神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

サタンの努力。

2018年07月30日 | キリスト教
【聖セシリア】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス


「サタン(悪魔)の努力」と聞きますと、たぶん笑ってしまう方のほうが多いと思うのですが、世界の三大宗教と言われるキリスト教・イスラム教・仏教といった宗教のすべてにこの悪魔(サタン)と呼ばれる存在が出てくるというのは、なかなか興味深いことだと思います(^^;)

 時々わたし、「サタンってほんと、勤勉だよなあ」と思うことがあって、それはどういうことかというと、人間を苦しめ悩ませるというためであるならば、365日トエンテーアワー活発に活動してもまったく疲れず、むしろ喜んでそのことのために働ける……という意味において、悪魔(サタン)ってほんと、めっちゃ勤勉だなと感心してしまう、というか(笑)

 それに反して、人間的な目で人間の世界を見渡しますと、どうもこの悪魔の勤勉さということに比べると、神さまというか天使は怠慢で、大して働いていないのではないか――といったように感じられる方はとても多いのではないでしょうか(^^;)

 わたしはクリスチャンなので、こうしたことを語る時、それはキリスト教的価値観に照らし合わせて……ということになってしまうのですけれども(すみません)、こうした疑問というのは、イエスさまのことを信じて聖霊さまを与えられてみると、すべて解決します。

 何故かというと、神さまというのは365日24時間眠ることもまどろむこともなく、御自身の民を見守っておられる方であり、イエスさまを信じる者に与えられた聖霊さまを通してそのことを解き明かしてくださる方だからです。


 >>そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。

「バアルよ。私たちに答えてください」

 しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。

 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。

「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう」

 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。

 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。

(列王記第一、第18章26~29節)


 この時エリヤは、真実なる神である主、イスラエルの聖なる方に祈り、見事その祈りは聞き届けられるわけですが……本当の神さまというのは、>>きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれない。ということのない方なんですよね。

 365日24時間我々のために活動しておられ、こののちエリヤが経験したように、


 >>主は仰せられた。

「外に出て、山の上で主の前に立て」

 すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。

「エリヤよ。ここで何をしているのか」

(列王記第一、第19章11~13節)


 この御自身の>>かすかな細い声。にアクセスできる道をすべての人に用意しておられ、「もし探り求めることでもあるなら、神を見出すことの出来る(使徒の働き、第17章27節)」道を人間すべてのために最初から用意しておられました。


 天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者のことだ。


 これはナイチンゲールの言葉ですが、わたしのクリスチャンとしての感覚としては、「苦悩する者のために戦う者」というのは、天使というよりも聖霊さまのほうが近いような気がしています(^^;)

 聖霊さまもまた、365日24時間わたしたちとともにいて、常に働いておられ、わたしたちが苦しみ悩む時、それを祈りとして天に捧げるなら、必ず応えてくださいます。

 天使の一般的なイメージとして、羽が生えていて雲の上にいて、ハープや竪琴などを手にして歌を歌っている……といったものがありますが、一方、大天使ミカエルのように剣を帯びている天使のイメージというのも同時にありますよね。


【堕天使を駆逐するミカエル】ラファエロ・サンティ

 わたしたちも、美しい花をまき散らすような生活を送りたいと時に願うものですが、実際の信仰生活というのは、実生活と神さまのみにお仕えしたい気持ちの間の、戦いの連続という気もします。


 >>主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、
 私に襲いかかったとき、
 私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

 たとい、私に向かって陣営が張られても、
 私の心は恐れない。
 たとい、戦いが私に向かって起こっても、
 それにも、私は動じない。

 私は一つのことを主に願った。
 私はそれを求めている。
 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
 主の麗しさを仰ぎ見、
 その宮で、思いにふける、そのために。

 それは、主が、
 悩みの日に私を隠れ場に隠し、
 その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
 岩の上に私を上げてくださるからだ。

 今、私のかしらは、
 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
 私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
 歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

(詩篇、第27編1~6節)


 365日24時間、神さまの宮にいて神さまを賛美し祈りの時を持ちたいとわたしたちが願っても、実生活のほうで色々な妨げがあって、なかなか時間が取れないというのはよくあることだと思うんですよね

 ただ、「美しい花をまき散らすような」祈りですとか、「美しい花をまき散らすような」賛美というのは、一見美しく見えるけれども、あまり実がないというか、信仰の実質が伴っておらず、むしろ苦しみや悩みに囲まれて、四面楚歌といった状況にあってこそ、人はもっともよく祈り、心から神さまにその状況をも喜び歌い、神さまを賛美する……そしてその時にこそ、わたしたちを救い助ける神がわたしたちのかわりに戦ってくださる――というほうが、かなりのところ信仰生活として健全(?)なところがあるのではないか、と思ったりします(^^;)


 >>『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから』

(歴代誌第二、第20章15節)


 >>主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、
 身を避けるわが岩、わが神。
 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
 私は、敵から救われる。

(詩篇、第18編2~3節)


 この真実なる神に、最後まで祈り、聞き従う者でありたいと願っています

 それではまた~!!




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