25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

野球を見ながら

2016年10月28日 | 社会・経済・政治

  久しぶりに野球をみている。日本シリーズである。しかし昔と違って、投球の球種の名称がわからず、戸惑ってしまう。カットボール、ツーシーム、フォーシームもわからず、スライダーさえわからない。下に落ちたからフォークボールかと思ったら、スライダーだとアナウンサーは言う。フォークはスピードが落ちて落ちるのかな、スピードが加速して落ちたり上がったりするのをスライダーって言うのかな、などと思いながら、緊迫したクロスゲームを堪能している。野球技術も相当向上しているのではないか、とも思う。

 午後の情報番組はずっと小池都知事と豊洲新市場とオリンピック会場見直しで続いたが、やっとフィリピンのドゥテルテ大統領が出てきて、韓国の朴大統領の失敗謝罪がでてきて、ちょっとは小池都知事にからむニュースもやや減ってきた。

 わずか2週間のために莫大なお金を使うオリンピックに当初すべての都民が賛成したわけではあるまい。そんなお金があったら、保育園でも、保育所や看護士給料であげればいいと思うし、年金が下がったら生きていけない人をに手を差し伸べるといった税金の使い方もある。

 長野県はオリンピックの借金がようやく終わったというのに、その招致委員だった男がコメンテーターとして出てきて、組織委員会の手下みたいなことを言っている。小池百合子の登場がなかったら、そのままだったのではないか。

 すると今度は三笠宮の逝去のニュースが流れ、中国に侵入した軍部が天皇を利用した、と戦時に講話などで発言していたという。

 天皇を中心とした国家を作りたい「日本政策研究センター」「日本青年協議会」、その上部にいる「日本会議」。このような組織に関するニュースは流れない。今回の天皇生前退位の件についても、女系天皇の論議はされないらしい。有識者委員日本会議のメンバーが多いことに驚かされる。

 三島由紀夫が彼らの崇める四天王の一人であることにも僕は驚いたのだった。

 野球話だったのに、気にかかる話になってしまう。明後日はハロウィーンということで、僕はこれに大騒ぎすることにも違和感をもっている。アメリカを学ぶ英語授業の一環であればわかる。しかし渋谷界隈で大騒ぎする若い者の空気には馴染めない。目くじらを立てることもないのだが。


無常

2016年10月25日 | 社会・経済・政治

  この前、スーパーに買い物に行った時、キャベツの半分が250円した。これには驚いた。同じ日の夕方別のスーパーに行ったら、キャベツ一個が150円だったので、また驚いた。その翌日からテレビで東北の野菜が高騰している、というニュースを見た。11月になると関東産のものがでてくるので、それまでの我慢ということだった。キャベツや白菜をよく使う店みはこたえることだろう。馴染みの中華料理店にいったらキャベツ、白菜などをよく使うので、よわりきっていた。

 地震に津波に土砂崩れ、台風に高潮、大雨。日本で、「無常」という心的情緒が起こるはずだ。過不足なく食べる量の食料があって基本的に経済は安定する。そのための設備が住まいえあり、衣服であり、道具である。現代社会では、とても需要になっているコンピュータもその道具入ることだろう。すると、コンピュータの回線インフラがいる。移動のための輸送道路や鉄道トラックもいるだろう。すると農業者がそれらを支える人の分まで生産しなければならなくなる。商工業の発達ということは余剰食料が生産されるようになったということである。江戸期には飢饉があった。昭和の戦前でも飢饉があった。日本人が飢饉から解放されたのは、まだ60年くらいのことである。

 中国やインドのようにな人口の多い国は大変なことだろう。それにしても日本。自然災害だけでなく原発事故災害まで加わっている。

 阿蘇の爆発被害でも、台風による被害でも、頭を抱えている農家は多いだろう。昔だったら飢饉である。

 政治家は借金をして金を配り、財政を自分たちが悪くぢておいて、消費税を上げると言い、年金を物価スライド制という巧妙な方法で年金を下げようとする。なすすべのないぼくらはたった一票でしか政治家を決めることはできない。これも無常感を募らせるだけである。貯金でも封鎖される事態ともなれば、国民の怒りは爆発し、それが四方八方と散るのだろう。どうなるのだろう。

