中編小説を2つ。短編小説を1つ完成させた。その他に原稿用紙を160ページ以上となってきた小説は165ページぐらいで破綻し、脇に置いた。他の短編2つも脇に置いた。
毎日4時間、集中して書いていると案外なページ数書けるものだと思った。佐伯泰英などはどんどんと本を出しているが、一度名をなせば相当書けるものだと思う。
新人賞の公募に出そうと思っている。この年でも新人賞から入らないといけない。
友人岡田さんの剣道最高位八段挑戦は東大に入るよりも難しいと言われるが、新人賞の受賞者を見ていても芥川賞を見ていても、そのうちで作家として生きていけるのはごく少数であり、これもなかなかに難しいものだと思う。難関である。
漱石や鴎外、また近年では太宰治の時代にあっても、映画やテレビ、漫画、イラストレート、デザイン、コンピュータグラフィックなどはなく、戦後の経済成長の頃からいわゆるサブカルチャーの隆盛によって芸術的というか、クリエーターとしての才能が分散し、拡散していった。小説家や画家になるものが漫画家になったり、映画人になったりする。
サブカルチャーと純文学を融合させた傑出した作家は日本では村上春樹ということになるのだろう。彼は、「1Q84」でファンタジーとエンターテーメントと文学を見事に合体させた。
小説は毎日いくつもいくつも発刊される。しかし1度読むと、2度と読む気になれないものばかりで、内容さえも忘れてしまっているのが多い。深く感動し、こころにいつまでも残り、また読んで見たいという作家は本当に少ない。けれどいる。
戦後の人のみを自分の知見で上げてみる。
三島由紀夫の「豊饒の海4巻」、中上健次の「千年の愉楽」、村上春樹の「短編集」及び「1Q84」、津島佑子の「夜の光に追われて」。吉野弘と谷川俊太郎の詩集。吉本隆明の全発言。
何度でも楽しめるのは池波正太郎の「鬼平」と「剣客商売」、藤沢周平の「秘剣物」、三木成夫の著作物全部。こんなところだろうか。
小説を書きながらくつろいでいるときは他の本を読む。音楽を聴く。テレビを見る。テレビが特に好きなので、その構成と脚本に注意を向けてみている。
最近は、「情熱のシーラ」の画面背景が素晴らしいし、マドリード、リスボンと行ったことのある場所なので興味を持って見ている。背景が素晴らしい。「刑事フォイル」も始まった。「情熱のシーラ」は1940年代のスペインとポルトガルのリスボンであり、「刑事フォイル」も1940年代のイギリスである。ナチス台頭の時期である。
いつも楽しみにしているのは杏の「花咲舞は黙っていない」である。
時々外国の街をぶらぶら歩くNHKの番組も旅する気分になって見ている。
ニュース番組は比較してみる。最近のNHKのニュースは気に入らない。ニュース番組であTBS土曜日の「報道特集」である。関口宏の「風をよむ」もよい。
「たかじんのなんとか委員会」は見なくなった。アホの集まりに思える。だいたい声高に喋る奴は信用しないほうがよい、と思うようになっている。大事なことを言う時は声は大きくならないものだ。潔い奴は無口なものだ。
NHKとアメリカのABC放送が共同で、世界で初めての映像を集めて、新技術で見えやすく再生しているのをみた。1900年。夏目漱石がロンドンにいく途中パリでの万国博覧会を観た。ちょうどそのとき、裏町の通りで男と男がフェンシングの剣で決闘をしていた。1900年はまだそんな時代だった。
こういう貴重映像はおもしろい。こんな面はNHKはさすがである。ただこの頃のニュースではよほど大きなデモでもない限りNHKは報道しないし、解説も加えない。記者はやっているのだろうが、中間管理職か幹部のどこかで控えられるのだろう。籾井会長を窺っているのだろうと思ってしまう。
さて、集団的自衛権。アメリカの思うツボにはまっている。アメリカはやっと自分たちの国は帝国であることに気が付き始めた。そして勢力のバランスを考え、自国軍の上陸部隊は出さなくなった。
思えば、アメリカが自国が帝国となっていることに気が付くまで、ベトナムで敗戦し、アフガニスタンで終わるはずもない戦争が長期化し、イラク戦争で混沌を作ってしまった。今やトルコ、ギリシャ、ドイツなどに難民が押し寄せている。ようやく気がついて、自らが軍隊を動かすことなく、勢力バランスを図ることに傾注するようになった。その政策転換はオバマ政権の後半から始まった。イランとの和解。キューバとの和解。メキシコへのしらん顔。アフリカへの無関心。ロシアとドイツの分断。日本は9月14日に、そんなアメリカの政策を担う一員となるかもしれない。世界の情勢を見れば、日本こそが理想的な国であり、理想的な憲法をもった国とも言える。未来への財産をもっていると言ってよい。人々は誰しも思っている。戦争は悪だと。