25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

この一週間の「なつぞら」

2019年08月31日 | テレビ

 NHKの朝のドラマ「なつぞら」をこの一週間はハラハラと見た。主人公なつは妊娠した。仕事を辞める意志はない。夫婦が協力し、仲間の応援があり、ついには兄の応援も得て、生まれた娘は今5歳になっている。

 母は安心した気持ちで胎児期、乳児期を子供におくらせなければならない。その母の安心を支えるのがまず夫である。なつの場合は夫、友達、兄夫婦に救われているというシナリオである。

 胎児期や乳児期の頃は母親の思いは印画紙のようにすべて子どもに転写される。

 子と親の絆はある。ところが母が眠いとき、子は乳がほしいと泣く。母が忙しいとき、子はウンチをしてしまう。抱いてほしいと子は泣く。

 夫が家にお金を入れず、夫婦仲が悪い。父親が酒癖が悪く、暴力をふるう。父親が子を虐待する。母親は無視してしまう。母が突然泣き出してギュッ抱きしめてくる。死にたいと嘆く。子供の成長に祖父母だけでなく、兄弟姉妹の存在、父母の職業や地域社会の環境も影響する。

 子供にかまってあげられなかった分、よく母は申し訳なかったという弱味があって、甘やかしたり、物を過剰に与えたりもする。

 なつの場合、よりかまってくれたなつの友人の方に気持ちが向いてしまう、あやうい場面もあった。一年しっかりと愛情を注いでいたら、とぼくは思うところである。

 精神の異常にたいするこころの強度は母に作られるもので、もちろん母に協力し、支える父親も強度作りに参加するものである。

 どうやらなつは一番の困難な時期は過ぎたようであるが、乳児期のツケは今度は思春期にやってくる。この一週間の「なつぞら」をそんな視点から見た。

 


深夜食堂第四部

2019年08月29日 | 映画

 一日の終わりにまだ何かしら心が収まらなくて一人、二人で深夜の店に寄る。新宿にあるその店は12時からだいたい朝の7時頃まで。さすが東京である。安倍夜郎の「深夜食堂」はビッグコミックオリジナルで今も続いているが、テレビでも第四部まで来ていて、これからも続きそうである。

 店の主人を演じる小林薫がよい。だいたいが深夜食堂の客の話である。昭和のような感じもすれば平成のような感じもする。たとえば今日観たのでは、ラブホテルの掃除をするおばあちゃんが豚バラ肉と白菜とえのきの一人鍋を食べにくるようになる。彼女の弟が死ぬ。死んだ弟には息子がいるが、破産し、働かずにいる。息子を育てることもなく消えてしまった子にとってはどうしようもない父親であるが、死んだという時だけ連絡が来る。火葬代も払えないのである。その甥っ子を伯母のおばあちゃんが傍からみても甘やかすほどの世話をする。世話しながら仕事をすることにやりがいを感じているようである。孤独だったのだろう。

 偶然深夜食堂の常連客である男が幼馴染みで、そのおばあちゃんは昔の憧れの的であった。宮下順子が演じている。甥っ子は通帳も、クレジットカードも伯母から盗んで逃げるのであるが、彼女はそれほどショックではない。甥はちょっとした悪事をやっているのもバレて刑務所に。その甥っ子に小学生の子供がいることがわかり、伯母は嬉しそうに二人で店に来る。「なんでも食べなよ」と子供に言うと、小林薫が「あるものならなんでも作るよ」と言う。すると子供は「肉!」と叫ぶ。「今になって子供を育てるなんてことぬになるなんてねえ・・・」と喜びながらぬる燗を一口飲む老けた宮下順子。また別の日、一人鍋はその小学生が、美味しい、美味しいと食べていた。こんな調子のドラマで、いわば「沁みる」ドラマなのだ。人間のちょっとした喜びや哀しみを描いているので、昭和とか平成とかという社会問題背景も気にならない。ぶたいは江戸時代でも中身は変わるものではない。つまりは人間と人間の関係性にしか話の焦点がないからだ。

 話は違うが、尾鷲にも「いろは」という深夜食堂があったが、最近、店を閉じ、他人に譲った。やっていた女主人に偶然スーパーで逢い、話を聞くと股関節の痛みで手術をしたらしい。「もう年だからと思って仕事を辞めたんやけど、股関節もウソのようよくなって、元気いっぱいやもんで、中川辺りで屋台の店でもやろかいな、なんて思うんさ」と声に出して笑って言っていた。


