25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

世界は

2018年09月30日 | 文学 思想
 アメリカの凄さは国民が権力に萎縮しないことである。自分はトランプの支持だと熱心に言う人がいる一方で、マイケル・ムーア映画監督のようにトランプ大統領を徹底的に作品にして物申す人もいる。権力にたいしては、言論の自由があり、クソミソに言っても、バカ、オタンコナスといってもその権利は認められているのだと思ったのだった。それでも動じない支持層が38%もいると言われている。

 イランはアメリカこそがテロ国家だと言い、「経済制裁」をテロだといい放っている。太平洋戦争前の日本とアメリカのようだ。「経済制裁」とは長い絞め殺しのようなもので、イランはトランプの退場を願っていることだろう。

 イギリスとEUとの離脱交渉が進まず、あと半年では間に合わない状況になっている。EUへの輸出入業者たちが、検閲や、入出国手続き、関税、それらに伴うドーバー海峡でに渋滞が懸念されている。国民投票をしたものの、多くの人がそこまで考えたのだろうか、と今の気持を聞いてみたいものだ。

 フランスとドイツは戦争の歴史であったが、若者たち700万人をコツコツと交流させてきた戦後の歴史がある。人々の交流が両国が協力し合う仲になったにである。

 北朝鮮は終戦をし、経済に尽力したいようだ。韓国は北朝鮮の脅威から脱しつつある。
 中国はアメリカとの貿易戦争で報復合戦をしている。なぬせ13億万の消費者がいる国だ。この貿易摩擦を収めないと中国に進出しているアメリカの企業も窮地に立つ。アメリカでは消費者物価が上がる。中国は他国に貿易相手をもっと探すことだろう。
 世界の西洋化は止まらない。我々の潜在意識のそこぬは狩猟採集民意識が残り
農業革命の潜在意識が重なっている。その農業革命以後、戦争が頻発するようになった。だがその潜在意識の上に科学が覆い、その上にグローバル意識が積もりつつあるように思える。若干の後退もあるかもしれないが、確実に人間はより公平で、平和である世界を目指しているように思える。
 日本に脅威がこれまで以上に増しているというのは妄想である。

 

威勢のいい奴に注意

2018年09月29日 | 文学 思想
 また雨で、また台風。客はキャンセル。物が飛ばないように、窓ガラスが割れないよう雨戸を閉め、そのうちの一つが調子悪くイライラし、今度は鍵が調子悪くいっそう不機嫌になった。鍵の付け替えなどどこに頼めばよいのかわからず、困ったもんだと曽根を離れた。
 「アキラとあきら」といドラマDVD を借りた。台風情報にも気にしながらDVDをみるのである。
 「朝まで生テレビ」を録画しておいたので、朝方に見ていたのだが、誰が言うことも腑に落ちない。
 猪瀬直樹は難しい顔してえらそうに議論していた。桝添要一も国際政治学者だといって、意気軒昂に喋っていた。しかし実はケンリョクシャ側にまわるち、姑息な男たちであることがバレてぢまった。今日出ていて、安倍政権を批判するもの、擁護するもの、国民に意見を提示し、データを示すのだろうが、人間の本当のところの意識は違う川を流れているようである。
 日本をとりまく安全保障はきびしくなっている、とそれが当然かのように言う。ピンと来ない。平和ボケ? それでもよい。
 長谷川幸洋「日本の借金などたいしたことありません。資産があります。それで100兆円ほどの借金です」「いえいえ、ゼロですよ」とこれは森永卓郎。

