25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

財政難

2015年09月29日 | 社会・経済・政治

  こんなに財政難の国が、今年も借金をし、おそらくは来年も借金し、と一向に借金は減らず、増えるばかりだというのに、オリンピックをするなどというのはどういう神経をしているのだろう、とふと思う。一体、貯金額より、借金額が越えてしまうとどうなるのか。貯金があるから、銀行も、日銀も国債を引き受けるのある。貯金は個人のものである。それが担保のようになっている。考えられない。自分の金だったら、節約意識も湧くだろうに、国民の税金となると、桁違いにお金を使う。かといって、国民生活金融機関からお金を借りると、あるいは税務署も、「税金」だからと容赦なく取り立てる。

 あと、10年もすればこの財政問題はほとんどの人に表面化してくる。芥川賞をとって、賞金を何につかったか、という問いにその作家は「ドル貯金しました」と言っていた。この作家には読めているのだろう。藤巻健史もドル貯金していると言っていた。

円が紙くずとなるのに、あと何年だろう。 いつまで政府は借金を続けるのだろう。 僕の孫が20歳ぐらいの時か、僕がまだ生きている時か、未來が見えて来ない。ある程度の未來が見えないと、不安がたまってくる。不安は犯罪を生むし、病気を作る。

 なんとも、選挙民向けのアベノミクス第2ステージなどと、威勢のいいことをいうものだなあ、と思う。借金をいかに作らないか、提案してくれた方がよい。それだったら、国民も数年は我慢するのではないか。税収と借金が半々の予算案でいくら無駄にお金が消えていくことだろう。例えば宮城の高い堤防など、だれのために工事をしているのだろう。津波は逃げるが勝ちなのだ。堤防を作ることが勝ちではない。  

 ああまた不平が出た。

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ここ7月以降

2015年09月28日 | 日記

   僕は6月20日で65歳になってこれまでの仕事を一切辞めた。もう働かないことにした。その代わりに小説を書くことにした。これがモノになるかならないか、わからないが、ずっと昔からやりたいことだった。しかしそれにのめり込む前にややのめり込むことがでてきて、食べることもしていかなければならないので、できずにいた。魂の芯のとこにそんな思いがあったから、なんでも執着することなく、過去のことにはあんまりこだわりや後ろ髪引かれることはなかった。

  小説を書くと言っても、勉強している感じで、どんなことを描きたいというのでもなく、思い浮かんでくることを書くというだけのことである。その思い浮かんできたことが時代やある時代に生きる人間を写しとればいいくらいにしか思っていない。

 夏目漱石の晩年の本を読んでいると、見事にその時代とこれからの時代の人間像を描いているようである。些細なことを題材にしている。読む側からすれば、そんな些細なこと、と最初思うが、話が進んでいくにつれて些細だったことが大きな事項であった、という風になっていく。人間の関係だけに目をつけた漱石はあえて人間の関係性だけをテーマにしているから、思えばたいへんな強みを持っている。

 どれだけうれる小説を読んだって、明日には忘れてしまう。二度と読まないというものも多い。まあ十年一所懸命やれば、なんとか形ぐらいにはなるだろうと思って、一日の4時間ほどを書く事に使っている。

 9月30日は文学界の新人賞に応募した。10月には群像新人賞が締切だ。来年の3月は文藝賞の期限である。まだ新人賞募集はあるのかもしれないが、とにかく応募するのをひとつの仕事としてやっていこうと、今やっている。

 どこかで「止める日」がくるのかもしれない。能力のなさの強い自覚。病気。しかしながらやっと腰を落ち着ける日が来た。やりきった日が死ぬ日だとも思っている。


また「明暗」

2015年09月27日 | 文学 思想

漱石の「明暗」をまた読んでいる。これで三度目である。一回目は二十歳の頃、大学内のキャンパスのベンチで読んだ覚えがある。この時は主人公は津田という男性だと思っていた。2013年に二度目読んだ。この時も、主人公は津田だと思って読んでいた。そして、水村早苗が果敢にも、絶筆となったこの小説の続きを買いた「続明暗」があるのを知った。

