25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

自転車で横転

2015年12月31日 | 日記

 31日。孫娘を自転車のうしろの乗せて、ひばあさんのところにいくことになった。前もって、車輪の足を突っ込んだらだめだよ、と練習した。

 スイスイと走っていくと、突然、自転車が止まってしまい、横転した。落ちならが、孫娘の頭に手を当て、そのまま落ちた。火のように泣き始め、イタイ、イタイ、アッチにカエル、という。骨でも折ってなければよいが、と思い、自転車を置いて、だけ抱えて自宅戻った。、孫娘は14キログラムあるから重い。年末にこんな事故を起こしてしまった。自転車のうしろに去年乗ったので、今年も大丈夫だと思っていたが、その分、身体の部分部分をよけいに動かすようになっている。

 骨は折れていないようだった。かかとに傷があり、紫にもなっている。どうやら踵を挟んだようだった。

 とんだ年末の事故だった。

 事故系の家系だから、注意、注意。

 


やめられない

2015年12月26日 | 日記

  息子達家族が年末から正月にかけてくるというだけで、なんだか慌ただしい。食料、飲料、灯油、お出かけ、と日常と異なる5日間ほどになる。スーパーマーケットの商品も値が上がる。

 逆流性食堂炎らしくいつものクリニックにいくと、その通りだと言われ、待合室で見たパンフレットに粘膜保護の薬をガスターとともに服用するのがよいと載っていたので、わざわざそのパンフをもって、診療室に入った。思った通りだった。別に内視鏡などで検査するわけでもなく、胸と背に聴診器をあて、血圧を調べるだけでわかるものなのかと、不思議には思うが、僕もそう思っていたので、わざわざ総合病院までいかなくても、という思いもあって、「ガスター20にしますか」と医師が言うので、僕はパンフを見せ、粘膜保護剤も一緒に出してほしい、とお願いした。本当かどうかわからないが、ガスターのようなH2ブロッカーは胃の粘膜が薄くなってしまうと何かで読んだことがある。医師にそのことも伝えた。医師は、そんなことはない、と言って、胃の絵を描いて、「ガスターを飲むと出過ぎて胃の粘膜を傷つけるのを、胃酸の量を減らすだけのことで、粘膜が薄くなることはありません」と説明してくれた。粘膜保護剤を一緒に飲むのもかまわない、と言う。

 僕は試してみたい、と言って処方してもらった。その晩、夕食後に2つの薬を同時に飲むと、ウソのように、口の中に上がってきていた焼いたイカのような味がなくなった。  15年ほど前に胃潰瘍があると言われ、つぎの検査ではすでに治っていると言われた。しかし、食後三時間後くらいになると、胃に不快感がでてくるので、随時、ガスター10を処方してもらって、常備して、服用していた。再発しやすいということだった。

 近頃ウィスキーに凝っていて、しかもロックで冷たいものを飲む。それがまずかったのか、胃の上部のほうにまだ炎症があるような気がする。食堂あたりとの境界あたりではないか、と自己診断している。これが癌にならないようにしなければならないだろう。

「癌になっても同情しないからね」などと細君から言われる。で、今日は、ボウモアと思っていたが、熱燗にすることにした。そして、薬を飲む、ということになる。アホなのですね。年末がくるというのに。

       


週刊誌に浸る

2015年12月26日 | 日記

 週にだいたい一度喫茶店に浸かって、週刊誌を読みまくる。先週あたりから今年の出来事と来年の予測、あいも変わらず、「あの人は今どうしている」みたいな特集と高齢者のセックスへの激励がある。

 糖尿病、脳卒中、すい臓癌、肺癌はあと5年で治るようになる。水素エネルギーは一段と飛躍していく。来年は電力の小売りも半自由化となる。 アメリカでは若返りの薬が臨床治験に入る。

 今年最も変わったのは自衛隊員やその家族の心境の変化だろう。

 NHKの「新 映像の世紀」は衝撃的だった。第一次世界大戦から第二次世界大戦の貴重なフィルムがでてくる。そんな映像をもとに20世紀を考える番組だった。なぜ時代は独裁者を必要としたのか。それが第2回目のテーマであった。