 バカなこと言うもんだねえ。それじゃあ、毎年借金を返さないで、それに借金しないで、資産を売って予算をたてたらどうなんだい、と言いたくなる。全く高橋洋一のような政府一体論を長谷川らは述べる。また国債を政府は発行すると宣言している。担保にもなり得る。は資産なんだと誰かかが言うのだろう。国民の貯金も資産だ。企業の貯金も資産である。国道も資産だ。迎賓館も国立博物館も、国立競技場も、海外債券も資産だ。それがあるから日本の借金はたいしたもんじゃないと言えないだろう。長谷川も大きな声で言う。大きな声で言う人には注意したほうがよい。威勢のいい人が勇気あり、はらが座り、タフなネゴシエーションに勝てるとは思えない。桝添なんてせこいおとこだったじゃないか。
 フン、としらけて、「半分、青い!」の最終日をみることになった。ドラマの世界は政治家や学者の床屋談義とは違い、また別の世界である。そこには人間の現実も織り込まれている。

 台風は明日が本番だ。どうしたものかよ、日本列島。  

いろいろと考える

2018年09月28日 | 文学 思想
 岡田さんのブログ「貴乃花について」を読んでその意見に全面的に賛成である。
 柴田山広報部長は総務部みたいな瑣末なことばかりを言って、ぼくは呆れている。「ハーッ」とため息が出る。ここは八角理事長が出て来る場面である。
 相撲取りになろうという若者が減っている。連日満員御礼の場所が続いているからと大相撲は安穏としておれない。卓球では十代のものが活躍するし、ラグビーもいよいよ世界選手権が行われる。テニスしかり、バドミントンしかり、十代の者が何を選択するかその選択肢は増え続けている。相撲はかろうじてモンゴルの力士たちに救われ、長らえてきたというのが事実である。相撲界に入ろうと思わせる縁を作るのは協会の仕事でもある。伝聞によるとこの協会の仕事を貴乃花が背負うことも考えているようだ。

 日米貿易問題も案の定、畜産が犠牲となった。関税率をTTP並みに下げることを約束してしまい、自動車についてはTAGをスタートさせることで、日本はさらに窮地に陥ったと思えるが、安倍首相は延期できたことを誇らしげに語っていた。ついでにまた武器も買わされるようだ。凛としない。
 沖縄では台風が選挙に影響しそうだと伝えている。沖縄の基地をめぐる環境も変化してきている。まず北朝鮮が核の廃棄を言い始めた。終戦となれば脅威は一段と少なくなる。アメリカは核施設やミサイルのリスト提出と廃棄のプロセスを要求している。
 日本と中国は首脳の相互訪問が行われる。アメリカは沖縄の基地が本当に必要なのだろうか。情報が公に入ってこないのでわからない。戦争の形態も変りつつある。人海戦術で行うのではない。サイバー、無人機、宇宙空間となり、人命を落さない戦争を模索しているように見える。核を使うならば人類の自滅である。核のボタンなど一個人が押せるものではない。

 ぼくはピダハン(アマゾンの奥地で暮らす先住民)的な価値観も自分の中に取り入れたいと思っている。ぼくらの近代的な価値観をある部分否定したいところがある。近代的な価値観の底にはキリスト教的価値観がある。キリスト教もユダヤ教も、仏教も、イスラム教も平和を願って宗教となった。その宗教は戦いの明け暮れで人々が救済されないから作られたものだ。これらの宗教が人類の人るの歴史で全面に出て来て暗黒の時代を作ったのはわずかまだ二千年ほどくらいのものだ。まだ人類はこの宗教の集団のあり方をも克服デキテイナイ。ピダハンは宗教とは無関係にこの問題をそもそも持っていない。

 近代化が叫ばれた明治維新についても疑問をもつようになっている。西洋化という模倣。模倣の仕分けをしなければならなかった。
 貴乃花から日米問題、人類のあり方までグズグズと煮込むように考えているこの頃である。たぶん止むことはない。人間の脳は齢をとっても深化するものだと考えている。

まだまだ考えることがある

2018年09月27日 | 社会・経済・政治
 日銀や年金機構が株式を保有し、株価の下支えをしている、安倍政権の政策である。自由貿易と外ではいいながら、輸出企業を優遇し、為替を円安に誘導している。国内ではまさに社会主義的政権となっている。このことは立憲民主党の枝野代表も言っているところだ。
 戦争ができる国に一歩一歩近づけていくのも安部政権の方針である。自衛隊に入る者が減るだろうことは明らかだと思われる。
 ぼくは自衛隊は専守防衛に徹する部隊と災害救助隊に分け、専守防衛技術を徹底的に研究していけばいいと思っている。発射されたミサイルの軌道を変えてしまうとか、元に戻っていくとかを可能にする技術だ。現在の技術の進展具合ではあながち夢物語ではないような気がする。

