25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

歯とオイルサーデン

2020年01月10日 | 日記
今日も歯医者へ行った。そして歯の点検をした。まだ4本ほど抜かねばならないらしい。
「いずれ最後は総入れ歯になってもしかたないと思ってるんでが、どのような段取りで進んでいくのですか」
「グラグラしているのをとりあえず抜いて、抜いたところを入れ歯にして、またグラグラしてきたらそれ抜いて,入れ歯作って・・・・」「でその間、食事はどうするんですか。2か月もかからんと思うけどな」
 歯医者さんは今日もグラグラしているのを抜きそうな気配である。16日に人と会う出張があるので、それによって16日以降のスケジュールも決まるので、 16日以降にしてもらえん?」 と今日は逃れた。

 歯に関して最初は「超スッキリしたのだが、さすがに歯がなくなってくると噛めず、食べる物も限られ、今では暗澹としている。
 スウェーデン人に虫歯がないのは、歯を磨いたあと口の中をゆすがず、ペッとペイストを吐き出すだけらしい。それを食後必ずする。虫歯の菌もそれで殺菌されるらしい。
 歯がよいと言えばバリ島の人たちもみな歯がきれいで虫歯があると聞かない。虫歯くらいはあるだろうが、みな一様に歯が白くて歯並びもよいのには理由がありそうだ。 バリ島の水は硬水である。カルシウムが多いだろう。それに紫外線がサンサンと照る。ビタミンDが合成される。それで歯が強くなる。 塩で歯を磨くのもいいのかもしれない。これは理由はわからない。そんな感じがする。虫歯菌と歯周病菌って塩に弱いような気がする。これは勘であり、なんら根拠がない。

 いつか歯のことはなんとかしなければならない日が来るとは思っていた。そしてやっぱり来た。ここは忍耐。
 それにしても温かい日が続く。
 イオンに「鬼エビ」が出ていた。エビやカニなら食べることができる。「カタクチイワシ」は食べられないが、最近スペイン産のイワシで作ったオイルサーデンを買って食べた。 温めて、醤油少々に唐辛子をかける。これが美味かったので、脂がのすっかりなくなった尾鷲のカタクチイワシは食べられない。イワシの缶詰めでいくことにした。柔らかく噛むこともない。

振り返ってみる 纏める

2020年01月05日 | 日記
 朝の満員電車に乗って通勤することは考えられなかった。会社に入り、上司の小言を言われ(上司は小言を言うとかぎらないのだが)、同僚とは話が合わないだろうと想像し、東京の空の下、どこかの会社に入るための就職活動をすることをやるつもりもなかった。甚だしい就職活動という世界に身を置いたことはなかった。
 しかもスペイン語の授業をさぼり、挙げ句、2単位を落として、卒業できず、留年することになった。教職免許をとるために、母校尾鷲高校で教育実習をさせてもらった縁で、尾鷲高校の講師の席が空いたから、やってみてその間に三重県の試験を受ければいいじゃないかと、教頭先生からお誘いの電話をもらったが、卒業できなかったから、お断りせざるを得なかった。高校での実習は楽しく、好き勝手にやらせてもらったことをおぼえている。
 大学受験のときは前の日久しぶりで会った恭くんと大阪で夜中まで話し込んで、翌朝、京都の受験会場まで30分も遅刻した。東京では別の受験会場に行ってしまい、あわてたことがあった。
 もう少し慎重であるべきだったのに、頭がなんだかぼんやりしていたのだろうか。性格上のことなのか。いまではどっちもだと思っているが、なんとも反省する性格であると未だに悩ましい。
 とにかく、大学を卒業して故郷に帰り塾を開いた。故郷は海と山の町で、ようじゅは人口も3万人以上あって、コンパクトな居心地が、たぶんきっと母の子宮中にいるような感覚だった。だから都会の人ごみを逃れてのびのびとやれたように思う。
 塾は開講早々多くの生徒が集まり、繁盛した。貧乏学生から即結婚式資金を一年で貯めて、今の細君と結婚した。教える仕事をやっていると、自分の説明の仕方や常にシステムとしてこれでいいのかよく考えた。夜中になると、いろいろな本を毎日欠かさずに読んだ。新婚から30歳くらいが一番楽しかったのではないかと思う。塾は成長していき、LLシステムを導入し、それに見合う音声教材を作り、LLシステムと一緒に塾や学校に販売することはじめた。英語圏の人を雇い、彼らが教えられるようマニュアルも作り、要望のある塾や学校に派遣もした。
 東京や名古に事務所をもつことになったが、ぼくが移住して東京に住むことはなかった。会社名称もカーネル出版とし、パナソニックとソニーと取り引きをぢていた。会社はそのご紆余曲折して閉じることにはなったが、これまで69年。オリジナルに作ってきたものが多々ある。会社を閉じてからのほうがよく作ったと思う。経験もそれなりに蓄積されていた。
 昨年はアプリを開発して、精神的には20年のリベンジを果たしたと思う。お金もその開発に注いだ。
 今年はこれまでに作ったものを資産化するために、ゴスペル、ファド、バリの音などの音楽CDや、銀のアロマペンダントや万華鏡ペンダント、5種のオリジナルブレンドエッセンシャルオイル、木彫りのCD立て、木彫りのマグネット、写真集、ボディーチューニングのテキストや動画、各種マッサージのしかた、手順動画、ALTや小学、中学生のための指導マニュアル、その他作ったものをホームページに陳列しいてまとめておこうと思っている。もちろん、アプリもgoogle からだけではなく、簡単にダウンロードできるようにする方法も探りたい。
 書くことの方は「うんぷてんぷ」の続編を書いて置きたい。
 自分の人生は都会、企業から「逃走劇」であったが、もちろん今はこの逃走も終えている。自由にのんびりやっているが、やりきったのか、まだやるべきことがあるほどの余裕があるのかちょっと曖昧である。

