25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

石のまくらに 村上春樹

2018年10月31日 | 
 読書の中休みという感じで月刊誌「文学界」に掲載された村上春樹の三つの短編小説を読んだ。その中で「石のまくらに」に「おおっ」と思ったのだった。ストリーは村上春樹の短編にときどき現れる「男と女の一夜物」である。短編にしても短すぎるくらいの短編である。大学生の僕とアルバイト先に出会った少し年上の女性が人生で一回きりのセックスをするのである。その女性は短歌を作っていて、一夜の約束で冊子になった彼女の短歌をのちに送ってきた。その短歌のいくつかが僕のこころに残っているという話である。
 
 あなたと/わたしって遠いの/でしたっけ?
木星乗り継ぎ/でよかったかしら?



石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
 流される血の/音のなさ、なさ


「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」

 一夜の触れ合いも、短歌もこの彼女の言葉が僕の頭をクルクル回って、短い物語は短歌を挿入しながら進んでいくのである。

 今のとき/ときが今なら/この今を
 ぬきさしならぬ/今とするしか 

やまかぜに首刎ねられてことばなく
 あじさいの根もとに六月の水

「大きな声をだすかもしれないけど」「それはちょっと困るかもしれない」「じゃあそのときはタオルを噛むよ」
 そんな会話を思い出す。

 また二度と逢うことはないとおもいつつ
 逢えないわけはないとも思い

 僕は彼女はどうしているのだろうと思う。彼女がまだこの世界のどこかにいることを心の隅で願っている。その変色した歌集をときおり抽斗から出して読み返したりすることに、いったいどれほどの意味や価値があるか、わからない。しかしそれはあとに残った。ほかの言葉や思いはみんな塵となって消えてしまった。


 たち切るもたち切られるも石のまくら
 うなじつければほら、塵となる


 こんな話は村上春樹はマジシャンのようにうまいのだ。短歌まで作ってしまうとは。そう思うと、待てよ、村上春樹は長編より短編がよい。短編でもこんなに短い話が書けるらにその中に短い短歌がある。俳句もいつか書いてみるのかなあ、と思いながらこの年上の小説家の作品をいつも待ち遠しく思っている。*文學界7月号に掲載された村上春樹三つの短い話
 

ビタミンC

2018年10月21日 | 
 岡田さんのブログを見て、最近ユヴァル・ノア・ハラリから知ったことを報告しておこう。壊血病とビタミンCのことである。壊血病とは体内の器官から出血し、死に至る病である。地理上の発見の時代、長い航海にでると船の乗組員の半数が死んだという。このことがあったから、遠くへの航海が憚られた。どうして船乗りたちは死んでいくのか。1522年、マゼランの遠征艦隊が7万2000キロメートルの旅を終えてスペインに帰り着いたとき、マゼランを含め全員が命を落とした。
 転機は1747年に訪れた。イギリスの医師ジェイムズ-リンドが船乗りの病気にたいしてグループに分けて実験をおこなった。実験グループの一つには、柑橘類を食べるように指示した。このグループの患者はあっという間に回復した。まだその頃は回復させるそれはビタミンCだとはリンド医師にもわからなかったが、クック船長は船に果物と野菜を積み込み、寄港地でも野菜と果物をたっぷり食べることを指示した。クックは一人として壊血病で水夫を失うことはなかった。
 その後数十年間で、世界中のすべての海軍がクックの航海用食事法を取り入れ、水夫や乗客の命が救われた。南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの先住民の9割が死んでいった代わりに、白人は地図に南北アメリカとオーストラリア、ニュージーランドを書き込み、そこを白人の領土とした。
 文明と接していなかった先住民にとって、なんという歴史の皮肉か。のちに、これがビタミンCであることがはっきりとした。ビタミンCが大航海時代を可能にしたのである。人類は主に歩いて地球の隅々にまでに行き渡った。島に渡るにも、日数のかかるところへは不可能であった。島から島へと長い年月をかけた。現代なら月にいくような感覚だったろう。

 科学が大航海を可能にした。武器には鉄砲まであった。世界の大転換期となった。宗教が科学に乗っかった。スペイン、ポルトガルは宣教師を派遣する。アメリカには清教徒が渡った。誰がビタミンCが切っ掛けとなって数々の先住民族を殺すことに至ることを想像したことだろう。



  