 


共有経済社会

2016年10月24日 | 社会・経済・政治

  土地と家屋と食料を商売に使ってはならない。それらを共有とし安心を皆で保証する。村は先進技術などを取り入れ、住民の経済活動を支援する。この村で製造されるオリーブオイルは平均価格の1.5倍の値がつくそうだ。そして若い人たちが移住してきた。これはスペインのある村の話であるが、資本主義の行く先の事例としてNHKスペシャルが紹介していた。国家の境界に縛られたくない若い起業家たちがタヒチの海にそれぞれの島をつくり、島と島を道で結ぶ。島は一企業で企業によるルールで運営されている。タヒチの大統領はそれを許可した。アップルはアイスランドの本社を置き、さらに子会社を多数置くことで、合法的だと判断する限りで、税金の回避を行っている。アップルは法人税を0.005%しか払っていないようだ。企業の法人税は普通、そのお金を社会的公平という観点から再配分を行う。ところが企業の法人税率の下げ競争が始まり、アイスランドがヨーロッパでは一番安く、12.5%。それからまだ工夫に工夫を重ねて、0,005%までになっているそうだ。アマゾンしかり、グーグルしかりで、企業は株主のために利益を最大限にしようとする。すると政府に入ってくるお金は少なくなる。政府は再配分ができにくくなる。不満層が現れる。こんな国家など壊してしまえ、という気分になってくる。資本主義はどこへいくのか。

62人の持つ富と世界の最下層から勘定して30億人の富で同等だという。

 日本も格差社会へと進んでいる。母子家庭の貧困率が高い。一方で東京オリンピックの建設費などに都と業者が絡む。豊洲が市場としてなくなれば今度はカジノだ、アマゾンだ、とまたそこに都と業者が絡む。大切に使われなければならない税金で支払われるお金がなんとやすやすと上がったり、下がったりするものか。

 マルクスが言うには資本主義の行き先は共産社会であった。2050年には「共有経済社会」が世界の至るところにでてくることだろう、と名前は忘れたが、ある学者が言っていた。オランダですでに始まりつつあった。物も共有するのである。さきのスペインの村も同様であった。一村長の決断である。僕はテレビで資本主義の末路のような話が2016年になって、登場するとは思えなかった。1970年代、その末路をトピックスにするものもいなかった。世も変わったものだと思う。そして僕ももしかしたら、共有経済社会を目にできるかもしれない。


尾鷲市をどうするか

2016年10月23日 | 社会・経済・政治

 尾鷲も大型店が幅をきかせいるし、ネットで買い物をすることも日常化していることだろう。尾鷲市が消滅都市に挙がったのは、これから多数を占めてくる高齢者に看護や介護担い手である20代から40代の人の数が大いに不足するからである。

  実際、住民票ではなく、本当の年代別人口を見たことはないが、市は把握しているのだろうか。この市の人口で、もはや文化会館はなりたたなくなっているような気する。病院さえなりたたなくなるのではないか、と心配する。

  そんな大掛かりのものではなく、例えばイーオンの2階が閉鎖でもされたら、尾鷲から、靴店もなくなり、

下着やシャツなどもどこで買えばよいのかわからなくなるし、ちょっとした鞄や旅行グッズなども今はイーオンにしかない。

  シェアビジネスが成長している。車のシェア、空き部屋のシェア。事務所のシェア。これもデフレの現象の中で起きる新しいビジネスである。

  いつも思うことだが、尾鷲をどのような町として続けていけるかと考えると、急に成長できることを考えるのはむずかしい。十年、二十年計画で、一つ一つ積んでいくしかない。たとえば、元尾鷲工業高校を看護や介護、理学療法などに学校にすること。学生は全国からと条約を結んでいる国々の学生を募集する。

