25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

似姿

2017年09月30日 | 社会・経済・政治

 困ったことになったものだ。森友、加計問題から始まったこの選挙は安倍総理、ひいては自民党総裁を倒す闘いであるはずだ。それに対抗する勢力が自民党右派と安保、憲法改正という根幹的な考え方において同じである小池都知事の手のひらにあるということだ。おそらく安倍を退陣させて連立を組むのが当初の目的んなのだろう。石破に芽が出てきた。

 北朝鮮は日本の1930年から40年の姿に似ている。当時の日本に応援してくれる国はなく、遠いヨーロッパの独裁国と同盟を組み、ロシアの南下を防ごうとするくらいだった。

 昭和史を学習すれば、今日の北朝鮮の経験は日本も味わったことで、この点については日本だけが経験知からアングロサクソンとは喧嘩しないほうがよいと説得できるのではんしか。もしくは説得する努力をするべきではないか。

 今はアメリカ側について、昔の日本のような国に圧力、圧力と言っている安部首相の姿に違和感を覚える。この人は勉強していないのではないか。戦争が人の殺しあいであり、多くの不幸を作りだすことなど、敗者の日本人はよく知っているはずだ。

 今はさっさと北朝鮮に出向くことではないか。平和外交に徹底するべきではないか。日本列島人の代表である安倍首相には歴史の教訓から、昔の日本のようなことをしても、徹底的にやられるだけだ、と説得できる契機がある。拉致問題だ。

 本当はそんな外交を今やってほしいのだが、森友-加計逃れで、選挙に突入した。安倍首相はこの問題から逃れられることはない。証拠があがってきているからだ。すると安倍首相の次はない。すると、現在の小池都知事やそのグループはどんな外交手法を使うのだろう。

 この点も注視しておきたい。


食材

2017年09月29日 | 日記

  衆議院の民進党が事実上前原党首の決断と説得で希望の党の公認をえることになった。たぶんこれからまた問題が起こると思う。リベラル政治家(ここでは護憲、安保法制違憲、共謀罪廃止、原発廃止論者と定義しておく)はつまはじきされるか、隅に追いやられるのだろうから、リベラル政治家は自分たちで政党を立ち上げればいいと思う。それに伴って連合も単体によって分裂していけばいいと思う。とうの昔に組合の役割は終わっている。これが一番すっきりする。タカ派の二大保守党では、この国は右に寄り過ぎている。恐ろしい気がする。センターとレフトが空いている。共産党がなぜ党名や綱領を変えないのか不思議だ。

 と朝の報道番組を見ていてそう思ったが、事務所に歩いていく途中では全く別のことを考えている。それが人間だ。

 白菜の浅漬けを今年の三月頃まで好んで食べていた。それがだんだんと夏に近づくにつれて美味しくなくなってきた。ところが九月の半ばも過ぎると、また体が受けつけるようになり、だんだんと美味しくなり始めた。自分のからだはまともなのだと自分で思った。脳よりも舌が受け付けない。おそらく白菜は寒い時期の食べ物なのだ。そしてつらつらと考えた。

 僕が自炊を始めたのは一人暮らしを始めた十九の頃である。ネギを刻むと涙が出た。たまねぎも同様だった。カイワレ大根は気持ちよいほどの辛さであった。胡瓜には苦い所も甘いところもあった。そして美味しかった。大根も一本の中に甘い部分とシッポの辛い部分がはっきりしていた。

 現在の野菜を作る人は時代が進んでいくにつれ味を変えていったのか、自分の自炊に関する記憶と絡んで特にそう思ってしまうのか、抗いようもなく肥料が変わってしまったのか、何が何やらわからない。

 ラーメンやうどんに入れるネギも単なる飾りとなり、ネギ独特の風味がないので、この点はいつも不満に思うことだ。そして自分でネギを育ててみた。コメリで培養土を買い、種からやってみた。結果は風味のない今のネギと同じだった。すでにネギの遺伝子に味や風味は継がれていないのだろうか。

