駅のすぐ横のガード下をくぐるところが、
前回との接続地点です。
ここ。
ん?「けたに注意」とあります。
向こうまで20m位に見えているのが、
実際は20cmしかないのでしょうか。
ちなみにそろばんの玉を通す縦棒も
「けた」といいます。
「桁が違う」というのはここからきているようです。
はい、勉強になりましたね。
ここでは高さのことを言ってるのでしょう。
腰の曲がったおばあさんなら
この通りまっすぐ通れますが
doironは屈んで抜けて行かねばなりません・・・ウソです。
あいかわらずしょうもなくて済みません。
ここを抜けたらすぐに「光明寺」というお寺があります。
これは本当です。
ここには巨大ソテツがあると
資料に書かれてありました。
おお~これでしょうか。
なんだかお行儀の悪い植物ですねえ。
石段を登って行くと、
さらに大きなソテツがありました。
あ、これが天然記念物の
巨大ソテツなんですね。
さらにハゲしく腕や頭をあちこちに伸ばした
お行儀が悪い樹でした。
まるで誰かのようです。
そのソテツの横にこんな石がありました。
戦争時に金属回収令で
お寺の鐘が供出された時に
釣鐘堂の風に対する強度を保つために
ぶら下げられていた石だそうです。
「ガンッ」くらいの音は鳴ったのかもしれません。
そしてもうひとつ、
このお寺には
これまでたびたびこのブログにも登場した
徳本上人の石像があるそうです。
それがこれ。
独特の文字を刻んだ名号碑はたくさん見ましたが、
お姿を拝見するのは多分初めてです。
「初めまして」と挨拶をしておきました。
と、ここではまだ100mほどしか進んでいません。
久しぶりの古道歩きですから、
興味のテンションが異常に高いようです。
冷静に歩きましょう。
次は足の神様を祀っているという、
「切目中山王子」を目指します。
かなりきつい登りを歩きながら思いました。
足が悪いのにお参りに行こうという人に、
ここを登れというのは酷でしょうねえ。
きっとここに参り続けたら、
足が健康になるという意味の
足の神さんなんでしょうか。
途中左手に古い建物がありました。
文化財か何かかと思ったら
「防災倉庫」と書かれてありました。
え~、災害時にここに近づいたら危ないで~
と心の中で叫んでしまいました。
しかも屋根方向に矢印がしてあって
「注意」と書かれてあるではないですか。
う~ん、災害時には一番最初に崩壊しそうだ
というシュールな防災倉庫でした。
お、これが言ってた「カエル橋」の
デザインが施された道案内です。
登りの分岐点に掲げられていました。
ここはよほどこのカエルのアイデアが
お気に入りのようですね。
さらに坂の途中には「若宮社」の遺跡がありました。
現在の中山王子社よりも古いようです。
じゃあ「古宮社じゃないの」と
言いたいところですが、
「若宮」信仰は各地にあるようです。
さらにどんどん登って行きます。
「力をください足神様」と言いたくなります。
こ、ここはがけを這って登るのですか?
