25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

パスポート更新

2018年03月31日 | 日記
 十年パスポートの更新時期がきて手続きをした。十年前とあきらかに顔が違う。顔全体が緩んでしまっているようである。ほぼ全ページに入国、出国の印とビザが貼ってある。行った国と言えば、インドネシアがもっぱらで、あとは台湾と中国だけである。
 時々、円とルピアの交換比率を見る。今は1円110ルピアくらいを前後している。ぼくがバリ島に行きはじめた最初は1988年だった。その頃は1円が15ルピアくらいだった。スハルト大統領の独裁時代であった。1997年に経済危機が起こり、ルピアは大暴落した。知り合いの女性がバリ島に来たばかりで、ルピアに替えて銀行貯金していた。大ショックだったろう。1000万円が150万円ほどになってしまったのだから。
 今はさらにルピア安になっており、一体どうなっているのだろうと思う。
 中国の内モンゴルに行ったことも思いだす。三国志の魏の国が今や砂漠である。羊が草を食べつくし、山羊が根っこまで食べてしまう。この広大な砂漠化は今進行して、北京近くまで来ている。
 これだけの砂漠があるなら壮大な太陽光発電ができることだろう。もちろん、農業が可能となるようsじたいものだ。砂漠地帯を横切る黄河も見た。黄河のそばも砂漠は地下水もあるのか、甘草を栽培していた。北京の様変わりにも驚いた。昔、メイン通りから脇道に入ると、長屋が並び、糞尿の匂いがしていた。長屋の各部屋には短い蛍光灯が一本ついているだけだった。どこででもタクシーに乗れた。今ではタクシーをつかまえるだけで時間が経ってしまう。
 使用済みのパスポートは返却してもらうことにした。前半五年はまだまだ大変な時期であり、後半からはそろそろ引退時期を探ろうとし、この三年は母の交通事故被害を切っ掛けに、主たる仕事から引退できる口実となった。
 行ってみたい国や都市がいくつかある。再び行きたいところもある。特にオーストラリアのブロークンヒルからひたすら真っ直ぐ砂漠を3時間ほど走ったところにある湖も朝のほとりに立ちたい。魚が腹を擦って挨拶にくるようだった。






袋穴

2018年03月30日 | 文学 思想
 特定秘密保護法、安保法制(集団的自衛権)、共謀罪、決定的となるのが緊急事態法であり、可能性として人々は監視され、自由に物事が言えなくなり、緊急時には政府に権力が集中することになる。戦前と同じようになってきた。憲法も穴の空いた袋みたいになってしまっている。怪しい、危険な状態を安部政権は作ってしまった。選挙があるのだから国民の多数が一穴、二穴と空けてしまったということになる。これが戦後レジームからの脱却を意味するのだろうか。
 密告、たれ込み社会なってしまう可能性がある。
 本来、穴は空けず、しっかりと閉じておくべきだった。

 保守とは長々と続いてきた伝統や慣習、文化は歴史を通じて長らえてきたものだから、それは守るべきものだ、ということだ。天皇制の継続がそれを象徴している。
 これは個人的主観であるが、日本会議や元生長の家原理主義者や安倍首相を支える日本政策研究センターが描く天皇像と天皇家自らが描く天皇像とは違っているように思える。
 昭和天皇も平成天皇も靖国神社には行かない。女系天皇についても互いに意見が違うように思える。天皇が慰問の旅をして、戦後の象徴天皇のあり方を探ってきたように思えるが、天皇を絶対視する一部学者らは不服であるように思える。
 現天皇は戦争を嫌い、平和を希求する精神が見える。もしかしたら、英国王室みたいな在り方を目指しているのかもしれない。もっと天皇家に自由があっていいように思えるが、次の天皇、その次の天皇がその在り方をちょっとずつ変えて行くように推察する。
 これはすべて憶測である。願うは天皇を利用して二度と戦争はしない国になってほしいものだ。

 アメリカから押し付けられた憲法と石原慎太郎などはいうが、当時の民間人を見捨てて満州から逃げてしまった軍人や、なにもできなかった政府に憲法を作る力などあるはずもなかった。農地開放もできなかったと思う。教育基本法も作れなかったと思う。幣原喜重郎が平和主義をマッカーサーモに進言した。出来上がった憲法は国民、国会によって承認された。アメリカのおかげと言っても過言ではない。
 高度経済成長を果たし、アメリカあの言うなりにならず、ドイツのようにアメリカにも率直に物をいい、対等に交流していくというのは外交の手腕である。「アメリカの属国」という言葉がよく聞かれるが、対等になればいいだけの話である。それには堂々と交渉する技術が必要である。背後に軍事力があるかどうかではない。政治家の資質である。 