 齢をとるにつれて体の方が鋭敏になってきているような気もする。スパイスには体も騙されるが、日本の食材については鋭敏に合否がでるようになってきた。この前、キスの干物を一匹食べて捨てた。シシャモを買ってみた。これも一匹食べて冷蔵庫に入れっぱなしになっている。

 春の新ショウガはおいしく、そら豆も好んで食べた。

 堅いものがたべられなくなった。干したスルメイカよさようなら。アワビもさようなら。堅いせんべいあられもさようならである。大好きだったホルモンもダメになった。これは歯の欠陥である。歯と白菜の好みは関係しているのだろうか、と考える。舌と白菜の関係ならわかるような気もするが歯も関係に入ってくるのだろうか。謎である。めったに食べなかった魚の練り物や豚肉などの練り物をよく食うようになった。

 毎日食事をとらなければならないが、まだ今のところこれを食べるか、あれにするかと逡巡することに面倒臭さがないのが救いでもある。しかし味にはうるさくなった。

 


いやはや 選挙が盛り上がってきた

2017年09月28日 | 社会・経済・政治

 民進党はリベラルと保守との連合でできた無理のある党であったが、今回の解散騒動でそれも決着がつきそうである。自民党はリベラルから極右まで抱え込み、リベラルも極右の体制に飲み込まれて口も開けないが、もめ事もなく寛容にやっているのだから、それは器が大きいのだろう。小池百合子もそんな自民党を見ているから「寛大な改革保守政党」と言い、昔の自民党的な寛大さを目指しているのだろうか、と思う。

 今回の選挙は「安倍晋三体質を問う解散」、いわば「森友・加計解散」とも言える。「しがらみのない政治」には森友・加計問題も、オリンピックの建築物の談合体質も、圧力団体からのしがらみも含まれる。

 僕らは一票を投じるだけで、あとは高見の見物となる。起こってほしくないと願うことは、選挙中の世界的大事件である。いつ風向きが変わるとも限らない。

 小池の安倍に対するカードは強い。森友・加計問題追及のカードを持っている。トランプ大統領との付き合い方のカードも持っている。公明党の不安定感も持っている。もしかしたら小泉進次郎というカードを持っているかもしれない。

 安倍は選挙応援には出向きにくいだろう。安倍の最後の切り札は「解散取りやめ」だろうが、公言した以上それも無理で、結局リベラルが埋没しそうな感がある。

 この選挙で問うのは安倍そのものだ。すでに我が町の議員のポスターには岸田と候補者の写真が並んでいる。本島だったら安倍の写真がないとおかしいわけだ。もうすでに自民党は安倍をみかぎっているのか、と穿った見方をしてしまう。

 強権、忖度、不正の安倍政権であった。生まれ育ちからこの人には庶民の気持ちというのはわからない人なのだと思ったのだった。僕は共謀罪も集団的自衛権解釈も強権の上でなりたったと思っている。これらに反対する勢力は何処に。


保守とは何?

2017年09月27日 | 文学 思想

 そもそも政治的に言う「保守」 という言葉がわからない。政治的な保守とは、日本の国土、伝統文化、あるいは慣習、アメリカとの同盟、天皇制を守るという意味が「保守」なのだろうと思う。どうなんだろう。

 すると「リベラル」というのは何なんだろう。こう考えると、「憲法」をどう考えるかが、保守とリベラルの違いのように思える。

 他の国から羨ましいと言われる日本の憲法。特に9条。この点にあるのならば、よりよい憲法を作ればいいと思うが、内容の問題である。

 安倍総理は極右の政策研究センターをシンクタンクとしてもっている。ネトウヨも、こまめにSMSを使い、せっせと地方議員い働きかける日本成年協議会、その思想的背景にある生元長の家原理主義者も極右が支配している。

 どれでは極右とは何か。明治憲法への回帰であり、天皇を元首として、前の戦争も肯定する思想である。強いナショナリズム意識を持っている。これが籠池たちがいう「瑞穂の国」 ということなのだろう。