・・・違うようです。
ふたたびカエルの道案内に導かれ、
登り続けて行きますと、
景色がどんどん開けてきました。
向こうの山を覆っているのは
どうやら雪雲のようです。
背後には海も見えてきました。
ふと見ると、絶景スポットに
こんな椅子が置かれています。
おお~、これは最高のアベックシートです。
駅の看板にあったように、
大人は愛の一声で、
子どもは素直な心で告白すればいいわけですね。
ちょっと違うかな。
と、その時です。
向こうに見えていた雪雲が
どんどんこちらに迫ってくるではありませんか。
そして、ついについに雪が降り始めたのでした。
ここからは榎木峠の山道に入っていきます。
どうするdoiron。
どうなるdoiron。
続く
話しは泉州マラソンの少し前に戻ります。
ある日、近所の公園を散歩していたら
梅がもう咲いていた。
紅いのが咲き、
ついで白い梅も陽だまりで
嬉しそうに花を風に揺らしている。
ああ、もうこんな季節かと散歩から帰り、
すぐに地図を広げた。
ひと月前に歩いた熊野古道の続きを歩く計画をするためだ。
梅の花を見て気持ちが少し焦っていた。
というのも次の熊野古道は
あの梅の名所、南部(みなべ)を通るコースなのだ。
前回の歩行を終えたときに
次は梅の季節に歩こう、
と心に決めて帰ってきてから
母のことなどがあって、
気がついたら春の到来を告げる梅が
近所にも咲いていた。
早く歩きに行かねば、という焦りだ。
とはいえ、朝はまだまだ寒い。
雪さえちらつく日もあるくらいだから、
なかなか「さあ行こう」という決断に踏み切れない
軟弱なdoiron。
昔の旅人にそんな考えは許されないだろうな、
とか思いながら数日が過ぎた。
そこで優柔不断な自分を奮い立たせるために、
よし、ではこの日に雨が降ろうが雪が降ろうが
出かけるぞと決めて、
その日自分への約束通りに
スタートすることにしたのでありました。
歩いたその日は
近畿中部南部でも所によっては
雪が降るかもしれないという天気予報でしたが、
ここはもう引き下がらず
十分な装備を持って出発をしました。
今回も御坊まで車で行き、
そこから電車で今回のスタート地点である
切目(きりめ)
へと向かうことにしました。
そこで電車の時刻を調べると、
7時半には家を出ないといけないということがわかりました。
1本逃すと2時間近く待たねばなりません。
家を出るころは、冷たい風が吹いていましたが、
頑張って決行です。
いつものように、阪和道を走りながら、
よくここまで歩いてきたなあ
と思いつつ御坊に到着したのが、
電車の出る15分前でした。
絶妙でしょ。
駐車場に車を停め、駅前のコンビニで、
水と食料を調達して、
今回は乗らない西日本一短い紀州鉄道の
かわいいディーゼル電車を確認したりしているうちに、
電車がやってきました。
御坊から、スタート地点の切目までは、
古道は海沿いを歩きますが
電車は山の中を進みます。
景色を見ていると、
山のあちこちに植えられた梅が
ポチポチと咲いているではありませんか。
「うう~、待ってろよ~」と思いながら
持参したお団子でエネルギー補給です。
このがらすきの電車の中で、
ひとつのミッションがありました。
海沿いを歩いている時は
近くを通らないのですが
電車だとすぐそばを通る
印南(いなみ)のカエル橋を
撮影することでした。
駅が近づいてくると・・・おお~見えてきました。
さあ撮るぞと窓辺にカメラを構えて、
ここだというポイントでパチリ。
ドヒャー、電柱に阻まれてしまいました。
まだまだ写真の腕を磨かないといけませんな。
なぜこれをミッションにしたかというと、
この橋の由来は前回のシリーズで書いたので省きますが、
今回歩く区間の道標に
この絵が描かれているものがあるそうなので、
ブログ用にもチェックしておきたかったのです。
ま、掲載できたので一応ミッション完了としましょ。
とまあ、そんなことをしながら
電車に揺られいよいよ切目に到着しました。
駅前の稲田商店の前では、
前回色々と親切にしてくれた店主が、
他のお客さんと話し込んでおられたので、
今回はスルーしました。
ん?こんな看板があります。
「大人は愛の一声で」・・・
