25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

日本の行方

2015年01月29日 | 社会・経済・政治
  国家あるいは政府はすでに資本の動きを制御できなくなっている。資本は民主主義さえも制御するようになっている。
  フランスでのISISの支持者は20%を越えている。なぜそうなるのか。それは少数の富めるものと大多数の困窮するものに分かれてしまうのが資本主義がたどった道であり、現在このことが露呈してきたからである。フランスの貧困層は移民が多い。彼らは富めるものになりそうもない。お金があるところに金が集まる仕組みが資本主義であるからだ。
 日本はゼロ金利、ゼロインフレで、経済成長を目指している。ところが大企業の内部留保資金が過剰に積もっている。つまり設備投資などに使うところがないのである。
 日本人の貯金は1500兆円あり、あと、2,3年もすると、これが減り始める。この1500兆円が生み出す利潤を担保にして政府は借金を国内から調達している。借金までしてお金をくらばらまいても経済は成長しにくい。このことの現政府は挑戦している。安い労働賃金で物を作り、安い製品を売るということも限界にきている。またエネルギー資源は昔のように安くない。振興国は石油資源の乱高下に一喜一憂しなければならず、1960年代のような安い石油で物作りがしにくくなっている。
 ISIS(イスラム国)の問題は宗教面も含むが、15000人もの外国人戦闘員が参加するというのは、生活が苦しいからだ。

 政府は国民の無意識の手のひらの上にのっている。経済がだめなら政権が変わる。それは国民の無意識がそうしている。国民にも経済成長や好景気という幻想がある。さらに政府は資本家側から法人税の引き下げなどを要求され、それを断ることができない。
 ゼロ成長が果たして悪いかというとゼロ成長はむしろ勇気のいる政策であると思う。それは価値観を変えることでもあるからだ。
 例えば車を買う。それをボロボロになるまで乗る。3年に1回買う必要もない。みなが1度買った車を10年使うとすれば、企業はいくつつくったらいいものか検討がつく。正社員の過剰労働も正社員を増やせばよい。利潤が伸びないではないか、言ってくる人が必ずいるが、ゼロ成長であれば、これ以上利潤を追求することもない。現在の状態を常とするような状態を生み出すこと。そして財政の均衡を図ることが肝要に思える。もうこれ以上国債を発行しない。そのためには税金の体系を変えなければならない。規制も設けなければなければならない。国境を越える金融利潤からは税金をかけ、法人税も高く、消費税も生活必需品においては免除し、高いものにより多くの消費税をかける。所得税も累進性をもっと多くする。これは想像の話である。

 しかしながら人々はどうやら資本主義の全体像がようやく見えてきたところまできている。資本主義が始まってから今日までのデータがあるからだ。

 ISISは戦争と考えているから戦争の行為をとる。戦争に卑怯も、卑劣もない。ISISは6000人の戦闘員が死に、有志連合側も死者はいるはずだが、発表がない。ISISはどんな国づくりをしたいのかは、これからわかってくるのだろう。ISISの中心めんばーが死んでしまっても次々と同じようなグループが出てくるのは確かなことだ。グローバル資本主義がつづく限り、アラブやアフリカの貧困層は平穏な生活はできない。こころの安定を宗教に。経済の安定を平等に求めているなら、たいへんな挑戦である。
 新聞などのマスコミは事件ばかりの報道に懸命である。この事件が落ち着いたら、そしてまたアベノミクスが失敗したとなれば、財政の破綻が目前に迫る日本で、次の新しいケイザイシステム、考え方の大転換が起こってくるのかもしれない。
 そんなことをテレビ報道を見ていて思う。
 

グローバル資本主義崩壊の後押し

2015年01月28日 | 社会・経済・政治
ニューヨーク、ロンドン、パリ、シドニー、シャンハイ のようなところで、今度観光客の誘拐事件や爆弾テロが起こったら、世界の海外向けの旅行会社は相当痛手となるだろう。人々は旅行しなくなる。すると国内でお金を使うことになるのだろうから、国内消費は増えると想像される。
 資本主義は歴史を辿っていくと、15%しか富めるものを生み出さないこともわかってきた。その富めるものは世界の安い賃金のところに工場を作り、利潤をあげてきた。ゼロ金利、ゼロインフレ、ゼロ賃金上昇は資本主義が行き詰まっていることを示している。もはや投資をする場所がなくなり、安くものをつくるところも少なくなってきているのである。
 新興国は、かつての日本のように中産階級を生み出すのが難しくなっている。安いエネルギー資源で発展していた1960年代とは様子が違うからである。世界は少数の富めるものがお金をだぶらせ、世界を支配するという構図になっている。
 資本主義は利潤が利潤を呼ぶのであるが。それが難しくなっている。リーマンショックに見られるように、もう安い労働賃金で商品をつくることの限界があるところに、自国の低所得者層をターゲットに金融工学で住宅の証券化をはかり、そのバブルが崩壊した。
 資本主義は成長ーバブル崩壊ー停滞 を繰り返しているが、今後最も心配されるのは中国のバブル崩壊である。また日本の財政破綻である。相変わらず「成長」を唱える安倍首相はどこに成長の市場があるというのか、わからない。破綻を先延ばしにして、未来の人たちの分まで今お金を使ってしまっている。この財政の借金を減らすために、政府は無意識にスーパーインフレを起こし、物価が10倍になれば、借金が10分の1になるという風に仕掛けているように思えてならない。