猫、犬のことなど

2018年03月29日 | 日記
 人間は武器を作り、コンピューターを作り、霊長類の長を誇っているように思えるが、娘の夫にしろ、息子にしろ、絶えず働いている。働くというには生活の基本の糧を得ることだ。収入が多ければ、それなりの贅沢なこともできる。
 時々、実は世界を支配しているのは猫と犬ではないかと思うことがある。さしずめ鎖で繋がれない猫はその長ではないかと。彼らは働かなくても、人様が食事をくれる。栄養のバランスも考えてくれ、病気になれば病院にも連れて行ってくれる。これほどよい生活は人様にはできないだろうから、猫がこの世の支配者の長といっても過言ではなかろう。次が犬だ。いつの間にかヒトは猫と犬を可愛がるものとして扱ってしまった。
 ヒトがそれで喜んでいるから、猫、犬にとっては大成功というわけである。

 桜が散って、山が若葉で膨らむ季節がそこまできている。一番よい季節だ。尾鷲の人工林には辟易するが、一部、曽根から二木島、磯崎に至る道路からは原生林の山が見える。特に樹木の多さで驚くのは神話で神武天皇が上陸したと言い伝えられる楯ゲ崎である。ぐるりと崎の端まで1時間弱だろうか。親切にも樹木に名札がある。何度も行っても、樹木の名を覚えられない。
 さすがここには猫、犬はいない。野鳥がいる。鹿や猪、猿などもいるのだろう。ドングリ類は豊富のように思える。鹿や猪は生きるに大変だ。
 
 孫たちが東京に帰って、今日は静かである。食べ過ぎた十日間だった。こどもの成長は著しく、特に幼稚園に入って二年経つと、社会的生活の教育を受けるわけで、多くの同じ年のものと接するのだから成長が加速するように思える。孫娘は四月から小学生で、一ヶ月は五年生の男子生徒が登校に付いてくれるということで、今日はその男子生徒が挨拶に親子共々くるらしい。へえ、てなもんで、学校もそうなっているのか、と感心してしまう。東京の一学校の一学年の生徒数は少ない。孫娘はそれでも大規模校にいくことにしたのだが、それでも一学年2学級である。尾鷲小学校の半分程度ではないか。またここは公立の小中一貫校でもある。
 孫たちは21世紀の終わりまではいきる可能性がある。途中、シンギュラリティー(技術の特異点)も経験することだろう。21世紀末で日本の人口は5000万人~6000万人くらいである。
 

日馬富士を出場させたこと

2018年03月28日 | テレビ
 テレビコメンテーターも新聞でも言わないから、ぼくは言っておきたい。
 一連の貴乃花親方の言動に年寄たちも怒ったとか、日馬富士の暴行事件以降、最下級の年寄まで降格したことが話題になっているが、
 肝心要のことは、暴力追放をかねてから掲げていた協会が暴行事件を警察からにしろ日馬富士が暴行したことを知っていて、それでも場所に出場させたことだ。
 これは全く矛盾している。結果は貴乃花と貴の岩が一番損をした格好だ。これは不思議でしかたがない。協会はこのことをどう考えているのだろう、

届出者の登録のない証明書

2018年03月27日 | 社会・経済・政治
 娘孫たちが来ている。朝のうち水質汚濁防止云々の届け出書をだしてから今弁当をもって磯遊びにでかけた。孫たちが採るのを見分けて、これ美味しい、これ苦いといいながら、200個ほど採って昼の弁当にした。前の海は島があり、風景としてな非常に美しい。七里御浜のように海原と違って海に陰影がある。遠くで白色も船が白い波のように横切っていく。気分がいいものだ。それから曽根に行き、障子の張り替えをした。十枚張り替えて、消防署の職員が検分を待った。火災報知器、消火器もすで設置を終えていた。庭の外240度くらいは桜が満開である。庭ではコブシのはなが満開である。夕方帰ると早速チャンポコを塩少々入れて、仕上げに茶の葉を入れて、みんなで食べた。ぼくはタカノツメを結構採ったので、大変満足だった。タカノツメはどんな酒にも相性が合う。リスボンから北200キロところにあるナザレのレストランでタカノツメがあって尾鷲のより二周りほどおおきかった。ポルトガルのお金をあまり持っていなかったので食べ過ぎにヒヤヒヤしたことがある。ワインで食べたのだった。この辺りではイワシがよく取れ、焼いて食べるこれが美味しい。脂がたっぷりある。
 今年の桜はよく咲いて、満開時雨もなく、空はせいぜい薄曇りか晴れで、セーターも脱ぐことになった。残念だったことは開化が早すぎたことだ。
 今回、民泊の手続きで市の職員、県の職員の方々のお世話になった。ぼくにとっては完全な市民、県民サービスに感動したのだった。嫌な顔ひとつせず、丁寧に応対していただいた。おそらく政府の官僚がつくった用語「届け出者の登録のない証明書」という証明書には一同びっくり仰天、笑ってしまったのだった。「何の証明」なのか用語だけではわからない。結局、ネットで用語解説を探して、「被後見人や被保佐人ではない、ということを証明するものだった。
 んだかだと手続きをやりながら、最終段階に入っている。東京法務局から、「届け出者の登録おない証明書」を待つばかりである。
 