ユヴァル・ノア・ハラリ

2018年10月17日 | 
書いた小説を自分で校正しているとキリがないようになる。もう間違いはないだろうと最後にまた読んでみると、表現そのものを変えたいという気分になることがある。校正の専門家は書く人の気持ちを収め、客観的に文の誤りや辻褄の合わなさ、データの誤りなどを正していくのである。
 午前中、パソコンの前に座っているときは前に書いたものの校正ばかりやっている。この一年で短編と中編ほどの小説を6つ書いたので、3つづつに分けて、本にしておこうかと思っている。それほどに印刷や製本代が安くなった。ISBNやバーコードまでも取れる。
 書いた人が本を作って、それを売るネット会社が現れる。つまり出版社が不要になる。すべての出版社がなくなるとは思わないが、激減することは確かなように思える。
 読む物がすべてタブレットやスマホに変わるとは思えない。なぜなら本の方が便利だからである。電池を気にしなくてもよいし、メモも書ける。落す確率も増える。
 ぼくは「青空文庫」のアプリを入れているので、著作権切れの小説は「青空文庫」で読んでいる。便利であるが、文庫本の方がやはり便利だ。本はペラペラとページを探るのが早い。スマホは遅い。どこにあの言葉があったかな、と探すときだ。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史上巻・下巻」は面白い。出版社が気合いを入れて出版権を獲得した作品である。2017年ビジネス書大賞を受賞している。(なぜビジネスジャンルなのかは不明だが)ぼくの一連の6月からの読書の旅はテーマとしてはこの本で終わることになる。そのなかで幾つか目からウロコが落ちた見識があった。
  近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け入れている。いかなる概念も、考えも、説も、神聖不可侵ではなく、異議を差し挟む余地がある。(サピエンス全史 下巻)

 無知であることを認めた。すべては神だけがわかっていると思っていた時代の終わりの始まりは西ヨーロッパにおいてであった。無知を認めたから新しい知識の獲得を目指す。
 アマゾンの奥地にいたピダハンたちの仲間はこの科学革命の波が細菌やウィルスという形をとって、あるいは銃弾という形で滅亡に追いやられるとは思ってもみなかっただろう。
 歴史はホモ・サピエンスが優位になるように進んでいるのではない。歴史とは何か、といえば、偶然の選択性の足跡である。一神教が多神教よりすぐれたものであるという証拠はない。ある文化が別の文化に勝るという証拠もない。サピエンスがあと一千年生き延びるという証拠もない。
 科学はそこから出発している。納得がいった。

ピダハンを読んで

2018年09月22日 | 
「ピダハン」を読み終えた。ブラジル、アマゾン川の支流の支流のまた支流の流で暮らす先住民である。五百人ほどのピダハンが幾つかの集団に分かれて近隣で暮らしている。
 作者はキリスト教福音派の宣教師で、ピダハンの村に入り、ピダハン語を覚え、ピダハン語聖書を作るのが目的である。
 言語を学習していく過程で、作者はピダハンの文化と言語を考えることになるのだが、彼の関心は言語学に向いてしまう。これまで言語学では解けない謎がピダハン語に多いからだ。
 一方読み手であるぼくは、なぜピダハンは過去の話をしないのか、見えない物を信じないのか、赤ちゃんことばがないのか、200年前に文明と接触しているにもかかわらず、文明社会を拒むのか。どんなものを食べているのか、など言語よりも生活の中身の方を知りたかった。
 「心配」というものがないらしい。「死」が恐ろしいことと思っていないらしい。笑っている時間がとても長いらしい。暴力はいけないとだと思っているらしい。
 作者は言語学理論に一所懸命で、「なぜ」という問を文法上のことばかりに向けるので、読む側mくたびれるのだ。そして謎は明かされるのかと期待して読み進めるのだが、最後まで言語にこだわったまま終え、この本を書く頃には無神論者になっているのだ。

 人類がアフリカを出て地球の隅々にまで移動していったなかにアマゾン川の上流をひたすらのぼっていった人々がいた。あるものたちは川沿いに居住し、またそのなかのあるものたちは支流いわけいり、奥へ奥へとのぼった。
 その一グループがピダハンなのだろう。十万年前のことか五万年、一万年前かわからない。飢餓を起こさないで済む環境を見つけたのだろう。

 話を変えるが、テレビなどでは「愛」という言葉がよく出てくる。この言葉はぼくには使えない。ぼくの心身に収まってないのだ。アメリカの映画を見ているとどれほどこの言葉を耳にすることか。同様に「神」という言葉もぼくのなかに収まらない。あの世も、天国も、地獄も、同様である。要するに、宗教用語が収まらないのだ。

文藝春秋を買う 桑田佳祐

2018年09月15日 | 
 「文藝春秋」がサザンオールスターズの大特集を行った。早速買って読んだ。最初のグラビアではカラーで5人全員やそれぞれ個人の写真があった。雑誌の中であ桑田佳祐へのインタビューをまとめたもの。次は原由子と作家の角田光代との対談であった。その後が数名にサザン評であった。この月の別の特集では「昭和の軍人に見る「日本型悪人」の研究」であった。

 サザンは新曲をだしていくことを第一に考えている。それがなければ懐メロメンバーになってしまう。新曲作りが実践されていく。四十年。
 サザンはぼくが仕事を始めたくらいの時にデビューし、それ以来ぼくは追い続け、期待し続けてきた。「朝方ムーンライト」を聞くと、胸が熱くなる。「天井桟敷の怪人」を聞くと踊りたくなる。昔の曲と新しい曲なのに新鮮味は変わらない。
 エロ歌もいいが、世の中への皮肉歌もよい。「サウダーデ」はMy best song である。