 毎日どれほどの余った食べ物が出て、捨てられているか。コンビニ、スーパーの数を勘定すればわかる。それらを瞬時にカロリーメイトのようなものにできて、それを飢饉や飢餓で苦しむ人々に届けられないものか。捨てる食糧を箱に入れ、防腐剤を入れれば自動的に乾燥した固まったものになる。できないものなのか。取り組んでくれる人や企業がいないだけのことなのか、絶対的に不可能なのか。
 人を乗せるドローン、空飛ぶ車、iPS細胞の実用化、ゲノムの解読、新しい人工元素の発見、開発、木質ナノ繊維、次から次へと人類は新しいものを作り出す。

 鶴の一声で中国人であればやってしまいそうな気がする、棄てる食糧が目に余ってきたらするかもしれない。

 ヤノマミの男は朝6時、バナナ5本。昼そこいらの木の実、夜、魚2匹とタロ芋のパン一切れ。21時就寝。
 これで現代人よりも速く歩き、30キロも平気で歩き、4、50キロの物を持つ。気にも登り、木をくり貫くこともする。本来食べるものはこれくらいでいいのかも知れない。

*昨日書いたのですが、アップされておりませんでした。




無責任

2018年09月26日 | 文学 思想
 明治維新以後、大久保利通らの志は富国強兵、殖産工業による近代化、いわゆる西洋の模倣化であった。大久保はテロで殺されたがこの路線は明治の終わりまで変わることがなかった。
 日露戦争に勝ったことが明治の時代の転換点だったのではないか。この戦争でどれだけのものが虫ケラのごときに死に、屍を重ねた上での終戦であったことか。尊い命が失われたことへの反省などないごとくに、軍人は威張り散らし、しの実、軍人の中身は無責任極まりなく、日本人を滅ぼしてしまうこともあったかもすれないほどに腐っていた。
 天皇陛下を利用するだけ利用するのが軍であった。
 責任をとらないという日本の上層部の悪癖は今もなお続いていて、それは原発事故などのときに出てくる。公務員や教師の失敗事件でもその本人がとらず、上司とか、教育長が出てくる。
昭和の戦前史ほどなんど読んでも馬鹿の集まりが無垢な国民(普通になにも大声をあげて政治主張をしているわけでもない人々)を巻き込んだと思うしかない。
 日本人は自爆攻撃の経験者でもあるし、兵站もない死の行軍をした経験もあるし、他国民を虐殺した経験もある。そして最後には原爆を経験した国である。日露戦争が終わってから22年で昭和。日中戦争まで12年。わずかそれから8年は戦争であった。わずか46年で植民地化したのである。

 日本は大国だと思い込んでいる政治家が多いように思う。借金しまくって大国化する必要もないのに、大国意識を持ちたがる。

 どの世界ににでも世代交代がある。世界をリードしたのはスペイン、ポルトガルからオランダへ。オランダからイギリスへ。そしてアメリカへ。イギリスは斜陽の国になってからそれなりの国となり、さらにスコットランドや北アイルランドが独立すればさらに小さな国となる。それでもいいではないか。
 日本も人口が減り続ける。それで不幸せになるとは思えない。人口密度が低くなれば、個人の土地所有にも余裕がでるというものだ。畑もできるというものだ。
 今の借金政策をいつまでも続けていくわけにはいかず、日本はどこかの時点で価値観を変える必要が起こることだろう。この巨大な借金。誰が責任を取ってくれるのだろう。もちろん民主主義国家だから「国民」ということになる。そして不思議なのは過半数以上が反対していても自民党が政権党になり続けていることである。

 