 今回三度目で、主人公は津田ではなく「お延」ではないかと思うようになった。そして水村早苗もそう考えたのではないか、そうであれば水村早苗の続編は納得のいく結末だったという気もする。津田は好きだった女性が突然ににべつの男のところに嫁っていき、その理由がわからず、いくばくかの未練ももっている男である。お延は自ら津田を愛し、自分が愛したのなら夫にも愛されることを至上と考える新しい女性である。この女性像は「三四郎」での「美揶子」や「虞美人草」での藤尾が混ざったような女性像である。漱石はその種の女性を実は嫌っている、ということは彼の書簡でもわかる。

 その漱石が「お延」を中心におき、夫である、どちらかというと、つまらぬインテリ性をもつ津田がそそのかされて、去ってしまった女清子が伊豆だったか、箱根だったか、温泉に長逗留をしていると聞き、お延に黙って、清子の様子を伺いにいき、機会がれば、自分から去った理由を聞き出しにいくのである。ここで、漱石は筆を折るのである。

 出てくる人間関係や心理は今と変わるところはない。ただ大きく違うのは、当時特殊だった「お延」のような女性像は今や当たり前になっていて、さらに強くなっていることだ。従って、現代風に「続明暗」を書くならば、お延はさっさと、現場に乗り込み、離婚届け出用紙を叩きつけ、慰謝料をもらい、次の恋愛に向かうことだろう。

  それにしても漱石の細かい心理の綾を表現する上手さには、感嘆する。

 

 


つまらぬ評論家

2015年09月26日 | 社会・経済・政治

 今日は週刊誌をまとめ読みした。「文春」「新潮」「現代」「ポスト」「フライデー」なおである。

 早速というか、案の定というか、  SEALDsで名を上げた奥田という学生の親は反天皇主義者で、と冷やかしているのもあるし、朝日新聞に就職が内定しているとか、本人は産経新聞に入りたい、とかいった記事が載っている。

    立花隆というのは甚だ迷惑な評論家だと以前から思っているが、神戸の元A少年の病気は治っていないのではないか、と書いていた。

  元少年Aは今や青年男子で、脂肪のない、白い肌をして筋肉が盛り上がった体になっている。  その彼が僕らには発想も及ばない自画像ともいうべき写真を公開している。芸術作品とも言えそうな写真、例えば仰向けになって腹筋で頭を上げるような格好で、両手は巨根を掴んでいる。頭と顔には兜のようなものを被っている。そのデザインも彼が自ら製作したにちがいない。

  芸術とは根本の発祥から言えば自己慰安であり、自己の発露である。

  こういうホームページを作ったからと言って立花は言うべきではない。あなただって病気かもしれない。

太宰治も心中事件を起こし、二人の女性を死なせている。最初の一人は殺人と言ってもよいと思う。  

 別に元少年を援護するわけでもないが、僕だったら芸術を志していそうな彼には、あれこれ言うべきことはないと思う。なぜ、病気は治っていない、と言うのかぼくにはわからず、立花隆の文からも紐解けなかった。自分の日記みたいな文で、監視社会を代表するようなことを言うなよ、と言いたい。