初釣り

2020年01月03日 | 日記
 息子たち一家が2日の午後1時31分の特急南紀で帰りし、娘一家は12時42分の下り南紀で到着した。わずか30分ほどの重なりがあって、午後2時には前の大好きな堤防で娘の夫である婿殿とハゼ釣りをした。彼は夏の川でハゼ釣りをしてすっかり気に入って、今度は大きなハゼを期待していた。じっと手に伝わるアタリを待つ。

 釣り餌店で、「そこの堤防やけど、ハゼ、まだおるかいな」 
 店主は、「まだ水温高いみたいやでおるんとちゃう」
「これから干潮やな」
「そうやな。ほやけど上から下ってくるのもおるやろし」
と話をしながら、ゴカイとかハリを買い、二人でいざ大物ハゼ狙いへ。
 せっかく釣りに興味をもち始めたのだから、喜んでもらいたい。
 ハゼの姿はまったく見えない。アタリで釣るしかない。プルルンときたら竿を上げる。これが婿殿には初めてである。夏の川では目視で釣っていた。潮が動いている。一匹め、小指ほどのハゼを彼は釣った。いる、という印である。婿殿は2引目はちょうど天ぷらによいサイズを釣った。ぼくはさらにひとまわり大きいサイズを釣り、これはいけるぞ、と興奮気味になった。あっという間に2時間半。釣りは竿先をみているだけで気持ちが集中するものである。その気分がわかるらしい。
「これは今日は天ぷらにしよう」と家に持ち帰ってかぞえたら21匹いた。
 一月のハゼは食べたことはないので、さてどんなものか。捌き方を婿殿に教え、
天ぷらの準備万端にしておいた。
 
 「うーん、旨い。これは旨いですね。」
「そうやろ、天ぷらでは、ハゼ、コチ、キスの順で美味しい」
「上品な味ですね。ハゼの天ぷらなど出す店あります?」
「店主が釣りに行ったときは尾鷲で出るときがあるよ」

今日はは曽根へ行き、カサゴ、ハタ釣りである。満潮時を見計らって行った。釣れた順に言えば、フグ、ネンブツダイ、カサゴ、笹ベラ、カサゴ。前方の筏の客が「潮はうごかんのう」と言っているのが聞こえた。そう言えば今日は長潮。婿殿はフグのみ。それでも楽しそうだった。向かいに見える町はイタリアの島のようだ。12時を過ぎたら風が出てきた。それで竿を納めた。
 一家は午後から熊野古道馬越峠を歩き、そのあと古道センターで凧上げをして、「夢古道の湯」に入るのだそうだ。元気あるー。ぼくは釣りだけでもうバテている。
 
 




 