貴乃花、相撲協会、日米貿易

2018年09月26日 | 日記
 これを機に貴乃花と協会理事長は話し合った方がよいと思う。中学生に相撲道場で育成に努めるという生き方もあると思うが、ぼくとしては協会に残ってもらいたいと願う。相撲協会はメチャクチャである思うがそれを変えるのも残ってこそできることだ。
 元々の発端は日馬富士とその場所にいた力士や校長や、高校相撲監督らにあり、日馬富士を初日に出場させたのだった。巡業部長である貴乃花から聞かされなかったというが、独自に素早く調べる時間は十分にあった。モンゴル人力士同士で秘密にし、貴ノ岩までも口をつぐむ事態だった。協会は大きな問題にしたくなかったようにぼくには見えた。
 やはり理事長と貴乃花が話し合うべきだろう。相撲界の大財産でもあり、大貢献した元横綱だ。

 今日のワイドショーはこのニュースばかりだ。
 アメリカではトランプ大統領、安倍首相の国連演説があり、日米首脳会談がある。貿易問題は日本にとっては重要な問題だ。自動車業界にとっても、畜産業にとっても深刻である。
 特に中国、ヨーロッパ、アメリカも車は EV車への流れになりつつある。全体も流れの中で、ガソリン車、ハイブリッド車の輸出が難しくなるかもしれず、EV車で出遅れているトヨタなどは時間稼ぎができなくなる。そんな事態は避けると思うが、その代わりに畜産業が犠牲になるのかも知れない。
 
 う~ん、いろいろと遠いところで起こるが、そんなこと一庶民に影響することであることよ。

人類が克服するべきこと

2018年09月25日 | 文学 思想
 同じアマゾンの奥の奥で一万年も現代文明に接することがなかった先住民は西洋人が入り込むことで、病原菌をもらい絶滅した部族もいれば、虐殺されたものもいた。
 ぼくがびっくり仰天した「ヤノマミ」は人類の原初の姿を残している民族かと思い興味深く読んだ。その「ヤノマミ」は北海道より大きな面積をヤノマミ居住の保護区として厳しい管理下にあり、その生活様式も保護され、外部からの侵入者遮られている。
 次に「ピダハン」を知ることになって、さらにびっくりしたのはピダハンはヤノマミの文化よりも古そうであった。しかしながらピダハンもすでに現代文明と接触し、彼らの移動範囲は保護区に指定されていた。ピダハンの方が魚や獲物が豊富な環境にいるように思えた。ヤノマミには言い伝えの神話ぽいみにがあったが、ピダハンにはなかった。
 今度読んだ「ノモレ(仲間の意)」では文明と未だに接触していない民族と接触を試みる同じ先住民で先に文明と接した若い村長の話だった。対岸にイゾラド(文明と接触していない民をペルーではそう呼んでいる)の家族らしき人々が現れた。彼らはボートの音に怯え、光るガラスに怯える。若い村長は三十回も接触を試み、バナナの保存の仕方も教えるが、ある日、川に観光船がやってきて、白人観光客が「裸族」だと言って写真をとりまくり、フラッシュがたかれる。航行禁止の区域である。
 すべてが徒労となった。その日以来森の中に消えたままだ。
 こころある人たちは絶滅させてはならないと保護活動を行う。放っておけばよい、と考えるものもいる。
 メソポタミア、ヨーロッパ、アジアに出たホモ・サピエンスのなかで、北アメリカに渡り、さらに南下してアマゾン川、その支流と入っていって、楽園を見つけたものたちがいた。スペイン人、ポルトガル人材達が入ってきてから、様子が変わり始めた。キリスト教者たちであり、荒くれで、本国ではどうにもならず、開拓地へと赴いた無教養のものたちだった。やがて銃をもってゴム農園を作るものたちが出てきた。牧草地を作るのにジャングルを伐採した。先住民の多くは絶滅した。奥地に逃げたものたちもいた。
 ヤノマミもピダハンもそうだ。そして今なお文明と接していない民族が森の中にいるのである。
飢饉のあえいだものたちは、道具を発展させ、戦争を起こし、自分たちを正当化した。反面で「愛」だ「平和」といい始めた。