 資本主義の隆盛は始め、植民地政策、ついで周辺国での安い労働賃金と安い石油を使って成長した。それが主要先進国の方策だった。新興国には51億人の人がいて、彼らがすべて車を持ち、エアコンを使いとなるならば、地球は維持できない。

 15%のみが富めるもので、あとの85%が貧しきもの。その象徴がISILによるテロだと思う。本当は彼らはどこまでイスラム教に帰依しているのかしらないが、テロの根底に「貧しさ」があるに違いない。イギリスやフランス、アメリカへの恨みもあるに違いない。最高で15%のものが富を独占する経済システムが崩壊しつつあるところに今回のテロ事件が起こった。
 ギリシャではEUを脱退する主張する急進左派連合が政権を担うことになった。ボーダレスの時代になっていくのかと思っていたら、一国主義がまた復活しようとしている。旅行にもいけなくなったら、一国主義にみななってしまう。ビジネスマンは細心の警戒をしなければならず、観光客はおそろしくて旅行を控える。あたかもISILがグローバル資本主義の崩壊の後押しをしているように見える。

 世界は混沌としてきた。どうにもならなくなってきたと言ってよい。
 定規で線を引いたような国家の分断を図ったイギリスやフランスの人々は今どう思っているのだろう。定規の線がイスラムの人々みずからが引き直すときが、どうやら資本主義の終りとリンクしているように思えてしかたがない。

ウィスキー

2015年01月27日 | 日記
「 山崎」というウィスキーはこれはこれでおいしい。「余市」はスモキーさがあって、これもまたこれはこれで美味しい。飲む場面で美味しさが違ってくる。食事のあとなどでは「山崎」がうまい。食事からしばらく経ったあとで、バーなどで飲む「余市」は旨い。ウィスキーはスナックなどでダルマが流行っていた最盛期の30%ぐらいらしいが、世界的には振興国の台頭もあって、生産量は増えているらしい。
 ところで、「余市」は世界グランプリを3回とり、山崎は1回とった。昨日のニュースをみると今度は「竹鶴」がグランプリを取ったらしい。「竹鶴」はブレンドウィスキーである。20年ものなどは日本では手に入らないという。
  朝ドラマの「まっさん」を見ていると、ウィスキー作りに執念を燃やした結果が引き継がれて世界で一番のウィスキーとなった。サントリーもさすがである。豊穣なうっとりするウィスキーを作り出した。まっさんとサントリーが作った「山崎蒸留所」の結果が見事にでている。
 和食には日本酒。フレンチやイタリアンにはワイン。中国料理には紹興酒。それぞれの料理にはそれぞれぞれの酒が合うが、奇妙であると思うのは「焼酎」が割合となんにでも合う、と思う。
 都会の風景で、カウンターバーでカクテルやウィスキーを飲んで、語らっている場面がある。「よるタモリ」の「ホワイトレインボウ」でも看板に「ウィスキーありマス」と書いてあるが、どうももなさん、ビールを飲んでいるのが残念ではある。
 若い頃、ウィスキーを飲むのは苦手だった。学生には「レッド」がせいぜい買える時代だったのだ。「ニッカ」もあった。飲み過ぎると吐いていた。
 ところが30代に入って、だんだんとウィスキーに馴染んできた。そして今は「強いアルコール」のものを好むようになっている。大量に飲むことはないが、必ずチェーサーを用意してもらって飲むようにしている。
 水割りであってもあれは水ではない。利尿作用があって、脱水症状を起こすことも考えられる。氷が入っているから心配ないだろうという話ではない。ところが専門家はそうではないと思うが、よくある普通のスナックではチェーサーをだしてくれるところは少ないし、ウィスキーとブランディの違いもわからないところも多い。せめて「水」をください、と言えばよいのだ。

 

新ボディチューニング

2015年01月26日 | 文学 思想
 今日から相撲がないので、この時間帯は空白に戻る。この空白時は一番くつろぐときである。長々とカフェで本を読んでいてもいいし、家で音楽を聴くのもよい。朝と午後3時ぐらいまではだいたい書物をしている。仕事上でのことだ。「新ボディチューニング」というテキストを作った。「ボディチューニング」を書いてからもう8年になる。その間、新しいことも発見されtし、医学の進歩らしきものもあったし、知らなかったことも新しく知識として得たこともあった。母も交通事故にあい、その回復の過程も見てきた。
 人間は突然に死んでしまうこともあるが、なかなか精神の持ちようによってはタフにできているとも思った。