 民主主義、自由主義、市場経済主義、個人主義、博愛、人権・・・。第二次世界大戦後の枠組みが揺さぶられている。一方はイスラム原理主義と差別貧困から。もう一方は戦後の枠組みから脱したい中国から。

 僕はと言えば、来年は「大転換期」であることは間違いない。大吉、小吉、吉にしろ凶でなければいいや、という感じで来年前半の心構えではある。

 今年は本を多く読んだ。読み方も変わってきた。作者側の視点から読むようになった。映画もまあまあ見た。「髪結いの亭主」はなんだかよかった。まだまだ知らないことばかりであることもわかる。そしていよいよ「運動」を取り入れる生活に変えなくては、とも思う。

 


クリスマスイブ

2015年12月26日 | 日記

   縄文人が1万5千年にも渡って文化を築いていたことが、遺跡や土器、土の中にある花粉分析などから明らかになっている。僕らが中学や高校の教科書で習った縄文時代とは全く違っている。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明よりも長く文明を築いていた。5000年前には集落を作り、自然循環型の社会を作り、国家というものを作らず、稲作を拒否して、定住をして狩猟採集を続けた。火焔土器のデザインの意味することをパプアニューギニアの土器研究をする人がいる。湖底に土を採集して年別の樹木や果実のあり方を探るイギリスの研究者がいる。1万年以上も継続させたものは何だったのかを経済学や社会学から考えるアメリカ人がいる。

  やっとのことで稲作を持ち込んだ弥生人は自然を破壊していく文化を持ち込んだとも言える。「大和魂」などという言葉は、縄文時代に遡ってしまえば無意味であり、天皇制さえ、意味をなくすように思える。まだ弥生人の時代は2000年ほどのことであるのだから。

  地球の温暖化で、日本列島には四季というものが生まれた。四季それぞれの植物や魚介類、冬には狩をした。途切れることがないように栗の木は意識して植えられた。アクや毒を抜くのに、土器で煮込むこともした。さまざまな装飾品でからだも飾った。豊かだったのだろう。

  縄文時代が終わる頃、中国では秦の国が中国を統一した。近代的な中央集権の制度をつくりあげ、漢字を統一した。メールの送受信と保存ができるようなシステムをつくりあげた。始皇帝が死ぬとすぐにまた国家は分裂し、戦乱となる。その点では縄文人は戦争を起こす国家を作らなかった。

  今日はクリスマスイブ。ターキーは大きすぎて、鷄にして、夜、バッハの「マタイ受難曲」を聞きながら、ディナーをした。ちょうど一時間で終わったため、世俗に戻ろうとしたが、妻君がヘンデルの「メサイア」をプレイヤーに掛けたので、それを聞いた。

  キリスト教も仏教も、儒教も、イスラム教も、どの宗教も過去を懐かしむ。宗教の特徴である。

  僕は旧約聖書にある「ヨブ記」を思い起こしている。どんなに信心深く、どんなに善を施そうとも神はヨブをいためつける。これでもか、という程度ではない。徹底的に善人ヨブを虐待する。

  キリスト教者でもない僕がヨブのことを考えている。可笑しな話だ。

  遠く、瞬く星々を見る。温かな24日であった。

 

 


クリスマスイブ

2015年12月23日 | 日記

  縄文人が1万5千年にも渡って文化を築いていたことが、遺跡や土器、土の中にある花粉分析などから明らかになっている。僕らが中学や高校の教科書で習った縄文時代とは全く違っている。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明よりも長く文明を築いていた。5000年前には集落を作り、自然循環型の社会を作り、国家というものを作らず、稲作を拒否して、定住をして狩猟採集を続けた。火焔土器のデザインの意味することをパプアニューギニアの土器研究をする人がいる。湖底に土を採集して年別の樹木や果実のあり方を探るイギリスの研究者がいる。1万年以上も継続させたものは何だったのかを経済学や社会学から考えるアメリカ人がいる。