 さて、考えるにこの世界から無くさなければならないものが3つある。
飢饉と戦争と一神教の心の裡の神である。この3冊の本を読んでつくづくそう思う。

※日曜日版9月23日号の「南海日日新聞」での川上素直氏の投稿は立派であった。彼は高田大禮氏のとんちんかんなエッセーに論理的に物申していた。戦争への扉の鍵はしておかないと。
 憲法9条こそが人類が見習うべき模範である。ぼくはそう考えている。

白鵬に敬意表したい

2018年09月24日 | 日記
 相撲が終わり、大坂なおみの試合が終わり、今は柔道の世界選手権の最中である。卓球もバドミントンもオフシーズンがあるわけではなく、次から次へと試合を渡っていく。そんな中で自分の弱点を克服しなければならないし、競争相手からの研究は続く。

 白鵬について書きたい。
 なにかとイヤな感じとなった白鵬だった。日馬富士事件では止めるのが遅く、しばらくリンチを容認していたし、貴乃花の巡業を拒否する意見を言った。審判に異議の手を挙げることもあった。
 同時的に、舞の海が白鵬が弱くなってきらことを殊更のよう言うようになっていたし、取り口が横綱らしくないと舞の海が言い、だんだんと白鳳は悪役になっていくようであった。怪我も多くなった。休場もするようになった。まだ33歳である。ぼくに言わせればとっても若い。しかし白鵬は相撲の奥義を究めようとしている。批判される猫だましもやってみた。額にちょっと手をあてることもやってみた。多彩な出だしを試し、対戦相手の取り口研究もやった。
稽古は四股、摺り足、鉄炮を重視し、他の力士以上に準備運動に時間をかけた。
 圧倒的な運動神経と勘の良さがある。今場所はカチアゲを封印した。もう舞の海さえにも文句を
言わせなかった。横綱審議委員会にもだ。
 今場所は三賞もなかったほどだから相撲全体のレベルが下がったのか、と考えもしたが、白鵬と御嶽海の相撲で、棒立ちのようになったが、しっかりと相手に重心のいくらかを被せておいて、足位置を目で確かめ、そして御嶽海の左足をコツンと足で蹴って、御嶽海の意識を下に向かわせた。しの隙に動きながら左を差した。
 このような技をみると、相撲は面白いと思う。
 改めて白鵬完全な優勝とここまできた白鵬敬意を表したい。

国分拓 ノモレ、ヤノマミ

2018年09月23日 | 文学 思想
 国分拓NHKディレクターたちの取材根性は半端ではなかった。ぼくは彼が書いた「ヤノマミ」を読んで度肝を抜かれた。吸血ブヨ、毒グモ、大群の蚊、巨大なアナコンダがいる中で暮らす覚悟にまずぼくは驚嘆した。結果、その本は文明人の価値観に自然と挑戦するものであった。
 500年前、キリスト教の伝道団が入り込んだ。次に軍隊が入り込んだ。多くの先住民は絶滅していった。スペインやポルトガルから病気の元となる菌やウィルスを持ち込んだのだ。アマゾンに軍隊が入り込んできた。200年前、軍隊のあとに、一攫千金を夢見た荒くれの輩が入り込み、ゴムの樹液を取りまくった。奴隷を連れてくるにはコストが高かった。だから彼らは馬に乗り、銃で脅して先住民を奴隷にした。逃れた部族も何十とあった。
 ヤノマミもピダハンもアマゾンの森の奥、また奥へ、一部はペルーにも逃れたのかも知れない。