宝物

2015年09月22日 | 日記

前の浜のいつもの突堤でハゼ釣りをしていた。名古屋ナンバーの車を停め、叢の草を刈り取っている男がいる。そこの土地の持ち主なのだろうか、と思い「ながら、ハゼを釣っていた。すると、その男性が僕のところにやってきて、「ハゼ釣っとんの。オレ、若く見えるけど、50歳でさあ、もう尾鷲に30年通ってるんよ。今日は夜釣りするんで、暇なもんやから、そこの草刈りやっとったんよ。よくやるんよ。海の掃除。ほら、あそこに浮いてるのも、なんか嫌でしょ」と、市場の岸壁の下に溜まったごみを指さした。その男はネックレスをし、なんかだかんだと飾り物を上衣につけ、人懐っこく喋ってくる。僕は「夜は何を釣るんですか」と訊くと、「シーバスやマゴチやね」 「ここで?」「そう、あそこ」「で、釣れるんですか?」「よう釣れる。よ。尾鷲の人はスズキ(シーバスのこと)とかマゴチあんまり釣らんでな。オレ、ここみんあ知ってるで。ウナギいっぱいおるわ。あそこではアサリが採れる。で、ここの先っぽからだと、マゴチ、スズキ、ヒラメやね」   僕は思わず、「本当ですか。ルアーでやるんですか」と訊くと、「そう、ルアーやね。おとうさん、ほら、そこに3匹ほどいるで」と言って、僕に釣れと促す。相当目がよいらしい。風波もあってハゼの姿は僕には見えないので、僕は目釣りではなく、脈釣りをしている。「あおの石、そう、そう、そこ、あっ、もうくいついてるわ」と言うと、、僕の竿にもプルプルと振るえがあった。上げると型のよいハゼだった。おとうさ、と呼ばれるのは可笑しかったが、彼はまた、「あそこにもいるよ」と言って、「おとうさん、ちょっと針が大きいんじゃないの」「小さいハゼを釣りたくないんで、わざと大きいのをつけとるんや」と言うと、「ちょっと待っとりなや」と言って、彼は車の方へ行き、小さい針の仕掛けを作ろうとする。「いらんで、これでええんや」と言っても聞かず、僕は苦笑いして、彼が仕掛けを取り替えるのを黙って見ていた。「これでやってみい、爆釣りやで」と笑った。そしてその通り、僕はどんどん釣った。20センチくらいのまで釣った。するといつの間にか、彼はいなくなり、車もなかった。「夜この辺で灯りがついていたらオレだからね」と言っていた。 僕は宝物のような釣り場のすぐ近くに住んでいるのだと思った。ウナギ、ハゼ、マゴチ、スズキ、ヒラメ、それにアサリか。こりゃあ贅沢なことだ、と思っていたら、娘と孫が加わって、爆釣りをしたのだった。

 

 

 


ショック

2015年09月19日 | 日記

  娘家族がきて、夕方5時過ぎから、日本酒をのみ始めた。いつもののんびりとしたパターンが違ったのか、酒の肴をあまり食べなかったのか、それともあまりにも飲み過ぎたのか、不覚にも気持ち悪くなって、吐いてしまった。バツが悪いのと、ショックで、しばらく茫然自失としていた。気をとりなおすのに、ぼんやりとテレビをみていた。「民王」を見て、NHKにチャンネルを替えると、参議院の本会議の中継をやっていた。反対意見、賛成意見を聞いていたらもう2時半になっていた。続いて、首相へのインタビューやら各党の議員へのインタビューやらの感想を聞いていると、3時である。すると、NHKの解説員3人での「時論口論」があったの見ていたら、3時半になってしまった。ショックからまだ立ち直れず、眠気がやって来ないので、福岡伸一の「動的平衡2」を再読した。それでも眠れないので、「中上健次」の短編小説「荒くれ」を読んだ。まだ中上建次が20代の頃の作品で、たぶん「岬」を書く前々の作品だと思われる。確かめていないが、中上健次の文学たる芽生えはあるが、文が下手で、想像力ともいうべくものがない。ただ勢いで書いているだけだ。それでもすでに、中上のモチーフは提示されていた。「血脈」へのこだわりは彼の貧乏くさい、暴力的な作品をかろうじて作品としての力を支えている。それで、5時になってしまった。無理やり寝たら、起きたのは10時だった。不快な一日が始まった。やっぱり元気がない。

 

 

 


