25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

絶不調

2019年11月29日 | 日記
 身体が絶不調である。胸が痛み、みぞおちが痛み、左肋間のどこか咳きをすれば痛い。昨日夕方から茶色い尿が出始めた。茶色の尿. 古い血が混ざったような尿。夜もでた。寝る前に水をしっかり飲んで寝たら、夜中に尿意で目覚めた。尿は普通の尿だった。朝起きてトイレいくと、また茶色だった。昼頃にはワイン色のように見えてきた。茶色の尿で検索すると、「横紋筋融解(おうもんきんゆうかい)横紋筋といわれる筋肉細胞が何らかの原因で一部分が死んでしまい、血液中に流れることで起こります。手足に力が入らない、手足がしびれる、こわばる、筋肉痛、全身がだるいなどの症状があらわれ、重度の場合は腎臓の機能が悪くなることがあります」とある。
 2日から東京に行き、人と会う予定だ。1人は台湾から来る。もう1人は中国に多くの人脈をもつ友人。もう一人は3日に小田原で会う。ホームページなどを作ってくれ、いろいとなパソコン操作の情報をくれる友人である。
 キャンセルして病院行くか、3日が終わって、4日に病院いくか。丁度4日はCT撮影で予約もとってある。悩ましいことだ。

 薬剤師さんに「ちょっと太るといといろなもがでてきましたね」と言われたことを思いだした。そうそう、血圧が上がった。熟睡時間が少なくなった。突然、筋肉が動かなくなったこともある。自分としては70キロくらいでしょうがないかと思っているが、本当は60キロくらいがよい。20代の頃は54キロとか55キロだった。体は当然軽かった。

 不気味なことが起こるものだ。しかたない。たぶん自業自得というやつだろう。これから救急で行ってみるか。明日にするか、まだ迷っている。



男優

2019年11月28日 | 映画
 男で格好いい俳優がいる。中でもぼくが好ましいと思っているのは、瑛太、小栗旬、反町隆史、向井理である。中井貴一や阿部寛、渡辺謙は雛壇に置いておく。先の四人ともこれからが勝負なのだろう。よいドラマ、よい役に当たってもらいたい。なかなか今の日本の映画ではよい作品があまりないから、心配する。「復讐するは我にあり」で緒形拳は殺人鬼を演じた。この映画は実際の事件があり佐木隆三が裁判に出掛け、調書を見てルポルタージュとして書いたものが原作である。ミヤコ蝶々が異常なあまやかしかたをする母親役で、三国連太郎が確かクリスチャンで、厳格な男親だった。だが本当の父親の姿はクリスチャンとはほど遠いものだった。そんな親の息子で殺人鬼になってしまった榎津という男を演じた。すさまじかった。中井貴一と阿部寛は「柘榴坂の仇討ち」で追う者と追われる者。確かな俳優魂を見せてくれた。
 俳優は若い時期はさっさと過ぎて行き、これからが本番だ。
 でんでんという俳優は「復讐するは我にあり」を見て、こんなを役やってみたいと思ったのだそうだ。その念が通じたのだろうか、彼に「冷たい熱帯魚」での殺人鬼役が回ってきた。これは全くのはまり役で内臓を取り出し腸でぐちょぐちょになった風呂場でのシーンなどはおぞましかった。園子温監督だった。ぼくはこの時にピエール滝とかリリーフランキーという俳優の隠れた一面を監督が引き出したのはさすがだと思った。人間には薄気味悪いところがあるものだ。リリーフランキーなどは「Covers」で冗談を混ぜて軽妙に司会をする芸能界で生きるオッサンである。それがガラリと変わる。でんでんはその年の映画賞を総なめにした。助演男優賞である。
 丹波哲郎は映画「砂の器」の刑事役がはまっていた。

 現在の俳優は映画にだけ出ていればよい状況ではない。それは高倉健で終わったのだ。十年経って、二十年経って、彼らにどんな役が回ってくるだろうか。

 この前、友人らと食事して、「見出す人、引き出す人」の話題に少しなった。ぼくは今バッハの「無伴奏チェロ組曲」(2種あるので、まとめてそう呼んでおく)を毎夜聴いているのだが、このバッハを見出したのはメンデルスゾーンである。バッハの死後のことである。伊藤若冲を現在の若冲ブームにしたのはアメリカの石油会社の社長のは当たり前息子ジョー・プライスさんである。車を買おうと思ってお金をもって歩いていたときに骨董屋さんお店先に飾ってあった、と言っていた。日本人より先に見出したのである。

 引き出す人、見出す人というのはとても重要である。今、反町隆史は「相棒」で修業している。瑛太や小栗旬、向井理もそれぞれに何かをやっているのだろう。何者かに引き出されて才能がいかんなく発揮されてほしい。


