後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔68〕藤田嗣治の戦争画から見えてくる戦争責任とは何でしょうか。

2016年01月19日 | テレビ・ラジオ・新聞
 もう10年ほど前になるでしょうか、連れ合いとパリ市立美術館を訪れたことがあります。ここはマティスの「ダンス」や、デュフイの巨大な壁画「電気の妖精」があることで有名なところですが、私にとっては藤田嗣治の作品が所蔵されているということで足が向いたのでした。しかしながらその作品がある地階は改装中で鑑賞がかなわず、残念な思いをしてホテルに戻ってきたものでした。
 数年前に東京国立近代美術館で藤田の戦争画が展示されたことがあります。それまでは戦争画ということで長く非公開になっていました。その時に私は初めて藤田の戦争画を見ることができました。公開された数点の戦争画の中に「アッツ島玉砕」がありました。凄惨で壮絶な絵という印象が強く、なぜこれが戦意高揚のための戦争協力画なのかと不可思議に思いました。
 昨年の暮れから今年にかけてテレビで藤田のことが頻繁に取り上げられました。再び、藤田の戦争画とは何だったのか、考えさせられています。
 まずはテレビでどのように取り上げられたのか、概略を眺めてみましょう。

●画家・藤田嗣治の特集番組、「芸術と戦争」の関係を考察〔○○ニュース〕
 画家・藤田嗣治の特集が12月17日にNHK BSプレミアムの『英雄たちの選択』で放送される。
 『アッツ島玉砕~戦争と対峙した画家・藤田嗣治~』と題された同番組では、藤田が初めて自らの意思で描くことを選択した戦争画だという『アッツ島玉砕』にフォーカス。戦前フランスに渡り、自作のキャンバスを使用した「乳白色の肌」の裸婦像で高い評価を獲得した藤田が、軍の要請を受けて戦争画を描くに至った背景を検証するほか、戦争画を描くという藤田の選択を通して「芸術=メディア」と戦争の関係を考察する。
 さら軍医として最高位の軍医総監であった父や、陸軍大将の児玉源太郎を義兄に持つ藤田が家族や家庭環境から受けた影響にも光を当て、藤田の葛藤に迫る。
*2015年12月17日(木)20:00~21:00にNHK BSプレミアムで放送

 戦争画を描いた藤田は、子どものためのユーモラスな喧嘩の絵も描いています。

●「黒柳徹子のコドモノクニ」BS5
ピカソを驚かせた日本人!
藤田嗣治が描いた美と哀しみ

 1920年代のフランス・パリで、ピカソやモディリアニと共に活躍した日本人画家、藤田嗣治。日本画独特の技法と、油彩画を融合させた斬新な画風、その独特な乳白色の色使いは人々を魅了し、"乳白色のフジタ"と絶賛された。
 藤田嗣治は明治19年、4人兄弟の末っ子として東京・新宿に生まれる。家は代々、医者を生業としており、父は森鴎外の後任として陸軍軍医総監を務めた人物。当然、嗣治も、ゆくゆくは医者になることを期待されていた。しかし、5歳の時に母が急逝すると、嗣治は寂しさを紛らわすため絵を描くようになる。そして、その非凡な才能は大正2年、パリに留学して一気に開花。世界中の芸術家がパリに集まり、その才能を競い合った"黄金の1920年代"。藤田は誰もがうらやむ圧倒的な才能で、その作品は天才ピカソをも驚かせた。
 しかし、第二次世界大戦が始まると日本へ帰国。活躍の舞台を日本に移す。この頃、絵雑誌『コドモノクニ』にもユーモラスな童画を描いていた。その後、太平洋戦争が始まると、藤田は戦争画にも手を染める。中でも「アッツ島玉砕」は戦争画の名作といわれるが、戦後になると一転、戦時中に戦争を賛美した画家として糾弾されることになる。失意のもと日本を後にした藤田は、再びフランスへ…。そこで彼は、子どもたちをモチーフにした独特の作品を描き始めた。
 今回、藤田嗣治の世界を旅するのは、脚本家・作家として活躍する中江有里さん。ピカソを驚かせた藤田作品の秘密と、子どもたちを描いた藤田の思いに迫る!
【出演】中江有里

 さて戦争画に戻りましょう。藤田は14点の戦争画を描いています。すべて東京国立近代美術館に所蔵されています。東京国立近代美術館のサイトにはその作品一覧と、映像も掲載されています。題名や美術展名、タイトル、開催年なども合わせて確認してみてください。 