乗っとり

2015年09月18日 | 社会・経済・政治

日本の憲法が乗っ取られそうである。こういうのを「クーデター」と呼ばずして何というのだろう。無血クーデター。クーデターと言えば、武器をもって体制をひっくり返すというイメージがある。しかしこんな方法もあるのか、と驚かされた。

 集団的自衛権への理解が深まったから、全国各地で反対の抗議がなされている。

安部政権は圧倒的多数の議席を得、アメリカへ行き、安保法制の約束をするところから始まった。今日参議院で可決すると、クーデター成功となり、日本人旅行者も、自衛隊員の命も次元の違うレベルで危なくなる。

 これで抑止力がたかまるとは思えない。中国もロシアも日米同盟を知っている。 残念なのは「戦争をしない国」という人類が憧れる憲法をもっていたのを過去に戻してしまい、戦争ができる国にしてしまうことだ。

  昨日オーストラリアがシリア空爆を行った。アメリカから空爆の要請があればどうするのだろう。国会の承認を必要とする付帯決議はしたものの、それは信用ができるものではない。集団的自衛権を合法化したのだから、与党の判断でどうにでもできる。

201年9月18日は大転換期である。

 


アメリカの都合

2015年09月17日 | 社会・経済・政治

 このままゆくと、日本はアメリカの都合に追従せざるをえなくなる。アメリカによる抑止力よりも、追従せざるをえないことのほうが恥である。あえて「恥じ」と使う。アメリカの都合に合わせる、という風に結果がなりかねないからである。 

 日本は独自の判断をすればよい。日本を守ってくれているのに、同盟国のアメリカを守らないというのは仁義におとる という勇ましく言う政治家もいるが、戦後の日本は一度もアメリカから助けられたことはない。ただ日米安全保障条約があっただけである。その間にアメリカはヴェトナムから撤退した。ヴェトナムは徹底抗戦して、核をもつアメリカに対して戦った。日本は基地を提供した。

  23歳の大学生が述べる内容を聞いて、日本人の立憲主義、民主主義、個人の自由、戦争忌避が戦後70年の間に、根付きつつあることを思った。

 アメリカは今や、知らぬまに、帝国になってしまっている。世界の生産量の25%を占める経済 軍事大国である。それは恐竜に寄生するようなものである。日本はどの国とも戦争せず、仲よくすればよいのだ。小さな、資源のない島国なのだ。ひっそりといればよい。技術や芸術や、サービスを最高度に考えればよい。

 


夕方の楽しみ

2015年09月16日 | 日記

  白鵬が勝ちつづけると、観客は倒そうとする相手に大声援を送り、まさか白鵬に勝ったりすると割れんばかりの拍手に、座布団が飛ぶ。

 奇妙な観客の心理である。その白鵬が2日続けて負け、3日めから休場した。横綱になって初めてのことである。白鵬がいなくなると、いっぺんに大相撲に面白味が薄くなってしまう感じがする。昨日のNHKでは、入り口の観客にインタビューしていた。すると、場内での心理とは違って、白鵬に心温かいエールを誰もが送っていた。白鵬がこれをみていたら、涙を流すのではないかと思えるものだった。

 絆創膏やサポーターなどしない横綱である。その横綱が左膝炎症だという。あのくらい柔らかく 、力の伝え方もわかり、機敏な反射神経を持つ白鵬でも、関節の炎症というものがあるのか、その原因は何だろうと知りたくなる。

 大相撲が始まると、夕方は楽しい。相撲をとっていたことがあるので、なんとなく感触がわかる。いつも注目してみるのは足底筋で体を支える力である。白鵬は蹲踞するとき、親指から小指だけでほぼ垂直で蹲踞する。それだけ強くしなやかな筋肉をもっているのだと思うし、そこからダッシュする時間も速く、力も強いだろうと想像する。それに相手側を睨まないのがよい。睨むと自分の筋肉は緊張する。

  相撲を見ながら、あれこれ思う。稀勢の里も今場所はチャンスである。遠藤も調子がよさそうだ。

 