一年を振り返る

2019年12月31日 | 日記
 google の商売の仕方はなんとなくそうなっていったのか、予めの構想があったのか、その知恵には驚くことばかりだ。ぼくは今年、それを体験した。スマホやタブレット、PCをもっている人は Googleを無料で使っている。Google は広告で収入を得ている。検索エンジン、マップ、GPS機能、Youtube、翻訳機能も有り難く使っている。スマホやタブレットで使えるアプリを作り、売ろうと思うと、Google はアプリを作るプログラミングソフトを無料で公開している。仮にそれが完成すると、次は登録となる。登録料は2000円ほどである。登録までの手続きもぼくですらできるのだから、誰でもできるということだ。この先にGoogle は大きな網を仕掛けている。作ったアプリは売りたいものだ。だから、売りたい国別に翻訳してくれる。これも無料だ。さてこれで世界各国のGoogleで売れると思うと大間違いである。
 そこにはアプリを閲覧してもらい、選択してもらうための方法がいる。そのためにGoogle はGoogle アドセンスという網を用意している。ここがお金を儲けるところなのだ。つまりアプリの広告である。このアドセンスが検索エンジンでホームページやYoutubeを見るときでもかならず広告が出てくるが、これはアドセンスがやっている。便利な、またはおもしろいアプリを作らせておいて、迷路のようなところを歩いていくと、ここから先はお金の世界である。世界中にパッとひろげるにはそれなりの資金がいるということだ。売上からの10%を取り。各国でのアプリ広告料が必要となる、
 
 よく、まあ、こんなビジネスモデルを作ったものだ。この産業はサービス業ではなく、人間が介在してこない広告業の4次産業化である。
 日本の企業でこの発想をもつ企業はなかった。

 今年一年を振り返れば、この事実を体験したことは大きかった。この世界がわかったのだった。
 一年の前半は民泊の手続きがあった。後半はアプリのことが仕事を占めた。すると過去に作った語学用のテキストと音声、教授法が再活用できる可能性がでてきた。すると、これは来年の話になるが、これまでにプロデュースしてきた音楽CDやボディーチューニングやエステ関係の本質的な身体論、マッサージ動画、講習会動画、創作エッセンシャルオイル、創作CD立て、創作マグネット、対葉豆茶、銀のアロマペンダント、銀の万華鏡ペンダントがあることに気がついた。これをひとまとめにしてホームページにしておくか、とひとつの資産形成をしておこうと考えたのである。土地家屋の資産は下がっても、この衰退する日本の中で生きてきた中で作り上げた資産である。この点では不動産とはちがうITは大きな可能性を開いた。

※※※※※※※※※
賀状は22年前にやめました。よいお年をお迎えください。


 

役立つ知識

2019年12月25日 | 日記
口を精一杯に開けて10秒。これを日に5セットすると、1か月もすれば、誤嚥が防げるようになるとテレビでドクターが言っていた。のどにある引っ張りたり、緩めたりする筋肉が鍛えられるらしい。気管支に物や飲み物や唾液が入ってしまうのは食道に入れるべきところを筋肉のせいで、気管支に蓋ができないのである。この筋肉を鍛えるのが口を思いきりいっぱいに開けて10秒数えるということだ。
 前々からこの筋肉をどう鍛えたらよいのかわからなかったので、「ためしてガッテン」は大いに役立った。
 「ためしてガッテン」ではそのほかにも「動脈マッサージ」や「腰痛を起こす脳にある「側座核」の機能研究とその成果も役立った。
 血圧高めの人は片手5本の指を別の指でクルクル揉み擦る。腕も片方の腕で揉み擦る。最後は鎖骨下動脈に指をあて、肩の上げ下げをする。これを毎日1回から2回。確実に血圧は下がる。
 ほとんどの人が腰椎にヘルニアをもっている。ヘルニアがあっても痛くない一人がもいれば痛い人もいる。側座核がなにかしらの理由で機能が十分に果たせていと痛みを抑えることができない。推理作家の夏樹静子が経験した腰痛もたぶんこれである。彼女はあらゆる治療も呪いも、先祖供養も行った。ストレスと自分に対する怒りが側座核を弱めたのだろう。最後にとうとうこのことを知る若い心療内科の医師と出会って、腰痛は治ったのだった。
 「ためしてガッテン」みたいな番組や「歴史ヒストリー」のような番組を見ていれば人間はどんどん物知りになり、成長していく行くよう思えるが、知識のつきぐあいと成長は別の事のようである。
 いつも思うことだが、NHKはよい番組をつくる。Eテレなどは作る側の熱情と知恵、と才能と努力を感じる。

超スッキリした

2019年12月24日 | 日記
 58年前、9歳か10歳の頃、前の歯一本の乳歯が抜け落ちず、その乳歯一本について両親も敏感ではなく、永久歯が生えてきているというのに放っておいたら永久歯が乳歯に邪魔されて、行き場がなく、まっすぐではなく、乳歯を避けるように生えてきた。これには歯医者さんも困ってしまい、抜いてしまうのもまだ子供だからどうかとも思ったのだろう。なんとか格好をつけてくれたもののこれが人生で一番の鬼となった。