 

国家観

2018年03月27日 | 文学 思想
散々と証人喚問にはあきれて、今日の朝日新聞を読むと、八木秀次などのグループ(最も日本会議のコアなグループで、天皇が膝まづいて国民と目線を合わしたり、慰問の旅行をしたりせずに、男系による万世一系を守り抜くのがよいとする考え方のグループ)が道徳教科書を作り審査に合格した。「愛国心」や「家族の大切さ」が強調された教科書になるものと推測するが、まだその実体を目にすることはできない。我が孫が彼らの主張する教科書が採用される学校に行くことになればなんとしようかと考える。
「愛国心」というのは閉じた考え方である。生まれて育ったところを愛する心は自然に人間はもつもので、それは郷土愛で十分であり、国民国家を愛せよ、国土を愛せよ、となると、へえ、そんな風に考える人がいるのか、とびっくりする。ぼくは国は開いていったほうがよいと思っている。悪い政治をしてくれる政府より、たとえ外国からやってきたとしてもよい政治をやってくれるのであれば、一般社会の人はすんなりとそっちに乗っていくだろうと思える。進駐軍がきたときはそうだった。政府は機能せず、国民の貯金を台無しにして、自らの改革は進駐軍に言われないとできないというお粗末さであった。
 ヨーロッパでは普通、国家=政府ととらえる向きが多く、日本は国家とは日本列島という国土に住む共通の言語、文化を基盤にした民族が暮らす人々の総体であり、そこに政府がくっついてくるという感じだ。EUのように国家の縛りを緩和して国家間が連合するようになるまですさまじい戦争があった。その上で形成されたEUである。そのEUが難民が押し寄せることで、旧国家主義が台頭しているが、大きな流れではEUは存続を続けていくだろうと思う。
 
 ぼくは八木秀夫のような国粋主義ではない。人間の多様性は認めているので、どのような思想があっていいと思っている。これはぼくの意見であるが、日本の文化、伝統に現在どれほどの価値をおいているかといえば、いいところもあれば、いやらしいところもある、と思っている。絶対ではない。仏教のあり方などはおかしいと思うし、様々な迷妄めいたことも、そして伝統の名のもと、それらを強いることもイヤである。外国の音楽も映画も好きなものがある。日本の四季もよいが、熱帯の年中夏であるのもよい。
 国家という幻想のために、「私」を捨てるということも真っ平である。ぼくには不自由極まりない日本語で考え、話す人間という宿命を背負っている。日本語すらきつい関係性に厳格な、おおらかさのない言語であると考えている。英語のYouに相当する言葉さえいくつあることだろう。
 
 

 
 

佐川元理財局長をどうみるか

2018年03月25日 | 文学 思想
 マスコミの人は財務省の官僚を「超頭がよい」「財務省に入る人は天才的」「各省のなかでもトップ」という言い方をするが、マスコミも情けないものである。この言い方では財務省やそれに憧れる人や、物事を上や下でみる価値観と同じである。価値観のひとつには上下を分けるということがある。ぼくは古い価値観であると思っている。
 思うに一般社会にいる街の声のほうが進んでいて、上下の価値観などくそくらえと思っている人も多いはずだ。その点では政治家も官僚もマスコミ人間も時代的に遅れてしまっているよう思える。だれであれちょっと考えればわかるはずだ。官邸の誰かから指示があったと思うのが普通だろう。
 東大を出たからと言って、頭がよいわけではない。自慢することでもない。記憶力だけがいいのかもしれないし、努力の積み重ねなのかもしれない。嘘をつき通すのはどこで学んだのだろう。あけっぴろげに言ってしまう肚がない。本当のことを言えばよいのに、忖度、遠慮、自己保身をする。刑事訴追を受けるかもしれないので、経緯については申し上げられませんの連発。それはそのまま自分に不利なので答えられない、と言っているようなものだ。この男はどうしてしまったのだろう。
 最も納得のいく答え方を佐川元理財局長は知っていることだろう。
 日本会議、日本青年協議会との関連もマスコミにはやってほしい。迫田元理財局長、安倍昭恵夫人、ファックスを送った谷さえこ氏も証人喚問するべきである。谷氏に聞けば核心的なことが訊けるのではないか。