壁ドンでもしながらささやけばいいのでしょうか。
「子供は素直な心で」・・・
変な親父には「おっちゃん気持ち悪い~」と素直に言えばいいのでしょうか。
「規則正しい生活をしよう」・・・
生活習慣病に気をつけましょうということかな。
「危険な遊び・悪い遊びはやめましょう」・・・
刺激を求めるなということですね。
「暴力やいじめはみんなで防ぎ注意しよう」・・・
イスラム国への警告ですな。
なかなか含蓄のある看板でしたな。
ま、そんなしょうもないことを言ってずに
とっとと歩きはじめましょう。
ナビをセットしてっと。
で、今回の歩行予定距離は約14キロ。
途中梅畑の中を歩いたりしますが、
前回とほぼ同様に海沿いのコースです。
さあ、ようやく歩き始めた。
というところで今回は終わり。
次回に続きます。
さて、泉州マラソンの追加報告です。
当日は大阪みどりの百選にもなっている
スタート地点の浜寺公園まで
テクテクと歩きました。
途中、とんでもない方向へ間違えて歩き、
自分の立ち位置さえ見失ってしまい
ショックを受けましたが、
よくよく考えたら仕方ありません。
人生の立ち位置さえすでに見失っているのですから・・・
やれやれ、自分でも情けないものです。
いつもの場所に行くと、
いつもの連中が準備にかかっておりました。
最近はメンバーもとても多くなり、
その場所も賑わっています。
これがルネのユニフォームを着た、
やる気ランナー達です。
そしてそんな男連中を従える
ルネの女性エリートランナーのお二人。
のんびり余裕で準備をしてはりました。
スタート前には、ゲストランナーを確認に行きました。
おお~、あの後ろ姿は、
doiron世代のマラソンヒーローのひとり
中山竹通選手ではないですか。
きゃー、こっち向いて~と心の中で叫んだら、
ちょっとだけ斜め後ろ顔を見せてくれました。
そんな撮影後、応援のこの人達と、
スタート直後のところに陣取っていますと、
ヘリが飛び始めました。
そして定刻の午前10時30分にいよいよスタートです。
スタート直後は、人が多すぎて
知り合い選手を全く見つけられません。
向こうから見つけてくれないと
ほぼ不可能です。
なので写真は一枚も取れませんでした。
最後尾まで見てから、
次の応援ポイントである羽衣駅下がりに移動しました。
ここにやってきた選手たちの写真を
順番に掲載していきます。
他の人はごめんなさい。
見つけられなかったり、
ブレブレだったり
他の選手の陰になっていたりして
掲載に耐えない写真になってしまいました。
概ね、通り過ぎたら電車に乗ってりんくうに向かいます。
今日の昼ごはんはこれ。
あまり動いていないため、
街道歩きの時に比べて
「いつもより少なめに食しています~」。
応援したポイントは
31キロ地点くらいでしょうか。
またまた来た人順に、
きれいに撮れているものだけ紹介していきます。
頑張ってます
さらに頑張ってます
華麗なフォームです
余裕のbabiさん
あ、歩いてるし~
前の職場のランチームの元会長さんです
スタートしてちょうど3時間くらいまでは
ここにいました。
その後は、ゴール100m手前まで移動です。
陣取った時には、
3時間20分より速い人は
もうゴールしていました。
最初に来たのがオザキ君
まだまだ元気やね~
はい、笑って笑って
サブフォーおめでとう~
今回の全写真の中のベストショットです
隣でラストスパートのクラウチングスタート?
この日のレースコンディションは、
例年のこのレースに比べて風も弱く、
気温も寒すぎず良好だったと思います。
走ったみなさん、
そして応援の皆さん。
一日お疲れ様でした。
朝からてくてく歩いて浜寺公園まで行きました。
泉州マラソンの応援です。
家を出てまず目指したのが
スーちゃんの亡くなった病院です。
その手前には高石市のスポーツ施設があります。
昔、水泳を憶えはじめた頃は
よく来たプールです。
30年くらい前かな。
そして病院の横ではしっかりと掌を合わせ、
過ぎてゆきます。
そこでいったん休憩と
缶コーヒーを買いにコンビニに入りました。
ここから浜寺方向までは大体30分前後です。
時間を見ながらちょうど頃合いに着くように、
ゆっくり休憩してからスタートすることにしました。