 大人になってからでもいっそのこと前歯4本を抜いて入れ歯にするという方法もあったのに、「抜く」という気持ち悪さに、できるだけ歯医者さんは避ける、意気地なさが身についてしまった。
 寄る年波には勝てず、歯周病も出てきた。なんとか歯肉を強める歯ブラシと歯磨きで頑張っているが、なんとも深いで「鬼の歯」も含めて、前歯4本、抜いてもらうことにした。
 その覚悟を決めて今日歯医者さんに行った。ぼくは60年も気にしてきたのに、歯医者さんは、ぼくの言うことに「うん、うん」と合図地を打ち、代替案もないらしく、ぼくの希望とおり、歯肉に麻酔を打って、ゴリゴリと歯を抜いた。全く痛くない。
 前歯4本がなくなったと思うとスッキリした。このスッキリ感は60年のこころの羞恥、苦痛、重荷なども吹き飛ばしてくれた。
 なんだ、こんなものか、と次には「もっと早くやっておけばよかった」という若干の後悔の念も湧いた。しかし断然、ようやくこの日が来たか、と感慨深いものがある。

 今はまだ口の中に血止めの綿が入っている。1時間で取り除いてもよい、というので、あと15分でさらに具体的にスッキリする。正月は前歯がないので、子供や孫には照れ臭いが、マスクでもしておればよかろう。
 歯医者さんには、「なまことあわびが食えるようにしてくれ」と言ってある。

 日中韓首脳会議、とくに日韓首脳会議があるとテレビは報じているが、日韓問題よりもぼくには「歯」のことに今日は思いが集中するだろう。人ひとりの細かいこと、小っちゃいことが人には国際問題よりも重要なのである。あと5分で血止め綿が取れる。

 
 
 

夢古道の湯

2019年12月21日 | 日記
尾鷲に「夢古道の湯」 という銭湯があって、海洋深層水を風呂の湯使っていると壁の貼り紙に書いてある。海洋深層水を取る装置が故障して深層水を取水できなかった時期があった。本当にここの湯は深層水のカルマグ水なのだろうか。
 ぼくでは謎解きはできないため、今はすっかり水道水だと思って風呂に入っている。
 カルマグ水を使っているかどうかはぼくにはどうでもよい。それよりもここの湯はぬるいのである。ミストサウナもある。なにかしらここもぬるいのである。
 それで時たま見回ってくるスタッフの男性に、ここの湯は何度に設定しているのか、と訊くと、「はて?」みたいな顔をして、「わからない」という。帰りがけ受け付けで聞いてみた。あのミストサウナは何度位に設定してるのか、ときくと、なんとまああきれた答えが返ってきた。「あたし、サウナは得手悪いもんで」とエヘラと笑って言う。おまえの好き嫌いなど聞いとらんわい、と言いたくなってくるが、あどけないアホさに自ら気づかず、多分上司に聞いてみることもしないだろうよ、と思う。客の入りを見ていると、あと何年もつことやらと来るたびに思うが、ミストサウナは癌の補助療法としても注目されていて、体内が42度、43度にあると熱ショックたんぱく質がでて、細胞変異を修復するのだという。
 因みにぼくの知識だと海洋深層水のカルマグ水は皮膚美容にとってもよいんである。カルシウムとマグネシウムが2:1がよいと資生堂の研究所が発表している。「夢古道の湯」のスタッフはこういうことすら知らない、
漫然と仕事をしている。この施設に市も絡むのであれば、これは市及び市会議員が鈍感だと言うしかない。
 仕事というのは掘り下げることに楽しみもあるというものだ。自分が関わる「湯」に客はどれほど喜び、不満をもっているか、どのように「湯」を伝えるか。どう広告するか、仕事はこれに尽きる。風呂でいくら物を売ろうとしても「湯」の温度にさえ鈍感な社長、役員、スタッフならば明日はない。

