えですが、「あの人は同性愛者らしいから、つきあうのやめとこ」とか、そういう考え自体、自分の頭の中には一切ないです(笑)。

 まあ、今の時代は大体多くの方が当たり前のようにそう考える……くらいなことと思いますが、その他、黒人か白人か、ユダヤ人か東洋人かなど、ある特定の民族に属する人を外そうとする傾向ですとか、このあたりのことを「実際そうできるかどうか」は別として、「そんな考え自体思い浮かばない」というほうが、日本人的にはかなりのところ当たり前と思うんですよね(また、日本人の場合はイスラム教の方にもすごく寛容というか、宗教の違いについても寛容度が高いのではないでしょうか。むしろ、キリスト教に対してのほうが物凄く偏見が……以下略☆)。

 そして次、「共感・共生」ということについては、一応セット(?)にしてみました。ラジオでは「共生」ということについてのみ言われていたのですが、「共生」ということのためには、「共感」すること、共感し、相手を思いやれることが、絶対不可欠と思う……という、こうしたこともある意味、当たり前すぎるとは思います(^^;)。

 何かの障害を持ってる方と出会った時、「自分が相手の立場だったらどうするか」ということを考える方はとても多いと思います。これは、イエスさまの黄金律の教えも同じと思うのですが、「自分がしてもらいたいとおりに、相手にもしてあげなさい」という、そうしたことですよね。

 そして、この黄金律というのは、ある部分自分の積極性にも関わるところがあると思うのですが――もし仮にそこまで出来なかったとしても、せめても「自分がしてもらいたくないことは、相手にもしてはいけない」という、このラインは守るよう心がけることが出来るのではないか……そう思ったりもするわけです。

 また、これは誰もが知ってる某有名芸能人の方がおっしゃってたことなんですけど、「この世界に憎しみが存在するのは何故かというと、そもそも最初にLikeということがあるからだ」ということなんですよね。つまり、何かの物やある人が好き……となると、普通人はそれを自分のものにしたいと思う。ところが、そこで何か物の取り合いが起きたり、対象が人であった場合は、その人が仮に振り向いてくれなかったり、自分を邪険に扱ったとすれば、むしろ最初のLikeが憎しみに変わっていくだろう、という。

 簡単にいえば、LikeやLoveということがなければ、争いも憎しみも生まれないだろう……ということなのですが、かといって、人間からLikeやLoveを抜いたとすれば、生きていて一体何が楽しいだろう、と言いますか、そんな人生味気なくて、何か虚しくさえありますよね、という話。。。

 まあ、「共感・共生」ということについては、大体こうしたことを頭の隅のほうに置いておいて、あとは黄金律の実践と言いますか、積極的な意味では「自分にしてもらいたいことを相手にも」、そこまで出来る心理的・肉体的余裕のない時には「自分がしてもらいたくないことは、相手にもしてはいけない」という形でギリギリ守ってみる……という。

 そして最後の「持続可能型社会」ですが、今日本人が送っているような豊かな暮らしを、もし世界中のすべての人がそれを「標準」にするとしたら――地球2.9個分の資源が必要になるということでした(もしアメリカであれば地球5個分^^;)

 新型コロナウイルスの影響で、物価も上がってますし、灯油などのエネルギー資源も上がってますよね。戦争というのは、原始的な形としては、やはり<土地や物、財産の奪い合い>として常に起きたことですし、その場合、一番わかりやすいのが「あいつはユダヤ人だから」とか、「我々とは違う宗教を信じているから」とか、自分たちと違う何かしらを持っている人々というのは狙われやすかったわけです。

 わたしたちも、今は比較的平和な世に生きているとはいえ……ちょっと何かのバランスが崩れたとすれば、もしかしたら原始時代に戻ってしまうかもしれません。モアイ像で有名なイースター島では、あの狭い島で、部族同士が畑の産するものなど、お互いに戦争によって奪いあったことで――最終的にどちらの部族も滅んだと言います。

 イースター島って、地図で見た場合とても小さく見えますが、そこで暮らしていた民族ですら、その狭い土地の中で「仲良く分けあって」暮らしてゆくことが出来なかったわけです。それが「何故」だったかと考えることは……言ってみれば地球の縮図として非常に重要ではないかという、そうしたお話でした(と、テレビでやってるのを昔見た、というか)。

 キリスト教徒は、イエスさまとある次の世である天国を見つめているとはいえ――現代という今の世と生きている間は切り離せないので……こうした事柄についても考えつつ、祈っていく必要があるなあ~と思ったりする今日このごろです。。。

 それではまた~!!






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