井上陽水の歌詞

2019年11月28日 | 音楽 ポップス
 昨日の井上陽水の歌詞について論議する番組「Love Songs」だったと思うが、興味深かった。ぼくがイギリスから帰った1973年には井上陽水のアルバムが大ヒットしていた。ぼくはキャロルキングを聴いていて、クラシックなどにも手を出していた頃だった。あの字余りのような歌詞が気にいらず、陽水の歌はずっと避けてきたのだった。ところが「陽水トリビュート」が十年ほど前に出て、いろいろな歌手が歌っているのを聞いて、井上陽水って、いい歌を作っているんだと思ったのだった。

 そしてぼくは鈍感なのだろうか。歌詞は面白かったが、思い付きのコラージュみたいなもんだろう、と思っていた。ところが昨日4人の男女、作家やシンガーソングライターは真剣に歌詞について論じていた。

 リバーサイドホテルの歌詞には重複した同じ意味をした箇所がある。たぶんわざとそうしている。

 部屋のドアは金属メタル
 に浮かんだプールでひと泳ぎ
 川沿いリバーサイド

 チェックインなら寝顔を見せるだけ

  これは意味不明である。女の作家は「死んでいるのではないか」「川は三途の川で生の側と死の側の境にプールがあるのではないか」と言う。へえ、そんなもんかね。つまりこれは心中の歌だということになる。ぼくはチェックインの時に、バスで疲れたような顔して、男がカウンターでサインするときに眠そうな顔をしてそばにいたという程度の理解だったが、おお、「心中」と読むか、人それぞれだなあ、と思ったのだった。ぼくは熱心に陽水を追いかけてきていない。が昨日のいくつかの初期の作品を読んでいると、コラージュというのは当てはまっていないと感じた。歌詞に一貫して言いたいことがあり、それが一行の歌詞の前後と意味としても繋がっていた。どうやらつながってこず、切り貼りのコラージュのように思えたのは中期以降の作品なのかもしれない。ぼくはテレビで歌う気持ちの悪い妖怪っぽい歌い方の陽水とセットで印象に残っている。

 「帰れない二人」は一体どこに帰るのか、どうなるのか。「もう星は帰ろうとしている 帰れない二人を残して」 ぼくは単純にとても互いに好きあっていて、いつまで経って離れたくなくて、帰れない恋人どうし」という風に読むが、これも心中好きの女性作家はみちゆきの歌ととる。へえーーーーー。深読みすぎじゃないか。

 こんなとき作家が実はこうなんですよ、と言ってくれればいいが、決して言わない。それが有名作家の醍醐味である。テレビ好きな井上陽水はニタニタしながら歌詞論議を聴いていたことだろう。

 松任谷由実もやってほしいし、中島みゆきもやってほしいものだ。 
 
 

対幻想とブッシュ元大統領

2019年11月27日 | 映画
 いくつか思ったことがあり、それが何だったか思いだした2つある。
 大阪の12才の女児が栃木の小山市で見つかったことで、SNSの危なさが取り沙汰されている。若い容疑者は「悪いことはしていない」と言っているようだ。このおとこは15才の少女も軟禁していた。
 15才の少女の場合はどんなのだったかしらないが、12歳の少女の場合は逃げたのだから、自分の迂闊さに今頃は気を留めていることだろう。マスコミ情報番組は歯切れが悪いので、代わりに言っておくと、親が悪いのである。スマホの扱い方などは家庭での教育であり、躾である。
 親から逃げたい子供は多い。引きこもりも同じである。
 「イエスの方舟」騒動のとき、千石イエスを悪者にして、「娘を返せ」と叫んでいた親がいたが、「悪いのはあんたらじゃないの」と思ってニュースを見ていたものだ。結局、イエスの方舟信者たちは今も元気に宗教的生活を重んじて生活の糧を得るのに働きながら共同生活をしているようだ。
 現代の「対幻想」の実態をよく表している。一対一関係の観念の領域のことだ。自分対母親、自分対父親、自分対姉とか兄、あるいは妹や弟。自分対教師。自分対クラスの1人1人。
 この関係幻想がSNSを呼び込むとも言えるし、ヒビが入った対幻想にSNSが入り込んでくるとも言える。対幻想の崩壊の例は女児虐待死であり、崩壊までの中間にあるのが引きこもりやいじめである。恐らく母との関係が歪んだ幻想を作っている。その母に影響するのは男の存在であり、経済社会環境の存在である。母と子供の物語は一方的な子の訴えにたいして全面的に受け止めることのできる母と、それができない事情のある母がいる。程度の差こそあれ、母ならば、だれもが心当たりあることである。