酒と睡眠

2019年12月19日 | 日記
 東紀州は冬温かく、夏は涼しい。昨日は気温が20度もあり、tシャツで買いものをしている男の人も見かけた。
 今日は4度ほど下がるというが、平年11月並であるそうな。金魚槽の水温気温と連動しているから、金魚たちの餌の食い方や動きで冷たさもわかる。メダカはづっかり冬籠もりをしているようである。姿を見せない。
 朝起きると実にすっきりとし、熟睡感を味わった。
 アルコール飲料を飲み始めてからついぞ休肝したことがなかった。風邪をひいても飲んでしまうのだから、もうアル中だろうと思うが、NHKの朝ドラの主人公の父親のようではない。それとぼくの場合、やけ酒とか恨み酒というのがない。
 このところ熟睡も、3時間とか5時間で終わり、あとは浅い眠りで、夢をみることが多かった。
 昨日は「湘南のドライカレー」を食べ、柿とマスカットを食べて、ドライカレーなど食べるのがひさしぶりで、合わせる酒は何を飲めばよいのかわからないまま、食事、果物と終わってしまった。「相棒」を見て、上にあがりぽっかり空いた1998年から2010年くらいまでの見ていないテレビドラマをDVDで毎日見ているので、「傷だらけのラブソング」の第八話を見て、いよいよドラマが収束に向かう感じがして、そのまま眠ったのだった。37年ぶりくらいの酒抜きである。トイレには夜中にいかず、7時間熟睡したのだった。細君から指摘された。「酒を飲まなかったからよ」
 ほうこんなに違うものか。一昨日は忘年会で日本酒4合弱とその後、ビール中瓶1本程度を飲んだ。翌日は少々調子が悪かった。酒を飲まなかったのはそれもあったのだろう。
 この熟睡を知ったら、睡眠の質と至極の酒とのバランスをとらにゃならん、と思ったのだった。






植物らの強さよ

2019年12月12日 | 日記
 このところ穏やかで寒くもない晴天の日が続いている。池の取水装置がこの夏の台風で壊れてしまった。3者で取水していたのが、ウチだけになったので、修理の大工事はしないことにした。その代わりに大きな鉢植えを池のゾーンごとに置くことにした。

 谷からの水が流れ落ちる音はなくなった。来年はカエルも住処がなくなる。イモリもどうするのだろう。橋の右側のゾーンには水の代わりにこの時期のシクラメンを、左側のゾーンには鮮やかな黄色のパンジーを大きな鉢に植えた。草花はなく樹木の花が季節ごとに咲いていたが、この12月は山茶花や欅の赤色の葉くらいのものであったが、シクラメンの白や紫や赤の色とパンジーの黄色が目に映り、庭にリボンがついたみたいに目を惹くようになった。

 バリ島でこしらえたクッションカバーがあったので新しいものに替えることにでぃた。居間は少し華やかになった。

 山桃の木とこぶしの木が電線よりも高くなってしまっている。中部電力に報告しておこう。梅の木も枝を伸ばし過ぎている。桜もこぶしほどの高さになっているがその場所は電線に架かることはない。剪定をしたいと思うが、馬力が出てこない。脚立を車に積まなければならない。面倒だと思ってしまう。毎日小刻みにちょっとずつすればいいことはわかっている。

 四月までは草刈りをしなくてもいいだろう。とにかく脚立を運ぶだけ運んでおくか。客の合間を見てちょっとずつ切るか。何もしなかったらすぐに植物に家が
埋まってしまう。植物らの強さよ。あきれるほど強い。
 住処の方の庭に藤棚を、と思って藤を本植えたら
それが伸びて伸びて、あっちこっちに伸びてすごいので、糸で括って伸びる方向性を一応決めておいた。言うことをきくのかどうかわからないが、そうでもしないと隣の空き地に生える雑木にまで絡もうとする。たいへんな勢いだ。若いのだ。あと1年半もすれば藤棚になるのではないか、とひそかに楽しみにしている。
 日本の樹木の花は儚い。咲いてすぐに散ってしまう。

 娘婿殿が正月休みに前の浜で魚を釣りたいということなので、竿とリール、それに仕掛けを用意しておかないと。細君は「初心者用でいいんだからね。タイはいいから、ガシやハタでいいんだからね」と言う。
ムムム、チダイでも狙おうと思っていた。


21年はすぐ、しかし十分な成長をする期間

2019年12月05日 | 日記
岡田さんが「キャサリーン ヘップパーンやで。エルミー これは絶対採用やな」
ぼくもその時面接に同席していたのだと思うがその時のことは覚えていない。岡田さんはしっかり覚えていそうだから今度聞いてみよう。エルミーは南アフリカからやってきた。親はダチョウを飼育する農場を経営していた。エルミーの夫となったサイモンはイギリスからやってきた。斜陽の国イギリスからやってきたのだが、サッチャー政権となり、若者にフラットや家を持て、と奨励政策をした。サイモンはそれに乗ってフラットを買い、そこで家賃をもらい、自分は日本に稼ぎに来た。たぶんローンを組んでいたと思う。借家人が何かの事情ででていくと、次の人を見つけるのにちょっとイライラして不動産会社に電話しているのを見たことがある。サイモン、エルミー、パトリシア、ブルースなどなど会社の寮で共同生活をしていた。
 彼らは十分に尾鷲を楽しんだと思う。もう4月になると魚飛び溪の川で泳いでいたから白人というのはどんな体温を持っているのか、不思議だった。4月の川の水は冷たくてしかたがない。
 尾鷲の人たちも白人には珍しいこともあってか、白人には弱いのか、兎に角過剰に親切でもあった。
 彼女、彼らの仕事は「英語を教えること」「英語の録音」などであった。