福岡伸一

2015年09月14日 | 文学 思想

 吉本隆明が死去してから、読書への僕の関心は「福岡伸一」と「村上春樹」にある。吉本隆明の言葉は初め難解であったが、四十年も読み続け、再読を重ねていると、僕の中で僕自身の骨や筋肉になっていくようだった。福岡伸一は分子生物学者である。文が学者の文ではなく、どちらかといえば文学的な文をかける人だ。彼は「生命とはたんぱく質の分解と化合の流れの中で平衡を保っている」と言う。こういう言葉はわかりにくい。わかりにくくさが消えるまで再読を重ねる。「生命とはエネルギーと情報の流れである」という言葉がくっついてくると、それはどうやらたんぱく質が行っている。酵素もたんぱく質である。

 私たちは瞬間瞬間たんぱく質が死に、生まれ、それが化合して生まれ変わることを繰り返している。

 福岡伸一の思考のしかたになれていき、自分の言葉としていくためには自分の思考回路を通り、そこで、濾過もし、取捨選択し、自分これまでの思考と照らし合わせ、という作業をやっていくしかない。面白い本とはそのようなものだ。

 読んでいたはずなのに、記憶されていないことがひとつあった。

 取りすぎた過剰な脂肪酸や糖質はブドウ糖となって脂肪細胞組織にあるマカロニのような装置で脂肪組織に取り込まれ、脂肪となって保存される。私たち人間が飢餓状態で700万年やってきた、生き延びるための装置だ。獣がとれたら、どっと食べて体内に保存しておく。それが脂肪である。もちろん脂肪はエネルギーの元となるひとつである。するとそのマカロニのようなブドウ糖を取り込む命令をだすところはどこか。毎日基礎代謝である2000キロカロリーに対して2000キロカロリーをとれば溜め込めばマカロニはブドウ糖を吸収して脂肪をつくらずともいいのである。でも飢餓から開放された今の時代、溜め込む必要もないのに、僕らは過剰に食べる。飲む。するとマカロニが出てきてブドウ糖を脂肪細胞に取り込んでいく。この指令塔は実は膵臓である。膵臓のランゲルハウス島である。

このことを確認した。すっかり頭の中から去ってしまっていた。 


定義

2015年09月12日 | 社会・経済・政治

  言葉の定義は法律上では重要である。たとえば「幹線道路」とは何か。普通に生きている人ならわかるはずがない。

僕の母は幹線道路の横断歩道付近で車に跳ねられた。 このとき、幹線道路を横切っていたのなら母の過失割合が10ポイント高くなるのである。またその事故時が夜であったらまた5ポイント高くなるのである。僕が発見者であるため、当時の薄明かりがわかる。僕も、加害者もまだ車のライトをつけていなかった。それほどの薄暗さだった。これを夜とみなすかどうかが問題となる。

 今日は母が横切った道路が幹線道路であるか自分で調べた。パソコンが使えない弁護士はこういうことができないのである。僕は「中井浦九鬼線」の起点と終点を調べた。すると、この道路は1992年までは国道311号線で、九鬼トンネルができたことで、その道が311号となり、母が横切ろうとした道路は県道778号になっていた。つぎに幹線道路の定義を調べた。幹線道路とは道幅14m以上で歩道と車道をもち、駅、空港、港、市役所に起点か終点かが直接につながっている道路を言う。 

 母が使った道は「生活道路」であるはずだ。保険会社は「幹線道路」「夜」を主張し、母の過失は3割だと主張する。

示談などしていたら、むこうの言いなりになってしまうことがわかる。この道に信号はないこと、沿線沿いは住宅地であり、3軒ほど店があり、歩道があるところとないところがることを写真に納め、地図で起点と終点を示し、航空写真も印刷し、ついでに尾鷲市の都市計画道路に入っていないか念のためにチェックし、弁護士に送った。これは本来弁護士の仕事であると思うが、パソコンが使えない弁護士も相当数いる。これは困ったものだと思う。パソコンができない議員もいる。手書きで書いてきて、議会事務局がパソコンにうち、記者クラブなどに配布する。無駄なことだ。