 かたや、海の方では技術駆使ぢた漁礁や釣り場造成をし、ポイントなど案内も詳細にできるようにすること。

尾鷲海岸線は長く、磯もあり、砂浜、堤防、岸壁、沖と様々ある。そんな整備を行う。

 漁師から直接魚を買い、店に届ける漁師や仲介業者もでtくることだろう。そのためにはシンクタンク的な会社が必要であり、本来は漁協などができればいいのだろうが、そんな気配もないから、若い誰かがやればよい。

 行政は尾鷲が持続していくために、無駄なお金はつかわず、将来的に有効であろうことにお金を使う。衰退産業にお金を助け船のように出してはならない。衰退が避けられないと判断すれば、それを無理に助けていると、市の方もやられてしまう。

 なんやかや思いながら、コーヒーを飲んでいる。今書いている小説に行き詰まっている。

 

 

 

 

 


買うものがさほどない

2016年10月19日 | 社会・経済・政治

  金融政策で低金利を続け、マイナス金利にしてまでも先進国の経済は停滞を異常なほど続いている。普通なら好景気と不景気を繰り返しながら全体としては上がっていたのだが、この思い込みはもう通用しなくなっている。これだけの低金利で経済が回復せず、成長をしないというのは資本主義が未知の領域に入っているということなのだろう。

 身の周りを見てみてもわかることだ。隠れデフレが進んでいると思えるのは空き室が多く、供給過多である、と僕は実感した。家は建てないほうが良い、という実感も持っている。靴は3足あれば十分で、コートは薄手の物と、厚手のものが一着ずつあれば冬は十分である。セーターやパンツやシャツなどもほどほどでよい。

 家の中を見ると、懐中電灯が四つもあった。掃除機がいつの間にか三つあり、もう使っていない子供たちの部屋には相変わらずエアコンがある。買った本やCDはよほどいいものでなければBOOK OFF に売ってしまう。なんと無駄なものが多いかよくわかる。消費、消費と煽られても、僕にはデパートの一階で買う物がない。そもそもデパートで買う物がないのである。こんなものいるのかなあ、と思うものがいっぱいある。

  資本主義は消費を煽ることで、生き延びてきた。先進国では、もういくら消費を煽っても人々はのらないのではないか。断捨離もブームとなり、物を所有するという欲望追求が幸福なことだとも思えない実相をすでに見てしまっているのではないか。

  必無なものとそうでないものを近頃の若い世代は峻別しつつあるように思えるが、どのくらいの生活水準で納得いくか、僕も考えるようになっている。外食を控えたり、酒の量を健康で判断して決めたり、車は中古で上等だと思ったり、庭は自分で手入れをしようと考えたりする。車に乗るよりもできるだけ歩こうともするようになった。

 成長することは良いことだ、という発想から、持続可能な社会のあり方に目を移してもよさそうである。先進国の中でも日本人だけが残業し、長い休暇がとれない現状もある。堤防をつくるより、人間の育成の方にお金を使いたい。これ以上借金するよりも、耐えた方がよい。僕はそう思っている。お金持ちで幸せな人というのもめったにみたことがない。小金持の人さえめったに見ない。

  消費資本主義の歴史的な大転換点の前に僕らは立っているのかもしれない。たった63人の富が世界30億人分に匹敵するというのだから、世界は狂ってきて当然のような気がする。


あやしいことだらけ

2016年10月17日 | 社会・経済・政治

  「東京オリンピック開催」については、僕の場合、当初から反対であった。決定以前から日本には莫大な借金があることと、トンネルや橋の老朽化で、持続的に点検、メンテナンスをやり続けなければならないことが主な理由だった。

  先日も東京が停電となった。高経済成長の電ケーブルの老朽化かもしれないという意見がでている。そんなケーブルが1000kmあるという。東京電力がねをあげはじめている。原発処理でお金がかかり、政府に助けを頼んだ矢先のこの停電事故だった。弱り目に祟り目とはこのことだ。責任の所在もあきらかにせず、コントロールされていると嘘を付き 、それでも原発を再稼働するという発想は電力が独占事業だからだ。販売の自由化といえ、各地域の大手電力会社はいざとなれば電気料を値上げすればいいし、最後の頼みは国に、という構造が「甘えた 性格」や「横柄な態度」をつくるのだろう。