 当時の日本は円高で、アメリカ人でさえも働きに来ていたから円は魅力だったのだと思う。

 エルミーが帰ってしまってからサイモンは元気がなくなった。サイモンが片思いしていたのだ。サイモンが助手をするセミナーの帰り、温泉に行ったとき、彼の落胆さを見かねて、「おい、サイモン、南アフリカに行って来いよ。はっきり告白して、結婚の約束でも取り付けて来いよ。休んでもいいから」と励ました。サイモンの行動は速かった。すぐにチケットの手配をして翌週には南アフリカに飛んで行った。そして明るい顔をして帰ってきた。翌年二人は結婚し、しばらくしてからまた「働かせてくれないか」とやってきた。尾鷲に空きはなかったので、名古屋でだったらいいよ、と言って、二人はOKしたので、二人は名古屋で働いた。当時南アフリカはアパルトヘイトが廃止されて、マンデラ大統領が登場した時期だった。まだまだ南アフリカの経済は弱く、円とは比較にならないレートだった。二人で一年稼げば、サイモンが南アフリカで事業をするにも大いに役立ったことだろう。
 エルミーはその後三人の子を産み、育て。サイモンの不動産事業は成功した。

 先日、サイモンから家族一家の写真が2枚送ってきた。長女も21歳になった。それが女優以上に美しい。長男、次男もいい高校生そうである。確かエルミーは出自はオランダだった。サイモンはイギリス。なんとまぶしいくらいの家族を作っている。3月末に5人が来るので楽しみにしている。もうじき子供たちもみな大人になる。


病気

2019年12月02日 | 日記
くたびれきってしまった。以前、チンチン出して先から内視鏡を入れるのを想像するだけで恥ずかしく、こういう場面がやってこないことを願っていた。内視鏡で検査するのは最後の最後だろうともネットで検索もして追っていた。昨夜は寝つきも悪く、熟睡もままならず、朝9時に病院に向かって。すでに10人ほどの客がいる。
 問診票に記入をして静かに順番を待っていた。その間に、血をとり、尿を取った。
 名前を呼ばれて、いよいよ診察室に入ると、な、な、なんと女医さんではないか。後ろに4人の看護師がいる。参ったなあ、女性かよ。「排尿するとき、痛みもないんですね。このような場合、癌を疑います」
 ぼくはあわてて、「ですからCTを撮るんでしょ」。女医は「CTではわからないこともあるんですよ。膀胱鏡で診た方が早いですよ」「ええっ! ここから入れるんですか?」 若い女医は胸を張って「大丈夫です。私、もう何千とやってきてますので」。岡田さんが逃げてきたら、と言ったのを思いだしたが、逃げられる雰囲気でもなく、若い女医から「今日すましちゃいましょう」などと励まされる。結局観念して、また待合室で待った。検査室に呼ばれて、入ると、検査用の衣類に身につけ、下半身は脱いで、入ってください、と言う。
「ベッドのこちらを頭にして仰向けになってください。ベッドの高さを調節します」チンチンは冬で縮こまっている。「失礼シマス。アルコールで消毒シマス」と手際よく済ませるとすでに女医さんもいて、間髪入れず、スルスルと尿道へ。画面には早くも膀胱の光景が見えてくる。ひとつひとつ説明してくれる。こちらが左側の尿管からくるところです。血は出ていないようです」「腫瘍はどうですか」「腫瘍もなさそうです。ただ前立腺がやや肥大してます。これがそうです」 10分もかからず恥ずかしい時間は終わり、また診察室へ行き、「とりあえず、尿路と膀胱、前立腺には癌はありません。あとは尿管、腎臓です。腎臓の数値がちょっと悪いようです。
これはCTを撮って診ます。今日やっちゃいましょう」女医は張り切って言っていう。「やっちゃいましょう」とぼくもすっかり気を取り直して、血液造影剤を入れて、CTを撮ってもらった。胸から骨盤までである。この泌尿器科医は腎臓までを診るのが担当である。左肋間が痛いのは、CTデータがかかりつけのクリニックに送られて、かかりつけの医師が診ることになる。