 歴史の大転換点にいる僕らは、政治の世界で大転換をみずからがやることはできないが、日常の仕事を掘り下げることによって次の時代へと橋渡しをしていくことはできる。そしてそれが次に時代へとつながっていくことになる。日本政府が倒れても、大衆は生き続けていく。今の時代に常識に縛られてわからないことも時を経るに従い、わかってくることがある。
 シューベルトは100年経って、やっと人々に演奏してもらえた。バッハは死後、メンデルゾーンによって100以上経ってその才能を発見された。
 僕のようなものでも、そのくらいの気持ちでやっている。「新ボディチューニング」とはからだとこころが一体となっていることが前提とする「こころとからだの調整法」である。
 2月1日にバリ島で初めて発表し、続いて2月23日から沖縄で発表する。そしてこれからのちはこのテキストをしばらく使うことになる。

 ひとつのことが終わると、すぐに次のことを考え始める。そんな風に生涯やっていければよいと思っている。
 

イスラム国による人質事件3

2015年01月24日 | 社会・経済・政治
 イスラム国の人質事件で、僕は2回このブログで意見を書いた。テレビニュースや新聞なども読んだ。後藤さんのお母上の記者会見も聴いた。お母上は「日本には平和憲法があって、戦争をしない国だ」と言っていた。
 しかし中東歴訪中、安倍首相は「イスラム国」と名指し、その脅威を受ける周辺国に対して援助をすることを宣言した。あきらかに有志連合の一員として述べたのである。「イスラム国」と言わなければよかったと悔やまれるが、政府はこれを「人道支援」だと言ってやっきになっている。
 イスラム国のやっていることは残酷であるが、その残酷なことと同じことをヨーロッパ先進国もアメリカもやってきた。植民地支配がそうだったし、フセイン体制を倒せば混沌となってしまうことがあきらかであったイラクにおいても市民は犠牲になっている。アメリカも残虐である。戦争に正義の戦争などというものはない。戦争そのものは「悪」なだけだ。日本は集団的自衛権を閣議決定している。集団的自衛権のことなどはシリアにいる人たちは知らないかもしれないが、有志連合の一員であることは知っているはずだ。
 イスラム国は6世紀の「正統カリフ時代」の社会に戻りたい。イスラム法を遵守して生きたいと思っていると同時に、植民地時代に寸断された国境線を打ち破ろうとしている。
 イオスラム宗教を信じる人々にも多く穏健な人々がおり、彼らは「イスラム国」の言っていることと行動はイスラム法を遵守しているものではないと言っている。
 イエメンが崩壊した。これはシーア派の武装勢力に乗っ取られた形だ。イスラム国はスンニ派だ。
 このようなことは僕は関わるべきではないと考えている。日本だって、戦国時代に多くの命を犠牲にして国盗り合戦があった。人権などといわないで放っておいたらいいのだと思う。石油が入ってこなかったら、となるが、売買なくして国は成り立たない。

 僕はイスラム教のある、また原理主義者がいる地域へ仕事でいくことがままある。僕の娘の義父も地域は違うがたびたび訪れている。ひとりひとりが仲良くしているところへ国家というもの、特に政府というものはいらぬ介入をする。放っておいてほしい。彼ら全イスラム教徒は彼らで歴史をちょっとづつ刻んでいくだろう。だれも人など殺したくないのだから。共同幻想に支配されているが、やがてだんだんと個人というものも、家族というものも国家以上に大事なものである方向に進んでいくことだろう。僕はそう思う。

ストレッチは是か非か

2015年01月23日 | 日記
 羽鳥操の「野口体操入門」の本を読み、再び甲野善紀と松村卓の「筋肉より骨を使え」を読んだ。もちろん仕事のためである。二度目読むと以前見過ごしていたことがわかる。良い本というのはていていがそうだ。小説しかりである。
 「からだとこころは一体」ということもわかる。「骨折り損のくたびれもうけ」もわかる。「気骨」「骨身にしみる」という言葉も知っている。昔の人はこれらの言葉をどのようにしてつくりだしたのだろうか、と不思議におもう。骨は目に見えないから我々は筋肉を重視してしまう。
 野口体操では骨は重視されていないが、きっと甲野や松村は一歩進めて「緩んだ筋肉と瞬時に収縮できる動き」のありかたを唱えている。スポーツにも芸術活動にも応用できるこの骨ストレッチが普及するまでどれほどかかることだろう。筋肉を鍛え上げることでどれだけの選手が怪我で泣かされていることだろう。これからも筋肉トレーニングは続くのだろうか。体幹トレーニングまででてきて、肝心の「やわらかさとバランス」のトレーニングが欠けている。

 からだの動きのコツを掴むというのは「骨を掴む」のと同じことではないかと思うとなるほどそうかな、と思わせる。
 マグロは水の抵抗力のある中を早いスピードで動く。なぜなのか。ライオンは昼は寝そべってばかりいるのに、夜中には獲物を狙って猛スピードで走る。
 人間のからだのことを科学的に立証していくことの難しさ。それほど複雑極まりない身体やこころのことは今のところ、「成果」を見せることでしかない。
 京都の壁塗り職人が壁の表面をでこぼこもせずに塗ることができる。その職人は70歳を過ぎていた。若い職人はそれができない。親方もどう教えていいのかわからないので、見て、体験して、からだで覚えろとしか言えない。若い人はやめていく。そこで京都工芸大学は職人の動きを撮影し、分析してみた。すると、まず重心の移動がスムースに「できていることがわかった。そして疲れないように、疲れないようにと思っているいるうちに体得したのだろう。