  今回の選挙は極右対右よりの闘いとなってくる。左翼はふぉこへ行った? 非正規社員や貧困家庭の思いを受ける政党はどこにある?  現政権はお金持ち、輸出企業大優遇の政治であり、アメリカとも距離感がべったりの体質である。

 なのに、現在の日本は第二次人種混合時代に入っている。

 外国人労働者の問題は日本によっては大きな問題となることが予想される。現在のヨーロッパ、アメリカを見ればわかる。極右も右もこの点は政治課題となっていないが、表面に出てきてから政治が動くというのがほぼどの政党も同じである。目に見えにくいものには鈍感なのが政治家でもある。 

 とりあえず、日本は「保守」一色になってきたことは確かである。


Bloody Monday

2017年09月26日 | テレビ

 宗教団体のこと、テロリストのこと、北朝鮮のこと、学校でのいじめのこと、若者が社会からいじめられているということ、ネットワーク世界のこと、サイバー攻撃のこと、そんな21世紀初頭の社会の中で、ハッカー少年(三浦春馬主演)とその仲間とTHIRD-I というテロ対策捜査本部を主としたテレビドラマをDVDでジェットコースターに乗っているように休めずに見た。「Blood Monday」 という。

 シリーズ2などは9時から見はじめて止まらず、朝の5時まで一気に見てしまった。

 こんな総合映画を9年前と7年前の日本ではできていたのかと感心しまくってしまった。もちろん、娯楽映画なのだが、現代にいきている実感がしたし、ときどきにでてくる 文字は過去の例えばドストエフスキーの言葉などを引っ張り出してくる。ある意味では文藝的で、ある意味では社会派的で、突っ込みどころ満載だが、そう思わせることが逆にひきこまでるような作りをしていた。

 9年前の「流星の絆」を見て、そう言えば、そのころあんまりドラマを見ていなかった。それで10年ほど前から5年ほど前の見ていないドラマを見てみようと思ったのだった。

WOW WOWのドラマもピンと弦を張ったようなドラマが多いが、TBSも頑張っていたんだ、それにしても漫画原作というのはすごいもんだ、と唸りっぱなしである。漱石のような文が書ければいいな、と思っている僕には唸るばかりであった。またこんな映画には、発想が多々の個人からあって、それをどんどん取り入れていくような集団的制作が全面に出ているような気がする。

 黒沢明の映画鑑賞は黒沢の主観そのものであるが、このドラマではこうなったら、次はこうなるという定石をどう裏切りながら、ドラマを進めていくか、現場からの意見がドンドン出ていて、脚本家がまとめていき、また現場で違っていくような雰囲気がある。

 久しぶり、8時間連続で見たのだった。


宮藤官九郎

2017年09月20日 | 映画

 宮藤官九郎の脚本は面白い。昔のテレビドラマである「流星の絆」を連続して見た。本来は両親が殺されて残された兄、弟、妹三人が復讐を遂げようとするミステリードラマである。宮藤官九郎は一時間で終わってしまうようなあらすじに、ハチャメチャに滑稽にした妄想係長をいれたり、セリフに原作の東野圭吾では考えつかないものを入れたりして、ドラマを明るく引き延ばしている。

 「ひよっこ」の岡田惠和の脚本も優れたものだと思うが、「あまちゃん」のときの宮藤官九郎もよかった。日本では才能ある二人の脚本家だと思う。

 そう言えばテレビドラマというものをほとんど見ない時期があった。最近は気に入りそうなものを探しだして見るようにしている。「流星の絆」は二宮和也や戸田恵梨香がでていて、9年前おもである。彼らもこのドラマの時期から9歳年をとっているのか、と思う。そしてぼくの9年前はバリ島によく通っていて、ドラマでは大河ドラマ以外は見ていないなあ、と思い起こしてみる。

 どれでTSUTAYAに行き、探してみようかと思う。それは、なんだか時代の流れをドラマを通して再確認したいような衝動である。またあのころ切迫していた状況の中で欠けたピースを探してうめるような、そんな衝動である。

 

 

 

 

 