 ちょっと腎臓が心配である。数値がよくない。それでも来週の月曜日にはわかる。肋間が痛いのもわかることだろう。大人しく待っていればよい。
 女医さんが「最近、何か重労働しました?」 と訊いたので、こんなことが重労働なのかわからないが、40キロのジャリを4往復ほど片道20メートルくらいですが、運び、また次の日も運びました」
「前立腺がやや肥大していると前立腺同士が擦れ合うときがあって血がでるときがあるんです。重い物を持ったり、力仕事したときですね」「そうなんですか」

 というようなことで、恥ずかしさもどこかにすっ飛んでしまい、今日の第一関門は終えた。来週が第二関門である。最後は左肋間周辺。

 それにしてもこの前の「朝まで生テレビ」の討論でこの20年ですっかり先進国中で貧困化したこと、その原因などが話題となり、「日本はこれからどうなるの」「どうするの」と言っている。言っている人たちは健康である。かたや、自分の体のことに気を遣わざるを得ず、今日の日本、明日の日本のことなど考えることができない時空というか、環境がある。そこにどうしても入らざるを得ない。
 病気は社会生活を送れなくする。
 ぼくも早く脱して、今日の日本、明日の日本を考えよう、などと思うのだ。

啓蟄まで

2019年12月01日 | 日記
 12月4日が尾鷲総合病院の内科とCT撮影の予約日だったが、肋間周辺、奥の痛みが続き、赤ワイン色の尿も不気味に続くため、日曜日の今日、救急外来にいくことにした。進行性の急性腎炎だったら一刻を争うとネットで検索すると書いてある。今検査結果を待っているところである。明日からの予定はキャンセルした。みなと久し振りの再会なのに、これはもうしかたがないと判断した。今度はぼくが台湾にいくことになろう。
 はて、これから冬がくるか。養生が必要なものだったら、春になって動きだそうか。啓蟄っていうのだったか。その頃になれば動き始めればいいのではないかと思いはじめた。

「細菌性ではないようです。どこかに炎症があります、数値が10バイオ高くんsっています。こういうばい下から順番に診察していきますので、朝、泌尿器科に行ってください」「下からというと?」「尿路、膀胱、尿管、腎盂、腎臓の順ですね」「ってことは、チンチンから尿管、膀胱まで内視鏡をいれるんですか。エー」「また心配することを言ってしまいましたね」

参った。肋間が痛いのが関係しているのか、別物なのか、わからない。それは4日のCT検査を待つのだろう。
 自分ではどうにもできない病気をしたとき、素直にしたがっていくしかない。
 スーパーマーケットで同級生の女性と会った。そばに旦那さんもいた。「元気?」というと、「私は元気やけどな、この人があかんわい」
「どしたん?」と訊くと、「腎臓に水泡ができてな、水が溜まるんさ。痛うて、3回気を失ったで」「痛うて、気を失う?」「ああ、今入院中でな、許可もろて出させてもろてな」
へえ、いろいろあるもんだなあ。
 当分、これの解決だ。啓蟄まで。 





絶不調

2019年11月29日 | 日記
 身体が絶不調である。胸が痛み、みぞおちが痛み、左肋間のどこか咳きをすれば痛い。昨日夕方から茶色い尿が出始めた。茶色の尿. 古い血が混ざったような尿。夜もでた。寝る前に水をしっかり飲んで寝たら、夜中に尿意で目覚めた。尿は普通の尿だった。朝起きてトイレいくと、また茶色だった。昼頃にはワイン色のように見えてきた。茶色の尿で検索すると、「横紋筋融解(おうもんきんゆうかい)横紋筋といわれる筋肉細胞が何らかの原因で一部分が死んでしまい、血液中に流れることで起こります。手足に力が入らない、手足がしびれる、こわばる、筋肉痛、全身がだるいなどの症状があらわれ、重度の場合は腎臓の機能が悪くなることがあります」とある。
 2日から東京に行き、人と会う予定だ。1人は台湾から来る。もう1人は中国に多くの人脈をもつ友人。もう一人は3日に小田原で会う。ホームページなどを作ってくれ、いろいとなパソコン操作の情報をくれる友人である。
 キャンセルして病院行くか、3日が終わって、4日に病院いくか。丁度4日はCT撮影で予約もとってある。悩ましいことだ。