 往復で5000円つかわずとも、タブレットかパソコンで映像を使って話もできる時代になっているというのに。新陳代謝についていけないのを「老化」と定義したくなる。

 

 

 

 


不規則性

2015年09月10日 | 文学 思想

 卵子と精子が合体してそこから細胞分裂が起こる。2個、4個、8個、16個と分裂していく。分裂した細胞はある程度(2百数十個)になるまで、自分が何になる細胞かがわからないらしい。周囲との関係性で「オレは骨になる、「オレは神経になる」 という風になっていくらしい。

 そんな本を読んでいて、いつも不思議に思っていたのは、オーケストラで、女性がユーフォニアとかチューバをやっていると、どうしてその女性はあんな重たそうなチューバ奏者を選んだのだろうと僕はいつも思うのだ。ファゴットにしてもである。その学期の音を聞いて、「ああいい音だ」と感じたのか。人間を1個の細胞に喩えれば、その集団の内部における関係性において、誰もやる人がいないから「じゃあチューバを私がするわ」とか「お前、チューバやれよ、ガタイも大きいし」とか言われて、「いやだなあ」とも言えないものがあったりするのだろう。

 私たちは毎日物を食べる。食べると私たちのタンパク質の死ぬべき物は死に、新たに作られるものは新たに生きる。今日の自分と昨日の自分は全く違うのに、自分であることを保っている。「これを動的平衡」という。人間は生き死にして流れるように生きて、それでバランスをとっている、ということだ。

「入り」と「出」を分子のレベルで見るのと、「食べる」と「排泄」するというのは同じように見える。当然出るべきものがでないとそれは「停滞」となる。停滞したものは内部で腐る。「停滞」は便や尿だけではない。血液や神経や筋膜にも停滞は起きるだろう。骨にも起きるはずである。

 食物から摂るたんぱく質は胃で消化され、十二指腸で消化され、アミノ酸となって小腸で吸収される。そこから肝臓へいきそのアミノ酸がビタミンやミネラルらと反応を起こして身体の各部に必要なたんぱく質となる。不要なものは排泄される。

 この動的平衡が僕について言えば、毎年のように崩れていく感覚がある。歯1本ないだけでその平衡はやや崩れる。顔の筋肉が緩み、たるむことだけでもやや崩れる。その身体の崩れは、そのまま心の崩れにも現れる。それでもなおも生きる。それは僕らが本質的に不規則にできているせいだ、と僕は考える。これを規則性と考えれば生きていくのは難しい。お腹が空いたら食べる。何も12時になったら本当は食べる必要もない、早寝早起きが人間としての規則性だと言えないのは、僕が不規則に生きている多くの人たちが長命でいる人も多いことでもわかる。人間は言語を獲得したことによって、それを口にだすことによって「不規則性」を同時に獲得したように思える。動的平衡というのはそういうあやういところで人間が生きていく流れのようなものだ。

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難関

2015年09月08日 | 文学 思想

  

  中編小説を2つ。短編小説を1つ完成させた。その他に原稿用紙を160ページ以上となってきた小説は165ページぐらいで破綻し、脇に置いた。他の短編2つも脇に置いた。
 毎日4時間、集中して書いていると案外なページ数書けるものだと思った。佐伯泰英などはどんどんと本を出しているが、一度名をなせば相当書けるものだと思う。
 新人賞の公募に出そうと思っている。この年でも新人賞から入らないといけない。

 友人岡田さんの剣道最高位八段挑戦は東大に入るよりも難しいと言われるが、新人賞の受賞者を見ていても芥川賞を見ていても、そのうちで作家として生きていけるのはごく少数であり、これもなかなかに難しいものだと思う。難関である。