  やっとのことで稲作を持ち込んだ弥生人は自然を破壊していく文化を持ち込んだとも言える。「大和魂」などという言葉は、縄文時代に遡ってしまえば無意味であり、天皇制さえ、意味をなくすように思える。まだ弥生人の時代は2000年ほどのことであるのだから。

  地球の温暖化で、日本列島には四季というものが生まれた。四季それぞれの植物や魚介類、冬には狩をした。途切れることがないように栗の木は意識して植えられた。アクや毒を抜くのに、土器で煮込むこともした。さまざまな装飾品でからだも飾った。豊かだったのだろう。

  縄文時代が終わる頃、中国では秦の国が中国を統一した。近代的な中央集権の制度をつくりあげ、漢字を統一した。メールの送受信と保存ができるようなシステムをつくりあげた。始皇帝が死ぬとすぐにまた国家は分裂し、戦乱となる。その点では縄文人は戦争を起こす国家を作らなかった。

  今日はクリスマスイブ。ターキーは大きすぎて、鷄にして、夜、バッハの「マタイ受難曲」を聞きながら、ディナーをした。ちょうど一時間で終わったため、世俗に戻ろうとしたが、妻君がヘンデルの「メサイア」をプレイヤーに掛けたので、それを聞いた。

  キリスト教も仏教も、儒教も、イスラム教も、どの宗教も過去を懐かしむ。宗教の特徴である。

  僕は旧約聖書にある「ヨブ記」を思い起こしている。どんなに信心深く、どんなに善を施そうとも神はヨブをいためつける。これでもか、という程度ではない。徹底的に善人ヨブを虐待する。

  キリスト教者でもない僕がヨブのことを考えている。可笑しな話だ。

  遠く、瞬く星々を見る。温かな24日であった。

 

 

-


バー

2015年12月21日 | 文学 思想

 久しぶりにショットバー「コレクター」に行った。すると、アイラ島のウィスキーが幾つかあり、十分に楽しみ、マスターとも話をした。音楽は僕が要望して、ゴッドファーザーのサントラ盤をかけてもらった。この前も見たばっかりだったので、音楽と映像がつながって、頭に浮かんでくる。

   三島由紀夫の「豊穣の海」の話になった。僕は戦後の小説の中で、この「豊穣の海」と中上健次の「千年の愉楽」、村上春樹の「1Q84」とその他短編集、もっと挙げれば、津島佑子の「夜の光に追われて」と宮本輝の「泥の河」が思い浮かぶ。「豊穣の海」は結婚したときに、2011年の大津波で亡くなってしまった義母からのプレゼントでもらった。僕はとくにこの四部作のうち「暁の寺」が好きで、三島由紀夫の微細な描写力、タイの寺院を言語で描ききるというその才能にびっくりもし、転生の物語がこの三作目で三島と思われる本多という理性ある法律家から見た小説になっていく。主人公の、ジン・ジャン(月光姫)という恋で死ぬ清顕、忠で死ぬ勲の生まれ変わりであるが、この行動の男達から、暁の寺は理性を信じられなくなっている本多がタイとインドのペナレスを旅する 描写に心血を注いでいて、ジン・ジャンの意志はどうでもよく、偶像のように描かれている。

 酔っぱらっているせいか、なぜ「暁の寺」を自分が好むのか、説明できないまま、今度は夏目漱石についての話題になっていった。これも何度も読んだ作家で、僕が好むのは、「それから」と「門」である。口にだして説明すると長くなる。バーで論じるには頭も働かない。

 帰り道、うまく歩けない。家に帰って居間で転げる始末であった。コレクターのマスターは「コレクター劇場」はもう止めたらしかった。そして、一枚のDVDを是非とも見ては、と僕に渡してくれた。「エル・スール」  というビクトリア エリセ監督のスペイン映画である。映像美が絶賛されている。これを見て、またコレクターへ行こうと思う。