仲良くする方法論を

2019年08月29日 | 社会・経済・政治

 アメリカが韓国と同盟を組んでいるのは、共産化を食い止めるためだった。1950年の朝鮮戦争からすでに70年になろうとしている。その間、ソビエトが解体し、ロシアは資本主義化した。中国も市場経済を導入し、国家資本主義の国のようになった。ロシアも、中国も一党独裁的であるが、日本もほぼ一党独裁的である。日本ほど社会主義的な国はないなどと、30年ほど前によく聞いたものだ。一億総中流社会がその象徴的な言葉だった。

 現在の状況下、アメリカがもはや朝鮮半島に駐留する必要があるのか、どんな理由があるのかぼくにはわからない。トランプ大統領にもわからないようだから、いずれは撤退していくのだろう。日本に駐留することも意味はなくなっていくように思える。

 アメリカが台湾についてどう考えるかだ。尖閣諸島くらいでアメリカの軍隊が動くようにも思えず、石原慎太郎、その仲間が威勢よく旗持って守りに行けばよい。ぼくは行かないし、息子や孫を行かせない。

 テレビの情報番組、たとえば、「ひるおび」などは韓国のひどさを言い、日本との対立を解説するばかりである。どのように解決し、仲良くしてゆく方法があるかを示す解説はない。「韓国人に生まれなくてよかった」というタイトルの本を書いた元駐韓大使の武藤某などは韓国をばかにしまくっている。この人は何なんだろう。鼻で笑っている。政権対政権の喧嘩で巻き添えをくらい、被害を浴びている企業や民間人がいる。頭を抱えていることだろう。

 過激なナショナリズムが民間人のすることを圧迫しないでもらいたい。韓国で試合する日本の高校野球チームについても、日の丸はどうだとか、高野連などに政治家は口をださないことだ。

 

 


アマゾンの危機

2019年08月28日 | 社会・経済・政治

  ヤノマミの生活やピダハンの考え方を読み、昨年はまだ文明世界に姿を現していない未知の原住民「イゾラド」を読んだ。さらにアマゾンに入り込み、鉱物や金になる物を狙った荒くれどもが入ってくる。つづいて軍隊が入り込み、彼らは免疫力のない菌やウィルスを持ち込み、多くのアマゾン流域の先住民を滅ぼしてしまった。そんな話もNHKのドキュメントで見た。アマゾンが火事で危険な状態である。ということはヤノマミもピダハンは大丈夫なのだろうか、とすぐに心配する。

 地球上に20%の酸素を供給しているというアマゾンのジャングル。ブラジルの大統領がG7からの協力を拒否している。ヨーロッパも異常気象に見舞われ、フランスでは40度越えしたり、豪雨があったりと、地球温暖化に敏感になっているところへこのアマゾン騒ぎである。もしも酸素が20%も減ったら、窒素と二酸化炭素が増えるだろう。何%増えるのか知らないが。

 日本はゲリラ豪雨で今年も九州各地で被害が出ている。尾鷲では秋刀魚は一匹も獲れない。イワシも脂がなくなった。

 逆に、北極圏の氷が溶け、利用可能な土地が増えている。北極航路もできようとしている。沈んでいくところ、新しい未開の土地が現れる昨今である。

 さて、どのような仕組みで大雨になるのだろう。温暖化により、ある地域で水分が蒸発し干魃が起こる。蒸気で空に上がった水分は雲となり、雨を降らす。単純に言えばおそらくそういうことだろう。

 ヨーロッパの若者たちが騒ぎ始めた。

 ピダハンはアメリカの宣教師に言った。「神? 見せてみなよ」。彼らには宗教心はない。アマゾンは深い寛容性のあるジャングルなのだ。

 

 

 


気張る矢沢永吉

2019年08月27日 | 音楽

 HDDに録画しておいた「矢沢永吉」のNHKドキュメンタリーを昨晩見た。その前の日に「関ジャム」では矢沢永吉のaug.  sus4, 7th が好きなコード進行の特徴、なぜ乾いた音になるのか、作詞の他人への依頼の内幕に内容ににして7年ぶりに出るアルバムのプロモートをしていた。NHKドキュメンタリーは、日本で録音したものに、アメリカでドラムやギターなどを加えていく矢沢永吉の音作りに密着して紹介していた。