 現在、まだ文明と接してない人々を「イゾラド」と呼ぶようになった。

 国分拓は「ヤノマミ」以降、「ノモレ(友、仲間)」を書いた。「イゾラド」と接触するイネ族の若い村長に今度は付き従った。「イゾラド」に数人の村人が襲われ、殺されていた。政府は警戒警報をだし、イゾラドと接触しないように厳重に言い渡した。病気を移し、絶滅させるかも知れないからである。若い村長は政府の監視拠点で向こう岸を双眼鏡でみていると、二人の親子らしき男が現れた。若い村長はイネ族の言葉で呼び掛けた、「ノモレ! ノモレ! 」。二人の男はその言葉を理解した。二人の男は「傷ついた仲間がいる。助けてほしい」と言った。若い村長は確かにそう聞いた。いよいよ取材は物語のように展開していく。

 「ピダハン」は200年前に文明と接しながら、文明を敢然と拒否した。アメリカの宣教師はかれらの言語を探った。ピダハンの社会にはリーダーもおらず、子供と大人の区別もなく平等に暮らしていた。おそらくアマゾンの支流豊穣な魚や動植物がピダハンの価値観を生んだのだろう。

 三冊の貴重な取材、それをもとにした本からぼくは貴重なものを得た。それは「人間の原形の再取り込み」である。果たして人間は旧約聖書に書かれているように戦いと略奪を繰り返す愚かなものなのだろうか。一神教から今日に至る価値観は肯定できるものだろうか。
 人間の原形。人間は本当に悪を含むのか。欲望は無制限なのか。われわれが持続可能で生きてゆける食料と水と塩はどれほどなのか(これはすで明らかである)
 人間の様々なことを原形を基準にしながら仕分けできないものか。

 そんなことを思いながら日曜日が過ぎていく。

ピダハンを読んで

2018年09月22日 | 
「ピダハン」を読み終えた。ブラジル、アマゾン川の支流の支流のまた支流の流で暮らす先住民である。五百人ほどのピダハンが幾つかの集団に分かれて近隣で暮らしている。
 作者はキリスト教福音派の宣教師で、ピダハンの村に入り、ピダハン語を覚え、ピダハン語聖書を作るのが目的である。
 言語を学習していく過程で、作者はピダハンの文化と言語を考えることになるのだが、彼の関心は言語学に向いてしまう。これまで言語学では解けない謎がピダハン語に多いからだ。
 一方読み手であるぼくは、なぜピダハンは過去の話をしないのか、見えない物を信じないのか、赤ちゃんことばがないのか、200年前に文明と接触しているにもかかわらず、文明社会を拒むのか。どんなものを食べているのか、など言語よりも生活の中身の方を知りたかった。
 「心配」というものがないらしい。「死」が恐ろしいことと思っていないらしい。笑っている時間がとても長いらしい。暴力はいけないとだと思っているらしい。
 作者は言語学理論に一所懸命で、「なぜ」という問を文法上のことばかりに向けるので、読む側mくたびれるのだ。そして謎は明かされるのかと期待して読み進めるのだが、最後まで言語にこだわったまま終え、この本を書く頃には無神論者になっているのだ。

 人類がアフリカを出て地球の隅々にまで移動していったなかにアマゾン川の上流をひたすらのぼっていった人々がいた。あるものたちは川沿いに居住し、またそのなかのあるものたちは支流いわけいり、奥へ奥へとのぼった。
 その一グループがピダハンなのだろう。十万年前のことか五万年、一万年前かわからない。飢餓を起こさないで済む環境を見つけたのだろう。

 話を変えるが、テレビなどでは「愛」という言葉がよく出てくる。この言葉はぼくには使えない。ぼくの心身に収まってないのだ。アメリカの映画を見ているとどれほどこの言葉を耳にすることか。同様に「神」という言葉もぼくのなかに収まらない。あの世も、天国も、地獄も、同様である。要するに、宗教用語が収まらないのだ。

天気が悪すぎる

2018年09月21日 | 日記
 今年の7月、8月、9月の天候を経験すると、暑すぎ、長雨で暮らしにくくなったと思う。来年も同じようなら日本はもう温帯地域を返上し亜熱帯の国だとせねばならない。
 この九月も異常である。鬱陶しい限りである。