 漱石や鴎外、また近年では太宰治の時代にあっても、映画やテレビ、漫画、イラストレート、デザイン、コンピュータグラフィックなどはなく、戦後の経済成長の頃からいわゆるサブカルチャーの隆盛によって芸術的というか、クリエーターとしての才能が分散し、拡散していった。小説家や画家になるものが漫画家になったり、映画人になったりする。
 サブカルチャーと純文学を融合させた傑出した作家は日本では村上春樹ということになるのだろう。彼は、「1Q84」でファンタジーとエンターテーメントと文学を見事に合体させた。
 小説は毎日いくつもいくつも発刊される。しかし1度読むと、2度と読む気になれないものばかりで、内容さえも忘れてしまっているのが多い。深く感動し、こころにいつまでも残り、また読んで見たいという作家は本当に少ない。けれどいる。
 戦後の人のみを自分の知見で上げてみる。
 三島由紀夫の「豊饒の海4巻」、中上健次の「千年の愉楽」、村上春樹の「短編集」及び「1Q84」、津島佑子の「夜の光に追われて」。吉野弘と谷川俊太郎の詩集。吉本隆明の全発言。
 何度でも楽しめるのは池波正太郎の「鬼平」と「剣客商売」、藤沢周平の「秘剣物」、三木成夫の著作物全部。こんなところだろうか。
 
 小説を書きながらくつろいでいるときは他の本を読む。音楽を聴く。テレビを見る。テレビが特に好きなので、その構成と脚本に注意を向けてみている。
 最近は、「情熱のシーラ」の画面背景が素晴らしいし、マドリード、リスボンと行ったことのある場所なので興味を持って見ている。背景が素晴らしい。「刑事フォイル」も始まった。「情熱のシーラ」は1940年代のスペインとポルトガルのリスボンであり、「刑事フォイル」も1940年代のイギリスである。ナチス台頭の時期である。

   いつも楽しみにしているのは杏の「花咲舞は黙っていない」である。
 時々外国の街をぶらぶら歩くNHKの番組も旅する気分になって見ている。
 ニュース番組は比較してみる。最近のNHKのニュースは気に入らない。ニュース番組であTBS土曜日の「報道特集」である。関口宏の「風をよむ」もよい。
 「たかじんのなんとか委員会」は見なくなった。アホの集まりに思える。だいたい声高に喋る奴は信用しないほうがよい、と思うようになっている。大事なことを言う時は声は大きくならないものだ。潔い奴は無口なものだ。

 NHKとアメリカのABC放送が共同で、世界で初めての映像を集めて、新技術で見えやすく再生しているのをみた。1900年。夏目漱石がロンドンにいく途中パリでの万国博覧会を観た。ちょうどそのとき、裏町の通りで男と男がフェンシングの剣で決闘をしていた。1900年はまだそんな時代だった。
 こういう貴重映像はおもしろい。こんな面はNHKはさすがである。ただこの頃のニュースではよほど大きなデモでもない限りNHKは報道しないし、解説も加えない。記者はやっているのだろうが、中間管理職か幹部のどこかで控えられるのだろう。籾井会長を窺っているのだろうと思ってしまう。

 さて、集団的自衛権。アメリカの思うツボにはまっている。アメリカはやっと自分たちの国は帝国であることに気が付き始めた。そして勢力のバランスを考え、自国軍の上陸部隊は出さなくなった。 

   思えば、アメリカが自国が帝国となっていることに気が付くまで、ベトナムで敗戦し、アフガニスタンで終わるはずもない戦争が長期化し、イラク戦争で混沌を作ってしまった。今やトルコ、ギリシャ、ドイツなどに難民が押し寄せている。ようやく気がついて、自らが軍隊を動かすことなく、勢力バランスを図ることに傾注するようになった。その政策転換はオバマ政権の後半から始まった。イランとの和解。キューバとの和解。メキシコへのしらん顔。アフリカへの無関心。ロシアとドイツの分断。日本は9月14日に、そんなアメリカの政策を担う一員となるかもしれない。世界の情勢を見れば、日本こそが理想的な国であり、理想的な憲法をもった国とも言える。未来への財産をもっていると言ってよい。人々は誰しも思っている。戦争は悪だと。
                 