 やがて、骨ストレッチも解明がなされていくだろう。しかしまたある限界点までくると新しいさらに成果のあがる方法をだれかが見つけるのだろう。

 昔の人間ならやっていたことを近代に入ってからの人間は「原初生命体としての人間」の復活をこの両書とも言っているように思える。
 話は違うが、プロのピアニストが弾くピアノ鍵盤の音と相当上手な素人のピアノ名人が弾くのとでは音がまるで違う。おそらく身体の使い方とこころの使い方が全く違っているのだろうと思う。
 なんだか勉強になったこの2日間であった。友人がDVDを貸してくれたので、それも興味をもって見た。たいへん役立ちそうなので、主婦の店の前で妻の買い物中、骨ストレッチをやっている。普通のストレッチが筋肉の過緊張を起こし、バランスを崩すからだ。しかししっかりと科学的には解明されていない。解明されることの難しさを思う。人間は目で物をみるだけで筋肉は緊張するし、意識するだけで、妙な具合になってしまうという生き物である。
 おもしろい人たちがでてくるものだなあ、と嬉しい。

イスラム国による人質事件2

2015年01月22日 | 社会・経済・政治
 今日は名古屋にいく用があって、77歳の男性と2時間ほど一緒にいた。その中で、昨日のブログで僕が述べた人質テロ事件についての意見を述べた。彼は無口人だ。彼は、「お前の言っていることは正しい。命をかけて行っているんだろう。自己責任とうこともあるだろう。しかし、身代金が1000万円とか2000万円だったら払ってもよい」と言った。そんな話をして、テレビのニュースを見ていたら、後藤さんに関しては「誘拐保険」に入っていたことがわかった。
 政府の菅官房長官は会見ではにがりきった顔をしている。テレビは一切「殺されてもしかたがない」とは言わない。

 保険でいくらでるのかわからないが、それが死ということの代償なのか、身代金の代償に当てられるのかまではコメンテーターも言っていなかった。仮に身代金保険ならば、1億円の保険がおりてくるから日本政府は1億円の身代金を払い、後に保険で1億円返してもらえばよい。死の保険であるならば、残念だが、国民の税金を使うわけにはいかないと思う。

 政府はシリアやイラクへの渡航を自粛するよう呼びかけていた。危険地域だからである。
 日本人を誘拐すれば金になると世界に伝われば、僕らは仕事で海外に行きにくくなる。それが今一番の杞憂だ。後藤という人がどんな正義感をもっていようとも、正義をするときは半分「悪」もしていると思うことだ。そんなことは鎌倉時代の親鸞が言っている。テレビは後藤という人の正義のことばかり言っている。これには辟易する。

 後藤さんが「自分の責任です」と言っていることもテレビは伝えている。そしてテレビに出る人はタブーかのように、「放っておいたらよい」と言う人はいない。僕も無事は願うが、それは後藤さんが自らイスラム国の人を説得することだと思う。

イスラム国による人質事件

2015年01月21日 | 社会・経済・政治
 「イスラム国」に二人の日本人が拉致され、二人の命と引き換えに2億ドルを日本政府の首相と国民が要求されている。観光客であれば「人の命は地球よりも重たい」と言えるだろうが、二人のうちの一人はジャーナリストであり、もう一人は民間の「軍事家」である。つまり命をかけてやっているのであって、日本政府はどんな干渉もしてはならない。それは自己責任の範疇内の話である。人の命の話ではない。
 本当は日本は西洋の歴史的所業とイスラムの民の問題に首を突っ込むことはないのだ。安倍首相が「積極的平和主義」と寝ぼけたことを言っていて、そう行動するから、馬鹿なジャーナリストや民間軍事家に国民が巻き込まれることになるのだ。
 かの国はかの国で自己解決をしていくはずなのだ。石油が心配だからと言って、一方の側を支援すること自体が無理というものだ。西洋はどれだけ悪いことをしてきたか。世界史を勉強すれば誰にでもわかる。
 世界史の背景を知ってシリア入りしたはずの二人だ。二人が責任をとるべきで、日本国民を巻き込むことではない。
 殺されても「しかたがない」ことだ。彼らとて、そう思っているだろう。

 漁師が遭難したからと言って、誰もお金はださないだろう。その辺で人が殺されても政府は別になにもせず、動くのは警察と検察と弁護士と裁判官だけだ。

 こんな事件が大事のように報じられるのは「集団的自衛権」の問題があるからだ。日本が西洋側についているからだ。
 日本は自立し、中立し、政府のメンバーたちは自衛隊員や国民を守ればよい。憲法とは国民を守るための法である。

 それにしてもムシャクシャする。人質となった人間にムシャクシャするのだ。8500kmも離れたところにいるから実感が湧きにくい。むしろ、どうしてそんな無茶なことをしたのか、と問いたくなってくる。安倍首相もきっと同じことを思っているに違いない。
 いろいろなツテを辿って、無事解放されるのかもしれない。裏金が動くかもしれない。毅然とイスラム国のテロに対抗するのかもしれない。「日本はアメリカのヒモである」と誰かが言った。「今もアメリカの占領下にある」という人もいる。
 資本主義が衰退していく中で、またその最先端をいく日本でこのようなことが起こった。馬鹿げたことだと思うが、この国の形を今真剣に考えなければならない時なのだろう。全共闘世代から上にその力はない。  