おすすめしたい村上春樹の短編集

2015年12月19日 | 文学 思想

 村上春樹は短編小説が見事に上手い。「東京奇譚集」を3度め読んでいるのだが、どれも不思議な話ばかりであるが、特に「腎臓の形をした石」が出てくるキリエという女性との会話となんとなく虚ろな空間と、石にも意思があり、あらゆるものに意思があると自分の中の意思を投影させる技術には舌を巻く。昔言われた「純文学」という言葉に換わるものはないものだろうか、と思う。

 これはぼくの感想だが、村上春樹は中編小説が短編小説にくらべると劣ると思う。長編小説は賛否わかれるところだろう。やっぱり「1Q84」なのではないか、と思っている。他の長編は僕には長すぎる。「1Q84」にいくまでの長い試練だったのかと思ったりもする。「1Q84」は純文学、ファンタジー、ミステリー、すべて混ざった総合小説である。

 おすすめしたい短編集は、他に、「回転木馬のデッドヒート」「女もいない男たち」「神の子どもたちはみな踊る」をぜひともおすすめしたい。

 


後悔

2015年12月16日 | 日記

  昨夜は泥酔してしまった。それほどに日本酒とウィスキーはおいしかった。岡田さんは自慢の酒を2本用意し(計8合ほどだと思う。)僕は旧余市を用意した。

  そして後悔した。美味しい日本酒を飲んでから、余市をカラオケを歌いながら飲むなんていうことはもったいな過ぎるのだ。角かバランタインを水割りかハイボールにして飲めばいいのだと、思う。もうないといわれている旧余市は酔っていないときに味わうべきだった。トホホ感がある。

  リーバーマンの「ガーゴイル」というピアノ曲を聴きながら書いている。からだの気だるさも浄化されていくようだ。ルジャ・ワンというカナダの中国系の女性ピアニストが弾いている。こんなのを聴きながら、余市をじっくりと飲むべきであった。

  失敗だったことを岡田さんにこのブログを借りて報告しておきたい。彼は今朝早くから出張で他所に行くということだった。わかってもらえるかな。

 教え子も合流して、それは楽しかったのだけど、多くのことを覚えていない。ただただ余市を味わえなかったことだけが記憶にあって、「ややスモーキーで旨いな」という岡田さんの言葉と教え子の「これ美味しいですね」という最初の一口目の感想だけは覚えている。

 

 


航路

2015年12月16日 | 日記

 仕事をやめてから、さすがにこれまでの仕事でのアンテナが低くなった。これまでだったら、テレビで興味深いものが紹介されるとメモしたり、用語を覚えたりしていたが、それはしなくなった。

 相変わらず変わらない興味は文学であるとつくづくわかる。文学へのアンテナはそれほど高くなくい。しかし、自分の文学を掘り進めていくために読んでいく本はどうやら系統づけていくことができる。

 僕は文学のために、身体論について書かれた本は読んでいる。そして分子生物学や形態学、人類の進化の歴史などについては一貫して読んでいる。僕自身が興味あることなのだと思う。

  趣味と言えば、脚本をしっかり聞いたり、構成を気にしたりと作り手側の意図を読むことと音楽においてもただ聴くのではなくて、作者を読み取ることの方に興味を感じ、そうすることが趣味だと言える。

 プールサイドから競泳を見るように、政治や社会についてはプールサイダーである。さから好き勝手に政治批判を家族内でしている。外では、めったにしないが友人とはする。

 だんだんとするべきことが収斂されてきて、それはそれで緊張するものだ。勇気が出る情報を得た。村上春樹の「1Q84」の出だしの部分でタクシーのオーディオからヤナーチェクの「シンフォニエッタ」がかかる。青豆はその交響曲を知っている。

 このヤナーチェクが唯一の交響曲「シンフォニエッタ」を作ったのは彼が71歳の時だったそうだ。オルガン学校を作ったり、町でも名士でもあったのだろうが、こころははちきれんばかりの若さがあった。その若さのエネルギーがこの曲を作らせた。彼の作曲家人生は60歳を過ぎてから始まっている。