 鹿児島や新潟県の知事選挙の結果を見て、自民党も利権側につくだけでなく、小泉元首相のように、反省し、脱原発を図っていけないものか思う。

 日本の公共工事はメンテナンスの時代に入っている。なおもメンテナンスが増えるものはなるべくつくらない、という小池百合子知事の主張はよくわかる。本当は開催地から降りてしまえばどうか、と言いたいが 、いまからではそれは無理というものだろ。

 それでは次次回からはオリンピックはいつもギリシャで開催するようにしたらどうだろう。原発も、競技場も維持費がかかる。北海道ではどんどん鉄道路線が減っている。地震、台風列島の日本で、3兆円を越える工事など要るか。だれが考えたってわかる。わずか2週間のために、財政難で、年金抑制までしようとしたり、保育施設、保育士の質をあげたりすることもできず、オリンピック出場を目指す選手は、「いい環境でパフォーマンスしたい」などと宣う。どこかおかしいんじゃないの、それこそ、オリンピック後、ギリシャのニノ前になるんじゃないの、と思う。日本はで「隠デフレ」なんだから。物価目標2%を達成できず、資材、人件費の高騰で各競技施設建設費が膨れあがるというのも不思議なことだ。ここをどうして、詳細に公表しないのか。これもなんだか怪しい。


東京往復

2016年10月17日 | 日記

 東京まで車で片道、3回休憩をして、6時間半弱で、渋谷のスクランブル交差点近く駐車場に着いた。事務所の中から取り出すべきものをだし、一段落すると、隣のドトールコーヒー本店で、娘、孫人と細君とで、休憩した。孫息子は2ヶ月で、また成長しているように見えた。しばらく歓談し、再び、今度はそれを車に入れこまなければならない。骨格模型や、マッサージ用のモデルゴム人形、それ布団とかそんなものである。他にも片付けなければならないのはゴチャゴチャとある。

 駐車場にもどって、自分の車が出てくるまで時間が少しかかる。10時30分から翌朝8時30分までは無料だという。平時は、30分300円。車は40台入るという。こういうところにもデフレの現象がある。3年、4年前に、東京でセミナー会場を探すのに、困難した。高いのである。講習費に見合わなければならない。

 

 それが今では1時間180円からあり、頻繁に使われる時間帯でも1時間1000円というところが山とある。

 この時に、政府はデフレを脱却したと国会答弁していたが、日銀予測も物価2パーセント目標も全く到達できていない。都内の空き家はじきに20万件になるという。中国人も東京付近のマンションを買っている。爆買いに似た買い方だ。そんな話を思っていて、ここは安いですねお駐車場の男性に言うと、そんなこと言ってくれる客はめったいないね、といって、どうだ安いだろ、って顔をした。おそらく競争激化で苦々しいのだろう。

 車が出てきたのですぐに荷物を取りに戻った。全部入らないかもしれないと思っていたら全部入ってしまった。そのまま娘たちと別れ、また尾鷲に戻ったのだった。疲れるということなどなかった。おかげで、歌謡曲もおぼえた。家に着いたのは夜中の12時だった。11時半には着きたかったが、沼津のSAが満杯で、これに失敗した。しかし、懸念だったことがとれると一つの重荷もとれる。

 


コメダで週刊誌を読む

2016年10月15日 | 日記

 週に一度「 コメダ 」に行って、週刊誌を四冊読む。結構、隅から隅まで読むので時間もかかる。週刊現代は巻頭に、よい企画の風景写真が紹介されていたが、今はなくなった。