するとそこで、今回驚きのできごとがあったのです。
コンビニを出ててくてく歩いていると、
見なれた景色が見えてきました・・・
あれ?・・・
げっ!気がついたら
方向がまるっきり逆ではないですか。
一瞬自分の立ち位置がわからなくなってしまいましたが、
冷静に考えると方向が正反対です。
西に向かって歩くべきところ、
東に向かっていたのです。
人生初めての方向違いというほど
ひどい間違いでした。
街道歩きも山歩きも頻繁にしているくせに、
頭の中のコンパスが狂ってしまっていたのです。
これは大ごとです。
老化の始まりです。
これからは十分気を付けなければなりませんなあ。
そんな錯誤をなんとか修正し、
再び公園に向かいました。
かつてランで頻繁に走ったコースに出て、
それを北上しますと、
やがて公園が見えてきます。
走っていた頃はよく来た公園です。
松林を縫って進んでいきますと・・・
今回応援をする泉州マラソンの
スタートゲートが見えてきました。
ここまで約6キロ。
いつもの場所に行くと、
大勢の仲間が準備にいそしんでいます。
聞けば、初マラソン有り、自己ベスト目標の者有りと様々です。
皆さん楽しそうで、
それを見ているとdoironも負けずに
いっそう楽しく過ごさねばなあと思ってしまいました。
普段あまり合わない人々とも会えましたし、
その辺はマラソンの応援の醍醐味を感じますねえ。
集合写真を撮って・・・
選手はスタートへと、
そして応援も適度なポジションにスタンバイです。
さてどうなったのか泉州マラソン。
詳しくは後日~
明日は泉州マラソン。
今年で22回目となるそうだ。
この大会は第17回まで走ったから、
今年で5回目の応援となる。
地元のこの大会を走るのは楽しかったな。
沿道には両親もまだ元気だった頃は
応援に来てくれていた。
スーちゃんと松の浜でハイタッチをするのが恒例だったな。
また地元の連中もdoironがすなるマラソンというものを見ようと
大勢駆けつけてくれていたりしたものだ。
当時は子ども会の役員もしていたので、
他町の役員連中とも顔なじみで、
彼らが大挙して沿道警備に出ていたりしたものだから、
スタッフの服を着て、
まるで観客のように応援してくれた。
それに、長いこと会っていない同級生からも
声がかかったりしたものだ。
だからラップを見ると、
地元を通過するときが
たいてい一番早タイムを刻んでいた。
レースとしては、
サブスリー狙いでスタートし、
いつも貝塚あたりから疲労が出始め、
りんくうでピークになる
というレースばかりしていた記憶しかない。
それでも地元はやはり楽しいし、
手軽であった。
今年も地元のスポーツクラブからも
知り合いが多数走るし、
走り始めた昔の頃に一緒にやっていた友達が
今も元気に走っているのを見ると
単純に「すごいなあ」と思ってしまう。
今年もあの人は走るのかなあ
と言う人が何人もいる。
マラソンは生涯でもっとも時間を費やした趣味だ。
だからこそそこに人生を感じてしまうんだよね。
そういう意味で、レースに出ている知り合いは
みんな同志と言ってもいいかもしれない。
あしたは応援でたっぷり楽しませていただこう。
カメラを持って、羽衣、りんくう入口あたりに出没しますので
みなさん頑張ってくださいね~
義母さんは食べ物にかなりのこだわりを持っている。
食べたくないものは一切食べないし、
味にもうるさい。
なので、食べ物のお土産など買って帰っても
喜ばれることはほとんどなく、
あらかじめ聞いておいたものなんかは
比較的受け入れてくれる。
例えば日本海のカレイの一夜干しなんかは好物だが、
そこにイカの一夜干しを混ぜてあげても、
「これはあんたが食べ」といって
受け取ってもらえないのだ。
そんな義母さんだから、
自分で作る料理にもかなりのこだわりを持っている。
一子相伝の佃煮なんかは
まさにいつ食べても味が変わらない。
造り続けて、何十年。
まさに老舗の味なのである。
そして冬の今頃になるとよく作ってくれるのが、
味付きのお餅だ。
我が家では「おかき」と呼んでいる。
エビ、柚子、ゴマ、一味、海苔、豆
なんかを入れて作ってくれる。
それがこれ。
これを2、3日乾かしてから
