三島由紀夫が私設の軍隊「楯の会」を作り、身体を鍛え上げ、自衛隊に訓練志願をしたとか、なんだかやとニュースになり、ぼくは高校生の頃、なにかとそれらのニュースが目に入ってきたのだった。
三島由紀夫が理想とする世界はどのようなものであるか、という問い対して彼は平安朝と答えたのではなかったか。あるいは評論家が言ったことだったのか記憶は定かではない。
当時は日本が最高潮の時代だった。一億総中流社会を実現していた。まさに望月の頃であった。三島由紀夫は安穏とした日本社会を心配していた。学生運動の学生たちにシンパシーを感じ、東大へ討論会にも出向き、「君たちがただ天皇陛下万歳と言ってくれればいいのだ」と説いた。
三島由紀夫の凄まじく不幸な生い立ちがなぜ、天皇に向かうのか、ぼくにはわからない。また平安朝を求めるのもよくわからない。平安時代に生きたこともない三島由紀夫がなぜ、平安朝なのか。
「それなら、老衰して朽ち果てるまで、安んじて荒野に住みつづけていらしゃればよささうですのに、なぜわざわざ荒野を捨て人界へ出て、こともあらうに自衛隊東部方面総監室などといふ、世の注目を集めること請け合ひの場所で楯の会の隊員共共総監面会上、これを縛り上げて露臺からかすれ聲の檄を飛ばし、総監の面前で割腹するなどといふ人騒がせをされたのですか」
「人界と荒野と往来の演技の繰返しに疲れきつた結果といふところかな」(幽明境を超えて・高橋睦郎 文学界12月号)
強権力をもつ確か梅毒で寝ている祖母は三島が産まれた直後から母と離し、二階の祖母の部屋で育つこととなった。二階の部屋からは授乳させるときだけ、呼び鈴を鳴らして呼ぶのだった。
ぼくには三島由紀夫は生きていくことができない。荒野と人界の往き来に疲れきった、などというのではない。二階の部屋で死の刻印を受けたのだとぼくは思ってきた。
ぼくは彼の思想がどうだとか、彼の肉体改造がどうだとか、平安朝がどうだとかどうでもよい。「豊饒の海」はたしかに優れた作品で、それは確かに存在しているのだが、「そんなものは、いつか訪れるこの大宇宙の消滅とともに雲散霧消する」「しかし、いまはともかくある」「いづれ無くなるといふことは現在もないということと同じだ」「ぢや、いまあなたと対している僕も無い?」「それも心ごころ」「その心ごころも無い・・・と」「無いといふことすらない」(同上)
この部分対話は「豊饒の海」の心髄を述べているようであり、禅問答とはいわないが、ぼくにはあまりに文芸的である。