 昨日、庭の木をバッサ、バッサ切ったら、すごい量になってしまって、数年で山茶花だけでも人一人分くらいの重さがありそうである。木蓮もおも切って、切った。今日筋肉の昨日使った筋肉痛を感じながら、庭をみていると、黄蝶やトンボ数匹が飛び回っている。いつもどこにいて、どうやって、この庭を見つけるのだろう、と不思議に思うが、黄蝶が可愛らしく、きれいで、緑の草に花のように留まりする。そうかあ、十月は蝶やトンボの季節かと、忘れていたことを思いだし、気分もよくなる。

 明日は東京まで車で走る。鉄道でいきたいのだが、はこばなければならない荷物があって、しかたない。それのための準備をぢて、コメダでゆっくりしている。週刊誌でいろいろなことが、ウソかホントかわからないけど、糖尿病は自己責任の慢性病で、国の医療費は糖尿だけで、直に2兆円にまでなってしまうという。そんな記事を読んだり、内田都議会議員の疑惑問題を読んだりと、小池都知事の意気軒昂な写真を見たりで、コーヒーを一杯飲むのである。

 

 

 


男はどうなっているんだ 小池都知事どんどん進む

2016年10月14日 | 社会・経済・政治

東京都のニュースカばかりで、俄然小池百合子が目立っている。外交のない、行政の改革1本だからやりやすいことはやりやすいだろう。それにしても官僚の男ども、自民党の議員の男どもをみていて、芯のない、潔さもないのは石原元知事から副知事、猪瀬直樹、桝添をふくめても、普通の庶民の水準以下ではないかと思う。男ってダメなんだなあ、と一般化したくないから、まあ、ちやほやされてきたやつというのは根性まで出来上がっていないのだなあ、とつくづく思う。話題になる市議会や県議会でも圧倒的に姑息なことをしているのは男である。

 国会議員に目をやれば、以前に勇ましいことを言っていた、稲田防衛大臣が大臣になると、信念を変節し、白紙領収書では開きなおる。菅官房長官も開きなおる。これもまた醜い。マスコミは白紙領収書問題には及び腰で、NHKなどは報じもしない。これも男たちが決めているのだろう。

 それにしても情けない。男の優しさや強さもなければ、都民国民への目線もないので、一体何を勉強してきたのだろう。インテリというのはそんなものとは思えない。石原などはろくに文章も書けないただの偉そうなじいさんだ。


木瓜の花

2016年10月13日 | 日記

 今日は待ちに待った「木瓜」を友達からもらった。庭から庭への移植だったので、その友達が根付くまでのやり方丁寧に教えてくれ、剪定の仕方も教えてもらった。十月が植えかえにいい時期だというので、本当に心待ちにしていた。薔薇よりも花びらが重なって豪華だというので、「雅」という名前を自分勝手につけた。これから四季それぞれに咲く木瓜を探そうと思っている。

 有吉佐和子の「木瓜の花」にすっかり興味をもってしまった。蔦代が精魂こめてこの花を盆栽で育てていた。僕は盆栽ではなく地植えであるほうがよいので、それを大事に見守っていこうと思っている。

 庭の木蓮、山茶花、金木犀が高くなり過ぎ、道路にはみ出してきたので、これの剪定の仕方も教えてもらった。

 角谷弁護士から二冊の小説が届いた。電話をすると面白かったという。「殻付き牡蠣は好きか」と尋ねたところ「大好きだ」というので、「それじゃあ11月になったら送るから」と言って、「仕事は忙しいのか」「まあ、こまごました仕事があってなあ」などとやりとりをした。

 僕は「やりとり」が結構不得手であるが、こういう「やりとり」は大事なことだと近頃思う。ようやく秋がやってきたという大気があって、秋の雲が薄っすらと空をデザインしている。木瓜を植えたついでにあちこちに伸びる蔦を刈り取った。相当な量だった。それをしてから錆びた鉄柱で無様になったガレージの鉄の骨格を白いペンキで錆を隠した。いつまでもこの柱などは持たないと思うが一応の手当である。この大量の蔦は燃やしてしまうことにしようと乾かしてある。

 16日は東京まで車でいかなければならないので、出不精になった自分を「いくぞ」と思うように気合をいれつつある。昔はひょいひょいと出かけたものだが、変わったものだと少しあきれている。