 薬剤師さんに「ちょっと太るといといろなもがでてきましたね」と言われたことを思いだした。そうそう、血圧が上がった。熟睡時間が少なくなった。突然、筋肉が動かなくなったこともある。自分としては70キロくらいでしょうがないかと思っているが、本当は60キロくらいがよい。20代の頃は54キロとか55キロだった。体は当然軽かった。

 不気味なことが起こるものだ。しかたない。たぶん自業自得というやつだろう。これから救急で行ってみるか。明日にするか、まだ迷っている。



肋間神経痛か

2019年11月24日 | 日記
 ブログを読んだということで、岡田さんが電話をくれた。ぼくの症状は「肋間神経痛」ではないか、ネットで調べてみたら、と教えてくれた。みぞおちも痛むらしい。胸も痛むらしい。胸のことは前にも彼に言ったことがある。心臓の検査をしたがなんともなかった。胃潰瘍でもあるのか、肺が悪いのか、肋骨にヒビでも入ったのか、思い悩んでいたのだった。肋間神経痛ということもチラリと浮かんだが、それを調べてみることがなかった。
 今日はみぞおちは痛くない。息を大きく吸うと痛い。咳がでるとピリッと痛い。やはり肋骨周辺なのか。岡田さんの電話を受けて、肋間神経痛を調べてみた。原因にはいろいろあるらしい。癌もある。帯状疱疹も原因としてある。目に留まったのは「脊柱」という言葉だった。ぼくはこの春「脊柱菅狭窄症」かもしれないということで、これをなんとか自分で処置した体験がある。これなのか、と思い、脊柱菅
を整えようと細君に頼んで、仰向けになって「足押し」「両膝横倒し」「膝押し膝落とし」、うつ伏せになって「踵お尻つけ」、たって「屈伸腰押し」をした。
 するとこれまでの痛みが半減した。寝る前にもう一回やり、明日の朝よくなっていれば病院にいくのは止めておこうと思ったのだった。
 今日は、台風のために池の水源がダメになり、取水をあきらめたもで、でっかい鉢を2つ買って、シクラメンを植えた。そして池に水溜まりができる大きな穴があるので、120キロほどのバラスを買って放りこんだがまだ200キロくらい足りないようだった。重いものを運ぶのに、いっぱい汗をかいて、くたびれた。
 それにしてもシクラメンは成功だった。1メートルもある鉢も成功だった。シクラメンが終わったら何にするか、考えるのも楽しみである。
 肋間神経痛と聞いて、それを調べたら、症状があっていて、なんだか安心した。


みぞおちが痛い

2019年11月23日 | 日記
 今年の5月に風邪をひいてから、くしゃみや咳きをすると、胸の肋骨辺りにキーンと痛むが走った。30年くらい前に、肋骨にヒビが入ったことがあって、同じような痛みだったので、いずれ治ってしまうだろうと思っていた。ところがいっこうに治らず、みぞおち辺りが痛くなった。昨晩は朝の4時頃目を覚まし、みぞおちの痛みをこらえた。ガスターも効かないので、何だろう、いよいよいきつけのN病院にいき、胃か、肺か、整形外科的なことか、総合病院のどこにいけばよいのかを訊かなければならないか、と考えた。
 バッハの無伴奏チェロ組曲を聴きながらうちらうつらしていた。変わらずみぞおちが痛く、咳きをすればピリッと肋骨が痛む。
 10時になってN病院にいくと、玄関に貼り紙があり、休診と書いてある。「まだ、先生も入院中か、困ったな」と思い、その足で、総合病院に行った。土曜日だから表玄関は閉まっている。
 地下に救急の人が搬送される裏口があるので、そこへ行ってみた。紹介状は要るのか。要らない。どの科にいけばよいのかわからないが、どうすればよいにか。とりあえず2階の受付でそう言ってくれればよい。ちゃんとしてくれるはずだ。
 わかりました。ありがとう、と言って、今日の不運にガックリときた。

 母のいる実家に行き、昼は何を食べたいかと訊くと、「ラーメン」というので、買い置きがなかったため、スーパーに行った。カップ麺を買い、惣菜コーナーにいくと、旨そうな「牛肉重」を見たので、衝動買いをしてしまった。あれ、食欲があるではないか。痛みと食欲とは関連性がないのか。どういうこっちゃと思いながら、月曜日を待つことに決めた。
 心臓ではないことは前の受診でわかっている。先生にどう言えばよいのか。書いておいた方がいいだろう。
 胃がワルクテ肋間筋が痛いということはあるのだろうか。肺が悪いためにみぞおちが痛いとか肋間筋の内側が痛いというのはあり得るのだろうか。