 鬱陶しい九月にバドミントンの世界大会があり、日本の強さ、特に桃田の強さに感心した。すると今度は「大坂なおみ」がUSオープンで優勝した。胸がスカッとした出来事だった。
 卓球、バドミントンにテニスが加わってきて、楽しみが増えた。テレビは相変わらずプロ野球の全試合結果を編集してニュース番組の大半を使う。これにはうんざりする。
 トーレパンパシフィックオープンも放送は準決勝と決勝のみらしい。BSででもやってもらいたいものだ。こういうときの機動性と柔軟性はテレビ局にはないものか。

 天気予報によると十月の天気も悪そうである。孫娘の百合子が最後の保育園での運動会ということで、息子の嫁さんから見に来ないかと細君に誘いがあった。当日が雨だったら3日後になるるーらしい。
 日本列島を取り巻く環境は確実に変わっている。環境も世界の政治も。百年後、二百年後を見通せる思想がまだ出てきていない。資本主義社会の次の段階のことである。 

 
 

は へ を

2018年09月20日 | 日記
 百日紅の花が終わると、九月に咲くメインの花がないことに気がついた。ハイビスカスが長い間、今になっても咲いているので、気にもしなかったのだろう。九月に咲かせる樹木の花って何があるのだろう。
 長雨。九月は雨ばかりだ。体にカビが生えそうである。
 孫娘が根気よく獲った小魚はずいぶんと大きくなった。もう少し大きくなったら池に放そうと思っている。
 孫娘は 「は」「へ」「を」に手こずっているらしい。一学期は「引く」ということに手こずっていた。今度は国語かい、と笑ってしまう。
 「ぼくは」というときにどうして「は」を使うのかを理解するのも、させるのも難しいことだろう。しかしなんとなくぼくらはそれになじんでやり過ごしていく。
 思えば分数の割り算や掛け算も小学で習うのではなかったか。算数は人類が得た抽象的な計算である。
 さんぶんのいち わる よんぶんのさん にどういう意味があるのか。分数のわり算ができるようになるのも次へのステップとして通りすぎなければならないことなのだろう。
 孫娘は人類が学んできたことをこれから16年は学ばなければならないのだ。やれやれ、ご苦労なこったよ、と思う。自分はどうしていたのだろう。姉がやっていることを近くで見ていたに違いない。第二子は得であった。

一般人は

2018年09月19日 | 社会・経済・政治
 稀勢の里が勝ち越したので、ホッとした。栃ノ心に頑張ってほしいと思う。栃ノ心の課題は怪我である。横綱になっても不思議ではない。勝ちパターンの型が出来上がっている。御嶽海はまあこんなものだろうと思う。それにしても白鵬と鶴竜が強い。白鵬の取り口は速くてダイナミックであり、相撲勘が群を抜いている。カチアゲをせずとも勝てる相撲を堂々と見せている。鶴竜は決して引くことはなく、前に進んで前捌きの上手さで圧倒している。ハラハラとした9日間であった。ぉれで稀勢の里も場所後は稽古に集中できるのではないか。
 左を突っ込まなくても右上手をとれば勝てる、という取り口ももっとやってみればよいと思う。

 「よもやま話」次回はゴーゴリの「外套」となった。自分だけでは絶対に読まなかった、縁のなかった作品である。ぼくはゴーゴリの「どん底」も知らない。これからも読む機会も動機もないだろうと思っていた。こういう会があるからこそ出会うのである。
 
 大坂なおみ、安室奈美恵、樹木希林のニュースが続き、自民党総裁選も盛り上がらず、南北朝鮮の首脳会談と続いているが、対ロシア外交、対北朝鮮外交も進まない。アメリカは中国に貿易戦争を仕掛けている。日本にも当然仕掛けてくる。この影響がどうでてくるのかは、ぼくは高みの見物である。一般人はそれしか方法がない。

   
 