 


歌わずにはいられない エリーダ・アルメイダ

2016年10月11日 | 音楽

  ポルトガル、リスボンのアルファーマという路地のエリアに入る手前に小さなミュージックショップがあり、僕はそこで「セザリア・エヴォラ」のCDを見つけた。勘で買ったのだが、大成功だった。セザリアは瞬く間に世界を席巻した。彼女は西アフリカの島 カーボヴェルデの出身で、その島で「裸足のセザリア」と呼ばれていた。

 セザリアが世を去ったのは2011年。もう彼女の新しい歌は聴けないと思っていた。今日、名古屋に入ったついでにタワーレコードに寄った。すると、ワールドミュージックのコーナーに「こころに響く歌声!アフリカ、カーボヴェルデから、世界に羽ばたく注目の歌姫! エリーダ・アルメイダ」『歌わずにはいられない』とポップに書いてあるのが目に入った。おお、ついにセザリアを継ぐものが出てきたか、と僕はそのCDを買った。セザリアを知ったときは彼女はすでに40代だったと思う。エリーダ・エルメイダはまだ23歳である。生まれ持った声が切ない。そしてセザリアよりも高音部が透き通っている。中音部はチェロのような声である。時にバスのような声も出る。

 出てきたか。そういうものなのかもしれない。ファドの女王アマリア・ロドリゲスが亡くなったあともやはり出てきた。

 帰りの車の中でエリーダ・エルミダの曲を聴きながら、この踊りと歌の島には一度行ってみたいものだとはるばる思う。

 たまたま出かけた店でセザリアを継ぐ若い歌手のCDと出会うのも珍しく、不思議な思いもする。

 ポルトガルの植民地であったカーボヴェルデ。アフリカ、ブラジル、西洋の音が入り混じっている。喜ぶべきこの運。今日はこれで十分である。


漱石のこと

2016年10月10日 | 文学 思想

 NHKでドラマ「漱石の妻」をやっているので、興味深く見ている。夏目鏡子が語った「漱石の思い出」を下地としている。尾野真千子がよく鏡子のイメージと合っていて、好演している。

 思えば夏目漱石の小説というのはとても淡々とした日常の夫婦、友人、親戚のものたちを描いている。退屈極まりないと言えば、今の小説と比較すればそうなのかもしれないが、ところが読ませていくのである。それはなぜかと言えば、人間の関係をとても上手に深く描いているからである。人間の生活の中で、実を言えば、人間関係ほど緊張を強い、喜びを感じさせ、絶望を感じさせるものは「冒険物語」よりもすごいものがあるのである。漱石は三角関係をこのパターン、あのパターンでとさまざまに描いた。平凡に生きるものでも関係の絶対性はつきまとう。人間は人間であるかぎりこの問題から離れることはできない。親がいて、兄弟がいて、妻がいて、他の友人や知り合いがいる。漱石の文学はその「ほじくり」を原点としている。

 朝日新聞に入社して以降、漱石の小説はこの原点を見据えるようになった。わずか49歳で死んでしまったとき、「明暗」が絶筆で完成していなかった。どうなるのか。テレビドラマでどうなるのかという風な「どうなるのか」ではない。この小説の完成を水村早苗が漱石の文体をそっくりまねて「続明暗」を発表した。そこには水村早苗の完結の解釈がなされている。読めば平凡で俗な夫婦がでてきて、夫には妹がおり、勤る会社には好奇心旺盛な社長の妻がいる。妻側には養父のような伯父さんがいて、可愛がってくれる。平凡だと言っても夫婦ともにプライドがある。インテリのプライドである。一人友達が出てくる。貧乏であるが、なにか主人公に嫌味を言いながら、すねたように生きている。主人公は今の妻と結婚する前に、好いていた女性がおり、婚約までしていたところを破談にされたという過去がある。彼は心の奥底でなぜ、彼女が急に婚約を破棄したのか、その理由がわからない。このくらいの登場人物である。そして漱石の小説では一番長い。どこにでもありそうな話なのだが、漱石の書く文は読ませていくのである。