 芸術大学は芸術家の墓場だ、と言われる。この世には自分よりも優れた才能をもつものがいると思うものだ。ピアノを習い、いくら練習しても腕よりも耳のほうがいいのなら調律師のほうが合っているということもある。ピアノを止め、調律師になってから、自由にピアノを弾くようになってからピアノが楽しいと思うようになった、というこの主人公は「東京奇譚」での話だ。

 人生はどんな奇跡を残して行き、どんな未来の道筋があるものか、最後まで生きてみないとわからない。最後まで生きるのに、最も大切だと思うことは「心の老化をしないこと」だ。

 僕はそう思っている。

****

過去のブログ http://yaplog.jp/25jikanme

東京渋谷駅前貸会議室

尾鷲市曽根 貸別荘1泊より


21世紀の課題

2015年12月14日 | 文学 思想

 ここしばらく、人類の進化、失敗、日本神話などの本を読んでいて思うことがある。それはアマゾンの奥地で暮らす「ピダハン」のことである。アメリカ人のキリスト教布教者がピダハンの住む村に布教に出かけるのであるが、結局彼は最後に棄教した。

 ピダハンには言語はある。だが見えるものしか信じない。したがって時間という概念がない。左右もない。兄弟姉妹もない。神は言うに及ばず、精霊の概念もない。「神はいるのだ」と言えば、「そんなに言うのなら見せてみろ」とくる。

暮らしていくに困難な地域の人間は、小さな共同体を維持していくために、発する主な言語は「あれ」や「それ」、「川」「や「海」のような名詞、それにタブー語や命令後、「~してはいけない」「しろ」「~しよう」というものだったに違いない。これを「外に出す言語」とすれば、ホモサピエンスが人類の頂点に立ったのは「自分の中の内なる言語」、つまり「思うこと」「自分で自分の語ること」を誕生させたからではないか、と今僕流に思うようになっている。

 生き残っていくためには共同体を維持しなくてはならなかった。共同体には維持するための禁忌が産まれた。自分の中だけで語る言葉が共通の思いとして口に出すものが当然現れる。すると自分とよく似たことを思っている。神の誕生はそこにあった。神という概念を作れば、そこに自分の思いと共同体の思いを合致させることができた。しかしながら神を生む、芽のようなものとしての「精霊」さえ産まなかったピダハン。想像するに、「豊か」な地域で偶然今日まで暮らせたのではないか。

 アフリカの環境危機から中東へ、アジアへ、そしてパプアニューgニア、オーストラリア、ニュジーランド、ヨーロッパ、ロシア、アラスカ、南北アメリカに渡っていった人々の中で、偶然にも食べ物に過不足なくやっていけ、今にまで残ったのはアマゾン流域の豊かさであった、と言えるのではないか。

 文学。これは内なる言語の活動である。それを極めているのが詩や、歌や、純文学なのだろう。外に向けて書くのは大衆小説なのだろう。貧困で辛苦を舐めた人々の間から神は誕生したし、聖書や仏典のような文学が誕生したと言ってもよい。

 個人が思うことと集団が思うことはときに軋轢する。集団の論理を強制するのがファシズムである。これに人間は懲りたはずだが、まだ克服できていないのが現状である。21世紀はなおもこの問題の解決に取り組む世紀であることは間違いない。


時代劇

2015年12月12日 | 文学 思想

  笑ってしまうことがある。忠臣蔵だ。主君のために、命をとして仇討ちを決行する。これは戦後時代が終わり、女房などが討ち取って切り落とした手柄の首を洗っていた時代から、徳川の治世になり、5代将軍綱吉の元禄期の事件である。四十七士が二年に渡って復讐を遂げるまでには、四十七士それぞれにもいろいろなことがあったろうし、最後は成功し、そして切腹となるのだから、後世の人は読み本や芝居にするには格好の素材となっただろう。NHKの大河ドラマでもおぼえているだけでも3つある。