 剣道や柔道の上下は納得がいく。段位が上がっていくにはそれら武道の技と精神性が求められる。相撲の格付けも納得がいく。オリンピックでの金メダルや銀、銅メダルもまあ納得する。ところが財務省に入ったからといって何が上で何が下なのかさっぱりわからない。公僕である。マスコミもいちいち「超エリート」を羨むように言い続けるのは劣等感か、古い価値観に縛られているからだと思う。おそらく一般社会で日々を過ごす人はそんな価値観を捨ててしまっている人が多くなっていると思う。定年退職した人で、元の肩書に拘る人と元の肩書などおくびにもださず、素の個人で退職後を過ごしたい人もいる。芸能人セレブは上昇志向が強そうであるが、情けないことよ。
 森友問題は長引きそうである。
日本は徐々に普通の人々が先に進み、知識人が後を追う格好になってきているようだ。知識人は、故西部暹も小林よしのりも含めて彼らは一般の人々を把握できないのではないか、と思ってしまう。保守とリベラルの区別はつかないが、あったとすればどちらの知識人もダメなのではないか、と思う時がある。上下、強弱の価値観が揺らいでいるのだ。

 

思想の肝腎な基本線

2018年03月24日 | 文学 思想
母は三度ほど夢か幻のようであったことを現実にあったことだと真剣にうったえたことがある。物忘れもひどくなっていた。自分の家の中だけで起こったことなら、そのままにしておいたのだが、隣家の住人に物を盗めまれたという妄想が一度あった段となって脳神経の病院に連れていった。医師は認知症検査をし、結局母は軽度な認知症であると診断された。
 妄想は起こらなくなり、交通事故に遭ってからは特に妄想が出なくなった。
 話すこともしっかりしているし、昔のことはおぼえている。日常生活でもとりたてて、問題はない。こちらから差し入れすることも多くなったが、トイレも自分でするし、料理は作るし、趣味のような癖のような洗濯もする。
 物忘れと言ってもぼくもしょっちゅうあるわけで、そのうち僕は母は認知症ではないのではないかと疑い始めた。母にそれを言うと、笑って、「認知症らあじゃないわい」と否定する。

 現在92歳でこの八月で93歳になる。交通事故でひどい目に遭い、それからは精神は元気であるが、股関節の骨折をして入院し、元気になったと思ったら、今度は手首を骨折して現在入院中である。入院中でも下肢を鍛えておかないとと自覚的に立ち座りのエクササイズを行っている。

 母を診断した医師は穏やかな方で、毎月1回、様子を2分ほど見てくれる。その度に母を病院まで連れていく。血圧や腎臓の薬などを処方してもらわないといけないからこれはしかたがない。

 今は、自分の判断ながら母の妄想は「拘束性ストレス」だったのではないか、と思っている、とぼくは昨日居酒屋の席で友人の岡田さんに話した。
 「認証って疑ったら、チェックの項目にあてはめて、それを見て、はい認知症です なんていうにはその医者に自分を疑うというか内省してみることがないんじゃないか。なんでも自分が正しいと思うことでもい疑わなあかんで」とかいつまんで言えば、そういうことを言った。合点した。こういう言葉を出してくる岡田さんをすごいと思ったのだった。

 このことは実は人間の大きな、深い問題であるのだ。
「その先生は優しく、穏やかで、的確な診察をしているように見えるが・・・」
「穏やかでも、優しくても自分を疑うことを知らのじゃない」
 と彼は言う。
 ブッシュの戦争が正義の戦争だと言ったことに違和感をもったことがある。ブッシュ元大統領は自分を疑わなかったのだろう。ブッシュ元大統領といえ、その医師と変らない一個人である。
 穏やかな物言いいであれ、威勢よくこれが正しいんだ、と言ったとしても、自分の判断を疑ってみることは相対化して事象を見る必要があるということだ。一面的な視点は危うい、後ろからも上からも見る視点がないと、ぼくらはまた「正義」や「医者の権威」にひれ伏してしまうことになる。
 たぶん岡田さんも例えば剣道というものについて様々な視点から考えてきたのだろう。そして自分の意識を母と医師の話題にまで敷衍できるのだろう。つまりこれは自分が専門とする分野で鍛錬された自己意識から通底する別の「母と医師のような問題」に自己意識を社会化できているのだろう。
 思想の肝腎な基本線のひとつに思える。
 

いい時代だったなあ、と思うこと

2018年03月23日 | 社会・経済・政治
 いい時代だったなあ、と懐古的に思うことが幾つかある。ぼくらはハナゴと呼んでいたのだが、鼻汁が出て、それを服の腕のところで拭くのでピカピカに袖が光っていた。この頃は花粉症もなく、鼻汁は不快でもなく、外で遊び暮れていたのだった。交感神経が働いて細菌をやっつける顆粒球が活性化していたのだろう。親も神経質ではなかった。これは危ない、勉強しろ、とも言わなかった。監視する人もなく、大人は寛容に子供をみていた。ゲーム器はなかったので、中村山や路地でゲームのような遊びをやっていた。やがて野球が流行してきて、誰に教わることなく、勝手にチームを作り、他校のチームとの試合交渉をして、試合をした。それも遊びだった。人生の黄金期であった。