選挙の秋になりそうである

2017年09月19日 | 社会・経済・政治

 この頃一年前の今日に書いたブログのお知らせがgooから毎日くる。どんなことを書いていたのかよくわかるが、関心事はほぼ同じようなことだ。

 今日は「加計逃れ解散」の観測気球が打ち出され、期を同じにして「違うだろ!議員」が、自己弁護会見をして、週刊新潮の女性記者の質問で、顔つきが変わり、淀みなく、反論を見せたことで、この議員の異常性が透けて見えてしまった。国民に審判を問うような大義はなく、北朝鮮様様で、自民党は選挙に臨むのだろうか。

 台風一過で空は晴れ、涼しく気持ちがよい。政治家はそんな風景もみる暇もないことだろう。政治家がこれほどまでに支援者に気を配らないといけないものだろうかと気の毒にも思う。

 政治はアホな人々からの強い圧力や高揚があって動かされていくこともある。戦前がそうであった。反戦記事を書くと新聞は売れなかったし、選挙にも勝てなかった、

 当選するには支援者の声を聞かなければならない。国民の声ではない。ある一区域のそのなかの過半数ほどの声である。利権を意識するものもいるだろう。その政治家個人よりも。党が絶対だという人もいるだろう。

 ドッチラケ。棄権者が相当増えるのではないかと心配する。野党統一ができないままでは反自民の票も無駄になる。

 前原民進党党首は隠れ自民党員ではないかという玉川の言うとおりではないかという気もする。彼もまた松原仁と同じ「日本会議」のメンバーでもある。これは大不思議である。


 


食にまつわる記憶

2017年09月18日 | 日記

 今日は父に乗せてもらって釣りにいくぞ、という二月の末頃、実家に夜明け前に行き、台所で小さな

5センチほどのえたれいわしをガスコンロで焼いて、急いでご飯を食べる。うっすら脂がのったこの時期のえたれいわしは最高の味であった。なぜ旨いのか。これを高級料亭で食べれば美味しいのか、わからない。釣りへのこころが急く状況で、歯の唾液がジュンというくらいの熱さで、茶漬けで食べる急いで食べるのである。朝マズメを狙いたいものだから、父は急かせるのである。こんな思い出と絡まったところに旨さがあるのかも知れない。えたれいわしはこの十年脂がなくなり、違うなあ、と思いながら食べているのだが、今年こそは脂があるかも知れないと期待して買ってしまう。たぶん海の温度がいわしに脂をつけさせないのだ。

  さざえよりもチャンポコが好き。伊勢エビよりも鬼エビが好き、というのもそれにまつわる思い出がある。子供のころに大人に混じって船で磯に連れていってもらった。そこで採ったチャンポコの味が今も尾を曳いている。

 父はよく渡り蟹を採ってきた。それを茹でて、ガサッと他テーブルに新聞紙をひいて山盛りに置くのだった。それを一斉に食べる。当然無口になる。この渡り蟹は結局、やがて食べることになった毛蟹に負けた。毛蟹はそれほど旨かった。これはある寿司屋の大将がニタッとして、今日はいいのがあるよ、サービスしとくからと言われて食べたのが毛蟹だった。このよきのこっそりと旨いものを嬉しそうにだしてくるこの大将の寿司は旨かった。今はもう尾鷲にはいない。博打の好きな男だった。

 食べ物で、「七味あられ」という菓子類がある。食べたらやめられないのである。この頃はこれをポリポリ喰うには歯がダメで、これは諦めている。

 食のことを考えれば、それに伴う記憶がある。しばらく様々な自分好みの食材にまつわる記憶を思い起こしてみた。


日本人の諸問題

2017年09月17日 | 文学 思想

 関節あたりの筋肉がかたまりつつあるようで、この点では不快な日がもう一年も続いている。関節の可動域が狭まっている。

 日本人の克服すべき問題のひとつに日本人の特に女性の悪い姿勢、歩き方がある、などと言っている自分はテレビを見るとき脚を組む、ほほ杖する有り様である。

  2017年に生まれたこどもの寿命は107歳になると発表された。ぼくはこの数字は実はもっと伸びるのではないかと思っている。姿勢の問題が学校教育で導入されたり、国民の一大関心事となれば、ロコモティブシンドロームが克服され、健康寿命も伸びることだろう。