消費資本主義の終わり

2015年01月18日 | 社会・経済・政治
「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫)が話題になっている。ピケティの「21世紀の資本論」も高価にもかかわらずよく売れている。みすず書房もたいしたものだ。
 日本人は遠くの神様が好きで、遠い人ところからやってくる人の声をよく聞く。しかしピケティや水野のような意見はすでの1980年代からあった。それが今、はやるようになった。そして購買する人が多いことに関心の深さが伺える。
  先進国の国債利率の過剰な低さ(2%を切っている日本)それは資本の利潤率をも示している。
グローバル化はいくところまでいき、外国の安い労働賃金で製造することも限界がきている。利潤率が低いため、企業は設備投資が採算にあわず、できない。資本主義とは利潤による資本の増加で成り立っている。もうひとつは市場競争原理である。
アメリカは資本主義の破綻を金融工学により金融帝国と様変わりさせたが、これもリーマンショック以後、縮小せざるを得なかった。
そして世界の富は本の数パーセントの人々に集まり、日本も同様に中間層の没落が貧困化となり、格差社会を生み出している。

 こういうことは日常の生活の実感からわかる。貯金をしても利子が超少ない。銀行は中小・零細企業には新規貸し出しを渋る。貸し剥がしまでする。貯金のお金を国債買いや投資や為替業務を行い、本来の仕事をしない。証券業や町金までやっている。
 ゲームソフトなどブックオフに出回るが、こんなものが社会に必要なのかあやしい。靴は10足も要らない。時計も1個、2個あればよい。ラーメンもインスタントラーメンの方がうまい場合がある。電気製品は揃い、これまで以上の電気冷蔵庫も電気炊飯器も要らない。今の高画質テレビの8倍もよいといわれるテレビなども要らない。つまり国内ではもう買うものがない。
 家を建てる場合は壊すことも計算に入れなければならない。人口も減る。消費力が下がる。公共工事も頻度を少なくてしてもよいと思う。
 経済成長はよいことだ、経済成長するしかない、というのは自民党がバブル崩壊後から借金を増やし過ぎてしまったからだ。そして戦後の経済成長の記憶があり、経済成長以外の新しい社会や人間のあり方を考えなからだ。

 僕流に考えなければならないのは、
  1)税制  2)規制  3)富の再分配  4)税金の使用優先順位  5)人生観および価値観の転換
 個人的には 
 6)スーパーインフレへの個々人の防御  7)自分にとって必要なものと不要なものの区別  8)地震・津波では5分以内により   高くまで走る

 ことだと思っている。

介護報酬の減額の意味すること

2015年01月13日 | 社会・経済・政治
 介護施設事業主の報酬が2.75%減額となりました。介護士の月額報酬は12000円増えることになりました。
これは何を意味しているのでしょう。儲けすぎている介護事業者からお金をとり、国や県、市町村の出費を抑えたいのか。
それは違います。介護士の報酬が上がったら、介護士を減らす、ボーナスや研修などを減らす、料理屋や掃除をする人を減らす、という対抗策を事業主はとってくるかもしれません。収支トントンでやっているところは赤字となり、そもそも赤字のところは廃業することもありえます。待機被介護者は100万人になるといわれています。
 政府の狙いは、自宅介護を目指しています。そこが一番の介護費を減らす手段です。訪問介護の充実で介護施設をもうこれ以上増やさないという意図がよくわかります。

 それよりもなによりも、健康に気をつければ、つまり過剰なストレスや過剰な食べ過ぎ・飲みすぎ、適度な運動、正しい姿勢を
身につけさせることができたら、被介護者は確実に減るはずです。
 いよいよ私の考えていたことを現実的に、病院でもない、だれかがきちんとした知識をもってやらなければならない時代に入ったことを意味します。美容と健康助言、美容とボディチューニング。
 今回の法律改正によって、私のノウハウが注目されています。全国規模の団体からのオファーが多くなりました。
 みなさんも、本気で私が講習で言ってきたことを実践されるとよいと思います。顔だけの、ただマッサージをするだけの店は淘汰されていくことになるでしょう。専門的な知識と技術を身につけるのがよいと思います。

バリオスと伊藤若冲

2015年01月10日 | 音楽
 1885年に南米のパラグアイに生まれたアグスティン・バリオスについて、ギターリストのジョン・ウィリアムスが言うには「彼はギターのショパンだ・・・・・。彼ほどギターという楽器と一体化した、しかも多彩な音楽を生み出し得た作曲家はほかにいない。ヴィラ・ロボスのギター曲もたしかに独創的だし秀れているが、ギターの性能を多面的に生かしきっているという点ではバリオスが優る。

 こう解説にあるバリオスのギター曲をジョン・ウィリアムスの演奏で聴いてみた。
 哀愁が溢れるメロディ、その繊細さ、しかも高度な技術である。あの6本の弦でこれほどのことができることにまずびっくり、というより、CDに入っていた最初の曲のメロディーにうっとりしてしまい、技術のことはあとで思ったのだった。