適当な大きさに切るのだが、
その作業は今はdoironが担当している。
こんな厚さの角餅にする場合なんかは
比較的手間も少なく簡単なのだが、
薄く切って「おかき」にする場合が
かなり大変なのだ。
先ず厚みを一枚ずつできるだけ同じに
するように指示される。
焼いた時に、焼き上がりに時間差が
できないようにだと。
それから
同様の理由で、均等な厚みの
一枚にしないといけない。
慎重に大きな塊を5個も始末すると
手がプルプル震えてくるのだよ。
しかしまあこれがとても美味しくて、
後で食べるんだと思うと、
それを励みに作業もがんばれるてなもんだ。
切り終わったらこれらの干し作業にかかる。
家の中でも比較的温度の低い縁側に
平たく「おかき」を広げて干す。
それを毎日裏返しに行くのはミセスの仕事だ。
そうして10日ほど干したら、
「いくつか持って帰り」
と義母さんの許しが出る。
それがこれ。
これをオーブントースターに広げて、
軽く焦げ目がつけるまで焼く。
焼きあがったら、それに醤油をつけて
お湯につけると絶品おかきスープが出来上がる。
これがシンプルなのだが、
もうヤバいくらいうまい。
なぜかdoiron家で真似して作ったものと比べても、
義母さんのおかきは香りが高く
微妙に味が違うのだ。
両親に
あのことをもっと聞いておけばよかった
これはいったいどうなっているんだろう
と言うことを近頃折々に感じることが多い。
なのでこのおかきのつくり方のコツは
ミセスにしっかり受け継いでおいてもらわねばと
最近しみじみ思っている。
その日は祝日で、大阪の最高気温が
10度を超えた暖かい日だった。
テレビでは朝から花粉の飛散が始まったと告げており、
いよいよ春が姿を現したという感じの天候の下、
ペダルを替えて久しぶりに磨いてあげたバイクで、
さあ試し乗りに出発しよう。
さっそうとバイクにまたがって・・・
またがっ・・・あれ?
こんなにサドルが高かったっけ。
ジムのバイクに慣れてしまっているので、
サドルがめちゃ高く感じたよ。
ジムのバイクポジションを
もう少し高くしなければと思いつつ、
何とかまたがって出発した。
現役の頃はこのバイクにまたがった時の感触が
調子の良しあしを示すバロメーターだった。
サドルが高く感じると調子はイマイチ、
低く感じると絶好調の兆候だった。
もっとも調子がよかった
北海道のトータル約250キロの
オロロントライアスロンの時は
まるでイージーライダーのバイクにまたがっているように、
サドルが低くハンドルが高く感じたことを思い出す。
家を出て、最初の信号の交差点で止まるとき、
固定していないペダルから足を下ろすときに違和感を感じた。
ママチャリやマウンテンでも足は固定していないから
普通と言えば普通なのだが、
ロードに乗っているという感覚と
その非固定式ペダルとのマッチングがどうもしっくりこない。
そんな違和感を感じながら、
まずはそのまま和泉中央を目指して走っていく。
途中、歩道を中学生がマウンテンで走っていた。
以前なら「負けておられん」とペダルを踏む足に
ぐっと力を入れたものだが、
今日は「こころ旅」バージョンのツーリングである。
マイペースで漕ぎ続けた。
メーターを見ると25km/h。
以前ならこのあたりは平地追風なので
30オーバーで走れるところなんだが、
今日はこれでいい。
のんびり漕ぎ続けて観音寺の坂にさしかかった。
ここは200mほどの急な登りが続く。
ギアを落として漕ぎ始めたら、意外にきつかった。
年間6000キロ以上のエアロバイクを漕いでいるのに、
このきつさはなんだろうと考えたら、
どうも足を固定していないのが大きな原因のようである。
引き脚を使えないから、
踏み込む脚一本に負担がかかるということだ。
ハアハア言いながら登りきって
少し行ったところの「いしたちはら公園」でトイレ休憩だ。
その後も山に向かって緩やかに登りつつ、
テクノステージの方面に向かうと
車が渋滞している。
「なんでこんなところで」と思うでしょ。
コストコ、ららポート渋滞なのだ。
休日だったし、久しぶりにあったかかったから
みんな出てきたんでしょう。
友達もその日に行くと行ってたから