  


トラウマ

2015年09月07日 | 日記
 ずいぶんと涼しくなってきました。僕は先週から歯科医院通いをしています。歯医者さんとはいうのは恐ろしいといつも思います。
 僕はひどい方向音痴で一度いった場所に2度目いけるかというとなかなかいけません。毎度失敗します。違う脳になってしまったように感じます。そしていつも幼年期に迷子になった記憶がでてきます。あの頃と同じように、角を曲がり、見覚えがないと思ってはまた別のところを探すというようなことです。ナビに住所をいれておかなかった場合はひどいものです。
 新大坂駅など複雑なところでは僕の場合ナビでも行けません。これも恐ろしいことのひとつですが、僕は結構見知らぬ場所によく旅行はします。
 苦手なのは居住する場合です。ロンドン時代でも東京時代でもバリ時代でも尾鷲時代でも住まいの100メートルとかせいぜい200メートル以外探索はしません。だからロンドンでも
住んでいたフラットの周辺になにがあるのかよくわからないのです。元住吉に住んでいたときも、渋谷に住んでいたときもそうでした。
 ところが娘たちはそうでないので、最近になって僕のトラウマなんだと思うようになりました。おそらく方向を整理しなくてはならない頭になると脳がパニックを起こすのです。たぶんそうです。ゴキブリが恐ろしいという人がいます。それは誰かが、母親とかがキャアといい、ブチ殺したか、父親が代わってブチ殺したのを記憶にないトラウマなのだと思います。


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中国

2015年09月06日 | 社会・経済・政治
中国と日本がバレーボールで戦っている。中国はアメリカからアナリストを招聘して、チームの強化に取り組んでいる。
陸上の世界大会も開いた。
中国をみていると、国際社会というか、先進国社会に積極的に入っていくことを希望しているように見える。国内的には我が党の力強さを見せつけたいようにも見える。
中国の6000万人が中級層であるが、残る12億4000万人が貧困に喘いでいる。この貧困層をどうするか、これが国内の問題で、汚職摘発も、その問題の中にある。

そう考えると、中国は戦争を仕掛けてくるはずもないと思う。それをすればたちまちに中国の経済がなりたたなくなる。不平をもつものが暴動を起こす。ウィグルが反乱を起こす。香港なども党に従わないだろう。

そんなことを思いながらバレーボールを見ている。もちろん、バレーボールにひたすら打ち込む選手たちにはさほど関係のないことだ。
抗日パレードへの中国の若者へのインタビューをみても、パレードを観る人々の余裕も、「知日々」」という日本を紹介する雑誌も若者に受け入れられているし、日本から学ぶべきことは多いという。

「続100年予測」(ジョージ・フリードマン。早川書房) は2011年に書かれた。続は100年ではなく、2012年から10年間の世界情勢の予測を地政学から説いている。
予測の多くは当たっている。アメリカはイラン、キューバと和解した。ドイツとロシアにくさびも打っている。トルコがアメリカやスンニ派アラブ諸国の要請に応えた。

午後、コーヒーを飲みながら、妻と話をした。
「石油などの資源獲得が争いのもとなんだから、日本はそれがないのだから、すべてを木や土で賄えないものかねえ」と言うと、
「日本は明るすぎるわよね。コンビニも、どこももっと暗くていいよね」
「乏しい生活なんてできるんじゃないのか。江戸時代に戻っても、いいくらいだ。木と紙で文化を作ったのだから、せめて半分でも木や土や太陽や水、風でエネルギーで資源を賄えないものなあ。トイレだったら、バクテリアで、暖房はチップで、乗り物は太陽熱やその他のもので、と」
「このまま突き進むのよね」
「だな」
などと雑談したのだった。