 潔癖症的な時代ではなかったのだ。こんな人がいるのを十年程前に聞いたことがある。彼は一度自宅の風呂に入ってしまうと、風呂の掃除をしたくなり、延々と皮膚がふやけるほど風呂場にいるのだそうだ。それがイヤで、風呂に入れない、入らないわけにいかないから入るとカビや何かが気にかかる。トイレは汚してしまうことが気にかかり、コンビニに行くという。靴は玄関の外に脱ぐ。潔癖症がここまでくると病気のように思える。しかし、程度も差こそあれ、日本列島人はテレビのコマーシャルなどで脅迫され、バイ箘を恐れ、子供の清潔にも神経質となる。その代償としてアトピーや花粉症になり、自己免疫が暇すぎるためだと思う。花粉症で悩まされるのに、森林環境税の導入に強い反対はなく、なんだか物事はグチャグチャである。

 テレビに支配されることもなく、呑気でいられた時代だった。細かく思い起こせば良いと思っていることはまだいくつもある。アジ釣りはサビキでなく、餌釣りをしていた。数多く釣れることもあったが、一匹とか二匹という日もあった。前の岸壁から釣っていた。思えばこれも口が破れやすいアジを絶妙に釣るのだが、集中する時間にものんびりさがあった。忙しい釣りではなかった。絶対的に釣りが上手い同級生がいた。彼はどういうわけかよく釣った。こういう才能があるのだと思い知ったのだった。今、前の浜で餌をつけて竹竿一本伸ばしても、アジは釣れない。回遊してくる時期に、撒き餌をしてサビキで釣るというのがやっとだ。
 酒カスでアイノバリ(アイゴ)を釣った。今は水温も高くなり、黒潮の蛇行があり、釣れる魚も変わり、魚も減っているのだと思う。アジ釣りも懐かしく思い出される。
  
 
 

安倍昭恵夫人の善意

2018年03月21日 | 文学 思想
 ぼくはいつも「ボランティア」というものに異和感をもつ。全否定するわけではないのだが、「善意で見返りもなくやっているんだということを前面に押し出してくる人がいて異和感をもった思い出がある。熊本地震でも、東北地震でもボランティアの方々の支援は大助かりで、有難い存在であることはわかる。否定もしたくない。ただ「異和感」なのである。
 安倍昭恵夫人は「善意の暴走」という印象をもつとテレビによく出てくる伊藤惇夫が感想を述べていた。
 この例が一番わかりやすいのかも知れない、と思って「善意」をもう少し考えてみたい。昭恵夫人は、善をやっている、これはいいことだから断ることもできない、何も悪いことをしているわけでないという一方向的な素直な思いが「悪」となることもあるという考え方をしないようだ。これが「善の暴走」なのだろう。
 世の中が圧政などで悪に被われていた時代に有名な宗教家が出ている。孔子、イエスキリスト、ブッダ、モハメット。彼らは人間の善を取り上げて悪に対してよりよく善に生きることを布教した。その時こそが実は「大悪」が始まったと解釈したのは安藤昌益であった。江戸期にこんなことをいう人がいたのかと驚いたものだ。
 目の前で倒れた人がいたらぼくは何の躊躇もなく助ける。韓国の青年だったか、日本列島人であったがかうろ覚えだが、線路に落ちた人を助けるために線路に飛び込んで運悪く死んでしまったという事件があった。このように偶然に、遭遇した他人の、難儀をその場で助けようとするのとボランティアは違う性質だ。
 だから熊本まで行って救援活動にいってくれることはよいと思うがそれは個人が内緒でやるほうがいいと思う。「善」を他人に押し出してくると、言い合いが始まり、喧嘩が始まり、避難がはじまるといった窮屈なものになってくる可能性がある。俺たちは真面目にやっているのに---
という感情も出てくる。
 ぼくは人間関係やその地域と縁を感じたら参加しようという程度に考えている。
 このような問題は脳科学者や神経精神学のような科学では取り扱いできないだろう。無論ロボットの時代がきても難しい。思想、哲学とは科学という一面から探究するものとは違うということなのだろう。