さぞや混雑で大変だったでしょう。
そのまま旧の牛滝街道を下り、
和泉大橋のところで最後の休憩。
久しぶりの走行でバイクもうれしそうに見えたなあ。
ゆっくり走ったおかげで、
キョロキョロもできたのはよかったけど、
ウォーキングと違ってバイクは気軽に写真を撮りにくい。
もう少しカメラを取り出しやすいように
工夫しないといけないかもなあ。
ハンドルにカメラを固定できれば一番いいんやけど・・・。
もう少し考えてみましょう。
そうしてその日走ったのは20キロほど。
ジムで走る距離より少ないけど、
やはり実走はあっという間だ。
これから暖かくなったら、
ペダルを固定しないバイクでキョロキョロしながら
「名所旧跡をのんびり訪ねるこころ旅」
も悪くないなと思った
久しぶりのバイクでした。
それにしても非固定式のペダルのバイクに
慣れてしまったら
もう危なくて固定式には乗れなくなるかもなあ。
火野正平がロードバイクを乗り回すという
NHKBSの「こころ旅」という番組に
最近ハマっている。
番組内では「チャリオ」と呼ばれているそのバイクを駆って、
お便りに書かれた視聴者の思い出の場所を
訪ねて行くのだが、
正平さんのゆるさがたまらなくいい。
出来るだけバスや電車での輪行をしようとするし、
登りだとすぐにハアハア言って休憩する。
下りになると
「人生下り坂最高~」
とか叫びながらフンフンと下っていくし、
たまに電動ママチャリに抜かれたりすると
「抜かれた~」と、情けなさそうに言っている。
当然下ハンなど持つことは皆無である。
これやね、トライアスロン引退後の
アラカン親父にはこの乗り方が理想的やなあ
と思って、にこにこしながらテレビを見ている。
それは、ランじゃ見えなかったものが
ウォーキングでは見えてくるように、
彼のバイクも、周りの景色や物体に
目ざとく目を配りながら進んでいくという乗り方なのだ。
今までdoironが乗ってた
バイクツーリングとは全く違った
新しい世界を彼は教えてくれている。
そんな彼が乗っているバイクと
doironのバイクと違うところは、
ペダルが固定式ではないというところだ。
ゆっくりと走り、道端に変わった花が咲いていたら
すぐに立ち止まったりする彼にとって
固定式ペダルは必要ではない。
そこで、もうトライアスロンのレースに
出る事のなくなったdoironも、
バイクをただ眠らせておくだけではなく、
できるだけ活用できるように、
ペダルを彼と同じ
非固定式のものに変えてみよう
と思い立ったのである。
とはいえ、やはりバイクは
軽量のロードバイクである。
ママチャリ並みのペダルじゃあまりにかっこ悪いし、
いざとなったら少しは踏み込めるようにと、
滑らなくて軽量のペダルにはしておきたいところだ。
そこで、近所にできた
スポーツサイクルのお店に行ってみた。
その店は以前別のところで営業しており、
何度か行ったこともあるし、よく牛滝であったりしたので、
店の人とも顔なじみになっていた。
そこの店が同じ町会の中に引っ越してきたのだ。
「もうガシガシ乗ることないので、
固定式じゃないペダルが欲しいんやけど」
「え?もうトライアスロンしてないの?」
「うん。レースはもう引退した。」
そんな会話を交わした後、
軽くてすべらないペダルとなるとこれやなあといって、
出してきてくれたものを即購入。
早速帰って取り付け作業にかかった。
先ずは従来のペダルを脱着する。
たしか左側のペダルが逆ネジだったよなあ、
とレース前にバラして
会場で組み立てていた頃のことを思い出しつつ無事脱着。
ネジ部分についている、
黒く変色したグリスをクリーナーで落とし、
新しいペダルにグリスを塗りこんで装着終了。
簡単な作業である。
この時グリスをつけておかないと、
今度外すときに溶着して取れなくなってしまうから
この作業は絶対必要なのだ。
そして無事に装着。
タイヤに空気を入れて
その辺を回ってみると、
足を固定していないというのも
なかなか楽ちんである。
ただこの時に問題が発生した。
前の変速、特に大きいギヤから小さいギヤに落とすときに
STIレバーが全く効かないのだ。
ああ、そうか、昨年も乗り始めに
この症状が出ていたなと思い出し、