 矢沢永吉を見ていて驚くことはあのスリムな身体を維持し続けていることだ。顔はやや緩み、髭には白髪が交じり、毛髪も少なく、一本の髪の毛が薄くなっているが、テンションは高く、その高すぎるテンションに驚いてぼくは見た。それと英語がまるでダメだった。しかしながら単語でつないでいく離れ業をやっていた。

 通訳を入れる時期もあったらしいが、直接にやりあった方がよいと思うようになり、英語ができなくてもなんとかやっていったらしい。こういう彼のバイタリティーにも驚く。「成り上がり」という本が出たのはぼくが二十代だった。三十代になっていても初めの頃だった。ぼくよりひとつ上だから彼はあの頃まだ二十代か、三十代の初めだったのか。その男が70歳になろうとしていて、アルバムを作る。矢沢節は会話も音楽も変わらない。絶好調のように思わせた。

 「俺、お前」が一番似合う歌手だと誰かが言っていた。

 ひとつ気になったことがあった。ニューアルバムの中にある「いつか、その日が来る日まで...」という歌である。この歌の題がそのままアルバム名になっている。この歌を聞いたら、石原裕次郎の「我が人生に悔いなし」、美空ひばりの「川の流れのように」を思いだした。自分の人生を歌に込める思いをなかにし礼に作詞を依頼し、歌っているのだ。もちろん矢沢節であり、矢沢メロディーである。勝手になかにし礼が作ったのかもしれないが、矢沢はOKしたのだ。

 おいおい、大丈夫かよ。歌が夢だった(だったかな)、そんな歌唄うなよ、と言いたくなってくる。歌手も引退間際や死ぬ前になぜか知らないが、我が人生を歌うことがある。それがちょっと気になったのと、あまりものハイテンションに若さを感じるというより、気張ったおっさんであり、優れたシンガーであり、作曲家であることをどちらの番組も伝えていた。

 もしかしたら今年の紅白歌合戦のスペシャルゲストで出るのかな。70歳、ニューアルバム。話題性はある。


矛盾

2019年08月26日 | 文学 思想

 宮部みゆきの短編小説集の単行本。その中の2篇を読んで、それ以上は読めなかった。題材を死刑囚の養子問題が最初の一篇。次が老人にとっての監視カメラのこと。第三篇目に入ることができず、結局止めてしまった。社会派作家と呼ばれているが、社会的ツールや施設がでてきても、小説というには人間を描かなければならない。しかも彼女の場合、推理小説家でもあるので、その期待にもそわなければならない。若い頃の「地下街の雨」は短編小説集でありながら、サスペンスと社会問題が絶妙に描かれていたと思う。読み手のこころに刺すものがあった。

 宮部みゆきの小説の腕が落ちたというわけではないのかも知れない。ぼくの関心事が宮部みゆきの今の関心事と違うから、ぼくは頷けないのかもしれない。

 「漱石の作品は何歳で読んでも、年齢なりに読めるんですよ」

 大学の生協の書店で教授が熱く語ったのを思い出す。

 今度の「よもやま話の会」は森鴎外の「寒山拾得」である。中国の二人の肩書もなく、無名ではあるが風変わりな僧の紹介話である。30ページほどの短い話である。文章としては練れてなく、工夫も凝らされていない。つまり、本来何百ページを使ってでも、このテーマを書けばおもしろいと思うが森鴎外にはその気はなかったようである。「立身出世」が若い頃の森林太郎の現世を生きるテーマであった。軍医として出世した。自分の留学時代の体験を「舞姫」という小説にした。文豪とも呼ばれた。日露戦争では「脚気」を見誤った。家では母親に楯突くことができなかった。

 墓には全くの個人「森林太郎」と刻んでくれと言ったらしい。森鴎外個人の歴史から眺めると、なぜ森鴎外は「寒山拾得」を選んで書いたのかわかるような気もするが、下手である。ぼくはそう思う。すでに「森鴎外」という名前だけで書いている。

 親が奨めた立身出世。それに応じた自分。離婚をしてまでも母親を大事にした自分。しかたないと思いながらも、「寒山拾得」みたいなものをちょこっと書いて自分を慰めたのか。「森林太郎の墓」と「森鴎外」は最大の矛盾だろうと思う。


地球の温暖化?