 三、四年前、漱石の小説、手紙、江藤淳や吉本隆明などの漱石評論などを読みまくった。小説はほぼ二回読んでいる。それでいてもう一回読もうかなどと思えてくる。


夢で疲れる

2016年10月08日 | 日記

 夢を見て疲れてしまったのか、午前中ずっと眠たかった。椅子に座ってウツラウツラしてしまった。歯を磨き、髭をそり、顔を洗うと通常はシャンとして気持ちのモードが替わるのだが、土曜日はそれもいつになってもせず、夢の内容が思いだされ、嫌な夢だった(人が自殺しようとするところの夢だった)から熟睡感がないのだろう。

 家の中にいるとダラダラするので、外へ出る。マックあたりがよい。子供も学生も大人もいろいろいるからその様子を見ているだけで社会性のモードに切り替わる。

 この頃は女子高生の座り姿勢も自由奔放である。足を投げだすもの、体育座りしているもの。家庭や個人部屋でしているのと同じ格好をする。そこには家庭と社会の境界線は「無い」ように思われる。

 腰がほぼ90度に曲がったお爺さんがやってきて、カバンにいろいろとぶら下げている物入れから新聞を取り出し、日経新聞を読み始めた。昔日経新聞の一番裏の「文化」欄に僕のエッセイが載ったことがある。そんなことを思い出して、スマホで自分のブログをチェックしていたら、自分が書いてきた文のランキングがあった。こんなのを見るのは初めてのことで、10位に2014年に書いた「九州場所の女」があり、9位にこれも2014年に書いた「ウィスキーとほろほろ鳥」があった。懐かしい文で、自分で読んでいて、可笑しかった。沖縄にも最近行ってないなあ、東京に出向くのもなんだか億劫になってきたなあ、などと思った。

 夕飯を何にしようかと思っていたら、イオンで「北海道展」があり、北海道の花咲カニを使った寿司があった。

 ガレージの柱の錆を落とし、ペンキで白く塗ってしまいたいものだと思いながら、母の必要品を渡しに実家に赴いた。母はテレビを見るしかなく、じっと座っている。じっと座っているだけでもえらいもんだと思う。僕なんかは、ズルズルと尻が座ってしまい、そうち頬杖をついてしまう。なんだか、気合の入らない日であった。天気のせいなのだろうか。月のせいなのだろうか。自分の神経や内臓のせいなのだろうか。そんな日であった。

 

 


自己表出 宇多田ヒカル&渥美清

2016年10月06日 | 音楽

 宇多田ヒカルのニューアルバムのうち3曲をNHKのソングズで聴き、これはちょっと違うわい、JーPOPなどは越えてしまったわい、と思い、CDを買ってしまった。クラシックジャズ以外で、サザンの「葡萄」を買って以来だから1年以上前ぶりである。全部で11曲。

 パソコン取り込み、CDや各SDに書き込みむと、日本語タイトルと英語タイトルがあまりにも違うことに驚いた。11曲の中で気を抜いた曲はなく、ポップスの深化、あるいはポップスの未来をすごく感じることができて、今の歳まで無事生きてきて、そういう音楽が聴けてよかったとも感じた。モーツアルトがいたら、彼はどんな反応をするのだろうか、などと空想したりもする。

 宇多田ヒカルの切ない声は長調の歌でも切ないし、ユーモアであっても切ない。自己表出の激しい歌である。自分のために歌っているようである。作詞の能力も優れている。言葉とメロディーの切り方も、独特である。

 こういう人が世界に再び登場したのかと思うと応援したい。村上春樹の小説が世界の人々に読まれるように、彼女の歌をじっくり部屋で聴く人が毎日増えていると思うとうれしい。

 昨晩は渥美清、俳号 風天が残した200首ばかりのうちテレビで紹介された50ばかりをノートに写しとった。そして、自己表出と指示表出についていくらか考えた。風天の句の一句に風天でしか表現できない箇所がある。

  蟹悪さしたように生き(風天)