 あと5年、10年で様々な病気が克服される勢いが医学界にはある。

 残ってくる問題は何か。思うにそれは「怒り」や「不安」

への対処ではないか。不条理な怒りに対してどうするか。いまさらどうにもならない怒り、いまだったらかいけつできる怒り。怒りは脳の即座核を襲い、腰痛などを起こす。

「不安」というのはどうにもならないもので、自分の性格的な意識が呼び起こすものだ。対処的には、セロトニンホルモンを出すことをする。例えば、カーテンを開け、日の光を浴びる。手を動かすことをする。例えば、洗い物を手でする。料理をやってみる。絵や文章を書く。

  日本人の問題でまだ言いたいことがある。それは子育てにおける潔癖性である。二歳未満の時期、乳児はいろいろなものをなめまわして、形状や質感を獲得していくが、細菌をも腸に入れ込んでいく。腸には90%のセロトニンがあり、この腸の菌が不足する脳内のセロトニンを補うための運び屋をするという研究も発表されている。O157のような菌は免疫力でやっつけられるはずだが、免疫力が活性されていないと命をおとすことになる。また体内に異物がないとありあまる免疫細胞は自分自身の大事なところを攻撃してくる。アレルギーがそうである。そして現代、アレルギーを持つ人が多い。ぼくはこれは医学の問題というより、神経質な子育ててによるものではないのか、と疑っている。菌を悪者と思い過ぎる親が多いということだ。

 せちがらい世になっている。芸能人のプライベートな不倫問題など、電波を使う必要があるだろうか。政治家の男女問題もぼくは同様だと思っている。

 芸能人や政治家、有名人になれば清廉潔白、二度と恋もできないような社会は非人間的である。この窮屈さはいずれ別の形となって社会を覆ってくるだろう。

 関節のことからこんなところまで思いが至ってしまった。120歳まで生きる時代に入ってきている。脳はまだまだ活性する。さて、これから十年何事かをすればプロになれるはずだ。そう思って頑張るだけだ。

 


幼稚園を見学する

2017年09月16日 | 日記

 自分の幼稚園のころの記憶が先生以外にほとんど記憶がない。ショッキングなこともなく、平坦に日常を過ごしていたのだろう。

 昨日は孫娘の城南幼稚園で、祖父母との交流会のようなものがあり、顔を出した。河田紗希の祖父ですと、自己紹介も

し、はじめに、リズムダンスをした。30人の花組の全員とジジババ交えたリズムダンスがあった。両手を上げてパンパンパンと手のひらを打ち、次に握手して、また両手でパンパンパン、また握手、次に一回転歩いて回り、最後に半回転跳んで回って次の園児とすることになる。

 手のひらを叩き合うこと、握手、その時の一人一人の個性がわかるものだと感心させられた。すでに、積極的な子、消極的な子、おじけづく子、緊張する子、照れる、笑う子じつにいろいろだった。祖父母もどちらもこなかった園児は半分じょほどいた。祖父母は2組いるはずだが、遠くにいるのだろうか。ぼくらとて、紀伊半島から来たのである。

 他にも面白い遊び道具を作ったり、園児のコーラスを聞いたり、園児の一年の姿を大型画面で見たりと、昼まで楽しんだもだった。

 女性の先生たちもニコニコして、ぼくも幼児のころはこんな風にいい子でいたのだろうか、と思う。室内よりも戸外で遊んでばかりいたのではないか。

 東京の住宅事情では夫婦共働きでもしない限り、便利な場所では暮らせないだろう。それにまた異常に高いJR料金。ニュースでは今年生まれた子供は107歳まで生きるという発表があった。

 東京は地方の若者を労働力として吸い込み、女性までをも、子育てさえも犠牲にして、今の生活水準を維持し、未来107歳までをも考えておかなければならない。その都会が労働者にあたえる土地家屋は高すぎる。そして地方の小さな町には吸い上げられた若者が帰ってこず、過疎化する一方である。