2019年08月25日 | 社会・経済・政治

  秋がきたような天気になった。これほど変わるとは。思えば思うほど東京オリンピックは一番暑い時期にやるのだ、と思う。昨年、クエを釣った家族がまた挑戦に来て、雨が降っても合羽を用意してやるき満々である。釣果がどうだったのか聞かなければならない。

 賀田湾というのは昔は釣り場としては絶好の場所だった。それが山側で石材を採るようなり、海が石紛で荒れた。ところが石材業者の努力なのか、海に石紛が流れないようになったとぼくは思う。再び、護岸には藻場もできて、魚も戻ってきているように思う。

 今はヘダイが釣れている。この前の客がカンパチを釣って、シマアジも釣った。ルアーではアオリイカ、岸壁下ではカサゴにハタ。ヒラメやコチがいるゾーンもあって、しかも釣り場が広い。のんびりと釣りをするにはよい場所だと思う。

 ヨーロッパでは温暖化対策問題が若者の間で、政治にたいしても影響力をもつようになっている。G7で、この対策をなんとかまとめたいフランスのマカロン大統領もトランプアメリカ大統領の横やりでまとめられない。産業革命時から地球の平均気温が1度上がった。それだけで、かたや干魃、こなた、大雨である。日本の異常気象も温暖化のせいかも知れない。

 賀田湾も水温のせいで変わっていくのだろうか。

 


歴史の流れ

2019年08月24日 | 社会・経済・政治

  歴史問題について、あった、なかった、した、されたという事実についての確認は日本と中国、あるいは日本と韓国双方で研究者を出し合い、双方が納得せざるを得ないほどに徹底して論議がなされ、結論を公表し、政治家はそれを尊重して双方仲良くやる。これが東アジアの進んでいく方向だろう。遠いアメリカがアメリカの軍隊を駐留させて韓国や日本にいるということ自体、すでに不自然で、大きな流れはアメリカが自国に軍を戻すことだろう。朝鮮半島の南北の国家も、方向性とすればどれだけの年数がかかるかわからないが民族の統一であり、統一国家なのだろう。

 歴史の大きな流れはそのようにしか考えられない、

 日本は空から黒潮の蛇行を視るように歴史の流れを視る必要がある。すると、今の日本が何をしなければならないかわかるはずだ。歴史問題にしっかり向き合って解決しておく。でないと、この問題のためにいつも関係がギクシャクし、あおりを食うのは民間企業や個人である。戦争だって起こるかも知れない。

 ぼくのこの意見と似たようなことを言った自民党の石破茂議員は韓国の雑誌でのインタビューで「納得いくまで謝り続けるしかない」というと、安倍シンパたちはコマメにSNSなどを使って叩きまくる。歴史修正主義や明治憲法に戻すことや天皇を元首にという主張である。これは日本会議の主張でもある。

 軍事的にはアメリカは北アメリカの半分に戻る。経済的には互恵の関係で取引を行う。

 イギリスもイングランドのみの国になっていくような流れである。スコットランドは独立を志向しているが、北アイルランドはもちろんのことである。ウェールズとてわからない。世界幸福度ランキングではノルウェイ、フィンランド、スウェーデンが有名だが、これが成せるのも、少ない人口と高い教育力ゆえである。イギリスがイングランドだけになっても人口的にはまだまだ多いくらいである。世界には都市国家もあり、シンガポールやルクセンブルクなど外見では豊かな都市国家に見える。香港とマカオも都市国家を羨むことだろう。中国が香港に対してどう出るか。香港の人々はどうするか。中国も試される。台湾国民党が中国に進出し、中国で二大政党による切磋琢磨の政党政治は中国の歴史性から言えば甘いことなのだろうか。

  戦争、貧富差が難民を作り、入ってくる難民を移民として受け入れる、ということで受け入れる側の国が動揺し、混乱する。これが現在の世界の歴史の傾向である。

 


政権と政権の喧嘩

2019年08月23日 | 社会・経済・政治

  テレビは日本と韓国のことでワンワン言っている。いわば煽っている傾向もある。政権と政権の喧嘩みたいなもので、韓国人と日本列島人との喧嘩ではないことははっきりしておいた方がいいと思う。マスコミと国民の感情は相乗効果があり、危ないことは先の戦争で十分に反省したはずである。

 新聞を読まない、テレビも見ないという人が増えているようである。個別に個人がスマホで何やらやっているとイメージがある。すっかり首が前に垂れて並んで待つ風景や電車の中での風景が携帯電話が出てから一変した。ストレートネックによる頭痛も激増していることだろう。新聞、テレビを見ない人はスマホからのニュースを見ているのだろう。スマホのニュースはいろいろだ。朝日、毎日、読売、産経、日経新聞の記者が書くだけではない。いろんな人がいろんな風に書く。小林よしのりも書けば、菅野完だって書く。自分で書けるのだからスマホは都合がよい。大手新聞では載せてくれないものもスマホでは載っている。トランプ大統領だって毎日のように書く。