  さすがにこのところ「忠臣蔵」を見なくなった。主君への忠義という言葉がバカバカしいものになっているに違いない。このことに「武士道」の本質をみなくなったのかもしれない。

 ついで、「桜田門外の変」。井伊直弼の首をとるために、テロ攻撃を行う。それから、2、26事件。この辺から日本列島人は帝国主義的な戦争を仕掛けていき、遂には特攻隊を作り、民衆は空襲をうけ、右往左往している間に、原爆で、降参となる。まるで、ISのようではないか。日本列島人にはかつてそういう「命を大事に思わない」時期が長くあった。西洋の悪事に比べたら、可愛いものだという気もするが、人間は何かの契機さえあればいつでも人を合法的に殺すこともいとわないものを潜在的にもっている。

 わずか70年前には人殺しをしていたのだ。IS の過激原理集団も、まだ江戸時代末期や昭和の14、5年あたりの観念や心情で生きているのだろう、昨日岡田さんと話したのだった。僕は「放っておくのが一番だ」と思っているので、それを言うと、かれは賛同し、さらに、「彼らは放っておかれるのが一番怖れることだ。干渉すると、IS側は喜ぶはずだ」と付け加えた。 

  時代劇が少なくなってきた。時々するのはNHKだけだが、それはたんなる探偵ドラマの時代劇版とも言うべきである。映画でもときに制作されるが、テーマは個人の世界にフォーカスするようになっている。

 時代は変わったのだなあ、と感慨する。ところが妙なことに、いつでも戦争のできる国になってしまっている。かつての日本列島人よりもより強固な心情と背景をもった人たちが相手である。奇妙だ。


遺伝子の研究

2015年12月11日 | 日記

  遺伝子の突然変異の確率は一億分の一らしい。この説からするとオオカミがわずか1万5千年でさまざまな犬に変わっていったことが説明できない、と気づいた人がロシアにいた。スターリンの政策に遮断されたが、スターリンの死後、遺伝子の研究が再開されたらしい。オオカミが人になつく犬にどのようにしてなるのか。オオカミは群れを作る。その群れでは序列ができる。序列の最下位のものは、餌にありつけないものもいた。人間はそれを観察していた。餌にありつけない最下位のオオカミはたまたま人間に餌をもらうことになった。そんなオオカミを交配させると、赤ちゃんオオカミは人になつく。彼らは用心深い野生のキツネを集めた。キツネで、証明しようとした。

 野生キツネを3000匹集め、人になつくキツネと逃げたり、噛みにきたりするキツネに分け、人になつくキツネを交配させた。五世代あたりから巻尾がでてきた。耳が垂れたままのキツネも現れた。 10世代になると、白斑が現れ、口からあごが短くなり、顔が横にやや広がってきた。遺伝子は野生キツネと変わらなかった。同じ遺伝子なのに、なぜこうも違うのか。

 遺伝子は変わらないが、その強弱や、活性化のタイミングが違うことがわかった。種は同じでも姿形が変わってくることが、この研究からわかった。

  人類が発生してから700万年である。その間、26種の人類がいて、現在の我々は27種め、ホモサピエンスである。自分というものを象徴化できた種の最先端である。そしてこの種は滅びると僕は想像している。ホモサピエンスと違う神経回路ができている人間の交配か、全く違うものなのか。新しい人類の登場は、生き残る勇者の登場でもある。 

もうすでに存在するのかもしれない。l


小春日和

2015年12月09日 | 日記

 旧暦で換算すると、小春日和は今日までということだ。その今日はまさに小春日和だった。おそらくまさに今日はイガミ釣りには最高の日だったはずだ。

 磯でのイガミ釣りを諦めてからもう三年ほどになる。行きたくて疼いてくるのだが、危険だと、言い聞かせて、我慢している。地磯はとてももう無理だ。船に乗って、空が橙色に光始めて、雲の色も変わり始める頃に、海を渡る。もうこういう経験はできないのかもしれない。船での釣りは意外と体力を使う。