■東京国立近代美術館所蔵 (無期限貸与)藤田嗣治 戦争画一覧
1.哈爾哈河畔之戦闘(昭和16年、油彩・キャンバス・額 140.0×448.0cm)第2回聖戦美術展 (1941)
2.武漢進撃(昭和13-15年、油彩・キャンバス・額 193.0×259.5cm)第5回海洋美術展(1941)
3.南昌新飛行場焼打(昭和13-14年、油彩・キャンバス・額 192.0×518.0cm)第5回海洋美術展 (1941)
4.十二月八日の真珠湾(昭和17年、油彩・キャンバス・額 161.0×260.0cm)第1回大東亜戦争美術展 (1942)
5.シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)(昭和 17 年、油彩・キャンバス・額 148.0×300.0cm)第1回大東亜戦争美術展(1942)
6.○○部隊の死闘-ニューギニア戦線(昭和18年、油彩・キャンバス・額 181.0×362.0cm)第2回大東亜戦争美術展 (1943)
7.アッツ島玉砕 (昭和18年 油彩・キャンバス・額・1面 193.5×259.5)決戦美術展(1943)
8.ソロモン海戦に於ける米兵の末路(昭和20年、油彩・キャンバス・額 193.0×258.5cm)第2回大東亜戦争美術展(1943)
9.神兵の救出到る(昭和19年、油彩・キャンバス・額 192.8×257.0cm)陸軍美術展 (1944)
10.血戦ガダルカナル(昭和 19 年、油彩・キャンバス・額 262.0×265.0cm)陸軍美術展(1944)
11. ブキテマの夜戦 (昭和19年油彩・キャンバス・額・1面 130.5×161.5) 戦時特別文展陸軍省特別出品(1944)
12.大柿部隊の奮戦(昭和 19年、油彩・キャンバス・額 130.5×162.0cm)戦時特別文展陸軍省特別出品 (1944)
13.サイパン島同胞臣節を完うす(昭和20年 油彩・キャンバス・額・1面 181.0×362.0)戦争美術展(1945)
14.薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(昭和20年、油彩・キャンバス・額 194.0×259.5cm)戦争記録画展(1945)

 藤田は当時ヨーロッパで最も知られた日本人画家で、日本の画家を代表して意気揚々と戦地に赴き戦争画を描いたようです。宮本三郎や小磯良平などの兄貴格でした。最初は戦地を俯瞰した絵がほとんどでした。確かに「アッツ島玉砕」から一段と迫力が増してきます。マクロからミクロの世界に瞬間移動したようでもあります。
 「アッツ島玉砕」は「アッツ島全滅」ではありません。アメリカ兵の屍の上に華々しく散った日本兵を描いたのです。展覧会に来た人びとがこの絵の前で涙を流しているのを見たとき藤田の画家としての思いは遂げられたようでした。藤田はこの絵が自身の最高傑作と思っていたようです。
  戦後、画家としての戦争責任を藤田が一身に背負わされて、日本を離れることになり、再び日本の地を踏むことはありませんでした。フランスに帰化しました。
  戦争という極限状態の中で、あのような仕事をした藤田をどう評価するのでしょうか。自分だったらどうしたでしょうか。…これからも藤田のことを考え続けようと思います。
  そして、いつか 映画「フジタ」を見なければと思っています。

●映画「FOUJITAフジタ」
 『死の棘』で第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ&国際批評家連盟賞をダブル受賞、『泥の河』『伽?子のために』『眠る男』など海外でも高く評価される小栗康平監督の、十年ぶりとなる最新作だ。パリで絶賛を浴びた裸婦は日本画的でもあり、大東亜の理想のもとに描かれた“戦争協力画”は西洋の歴史画に近い。小栗監督は「これをねじれととるか、したたかさととるか。フジタは一筋縄で捉えられる画家ではない」と語る。戦後、「戦争責任」を問われたフジタはパリに戻り、フランス国籍を取得。以来、二度と日本の土を踏むことはなかった。フジタは二つの文化と時代を、どう超えようとしたのか。
 フジタを演じるのは、韓国の鬼才キム・ギドク監督作品に出演するなど海外での活躍も目覚ましいオダギリジョー。フランスとの合作は本作が初めてである。映画の半分を占めるフランス語の猛特訓を受けて、見事にフジタを演じた。フジタの5番目の妻・君代役には、『電車男』『嫌われ松子の一生』『縫い裁つ人』などで名実ともに日本を代表する女優 中谷美紀。さらに、加瀬亮、りりィ、岸部一徳ら味わい深い個性派が集まった。フランス側のプロデューサーは、世界的大ヒットとなった『アメリ』のほか、アート系の作品も数多く手掛けるクローディー・オサール。静謐な映像美で描く、フジタの知られざる世界が現出した。

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