 しかしスマホは自分が過去にアクセスしたことが情報として把握されていて、ぼくならぼくの好みみたいな記事を画面にあげてくる。一種の分析AIなのだろう。この点は恐ろしい。そして合間に広告が記事らしく入っている。要はスマホ内容も広告で成り立っているわけであるが、双方向になっていることと、書き手のすそ野が圧倒的に多いという違いがある。

 しかしながらぼくはやはり新聞を購読しているし、テレビも必ず点けている。選択消費(買っても買わなくてもよく、自分の懐具合で消費するもの。絶対消費の反対)の中になくてはならないというものではないが優先順位が上の方で新聞があるだろう。テレビもあるだろう。しかし消費税が上がり、賃金が上がらないとなってくると、何を削るか。やはり新聞だろう。テレビはまだ削られることはないような気もするが、スマホがあればワンセグで地上波テレビは見えるのだけど。

 何か、つまらないことを書いている。どうでもいいようなことだ。言いたかったことは、新聞もテレビも冷静さを欠いたらだめだよ、ということだ。韓国を責め立てたら視聴率が取れるなど思わないことだ。これはマスコミ人の根本理念に関わることだ。冷静であらねばならない。

 


一杯のコーヒーから

2019年08月22日 | 映画

 仕事でちょっと不快なことがあって、そのことで将棋倒しのようにしなければならないことが起きて、その片付けに昼すぎまでかかった。

 昼から早目に買い物を済まして、履正社と星陵の決勝戦の観戦に臨んだ。その前にイオンのパンのコーナーで熱いコーヒーを買った。豆から挽いて作るものである。これが実に香ばしくて美味しいことに、東横線沿いの元住吉に住んでいた頃、駅前に「ミワ」というコーヒー店があったのを思いだした。店内はコーヒーの香りがする。ぼくが好きだったコロンビアコーヒーほど旨いものはないと思ったものだった。ぼくは一時お金に窮したときでも、食べるものを減らしてでも「ミワ」にコーヒーを飲みに行ったことがある。次第にコップに水が充ちてくるようにコーヒーも充ちて来た頃、ぼくもやっち卒業できる日が近づいていた。オイルショックがあり、物価もはね上がった頃だった。

 商店街を抜けようとするところに中華料理店の皿洗いのアルバイトをしていた。その店の主夫婦の子供の家庭教師として今の細君を紹介して、ぼくは有り難がられ、可愛いがっていただいた。「50になったら仕事を止める」と行っていた。「16のときから栃木を出て働いているんだ。もういいよ。あとは好きにするさ」

  大繁盛していた店だった。

  ぼくは大学を卒業し、ご主人が50歳も過ぎた頃、ご夫婦の家を訪ねたことがある。すると、奥さんは近くの

惣菜店でアルバイトをし、ご主人はトラックの運転手をやっていた。「暇すぎてよう。トラックで荷物運んでんだ」

奥さんが、60にもなったら栃木に帰るんだ。もう土地も買ってあるで」と言っていた。その後ご夫婦はどうしたのか知らない。たかだか一年にも満たない期間で、気も利かず、ボーッと皿を洗っていたぼくだった。もうおぼえてもいないのかもしれない。目標をしっかり決めて生きている夫婦だった。働きまくるのもハンパではなかった。夜の閉店10時から翌日の餃子の準備が始まる。奥さんが明るく、ご主人は無口で要らぬことは言わない人だった。物価が上がったにも関わらず、日本の経済は成長していった。

 一杯のコーヒーの味にいろんなものがエキスのように沈殿しているのだ、と思う。

 

 


「日本の歌」のカラオケ

2019年08月21日 | 音楽 ポップス

   津田大介が朝日新聞のインタビューで、「表現の不自由展 その後」を三日で中止とした理由から始まって、「言い訳」ばかりしていた。ぼくは反日ではないが、アートを公共の場所で扱うには津田程度の思想ではもたないことを露呈した。まあ、潔さがないというか、ビビった、というわけだ。河村名古屋市長ごときの政治介入とガソリンまくぞという脅迫電話くらいでビビったらいけないのだ。警察に相談すべきことだ。何かもっとましなことを言うのかと思ったら何もなかった。命かけて映画作る人も、命かけて政権を批判する人もいるぜ。