 鯛釣りの名人だった父の友人が船で転び、死んだ。心筋梗塞だったのか、転んで打ちどころが悪かったのか、もう覚えていないが、とにかく船の上でも死ぬことはあるのだ、ということがわかった。

 小春日和を楽しむと言って、妻が弁当を持って友達と出かけて言った。イルミネーションを楽しみにいく、というのでなくてよかった。

 12月になると電飾が激しい。どこかイカレているのではないかと思う。コンビニの電灯も明るすぎると思うが、夜は夜の闇がほしい。もう夜の真っ黒な闇は山の中にいくしかない。バリ島では夜は夜らしい。電気もほんのりで、車から見える店の灯りも薄暗い。僕はそっちのほうがよい。

 街や家を派手に、派手にとしていく日本人はどういうこふうなのだろう。電気が足りないから、自粛してほしいと呼びかけたのは4年前のことである。電気は足りた。電気代は上がった。すると石油の値段が下がった。電気料金は同じである。

 日本の12月というものもあるのだろう。それがどこもかしこも電球で飾って、ウキウキとする。師走。一年の最後の月。仕事もその月には収めたい。支払いもしておきたい。そして、この一年を静かに振り返りたいという気分もある。厳かに一年を終えたいという気分もある。

 キリスト教者でもないのにクリスマスというのも僕は変なことだと思っている。別にそれを毛嫌いするわけではないのだが、不思議なのだ。この頃はハロウィーンまでする。これも不思議なのだ。祭りよりも普及しているのは祭りは共同作業で、ハロウィーンやクリスマスは個人的な作業で、そっちの方に日本人は向いていったのかもしれない、などとも思う。

 いやいや小春日和。今日でおしまい。一杯やろう。本格的に冬だ。


週刊誌

2015年12月08日 | 文学 思想

  時々、週刊誌を読むために「コメダ」という喫茶店に出かける。そこで、いくつかの週刊誌をまとめ読みをする。週刊文春、週刊ポスト、週刊現代、週刊新潮、という類のものだ。

 それぞれの週刊誌には特徴はあるが、週刊文春は週刊新潮と対抗しているように見えるし、週刊ポストは週刊現代と対抗しているように見える。写真においては、週刊現代が傑出している。風景写真などはいつも驚くものが多い。

 新聞広告では週刊ポストが五段全部を使っているのに対し、週刊現代は五段で紙面半分である。内容も週刊現代がとても企画がよかったのだが、週刊ポストが全面五段の広告になってから、週刊現代の企画力が落ちているような気がする。勢いが週刊ポストのほうにある。

 この2誌は最近、「60代以上のセックス特集」ばかりしている。高齢人口が多くなってきているのもこのような企画を生み出すのだろう。

 自民党が65歳以上の高齢者の低年金の人に3万円を配るという。参議院選挙前だというから、不愉快なことではある、あくまで選挙目当てであろう。1250万人に3万円を配るのだが、子供には出さない。選挙権がないからなのだろう。自民党はやはり老年層にゴマをすり、一票を欲しがっていると思われてもしかたがない。

 無駄なものにいっぱい使っておいて、足りないからと消費税を上げる。年金運用で失敗する。消費税はしかたないけど、という街角インタビューで言う人がいるが、この国には責任というものがないから、ここまで借金をしてしまったことに、多くの人は無関心のように思う。消費税は政治家の無責任を庶民が払わされているだのことだ。税制としてはより公平だけれど、前提が間違っている。

 会社であったら、退陣であるか、あまりにも杜撰な背徳行為ともいえそうなことだ。この3万円を配るということに週刊誌各誌は来週号で書きまくることだろう。

 確かに公共工事などにお金を与えるよりは消費者に渡した方が経済効果は大きい。低所得者層の不満もちょっとは収まる。しかしながら僕は最も大事なのは「教育」だと思っている。教育格差を解消するように(すでに起こっている)、百年の計でやってもらいたいと思っている。教育の最も大切な時期は「胎児期から乳児期3年までである。ここを間違えなければ、「心の病、いじめ、自殺、虐待殺人」などは起こす人間にはならないと思う。オキシトシン細胞から出るオキシトシンホルモンは慈愛のホルモンである。この時期にいっぱいこのホルモンを我が子に浴びせておく必要がある。