  都会の昼は働く人たちのための昼で、よそからきたぼくらは過ごしにくい。コーヒーを飲む以外にないのである。尾鷲だったら、庭でもいじるか、ちょっと釣りでもしてくるか、レンタルショップに行ってみるかとなるが、都会では無理である。

 住宅事情の粗悪な都会を飛び出して田舎にきたらどうか、仕事など作ればいいじゃないか、と思うのだが、そうも考えられないのだろう。普通、人は慎重である。

 


東京で日高屋のラーメンを食べる

2017年09月14日 | 日記

 東京にいる。この時期、特段に行きたいと思うところもなく

5、6年前、御徒町駅前付近で、湯島方面にいく道すがら偶然に寄ったラーメン屋のそのラーメンがとても美味しかったので、記憶を頼りに探すことにした。店の内装を少し覚えていた。たぶんここだろうと思って入ったのは「日高屋」という中華そば屋だった。昼時だったので店が混雑していたので、近辺にあったBook Off で時間を潰し、本を2冊買って、いざ日高屋に行った。

 ごく普通のラーメン鉢に多くもなく、少なすぎでもない量のラーメンで、東京ラーメンではなく、僕にとってはやや南京飯店のラーメンに似ているのだった。僕は尾鷲の南京飯店のラーメンが忘れられず、いつもそれと比較してしまうのである。5、6年前のスープの味と同じだったかといわれると自信がない。空腹度によって味も違うだろうと思うからだ。

 結論は同じラーメンだったと思うである。美味しかった。

 ドトールコーヒーでのんびりと本を読んで、さて夜友達と会う時刻までどうしようかと考えていたら、大相撲をやっているのに気がついた、3時半頃にある旭大星戦をみなければと思い、ホテルに戻ることにした。

 東京も面白いのは夜であって、昼はなんていうこともない。

 夏の名残がまだあり、秋の気配も感じられる日であるが、明後日からの天気で客からの問い合わせがくる。迷惑な台風である。東京は31度。尾鷲は28度。明日は孫娘の幼稚園でジジババ会である。そのために車を走らせたのだ。

 

 


深夜食堂

2017年09月12日 | 映画

深夜食堂」のような市井の一人間を上からでもなく下からでもなく、同じ立ち位置で人ならだれでももっているような思いや、ちょっとした出来事、深刻な出来事などから人のこころの機微を表しているTVドラマは珍しい。

 奇抜なストーリーやファンタジーで染まるNHKや民放のドラマであるが、7年前からひっそりと始まったこの30分ドラマはついにシリーズ四までDVDで発売することになった。ついでに映画が二作できてしまった。

 その深夜食堂の名前は「めしや」という。夜中の12時から朝の7時までの営業時間。酒は2本まで。材料があれば作って欲しい料理があれば作ってくれる。オムライスに思い出がある人がいる。ハムカツに幼い頃の弟のことを思い出す人がいる。卵焼きとソーセージが好きな男がいる。

 人にはそれぞれの思いがあり、人生がある。それも時にわき役陣がユーモアで、時にしんみりとなって一回、一回の主人公の顛末を描くのである。作者の安倍夜郎とはどんな人か知らないが、庶民のこころの有り様を探っている。韓国でもリメイク版がでていている。

 やはり、「あいよ」というマスターの小林薫の存在が大きいように思える。繁華街街の路地裏にひっそりと佇む「めしや」と「客たち」。なにか昔よく言った「いろは」を思いだすなあ。

 じわじわと人気が広がっているのだろう。

 


金魚とウィスキー

2017年09月11日 | 日記

 金魚が死んでしまうので、頭を悩ませている。朱文金、コメットはグループは元気に、餌を求める。泳ぐスピードも速い。一方別の水槽の琉金グループから死ぬ金魚が出る。なにかが手落ちなのだろうか。どうにもこころが痛む。