 南米の作曲家と言えば、ビラ・ロボス(ブラジル)と思うが、ウルグアイにもこんな天才がいたんだ、とすごいもんだ、と思う。
 彼は300曲ほどを作ったらしいが、無欲な彼は楽譜を人にあげてしまい、出版することもなく、コンサート活動で流浪していた。楽譜は散逸し、今日残っているのは、少ない。だが、バリオスを研究するものたちの努力により、集められた楽譜で、1976年頃ロンドンで録音されたジョン・ウィリアムスによる「オール・バリオス LP 」で、バリオスは復権した。

 伊藤若仲の話とよく似ている。若冲の作品も骨董店を仲介として散逸してしまっていた。ところがあるアメリカの青年が車を買いにでかけたところ、道端の骨董店で若冲の絵に釘付けにされた。石油王の息子でもあり、お金も十分あった彼は、車の代わりに若冲の作品を集めることにした。若冲が死んでからもう150年以上は経っている。若冲は生前、絵は売れなかったが、100年後、200年後の人ならわかる、と黙々と動植物を描いていたのである。それがアメリカ人によって再発見され、美術館までアメリカにできてしまった。

 8年ほど前に京都で伊藤若冲展があったとき、たいへんな若い人の行列であった。その目と技術には圧倒された。若冲の絵画本も多く出た。テレビでも日曜美術館などが扱った。そのアメリカ人の収集家のおかげである。

 いいものをちゃんとこの世界に残していこうとする人々は後世の世界にいる。このバリオスもそうだ。ゴッホもそうだったように。
 バリオスのギターの腕はたいへんなものだったらしいので、自分で弾いて聞かせることに活動の中心にしたらしい。この世限りの人だったのだろう。
 パラグアイの首都アスンシオンに、パラグァイ日本センターと名付けられた立派な音楽ホールをもつ近代的な白い建物がある。1988年、日本政府の名で寄贈されたこの建物はパラグァイと日本の「文化交流、人的資源の相互開発」をモットーとしている。バリオスが死んでから50年。ここで、バリオスを愛する人たちが心を砕き、コンサート開催までこぎつけたという。

ハナレイ ベイ

2015年01月09日 | 文学 思想
 ハナレイ ベイで19歳の男の子が鮫にに右足をひきちぎられ、それでパニックになったのか、死因は溺死であった。このことを日本にいる母親が知らされ、ハワイ諸島のマウアイ島にまで遺体を確認にいく。現地の警察官は、「憎しみや恨みで青年は死んだないので」と言い、さらに「自然はときにそういうことをするんです。決してこの島のことを悪く思わないでください」とお願いをする。唯一ひとりの子供を失くした母親はそれから毎年、ハナレイ ベイで一日中サーフィンをやっている青年たちや海を眺めて3週間を暮らす習慣となった。

 彼女はピアニストである。どんな曲も聴けば弾けるという才能を高校生のときに自覚した。ピアノを独学で習い、そのうち高校のピアン教師が運指を教えてくれ、ジャズの和音なども教えてくれた。しかし彼女には自分で曲をつくることができなかった。忠実に演奏すること、すぐにコピーをすることは天才的だった。やがて彼女は大学に入り、小遣いを稼ぐのにピアノバーでアルバイトをした。有能なギターリストと結婚したが、女好きなその男とは離婚をした。彼女は根気がなく、勉強もせず、チャランポランに生きているがサーフィンだけは好きな我息子のことを愛してはいたが、人間的に好きになれなかった。
 育て方を間違ったのかもしれない、とも思うが、自分だって同じようなものだったとも思う。
 息子が死んでしまってから、彼女はピアノバーでピアノを弾いては、3週間ハナレイ ベイにいく。未来も過去もなく、ただその時の時間の流れの中で、海を見て、ピアノを弾いて暮らすのである。

 これは村上春樹の「東京奇譚集」に収められた小説の内容である。村上春樹の短編小説はとても優れている。「レキシントンの幽霊」も「回転木馬のデッドヒート」も、「神のこどもはみな踊る」も、ひとつひとつの短編をこれほど上手に書く作家を見たことがない。
 長編小説のくどさがなく、比喩の過剰さもない。淡々と浮かんでくることを無理せずに書いている気持ち良さがある。
 ぜひおすすめのものばかりだが、最近彼は「女のいない男たち」を刊行した。月刊「文藝春秋」で連載していた。登場人物が風呂で鼻歌を歌う「Yesterday」の彼風の訳がおもしろく、文藝春秋には全部掲載されていたのが、単行本になると「昨日はおとといの明日・・・・」 の行しか載せておらず、これは残念であった。著作権にひっかかるらしいと出版社側は思ったらしい。村上春樹も同意したのだろう。北海道の実名の町の名前も別のものになっていた。これも気を遣ったのだろう。
 書く事についてはややこしいことも多くなってきているものだ。