 日本ではスーパーバンドであり、桑田佳祐はたぐいまれなシンガーソングライターだろう。
 これまでファンだった人がいた。吉本隆明もそうだった。池波正太郎もそうだった。彼はぼくよりも年上だった。もうかれらの新しい作品は読めない。ぼくの場合、男性では中井貴一、仲村トオル、反町隆史のファンであり、彼らは元気である。女優では若村真由美とミムラのファンである。 
 彼らが死んでしまったら寂しいことだ。桑田佳祐がいなくなればポップスの楽しみがなくなるなあ、みな元気でやってくれよ、などと思ったのだった。
 相撲はついに稀勢の里が負けた。

イゾラド、ヤノマミ、ピダハン

2018年08月09日 | 
  以前に図書館で借りて読んだ国分拓の「ヤノマミ」には驚嘆した。アマゾンの奥深くで移動して暮らしている原始の民族の生活、NHKのディレクターが6ヶ月ほどを一緒に過ごして取材したものだ。ヤノマミの生活にも驚いたが、ぼくはそこへ行き、取材をするディレクターやカメラマンに驚嘆したのだった。彼らはヤノマミと同じ生活をして確かな取材をした。
 次にぼくはまた図書館でやはりアマゾン奥地に住む「ピダハン」を読んだ。これはアメリカの宣教師が宣教のため行き、書いたものだ。彼らは、精霊の概念も神の概念もなく、右左の概念もなかった。ピダハンの言語を、ピダハンの村から少し離れたところで、コーヒーやハンモックを持ち込み、我が生活様式は頑なに守ってピダハンを知ろうとするのでだった。結果、彼は信仰を捨てた。ピダハンの言語研究者になった。
 
 「イゾラド」というまた別の民族があることを息子から知った。またヤノマミを取材したディレクターが「ノモレ(仲間)」というタイトルで書籍にした。ヤノマミの取材を終え、熱をだし、入院した男だった。
 懲りずにまた別の民族の実像を調査しにいく。この男はどういう男だと驚きもし、尊敬もする。
 ぼくらは彼の取材により、きっと人類にとってとても大事なことを教えてくれると思う。
 ぼくはとりあえず、かれらの共同幻想、個人幻想、対幻想を知りたい。

 旧約聖書の歴史は収奪と人殺しの歴史である。エジプトやメソポタミアの文明から遠く離れて、アマゾンの上流域にたどり着いた幾つかの集団は文明の外にいた。闘いの歴史を刻みこまれた現代の文明である。特に西南アジアからヨーロッパ、北アメリカがすごい。そういう歴史など無関係に生きてきたアマゾンの奥地の集団である。
 「ヤノマミ」も「ピダハン」も手元に置いておこうと思い、「ノモレ」も読もうとAmazonで注文したにが昨日だった、そしたら翌日4時にまず「ピダハン」が届いた。文明最先端時間の速さでぼくは書物を手にしたのだった。これも驚嘆。続いて翌日「ヤノマミ」「ノモレ」「言語が違えば世界も違って見えるわけ」「ことばと思考」が届いた。

 聖書に始まった6月からの読書の旅はいくつかの聖書関連本、人類の起源、日本人の信仰、と走破して、今アマゾンの支流奥地で暮らす人々の暮らしをもう一度読もうという気にさせている。
 

ホモ サピエンス

2018年01月05日 | 

 人類に遺伝子の突然変異は再びないのだろうか。250万年前に、二匹のチンパージーがいて、一匹に突然変異は起こらず、もう一匹に人類への突然変異が起こった。SF映画を見ていると、ついそんなことを思う。

 別に超能力をもつ X menでなくてよい。なにかこれまでの人類ではもっていなかったもの。不要になったものでもよい。

 AIが作れる人間とAIに使われる人間が出てきた場合、つぎの世代の遺伝子はかわらないのか。音楽の天才は三世代を要するのと同じように、人間は能力によって分断されていくのだろうか。コンピュータが全くわからない人とわかる人とでは交信ができないという風に。

 取り残されていくものと進化していくもの。これがよいことか悪いことかはまだわからない。

 他だ確かなことは2000年以上前に人間が考えた内面の規範はいまでもりっぱに通じることだ。目に見えて存在しないものを存在すると考える人間の認知はおそらく永久に変わることはないだろうと思うが、AIが人間の二種の言語(指示表出と自己表出言語)から織り成す深いメタファまで読み取れるようになる頃にはわれわれ人間も滅んでいるのではなかろうか。地球の支配者は人間であると思えばそれは錯誤ではないか。人類が認知を持ったのは7万年前。農業を持ったのは1万5千年前。産業革命から急速に科学化したのは200数十年前。

 人間がどうなっていくかと考えると個人の人生はほんの一瞬の瞬きである。それでもかけがえのない大切なものである。今の時代に生きる人々が未来に繋いでいくもである。それはささやかな営みに延長にある。

 孫たちの70年後はどんな社会なのだろう。さらにそのこどもたちとなれば。