 昨日の夜の驚き。昨日は久しぶりにカラオケに行った。ぼくがデュークエイセスの「女ひとり」に代表される「日本の歌」のCD2枚組を懐かしくて買ったのは3か月ほど前だったか。車で各都道府県の歌を聞いていた。覚えやすい曲ばかりでいつの間にかほぼみんなおぼえてしまった。以前「あの橋を渡ったら(山口」や「潮風の中で(大分)がカラオケであればいいのにと探したことがあった。なかったので、がっかりした。ところが昨日、またデュークエイセスの歌を調べてみたら、ええ、とびっくり。どちらもあるのである。どうしてなのだろう。思いは通ずるのか。「小原庄助さん」も新しくあった。あと、「踊り疲れて(徳島)」「マンボ 鵜(岐阜)」「茶々茶(静岡」があれば言うことなしである。

 いつも思うことだが、若い4人や5人のグループにも歌い繋いでほしいと思うのだ。「あの橋を渡ったら」と「潮風の中で」と「小原庄助さん」を歌った。気持ちがよかった。スッキリした。どういうわけでカラオケに追加されたのだろう。リクエストがあったに違いない。多くの人の思いが通じたということなのか。それにしてもなぜ、今?


ランク付け

2019年08月20日 | 社会・経済・政治

 今日の「モーニングバード」を見ていても、羽鳥慎一司会者は煽り運転をして挙句に傷害を負わせた宮崎何某の経歴を紹介し、彼の実像に迫ろうとするのだが、軽々には言えないことは十分にわかっているだ。ただ、宮崎何某は「天王寺高校」に行っており、その天王寺高校を大阪でもトップ5に入る「頭のよい子のいく高校」と言ってしまう。そしてこの高校から「東大に9人、京大に47人」が入って、宮崎何某は「関西学院大学」でこれも「頭の良い人がいく大学だ」と言う。テレビも羽鳥もこんな点が質が悪い。東大へ行かずとも、関西学院に行かずとも「頭のよい人はいくらでもいる」。学歴や肩書で人を判断してたら間違えてしまうことはもう現代に生きる人は知っている。佐川元税務庁長官など「頭が良い」と言えるのか。そもそも頭が良い、というのはどういうことか。羽鳥に定義つけてもらいたいものだ。記憶力がよいことを頭が良いというのか。忠実に勉強してきて優秀な成績をおめた人を頭が良いというのか。バカバカしい。

 テレビはこういうくだらない区別を平気でやる。テレビ局側にいる人たちも少々考えればわかるはずだ。

 常連コメンテーターの玉川徹はテレビ側の人間である。彼は「正義」は嫌いだ、と言っていた。宮崎何某がもしかしたら、自分のやっていること、例えば「熱いお茶を出して店主に4時間も説教した」というのは自分はいいことしてやったんだ、と思っているのかもしれない。いいことをしている思ってやっているとそれは実は悪いことかもしれない。こういうことは鎌倉時代の親鸞さんが言ってきたことだ。玉川徹のこういうコメントは切り口も鋭く、納得することも多いのだが、今日の経歴のところで何も言わなかった。頭が良いだのなんだのは不要のはずだ。宮崎何某は関西学院大学に行ったからと言って頭が良いわけではなく、佐川元長官とて頭がよいとは思えない。

 東大がえらいだの、京大が今やトップだのランク付けをマスコミはしたがるが、実は庶民のほとんどはあまり縁がないので、そんなランク付けがどうでもよいと思っている。インテリの方がコンプレックスでもあるのか、ランク付け、区分けをする。

 いったいいつまでこういう意識が続くのだろう。つまらないことだ。

 


またコツコツと

2019年08月19日 | 日記

 過去のブログの校正を再度やり始めた。1999年から始めてから今2009年の7月である。ずっと読んでいると過去のことが時に思い起され、忘れていて驚いたり、馬鹿なことをしたなあ、恥ずかしいばかりだ、と過ぎてしまったことが修正はされず、その体験や経験は現在の自分に沈殿しているはずだと思う。思想としてはさほど変わっていないと思うが、2009年から現在までは10年も経っているので、何かが変わっているのかもしれない。

 昨日驚いたことを細君から聞いた。ある男性は若い頃、子育ての頃はリベラル的な発言をよく家でしていたので、退職してからもリベラルだと思っていた。ぼくの記憶ではその男性がなくなってからだと思うのだが、息子はその男性、つまり父親が「ネトウヨ」だったことを知り、愕然とした。匿名のSNSの時代、その男性はどういう経緯でネトウヨになったのか。それを知りたい。暇すぎて、頭の中で煽りたくなってくるのか。「反韓」を煽る。「反中」を煽る。