STIレバーのカバーをめくり
CRCを景気よく注ぎつつ、
レバーをカチャカチャ動かしていたら・・・治りました。
これで、ようやくロードに出ることができます。
「こころ旅」の正平さんのいでたちは、
スキンヘッドに派手なウインターキャップ
のようなものを被り、さらにその上に
カスクと言われるヘッドギアをつけている、
しかもズボンはまた下のだぶっとした変な形のものを
彼ははいているのだが、
まあそこまでは似せることもないだろう。
従来のメットとチャリパン&ウインドブレーカーに着替えて、
さあ試し乗りに出かけてみよう。
明日に続く。
親父が亡くなった時には
4日間連続で夢に本人が登場し、
doironをはげしく驚かせた。
きっとこれは何かのメッセージなのかもしれないと、
その時はいろいろと考えさせられたものだ。
さて、母さんの時はどうだろうか
と夢を楽しみにしていたのだが、
残念ながら昨日まで一度も夢に現れなかった。
う~ん、孝行が足りなかったのかと、
あきらめかけていた昨夜、
ついに夢に母さんが現れた。
doironは眠りが深くあまり夢を見ることはない。
ましてや親の夢を見ることなど
親父の時を除けば
これまで皆無といっていいほどなかった。
それが、こうして夢に現れてくるということ自体
稀有な出来事なのである。
三日間、葬儀関係で心を砕いた結果かもしれない。
そう考えれば葬儀という儀式は
まぎれもなく故人のために行うものである一方
残された者により強く故人の印象を
植え付けるために行われてきたものなんだなと
あらためて思った。
で、夢の話。
場所は天井がガラス張りの部屋。
そこにミセス、息子と扉を開けて入っていくと
明るい部屋の中の突き当たりにテーブルが置かれ、
そこに親父と二人で座っていたのだ。
部屋に入るとすぐにガラス張りの天井から見える空に
一機の飛行機が飛んできた。
その時に雷鳴が轟き、
その飛行機の跡を龍が飛んでいくというもの。
それを見ていると母がこう言った。
「恐ろしいやろけど心配ないで」。
見ると母はにこにこ笑っている。
親父は黙ったままだ。
そして稲光がピカッと光って
短いその夢は終わった。
まったく普段の自分の中にない映像が
夢の中に現れるというのは不思議なものだ。
この夢はどういうものなのだろうか。
まず親父と二人で座っていた
というのがひとつのポイントだろう。
きっと、あの世で二人、
ちゃんと出会えたよということに違いない。
実は、親父が亡くなったことを
母は知らずに亡くなった。
たまに片言の返事をするだけで
あまり応答もなかった母に、
これ以上心の負担はかわいそうだな
と判断したからだ。
問われることはないだろうが、
もし問われたら
「眠るように逝ったよ」
とでも言ってあげようと思っていた。
それから5カ月。
母さんが後を追うように亡くなったのは、
きっと
「仲のいい二人やったから、
あの世から親父さんが呼んでたんやで」
とみんなに言われた。
その通りかもしれない。
親父の死を秘密にしていた
doironの心の負担を取り除くための
二人での登場だったのに違いない。
親父は、夢の中で龍の頭に乗って旅立って行った。
きっと乗り心地が悪かったんだろう。
今回は母のために飛行機をチャーターしたのかもしれない。
後にちゃんと龍を従えてね。
いいところへ行ってくれたんだな
と思わせてくれる夢でよかったなあ。
葬儀が終わって、
最近彼女とラブラブらしい息子も
とっとと長野に帰り、
家の中は一気に静かになった。
思えば4年前にdoiron自身が
龍に乗っていってしまってたら、
今頃はガランとした家で
ミセスが一人で過ごしているところだったことを考えると、
(グーはいるけど・・・)
まだまだdoironには
龍に乗る資格はなさそうだ。
静かに、つつましくそして元気に
二人で暮らしていかねばなと、
あらためて考えさせられた母の死であった。
寒い日が続きます。
こんな時は仕事にいそしむのが一番。
とはいえ、いつ来るかわからない仕事なので
オファーのない
そんなときはせっせと絵を描いてます。
机周りで今威力を発揮しているのが
足温器
親父が使っていたものを活用しています。
もっと寒くなると
この仕事に就いた時に