憲法が死んでいる

2015年01月08日 | 社会・経済・政治
  憲法は国の最高法規であり、国際条約も、憲法以外の国内法はその下部であることは常識だと思うが、1959年の「砂川事件」で最高裁は日米安保条約に関することは最高裁は決定できないと憲法を条約の下に置いてしまった。つまり1959年からこの国の「憲法は死んでいる」と唱える本がベストセラーになっている。
 米軍基地の住民たちがすむエリアの上ではアメリカ軍は飛行機もヘリコプターも飛ばない。落ちたら危険だからだ。ところが普天間基地のように、米軍は日本人の住居地区の上を飛ぶことをしている。本来人権は「憲法によって守られるもの」であるはずであるが、憲法は機能していない。

 憲法に関して、改憲派と護憲派の二つの意見があるが、今の平和憲法をよりよいものにしていくという論議がない。
 憲法は法律を作り、実行する政治家や官僚や行政にいい加減なことをさせない国民一般庶民のためのものである。国民のためであると言ってもよい防御装置である。

 今年は敗戦後、70年が経っている。この70年をどう総括するのか、特に先の戦争をどう総括するのか、日本人はやってこなかったから、僕は徹底して論議するのがよいと思う。そして謝るべきことは徹底して謝らなければならないと思う。この点で、安倍首相がどんな「安倍談話」を発表するのか、中国や韓国やアメリカはどう思うのか、僕は関心をもっている。

 さらに昨日フランスの新聞社がイスラムのテロリストに襲撃され、編集長など12人が殺害された。フランスは「イスラム国」への空爆にも参加している。西洋が線引きをした国境を越えてスンニ派があらたな国を作ろうとしている。
 こういう遠いアフリカや中東の問題が我が国の「憲法」をも無視して影響してくる。僕は放っておけばよいと思う立場である。いわば非積極的平和主義である。日米同盟もやめたほうがよいとも思っている。
 イスラム原理主義の人々が先進国に散らばっている。移民として受け入れられながら差別を受けている、ということも聞く。植民地時代の悪に対して「殺すことも辞さない悪」が台頭を始めた。不気味な年になりそうである。
 正月からのニュースは株価があがる、オイルは値下げ、オイオル関連商品は値下げ、他の輸入商品は値上げ、と浮かれ調子で経団連の人たちが言っている。証券会社の人たちも言っている。赤字国債もやや減額されるが、やはり発行される。日銀が買い支える。

 尾鷲のような地方は人口が減る一方である。四次産業の知恵がない。高速道路ができ便利にはなったが、そこに新たな産業が起こらない。尾鷲まで届くのかアベノミクス。 
 

西洋化とイスラム国

2015年01月07日 | 音楽
 モーツアルトは6歳で作曲を始め、ベートーベンは音の振動で作曲をした。貧乏な家に育ったシューベルトは奨学金で神学校に入った。しかし彼にはピアノを買うお金がなかった。頭の中だけで楽譜を作った。31歳の生涯は窮乏の生涯でもあった。彼の作品は売れなかった。ショパンは37歳で肺結核で死んだ。ブラームスは恩師であるシューマンの奥さんを愛したが、シューマン死後も一緒になることはなく、生涯独身を通した。ワグナーは革命に参加したり、借金で逃亡したり、皇帝に召し抱えられたり、波乱万丈の生涯だった。

 19世紀のこれらの天才たちは短命であったが、後世になっても作品は演奏され続けている。ひとつの作品がいろいろな指揮者や演奏家によって受け継がれていくのを「クラシック音楽」という名誉ある称号だろう。ビートルズの作品がもしも100年後、200年後にも受け継がれていくならば、それはやがてクラシックとなるはずだ。

 モーツアルトが現代に生きていたら何をしていただろうと時々思うことがある。やはり管弦楽団用の作曲をしていたのか、ピアニストとなっていたのか、ジャンルはなにか。ジャズをやっていたのか、ロックなのか、ミュジージカルや映画音楽を作っていたのか。音楽などをせずにスポーツでもやっていたのか。

 20世紀の後半以降、カルチャーの裾野が大きく拡散して人の才能をいかす場面が多くなった。映画をつくる人、演技をする人、漫才、イラストレーター、漫画家、小説家、劇作家、脚本、絵画、CG、ロック、フォーク、流行歌、ジャズ、民族音楽、世界のダンス舞踊、サブカルチャアと言われているものはすべて表現活動であり、そんな中で天才たちは何を選んだことだろう。

 この頃、短編小説を読みながら音楽を聴き、次に音楽だけに耳をすまして聴く。クラシックは素人で、作品を聴いて、その中でなにかをつかみとろうとする。詩や小説を読むのと同じように、音楽を読み解くことをしようとしている。

 僕らの時代の人間は18世紀から19世紀の音楽感覚、しかもドイツやオーストリアを中心とした周辺の音楽感覚に馴染んでいる。マルチンルターなどのおかげである。イギリスで天才作曲家がでなかったのは、当時の宗教支配者や貴族が音楽を奨励しなかったからだという話を聴いた。フランスのクラシック音楽は新しさを感じるが異質さも感じる。