 この琉金グループは群れない。これが変である。知り合いの人の琉金は群れている。ウチのはそれぞれが単独行動で一斉に餌を食べることもない。

 黒系のものから死んでゆく。

 さて、今度はウィスキー話。「カフェモルト」というニッカのウィスキーが世界コンクールで優勝したと聞いたので、早速飲んでみた。ちょうど前の日に、どこかの大学がウィスキーの美味しい飲み方を検証していた。水をたすと旨味が増すということだった。で、このカフェモルトは普通のウィスキーより5度アルコール度数が多い。ザ.ニッカ12年で43度である。45度だときついかなと思って飲んでみるとやはりストロング感がある。口のなかに含んでいると、コーヒーのような味がしないでもない。ぼくにはそれがコーヒーの味なのかもわからないのだが、なんだか、特別な樽で仕込まれたのかなと思う。

 山崎はピュアである。雑種の味がしない。スッキリとしている。

 カフェモルトをもし飲み続けたら、45度に馴染んでしまい、40度ものがもの足りなくなるのではないかと危惧するので、時たまに飲もうと思う。


山尾志桜里、麻生太郎疑惑

2017年09月09日 | 社会・経済・政治

 人間の値打ちは「失敗したときの振る舞い方」でわかるというものだ。最初に文春記者から突撃インタビューされたときに山尾志桜里も、相棒の弁護士も、人間の本質的なところがでてしまった。危機に弱い証拠であり、これまでに強そうに見えたのは資格とか社会的地位や権威のような鎧を纏っていたからに過ぎないことがよくわかった。記憶力や理解力は優れていたのだろう。だが、堂々とした胆力とか潔さがなかった。笑い飛ばせるだけの器もなかった。「愛している」とも言わなかった。あわてるだけであった。

 僕の価値観、世界観から言えば、こういう人はランクが下がる。小林よしのりも人を見る目がないというものだ。ツイッターでいくら嘆き節を書いても、それは「あなたに見る目がないからだ」となってしまう。もしも「ワシはそんなの気が付かなかった」と言うならば、平和の中で行われた来た受験競争、資格主義で育ったエリートがいかに脆弱であるか、小林よしのりなら知っているはずである。気骨のあるインテリなどいるものか、と言いたくなる。

 そこでだ。山尾志桜里は失敗、挫折した。この期待された女性がどのような人間となって生まれ変わってくるか、そのとき、マスコミはインテリはどう彼女を扱うかが、興味深いところだ。過去のことを延々と取り上げるのがマスコミであり、暮らしの世界では延々と失敗者にチャンスを与えないのが日本社会だからだ。

 僕に言わせれば、山尾志桜里は一段階人間としてステップアップすると思う。失敗なくして成長はできないからだ。親から譲ってもらった地盤、看板をもつ二世や三世議員とは違う出自が彼女にはある。だから胆力を鍛えて、潔さを鍛えてでなおしてほしい。

 W不倫疑惑で言い立てながら、メインストーリーはそうでありながら、コメンテーターはそんな個人的、家庭的な問題より、会見のお粗末さや民進党の出鼻挫きを言おうとするが、それは不倫や恋愛を動物的に認めているからだ。当然僕もしかたのないことと認めている。週刊誌は巧妙である。表看板を「不倫」とし、裏のテーマは「山尾志桜里たたき」であり、「民進党たたき」であることは確かだ。世間は下半身人間はそんなことはどうでもよいことだと思いながらも、「不倫は悪いことだ」というなんとなく「悪いこと」という近代的道徳的な思いで街頭インタビューで愚かなことを言う。「マジソン郡の橋」に熱狂した当時の主婦たちは何を思うのだろう。逆に素敵と熱狂するべきではなかったか。現実と虚構の世界の差であるというのか。僕にはわからない。

 森友、加計問題追及が再び国会で始まる。麻生太郎の愛人問題はどうするのだろう。二号さんに持たせている六本木のクラブで彼は自費を使うことなく飲んでいるという疑惑がネットで報じられている。今のところ、大手マスコミでは掲載されていない。「フライデー」に載るらしい。「フライデイ」の扱いと「文春」「新潮」の扱いは違うことんおだろうか。そういうことにも上半身としてはマスコミガどう扱うのか好奇心が湧く。