仲間の力

2018年09月18日 | 文学 思想
 図書館で「よもやま話」が毎月火曜日にある。ぼくは「広報おわせ」で知った。知り合いが主宰していることを知った。
 この4月からぼくも入会した。読んだ本について語るのだから興味があった。ぼくだけでは決して選ばない本も知ることになるだろうと思うから楽しみにしている。
 残念なことがひとつ。この会は高齢化していて、徐々に限界にきているように見える。
 若い人も入っていただく宣伝が必要なのではないか。また小説を題材にしているようだが、「よもやま話」なのだから「新聞記事」でも「映画」でも「シンガーソングライター」でも「武道の本」でいいじゃないかと思う。
 新参者が言うのもなんだから徐々に言っていこうと思っている。
 人は人の間を生きていくものだという意見には賛成する。この会も、同じものを読んで語り合う喜びを求めていると思う。人と触れあうだけでよいとも言えることだろう。
 テレビで91歳のおばあさんが写真塾に入って辞めないのも、人はなんらかの形で他人によって支えられていることを実感するからなのだろう。このおばあさんのインスタグラムは20万人のフォロワーがいて、ちょっと悪ふざけした写真を作る。わたしはゴミみたいなもんだから、とごみ袋に入った自分を撮る。物干し竿に干された自分を撮る。
 夫が先だって、息子が車で30分のところに帰ってきた。母親と適度な距離をとり、できるだけ自立生活を促す。会って話すことはないのだが、ときに息子は顔を見せる。おばあさんは息子に迷惑をかけているなあ、申し訳ないとも思うし、反面安心感も感じる。写真塾の仲間にもメールをし、交流している。
 さて、今日は漱石の「こころ」である。何でも3回目だそうだ。

祭、自治会、防災会

2018年09月16日 | 社会・経済・政治
 今日は朝から家の前では各町の踊り子チームが予行演習でやってきては騒がしい。太鼓がつきもので、これだけはなくてはならないものだ。最近はだんだんと音楽がポップスになってきて太鼓で合わすのはたいへんそうだ。まるでハロウィーンのようで、衣装はキラキラになっている。
 道中踊りをみるのが楽しみで見に来る人も昔は多かったが今は少なくなった。八幡神社の祭りである。

 ぼくが住む北町は子供数ゼロのはずだが、どこかから借りてきたのだろう。
 テレビニュースでも毎日のようにこの時期各地の祭りが紹介される。祭りへの思いが熱い人がどこにもいるものだ。そういう人が祭を継承していく。ぼくみたいなものばかりだったら、もう役割はおわたんだ、とか言って、きの煩わしそうなイベントをやめてしまうのだろう。
 ある村では小山建てた屋根と柱だけの建物の上に男たちがヨイショ、ヨイショと力を込めて踏むのである、南側に倒れたら今年は豊作、北側だったら不作と言われているそうで、郷土史を知るひとなら、そんなことはないというにだが、村の人達は南側に倒すようなんとか頑張る。今年は北側に倒れた。みな、難しい顔をしていた。
 イベントというものがあまりなかった昔。イベントがありすぎる現代。多くの祭はやはり、二次元、三次産業の増加とともに減っていくのだろう。人口減少も加担するに違いない。

 ぼくが住むような小さな町でも今は昔のような近所付き合い、村落共同体のような意識は希薄でである。各家どうしが干渉することもなくトラブルもなく平穏に暮らしているように見える。
 昔、自治会の会長番がきたとき、多くの人が役員になるのがイヤで、役員の中にも、もう自治会合は要らないのではないか、という意見出た。結局アンケートをとることになった。結果は「不要」の人の法学多かった。必要とした人もいたが、その人たちさえ、自分が役員になることを嫌がった。ぼくが会長のとき、自治会は解散した。解散の手続きも大変だったが、自分だけは役を逃れたい無責任な人が多いのである。だったら止めよう。会費集めも、回覧板も回さなくてもよいし、それでよい。
 解散してから住民として自治会がなくて困ったということはない。自治連合会があtらほうがよい、というだけだ。その根拠もわからない。ぼくは自主防災会だけは残した。これはやがてくる南海トラフのためだ。