 


現在の日本

2015年12月07日 | 文学 思想

  生後3ケ月の子に覚せい剤を飲ませ、中毒死させた男の名前はりっぱだ。天翔。この男性と母親である女性の生い立ちを知りたいものだ。どのようにして、こんな犯罪ができるのか不思議でならない。ゴミ箱の中に捨てたという母親の事件もこの前、あった。

 親からの愛と、子供世界特有の冒険的体験と、親同士の仲の良ささえあれば、このようなことをする大人にはならなかっただろうに。

 現在の離婚率はどのくらいなのか知らないが、見聞すると、ずいぶんと増えている。母子家庭、父子家庭のこともよく目にする。母子家庭であっても母親が愛し、ときに父親の役割もして社会性を教え、子供は安心して育つことができれば、十分であると思うが、

 自分たちのかってな性欲で子供ができ、かってにに離婚し、子供に家庭というものの味を知らない子供も増えているのだろう。この消費社会での経済的困窮もあるのかもしれない。

 一方で、親の介護をするために離職しなければならない人も増え続けている。親が死んだあと、その離職者はどのように暮らしていけるのか、それも心配されている。お金持ちはその点はどうにでもなる。かつかつの年金で暮らす母親を看取るには介護施設に支払う料金ではできない。またいいところに施設はなく、それなりに高い。

 戦後の軽税成長期に核各家族が多く都市に誕生してから、こうなることはわかっていたはずではある。ところが政府はそれに見合う政策をおろそかにし、公共工事に邁進してきた。ダムと堤防とテトラポットと道路にどれほどのお金を使ったことだろう。また相変わらず、一次、二次産業にどれだけのお金を使ったことだろう。

 経済は高次化してこそ、牽引力が強まるというのに、地方も地場産業を唱え、自民党は一次、二次産業の従事者に支援されて政権を維持している。すでに三次産業以上が60%を超え、70%ほどにまで達しているというのに、税金の使われ方は真逆である。

 尾鷲においても、マンガ、イラスト、デザイン、コピーライター、PCプログラムができる集団がひとつあれば、一次産業も二次産業や三次産業までも、相当牽引できるはずである。そんな集団を育成する政策すらなかった。議員は地場産業の活性化を叫ぶばかりで、何の政策提案もできずにきたのだった。

 それは政府も同じだった。

 このままの予算の組み方を維持していけば、11年後に、国の借金と国民の貯金額が同じになる。つまり、ここで破綻すれば個人の貯金は国に献納(没収、または不払い、凍結)となる。戦後、一度日本人は経験している。超インフレが起こったのである。超インフレが起これば国の借金は超目減りする。その代わり、国民の貯金の価値は超安くなる、という手を使った。戦後の復興はそれからであった。もう一度同じようなことを体験しなければならないのだろう。

 お金のある人はドル貯金をする傾向が増えている。アメリカはセールガス技術をもったおかげで、中東諸国は原油の原産もできず、値も上げられない。

 日本は、というとメタンハイドレードやマグイネシウムや、再生可能エネルギー技術の開発にお金をかけず、石炭火力を世界にPRして顰蹙をかっている。

 経済成長の夢よ再びもわからないことでもないが、成長せずとも維持ができ、人口に見合った縮小社会になることも頭におさえておかなければならない。そしてそんなことは国民という大消費者がサイフの開け閉めで行っている。閉めたら政権は退陣する、という風になっている。ただしそれは無意識のことだ。国民が自覚的となれば(すでになりつつあるように思うが)、縮小社会に向かっていくはずである。それでいいのだ。贅沢なものが美味しいとか、高級車がよいとか、宝飾品がどうだとか、どうでもいいことではある。