時間軸を導入する

2018年03月20日 | 文学 思想
 事象というには外側からみる、内から見るとか、多面的に見るとか、空間的現在でみることに時間軸を加えるとかしないと、思想として相対化できないものだ。
 ブッシュ元大統領が一方的にイスラム原理主義者たちを「狂気の沙汰だ、テロは悪だ」と言った時、日本の小泉純一郎元首相はすぐさま支援の表明をした。またフセインは独裁者で化学兵器などもっているのはけしからん、と言ってイラクに侵攻した。日本も憲法を破ってでも海外に自衛隊を送った。
 ブッシュや小泉の場合、物の見方が一方的、一方向である。時間軸を導入して考えれば、キリスト教もイスラム原理主義的に人を殺すことをした。十字軍が代表的だろう。パレスチナでもアメリカはイスラエルの味方をした。日本では太平洋戦争中、特攻隊が編成された。ヨーロッパやアメリカでは「狂気の沙汰」と見えたことだろう。イスラム原理主義者たちは宗教的な段階が遅れて現在にいるのだろう。
 テロリストを一掃するには、イスラム原理主義が次の段階に進まなければならない。アフガニスタンにしろ、原理主義者を抱える国が経済的に豊かになることが一番良い方法である。すると宗教色はやや薄まることだろう。
 時間軸を導入して見れば、「私たち。の祖先も悪いことをした。国家が戦争を起こせば、もっと多くの犠牲者がでることになる。犯人を引き渡し、これを現在の法で裁き、賠償金も要求するということはしたいが、互いに戦争をするのはいいことではない」
とブッシュ大統領は宣言するべきだったし、自分たちが正義だという必要もなかった。小泉純一郎もツインビルで死んだ24人の賠償金を求め、日本も昔、特攻隊という狂気じみたことをしてしまった経験がある。特攻をせざるを得ない気持ちもわからぬものではないが、日本は戦後、軍国主義を捨て、天皇を象徴とした平和憲法で非戦を誓った国に生まれ変わった、経済的支援も惜しまないから、テロを止め、人々の日常生活を豊かにしないか、と言えなかったのかと残念に思う。
 どの国にも、どの宗教にも、家庭や個人にも歴史的段階の名残の濃淡が違っていて、日本も半アジア的な意識をもつ人も多くいる。民主主義がまだしっかり固まっていないところもある。政治家も世襲的であるのをみても、日本はまだまだ先進国とは言いがたい。まだ日本は危ない後退をしてしまう不安定さの中にある。
 この頃特にその様子が露見してきているように思う。政治家+文部省の学校へ介入、官僚の不正、その陰にひそむ政治家の呼吸。なんともまあ。この静かな圧迫感から国民、政治、行政、裁判から開放してもらいたいものだ。

低欲望社会

2018年03月19日 | 社会・経済・政治
  名古屋駅界隈は人と物が溢れている。財界や政治家はやや景気もよくなっているというが、名古屋にくると本当にそうなのかなあ、と思ってしまう。しかしながら何年も前から同様の感想を抱いていたのだった。
 1929年にアメリカで起こったような経済恐慌は起こるはずはない。不況と好況さえも境界が曖昧になっていて、好況のところ、不況のところが斑模様のようになっているが、庶民にはそれさえもわかりにくい。これは古い製造業資本主義が終わったからだと思う。国民の消費が主となった消費資本主義の時代を今通り抜けようとしているからだ。保守政治家はこの流れに気がついていない。

 いつもの名古屋駅のビルにある三省堂で本を6冊買った。今日は腹立たしいと思っていた政府の御用学者高橋洋一の意見をきちんと読んでおくべきだと思い、「これが日本経済の邪魔をする七悪人(SB新書)」、「常勝投資家が予測する日本の未来(玉川陽介 光文社新書)、この前自死した保守思想家の西部暹「遺書(平凡社新書)。これら三冊は恐らくこれまでだったら無視してきた書物である。次に軽部謙介の「官僚たちのアベノミクス」と養老孟司の「遺言(新潮新書)」を興味本位で、あとの2冊はぼくが好きな福岡伸一の「生命科学のしずかなる革命」と敬愛する吉本隆明の本である。福岡博士の「動的平衡」では目からウロコが落ちるようなたんぱく質の性質を知ったので、おっ、新しい本がでているのかと手にとった。最後の一冊は2012年に故吉本隆明と脳科学者茂木健一郎の対談「すべてをひきうけるという思想」が文庫本になり、まだ未読であったので買った。

 お気づきのようにどれも新書であり、文庫本である。ちょっと単行本としては買うには2冊をのぞいて躊躇ってしまう。これが消費者の財布のヒモなのだ。昔のバブルの頃なら単行本でも買っていただろう。新書や文庫があり、さらに、ブックオフですぐに売ってしまうことができるようになっているから、出版社の不況は深刻だろうと思うが、出版社は電子化に進んでいき、編集者も、校正者も抱えず、生き延びを図っていくのだろう。大前研一が言うように「低欲望社会」である。人々は馬鹿らしいものの仕分けも厳しくするようになっている。特にその傾向は若者に多い。ぼくらもなんだかそうなっている。
 日銀にはお金が国債引き受けの膨大なお金が余っているが、それを貸し出す相手がいない。人も企業も借りたがらない。なのに、日銀ではまだお金をジャブジャブにしようと主張する若田部副総裁が就任した。無駄な堤防や建物をつくるより、JRを半額にするとか、高速道路を無料や半額にする方が消費社会の公共投資のありかただと思う。