 ぼくはネトウヨは若い一部の者だと思っていたら、なんと老人に多いという。しかもお金ある自営業者とか、医者とかにもいるという。

 このような社会現象はやがて小説となって現れることだろう。ぼくは今のところ「反韓」でもなければ「反中」でもない。「反米」でもない。

 昨晩から宮部みゆきの新刊「さよならの儀式」を読み始めた。早速知らない用語が出てきた。「マザー法」。マザー法? 何それ。宮部みゆきの造語? 宣伝文句には宮部みゆきの新境地とあったので買ったのだった。しばらく楽しめるだろうか。昔、「火車」の素晴らしさにびっくりして、結構彼女の作品を読んだことがある。久しぶりだ。

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比喩・2009年04月18日(土)

 腸管を裏返しにするとそれは植物の茎のようなもので、口と肛門はその腸管の入りと出の場所である。顔はそこから派生してきたもので、腸の表情と顔の表情は同質のものである。

 内臓は腸管の溜りになった。心臓は植物で言えば、光合成をつかさどる太陽のようなもので、それは自律神経によって制御されている。肺は自ら呼吸をすることができない。ここは空気の溜まり場である。呼吸をするには動物系の筋肉系が、肺の場合には、横隔膜、肋間金、横腹筋、腸腰筋の連動で行うものである。

 ぼくらの中には植物系と動物系という先祖がある。このことは解剖学者であり、形態学の三木成夫から学んだ。

 植物系と動物系が縦糸と横糸に織物のようになっているのがぼくたち人間である。したがってぼくたちは内臓系の心と感覚系の心が織物のようにあると言えるのだろう。

 禅をする、瞑想をする、というのは極端に言えば植物系に戻ることではないか、と思うときがある。

 運動をするときは動物系をフルに使うことである。

 どちらも偏りすぎると不調になるように思う。プロとしてのスポーツは体には悪いだろうといつも思う。あるいはまた修行のように瞑想するのも本当は体にはよくないことだろうな、と思う。

 もしくは、運動をするなら、それに相当する植物系の時間が必要だ。逆に行動停止している人は運動が必要である。

 私たちは現場の専門家ではないので、あくまで比喩的にいう他ない。

 このような比喩は、比喩的に捕まえるというのはとても重要だと思う。詩も絵画も、優れた芸術は比喩的である。


川風、寄り添う風、月夜同舟

2019年08月18日 | 音楽 ポップス

 中島みゆきの曲に、「川風」「寄り添う風」「月夜同舟」という歌がある。アジアのどこかの川で舟に乗っている様子を歌っている。川風にあたり揺れるようで心地がよい。決してアメリカのミシシッピ河ではなく、ロンドンのテムズ河でもない。アジアのどこかの川だ。曲がアジアぽい。中国っぽいのか、ベトナムっぽいのかわからない。

 ただこの時期の中島みゆきは音楽的に高度で詩も充実しているように思える。

 半年ほど前、NHKの「Songs」で中島みゆきが3曲歌った。「ホームにて」「蕎麦屋」最後に「イーストアジア」だった。大泉洋が「沁みるなあ」と連発していた。幸運にもこの3曲はカラオケにもあって、岡田さんもこの頃歌うので、沁みるなあ、と思いながら聞いている。

 「川風」など先の3曲はカラオケにないので残念である。

 びっくりしたことがある。それは「恋文」という

歌である。メロディーラインはおぼえるのに大変複雑であるが聴けば耳に流れるように美しく入ってくる。曲は大作曲家の宮川泰やいずみたくより実力は上だと思う。園まりの歌で「何も云わないで」「優しい雨」という歌があり、これら宮川泰作品を越えるのではないかと思うほどだ。どこの曲でもない。日本勢の曲で、日本の歌謡曲である。しかも詩人としてもしっかりした歌詞にしている。

 一度「夜会」を観に行きたいものだ。映画でもやってると聞いた。

 ぼくの中での夏休みが終わったら、静かに中島みゆきのことを考えたりしている。

 

 