 ヨーロッパでは、あれほどの楽器を発明し、オーケストラとして発達させてきたというのは、すごいことだ。日本には三味線、琴、、尺八、横笛、和太鼓ぐらいがあるぐらいであり、バリ島では竹や金属の木琴のようなもの、口琴、鼓があるくらいだ。インドでも弦楽器はあるが、やはり種類が少ない。アジアは独特な音楽の発展のしかたをしたが、それは民族内にとどまっている。

 この点ではピアノを作りバイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバス、トランペットやトロンボーン、チューバ、サキソフォーン、、クラリネット、フルート、ピッコロ、オーボエ、ファゴット、テインパニーからドラム、木琴や鉄琴などなど、よく開発したものだ。
 そのヨーロッパでビートルズが登場し、アメリカではジャズやロックが隆盛し、世界を席巻している。
 僕は昭和の戦後生まれだから、すでにヨーロッパの音楽を学校の授業を通じて感化され、ラジオやテレビにおいてもオーケストラが基本となっていた。
 若者が手軽にバンドを作り、曲をつくるというのも、ヨーロッパ音楽が基本としてある。
 僕らの中の西洋化は止まることはない。

 西洋が過去に植民地化して、定規で線をひくように国境をつくり、それぞれの国家を作らせたのが今崩壊しかかかっている。イスラム国だ。彼らはまずキリスト教者たちが線を引いた国境を取り払おうとしている。徹底して西洋化を拒否しているが、武器だけは西洋化しない。根の深い問題で、やがて同じようなグループがでてきて、連合化していくのだろうか。そしてスンニ派はスンニ派の国家を作り、シーア派はシーア派の国家を統合するのだろうか。日本は関わらないほうがよいと思う。音楽のことを書いていて、こんなところまで流れてしまった。

 

偶然

2015年01月06日 | 文学 思想
 偶然に何かが起こることがある。おそらく偶然な出来事が僕らの日常の生活で数多く、毎日のようにどこかで起こっているのだろう。僕は占いも、血液型も、霊も、神というものに引き寄せられている人間ではない。宗教物は文学として読むぐらいのもので、特に信仰しているわけでもない。

 以前、「雲を動かす」という文を書いた。バリ島で毎日毎日雨が降り、知り合いの息子の結婚式は野外で行われるため、ほとんど無理だと思っていたのが、その結婚式の日、しまおいよいよ始まるというときに雨が止んだ。僕の周りの人は「あそこはお金持ちだから、祈祷師を何人も連れてくることができるんだ」と言った。人間の「雲を動かす」という意思は自然のなにかに影響を及ぼすのだろうか、とは思えないので、僕はそれを「偶然」と理解しただけであった。熱帯の天気図は読みやすいのかもしれないとも思ったのだった。

 今度は違う話だが、僕はお金に窮している時期があった。著作権を売り、CDや本、切手などを売り、青空マーケットにいき、売ってしまおうと思うものも売ってしのいでいた。48歳ぐらいのときである。子供のうちに一人は高校生で、下の息子は中学生であった。僕はお金に困っていることなどは全く言わず、毎日を淡々と生きていた。
 ずいぶん年上の先輩に慕われ、飲みに行ったり、食事に付き合ったりしていた。ある日、僕は「能」を見たいと激しく思った。
 能を観たことなんて一度もなかったが、どうしようもなく観たいと思ったのだった。京都で行われるもので、尾鷲から行くにはお金もかかる。

 食事処でその先輩と酒を飲んでいて、「ああ、能がみたいなあ」と僕は言った。ただ言っただけで物乞いをしたのではない。彼は、お酒も入っていて、気が大きくなっていたのか、「榎本さん、100万円やる」と言った。酒の席の冗談だろ、と思ったら、彼は真剣な目をして、「これは本当だよ、明日もっていく」と言った。そしたら、本当に翌日100万円もってきた。くれたのだ。

 僕は激しく、強く思えば、天からその見えない形のものが形となって現れてくるものなのか、と思ったのだった。それで京都まで「能」を観に行ったのである。世阿弥の「花伝書」も読んでいた。能は奇妙に眠気を誘い、うつらうつらしていると目に入ってくる光景というものはカメラでよいところを撮るように目に残るのだった。僕は彼にこんな時間を与えてくれたことに感謝した。残りのお金をどう使ったか今は憶えていない。たぶん生活費に当てられたのだろう。

 しばらくして、「どうして100万円くれたのか」と僕は彼に尋ねてみた。僕が能を観たいからあわれに思ってくれたのか、という僕のほうの思いがあった。「ワシはポンとお金を使ったことがない。性分は始末屋でケチなんだ。それで一度、ポンとお金を使ってみたかったんだ。それだけだよ」と言った。

 その後、2年ほど経って、彼は病気になった。難しい、得体のしれない病気であった。病院を次々と変えた。和歌山、東京、名古屋、伊勢と入院と通院を繰り返した。2年ほどの期間だった。その度に僕は彼に付き添った。あの100万円はそんなことを予見していたのだろうか、とも思った。彼は今はこれまでの生活を改め、足の痛さも和らぎ、元気にいる。

 これも偶然のことなのだろうか、と今でも思う。人間のこころから発する意思、感情、人間同士や人間対動植物なら、交信することが可能なのだろうか。