歴史の後退

2018年03月18日 | 文学 思想
 中国は独裁国家。ロシアもほぼ同じ。アメリカはトランプ大統領の政策からいて歴史の時計を戻そうとする後退国家。日本は安倍一強による長期政権。北朝鮮は独裁国家。韓国は相変わらず前大統領が逮捕される儒教国家。
 国を引っ張っていくには独裁がやりやすいのだろう。ある時までは。台湾も独裁国家であったが経済の成長とともに二大政党制となった。
 ロシアは社会主義革命を起こしたが、資本主義の高度な発展とは縁遠く、農奴制のある国で労働者も未成熟だった。現在のロシアは先進国とはいえず、意識の段階は半アジア的である。中国も同様である。専制政治というもはアジア的段階の制度である。つまり遅れているということだ。超先進国は北欧三国である。つまり人権が守られ、自由と平等を尊ぶ国である。
 日本はアフリカ的段階の名残とアジア的段階を色濃くもっていた1945年の敗戦による連合国進駐軍によって大きく多くの国民の意識を変えられたが、変えないものもいる国家となった。G7は主要経済-先進国ひとつであるが、精神的には国民の中には旧体制を好むような人もいる国家である。ぼくは専制も戦争も知らない戦後の世代であり、自由が一番、公よりも私を重んじ、音楽に国境はないように、人間にも国境はない、と考えている。占いはエンターテーメント、仏教は形骸化、神道も一種のエンターテイメントと思う傾向がある。つまりアフリカ的、アジア的段階から意識は脱しつつある。薄まっているのだ。そういう風に意識している。石原慎太郎や福田和也、橋下徹、小林よしのり、稲田朋美などとは意識が異なる。
 各国、各家庭、各個人の生まれ、育ち、環境によってもこの段階の濃淡は違う。
 社会は上場企業を重んじる傾向から、クラウドファンディングやSNSなども含めて、新しいコミュニティによる起業が登場してきている。さらにAIやLoTが進化しようとしている。また資本主義は製造業中心の資本主義から、消費が牽引する消費資本主義へと早くから移行している。アメリカの政治は今しばらく後退するのであろうが、民間からとてつもないものが出てきそうな感じがする。トランプ大統領が製造業を復興させたいようだが、アップルなどは工場のない製造業者となり、部品などはたて列的に組織内で作るのではなく、水平的に世界の各地に製造を依頼している。この傾向はトランプ大統領さえもストップさせられないだろう。科学技術、情報能力の発展とともに、医学も呪術ではどうしようもない領域に踏み出しつつある。おそらく日本も三次産業が社会の牽引産業となり、四次産業が現れる時代を迎えることだろう。この頃には戦前、戦中生まれの人々は退場し、戦後十年くらいまで生まれた人は超高齢化していることだろう。民間人100万人、兵士100万人以上の死に代えて日本国憲法はますます輝く憲法と評価されることだろう。
 石原や福田和也のように威勢のいいことばかりを言うナショナリストは古い体質で戦後の意識の変化がないのだろう。戦争を知らないぼくは、想像力で言うしかないが、戦争というのは悲惨なものだ。死ぬか、心に傷をつけるものだ。多くの自衛隊は戦争には行きたくないだろう。ぼくなどはぞっとする。戦争映画のように格好いいものではない。徴兵制にない時代でよかったと思う。安倍政権は集団的自衛権を設定したが、これは社会の後退である。安倍首相の周囲には歴史後退に無自覚な人達ばかりが集まる。安部首相と食事をする三浦瑠麗や谷村新司や松本人志、東野幸治などはその例である。
 おそらく戦争を放棄した国が西洋的段階の次の段階に入っていくのだろうと思う。この時の社会は資本主義を脱していることだろう。