禍転じて

2019年08月17日 | 日記

 「もしもし、榎本さんですか。曽根区の役員している●●というものです。民ぱくの件です。お客さんが石垣の下にゴミを置いて散乱してますよ」

「えっ、お客さんはいるはずですが」

「それがいないんですよ。すぐに片付けに来てください」

「ご迷惑をかけて申し訳ありません。二度とこういうことがないよう努力しますんで。今すぐ行きますから」

 ぼくはお客さん代表者に電話をしたが出ない。困ったことだ、と思って車に乗ると、お客さん代表から電話がかかった。

「石垣の前にゴミを置いた?」

「はい、全部持ち運ぶのに、一部置いてあります」

「猫かカラスに荒らされたんだと思う。下へ出て区の役員さんに説明してください」

「そうですか。わかりました」

「僕も、そっちに向かっています」

 昨日は「犬が糞をした。片付けもしないで行こうとした。どこに泊まってるんやと聞いたら、あんたとこや、という、だから今日文句言いに来た」という苦情があった。はてペットなどいないはずだが。隠しペットか。

 よしこうなれば役員さん全員に挨拶と現状、こちらでやっている努力、名簿、誓約書なども見てもらおう。

 カラス問題は話せばわかる。隠しペットも点検すればわかる。10時以降の大騒ぎ事前に同意してもらえば抑制もする。

 現場に着くとお客さん代表者たちが掃除をし終わったところだった。カラスにやられるとは思わなかった。わかる。僕の説明不足である。僕もカラスにやられるなんて知らなかった。曽根でカラスを見たこともない。すでに役員さんは事情がわかったらしく帰っていた。

 お客さん代表者は「これでいいですか。すみまでんでした」とたいへん丁寧に謝った。「いやいやぼくが説明しなかったからごめんね」

   そばに小太りの女性が寄ってきて、 「あんた、榎本達子さんの息子さんの榎本順一さん?」「えっどならですか」「村田清六の娘よ」「あんた頑張っとるんやってな」清六さんは母の父の仕事弟子だった。ぼくも清六さんの家に行ったことがある。「●●役員さんの家わかる?」「うん、説明が難し。神社のところまで行って、人に聞いてみて」

 ぼくは●●さんに電話をした。「事情がわかったんで、もう帰りました」と言う。「ご挨拶に伺いたいんですけど」

「こっちはええから、区長さんと会っとけば」と助言をくれた。区長の家を聞き、その方向に進むとまた清六さんの娘さんがいて、詳しく家を教えてくれた。

 蜜柑畑を整地したのだろう。大きな家が建っている。呼び出しフォンを2回押すと、品のよい老人が出てきた。言葉も標準語アクセントである。あいさつをして何度か苦情があったと思うが、想定外のこともあり、だんだんと苦情もなくなってくると思うので、見守ってもらいたい。民ぱく事業は曽根にぴったりの事業で、他の人もやればいい。お手伝いする。こちらは、宿泊者名簿、禁止、注意事項への同意書ととって毎月県に報告している、ということを説明した。東京都庁に勤めていたのだと言う。退職してこに家を建てたのだという。「尾鷲市は浦村を抱えているからねえ、町としたは効率が悪い」と区長は言う。コンパクトに尾鷲にまとまればいいですけどね。私らも運転免許なくなったらたいへんなことです」ぼくは「あと2年経ったらたいへんかもしれませんね。今は火力撤去工場があります。これが終われば電源交付金はどうなるのでしょう」

「曽根は129人の人がいて、平均年齢が70サインを越えています。仕事をしている人はアルバイトも含めて30人です」

 「ぼくは多くの都会の人は曽根はいいところだと思うにちがいないと思いますよ。海では魚が釣れ、川、海水浴に近い。熊野古道の太郎坂次郎坂もあります。みな民ぱくすればいいんですよ。いわばリゾート化すればと思うんです。今、ぼくがやっていることが大きな民ぱく運営のノウハウとなります。決してつぶさないようお願いします」

  禍転じて福となす。役員さん、区長さん、清六さんの娘さんに会えて、これまで挨拶をするきっかけもなく、気になっていたことが解消された。皆、優しかったことに感謝した。

 そんなことがあって、娘たちを駅まで送った。4時頃名古屋着のはずだ。名古屋からは念のため、指定席を買っておいた。ところが紀勢本線の途中で線路に人が入り込んできて急停車をしたそうな。それで繋ぎの新幹線「のぞみ」に間に合わなくなったらしい。名古屋駅でとりあえず来た「のぞみ」に乗り車掌に事情を説明すると、車掌はグリーン車に案内してくれ、席を確保してくれたらしい。これもまあ、意味合いが違うが結果はよかったのだ。ま、禍転じて福となったのだ。