祝いでいただいた電気毛布を膝にかけます。
部屋をあまり暖め過ぎますと
パソコン同様
脳みその活動が鈍くなるのであまり使いません。
無い知恵を絞るので
すぐにオーバーヒートするのでね。
で、今日はそんな仕事の話を少し。
あ、クリエイターではありません。
フリーライターの仕事です。
たまにテーマを与えられて、
文章を書くという仕事があります。
これがねえ、色々と制約があって面倒なんです。
どういう制約かというと、
まず文字数。
書いていて文字数が明らかに越えるとなると、
何を削ればいいのか
その辺に神経を取られます。
逆に、文字数が足りないとなると、
何とかして増やそうとするのですが、
結果この場合最悪の文章になってきます。
ブログはねえ、文字数などは全く意識しなくていいので楽ちんですね。
出版物となると内容についても
もちろん制約があります。
使ってはいけない言葉、表現とかは絶対排除です。
そして、なんといってもわかりやすいことが求められます。
もともとあまり難しい文章は書けません。
しかし、自分がこれまでやってきたこと、
例えば行政のお仕事であるとか、
介護とか運動や植物のことになると
ついつい専門用語が出てきたりしてしまいます。
これらを書き終えた後は、
ミセスがチェックします。
「ここはかたい!」とか「ふざけすぎ」
とか言ってくれるのがまた憎らしくてね~。
「ここはどうしてもこの表現以外ないやろ」
と言い返したりして、
チェックをお願いしているにもかかわらず、
腹を立ててしまうのはまだまだ未熟ですわ。
次の制約はやっぱり締切があること。
「OO日までに原稿をお願いします」
と言われるのは、結構プレッシャーです。
それが翌日だったりするともう大変。
変な汗をかきながらパソコンに向かうことになります。
何とか今まで遅れたことはなく、
原稿は必ず締切前には入稿しています。
問題は依頼を受けた時に
締め切りまでにかなりの
遊びの計画が入っているときです。
気になったまま遊ぶのは嫌なので
さっさと仕上げようととりかかって、
最初の出だしでつまづいてしまうと、
迷路にはまってしまうことがたまにあり、
朝からパソコンに向かって、
あれやこれやと組み立て始めると、
何度も同じ思考を繰り返している時があります。
堂々巡りというやつです。
結局、夕方までかかって書いたのが3行だけ
だったりすると、自分の才能の無さを痛感して
落ち込んでしまいます。
だいたい、今のパソコンは文章作成が簡単すぎます。
言葉が足りなければ、
付け加えて挿入すればいいし、
削るのも選択してキー操作ひとつです。
文の前後入れ替えなんてのも
チョチョイのチョイと自由自在。
逆に推敲が簡単すぎて、
しっかり組み立てもないのに
適当に書き始めてしまったりします。
そうすると、推敲が重なって
出来上がった文章が、
塗りすぎた水彩画みたいに
どことなくゴテゴテしてしまいがちです。
それに、推敲の跡が残らないから、
あれ?なんでこうしたんだろう
と思ってしまうと、
もうわけがわからなくなってしまいます。
もし激しい推敲魔であった宮沢賢治が
今の世にいたら、
簡単に文章の差し替えなんかできるので
きっと小躍りするでしょうね。
しかし、逆にあんな味のある文章は
書けなかったかもしれませんが・・・。
いよいよ行き詰ってしまうと、
散歩に出るのですが、
これもちょっと公園を歩くだけでは
なかなか気分転換にはなりません。
歩きながらもいろいろ考えてしまうからです。
そこで、そんな時は翌日に山歩き、街道歩き、
友達と食事など思い切って遊びに行きます。
出来るだけ仕事のことは考えないようにし
遊びに専念します。
そうして次にパソコンに向かったときに、
すらすら言葉が出てきたりすると
「ああ、やっぱり人間は気分転換が必要なんだな」
と実感する次第です。
文章作成には自分の心のありようも大きく影響します。
マラソンをしている頃は
自分の体調がよくわかったように、
こんな仕事をしていると心の状態がよくわかります。
近頃はあまりよくありません。
とまあ仕事に関して、ここでは
こんな愚痴や嘆きがスラスラ出てくるのは
ブログという気楽さのおかげなのかな。
もっと気楽に仕事しますかね~