不思議

2018年03月17日 | 社会・経済・政治
 パスポートの更新のため県庁舎に書類をもって出向いた。申請書には普段どおり、名前を ジュンイチと書いた。すると県の職員が悪気なく、ジュンイチの ユ は大きな ユ だという。そんなはずはない、学校でも習った表記の仕方である。これまでずっとジュンイチと表記してきたし、前のパスポート申請のときでもそう書いた、と主張したが、住民基本台帳にはそう載っているし、受付されないと困るので、大きなユに、書き換えてください、と言う。釈然としないが書き換えを同意した。
 住民基本台帳であジユンイチとあるのなら、今後官公庁へ何かを申請するときに、ましてはネットで届け出などをする場合、厄介になるかも知れない、と思い市役所に寄った。市民サービス課窓口で基本台帳を照合してみると、大きなユだという。誰がそう書いたのか、と訊くと、当時のコンピューターには小文字がなかったもので、と言う。そんな馬鹿なと思った。それで小さな ユ に訂正してほしいと言うと、それをすれば介護保険も健康保険も変更届けを出し、再交付になると言う。それでは尾鷲市の基本台長をベースとするものは何かと訊くと、その二つだと言う。これから官公庁に民泊の手続きをするのだが、観光庁や県の福祉課や、水質汚濁防止の申請や消防法の適合書申請はどうかと訊くとわからない、と言う。
 こういうことは困ったものだ。結局、変更せずにおくことにし、都度書類申請の時、確かめることにする、とした。
 その後、パスポートの係であるあゆみちゃんから電話がかかり(この女性はぼくの教え子である)、「先生、ジュンイチのユは本当の小さい字で結構ですので、こちらでまた書き換えておきます」という連絡がきた。
 今週は仕事上書類の山である。こういうことがあると面食らってしまう。市の市民サービスは市自らが作った住民基本台帳である。ぼくが確認できたものではない。変更するのも仕事のうちだと思う。
 この前、家に固定資産税の聞き取り調査だと言って女性職員がきた。母の貯金通帳から固定資産税が引き落とされるのだが、中京銀行が尾鷲から撤退して引き落としができないことになるということだった。すると、どうなるのか、と訊くと、郵便局から振り込んでもらうか、集金させてもらうことになる、と言う。長年尾鷲にあった銀行だ、こちらは振り込み料もかかるし、そちらはわざわざガソリンと人を使うのも互いにもったいない、中京銀行と何度交渉したのか、水道料金もある。中電やZTVなどはこれまでどおりであるのに、どうして尾鷲市だけがそうなのか、交渉をちゃんとしたのかと問うた。職員は答えられない。93歳にもなる母は今さら新しい銀行のつうちょうををつくる気もない。ちゅうきょうを銀行と再度交渉すればどうか、それをしてから、また交渉の記録でも教えて欲しいと言って帰ってもらった。あんまり文句を言いたくないが、尾鷲の指定銀行ではなくなったからと定規で測ったかのような市の姿勢に疑問を感じる。ねっとを社会なのだ。中電でできるものがなぜ尾鷲市でできないのか、不思議でしかたがない。

大相撲 審判長の説明不足

2018年03月16日 | テレビ
 昨日の大相撲最後の取り組みで、スロービデオでみる限り、鶴竜の親指が先に砂につき、蛇の目の砂が動くのがみえた。ちょっと蛇の目の砂が舞い上がるといってもよい。一瞬のことだから難しい軍配だが審判員もビデオでの確認報告を受けているだろうから、全国で観ている視聴者は鶴竜勝利の軍配に首をかしげたことだろう。北の富士解説者はラジオで、「オレ、目が悪くなったのかなあ」と洩らしたらしい。目だけで判定すれば鶴竜の勝ちになるだろうとは思う。
 ぼくがおやっと思ったのは審判長の言葉不足である。「行司は鶴竜を勝ちとして軍配を鶴竜に向けたのだが、軍配どおり鶴竜の勝ちといたします」というものだった。これではなにがなんだかわからない。鶴竜の親指はどうだったのか、なぜ砂が舞ったのかというようなところを説明してもらえなければ説明にならない。貴景勝が可哀想である。背が低く厚い胸板をした丸っこい貴景勝は連日上位の力士に精一杯の相撲をとって大相撲を沸かせている。
 審判長の説明不足に意義を唱えたい。
 十両では水戸龍が強い。この力士が幕内に入ってきたら、面白い存在になるだろう。
 貴源治と貴公俊はまだともに3勝しかとれてないが、貴乃花の相撲の取り口に似ていて相撲は正攻法である。幕内の阿炎の突っ張りはつま先立ちで上突っ張りをしているから、よけられると、重心がとれなくて倒れてしまう取り口が目立つ。
 栃ノ心は横綱級の相撲を取っている。稽古中の右脚根元外側の炎症がなければ、と思うと、2敗はいささかしょうがないかと思うが残念である。
 砂かぶりの席に目をやればオミズ系かと思わせる女性たちがチラホラとそれ風のヘアスタイルをして観戦している。九州場所の女性や名古屋場所のように目立ち、今日はどんな着物で来るのかと思わせるようなつ女性はいないが、もともとNHKの相撲実況をしていた杉山さんが連日観戦しているのが目に入ってくる。大阪場所は豪栄道への声援が特に多い。
 大相撲はなんにもなかったかのように連日満員御礼である。日馬富士暴行事件では暴行があったという事実を知っていながら、現執行部は場所柄出場を許している。そして騒ぎは白鵬の説教に始まり、日馬富士が貴の岩を殴るのを傍観していたという風になってきて、白鵬のきまりの悪さはそのま
ま今場所の休場につながっているように思える。
 復帰した貴の岩は十両12枚目で4勝4敗で苦戦している。
 なんだかだとありながら大相撲は存続していくのだろう。貴乃花も名横綱だったのだから、やがて年月を経れば、理事長になる日も来ることだろう。そんなことを思いながら、毎日大相撲を見ている。

※審判長はその後、報道陣に判定を問われ、鶴竜の親指がつく前に貴景勝の体が飛んでいた、というこちであった。それを言えばよいのにと思う。