 次に思いだしたことは、ブッシュ元大統領である。「朝まで生テレビ」でイラク戦争前に「イラク手をだしたらいけない。シーアの国だ。それなのにスンニ派が政権党である。国は混沌とする。族長もいる」。
 上はイランであり、隣がシリア、下がサウジアラビアである。イスラエルも横にある。この国に戦争をしかけるな、と当事の出演者の半分が言っていた。日本の小泉純一郎総理大臣は真っ先に応援のメッセージを送った。
 そらみたことか。今のイラクはどうなっている? どれほどの人が死んだ?
どれほどの一般人が死に、家は壊され、ついにはISを生んで、娘らが誘拐された。いまは混乱の極みである。ブッシュというアホな大統領を持ち、チェイニー副大統領という先の読めない指導者をもったアメリカ。石油利権を求めるハゲ鷹。小泉純一郎もぼくは愚かだったと思う。数人の判断でイラクを攻めた。今の中東はその結果であり、今のアメリカもひいてはブッシュの結果である。たったひとりの人間である。
 このことも記しておこう。当事、先を見てイラク戦争に反対したのがフランスとドイツ、それにイスラエルだった。

COVERS

2019年11月25日 | テレビ
いつもいくクリニックの順番が2時間待ちの様子で、予約だけしておいて、頃合いを見はからってくるから、とクリニックを抜け出し、事務所に戻った。結局、自分自身の判断ながら、大層な病気ではないだろう、つまり癌とか胃潰瘍とか、膵炎とか、そういうものではないだろうと自己判断していつものクリニックに相談に行くことにした。
 事務所と言っても母親の住まいなのだが、母親を見守るために、実家を事務所にしたのである。
 クリニックにいくと、すぐに名前の呼び出しがあった。これはラッキーと、血圧器で血圧を測ると、160ー102という新記録的な数値である。急いで動脈マッサージをして、待ち室で、本当の呼び出しを待った。
 ここのクリニックの先生は休んでいる、
代わりの先生は女性の医師でハキハキとしており、好印象であった。まだ20代に見えた。さすがキーボードの扱いが早い。
 ぼくは今日までのことをひととおり話をすると、「CTをとりましょう。腫瘍やヒビもわかりますから。それからですよ」
 ということで、尾鷲総合病院にここのクリニックから予約をして、データだけもらってここで再度診ます」と看護師の説明だった。拒否する暇などない。もちろん、医師からしてみれば、すべてを検査してからということだろう。「癌じゃないですか」「いや、その心配はないですね」というやり取りは成立しない。
 血圧は少々下がっていた。
 昨晩はNHKの「COVERS」があってついつい夜更かししてしまった。へえ、井上陽水の歌を他の歌手が歌うのである。ああ、陽水も「Tokyo」って題の歌作っているんだ。へえ、山口百恵にも「クレージーラブ」を提供してるんだ。へえ、郷ひろみには「サファイアブルー」という曲か。
 今、現役の陽水の歌い方はどこか妖怪めいているので、好まないが、上手い歌手が歌うと良い。さらに良さがわかる。それは今の松任谷由実そうで、声があまりにもババっぽい。若い頃のユーミンの歌はユーミンでないといけないが、他の歌手に提供した曲は傑作揃いである。「Wの悲劇」「待ち伏せ」などなど。
 井上陽水の歌もカバーされるのは良い歌ばかりだ。相変わらず「リバーサイドホテル」はよかった。20代の女性歌手が自分の解釈を披露してから歌った。「この歌は心情をいれて歌えばダメだと思う。客観的に、パシッパシッと歌った方がいい」(これはぼくの記憶の解釈言葉で、そのとおりではない)
 その女性歌手は色気も抜き、無機質っぽく歌った。それがよかった。ドアは金属のメタルで---」とでてくるのだ。テレビのプラグは抜いてあるのだ。
 それで寝室でタブレットを触りはじめ、山口百恵の「クレージーラブ」を検索すると、You tube で出てくる。すると山口百恵と三浦友和が「ラブラブショー」がでているのが関連動画で出てくる。それを見ていると切りがなく、寝不足になってしまったのだった。それが血圧に表れている。

肋間神経痛か

2019年11月24日 | 日記
 ブログを読んだということで、岡田さんが電話をくれた。ぼくの症状は「肋間神経痛」ではないか、ネットで調べてみたら、と教えてくれた。みぞおちも痛むらしい。胸も痛むらしい。胸のことは前にも彼に言ったことがある。心臓の検査をしたがなんともなかった。胃潰瘍でもあるのか、肺が悪いのか、肋骨にヒビでも入ったのか、思い悩んでいたのだった。肋間神経痛ということもチラリと浮かんだが、それを調べてみることがなかった。
 今日はみぞおちは痛くない。息を大きく吸うと痛い。咳がでるとピリッと痛い。やはり肋骨周辺なのか。岡田さんの電話を受けて、肋間神経痛を調べてみた。原因にはいろいろあるらしい。癌もある。帯状疱疹も原因としてある。目に留まったのは「脊柱」という言葉だった。ぼくはこの春「脊柱菅狭窄症」かもしれないということで、これをなんとか自分で処置した体験がある。これなのか、と思い、脊柱菅
を整えようと細君に頼んで、仰向けになって「足押し」「両膝横倒し」「膝押し膝落とし」、うつ伏せになって「踵お尻つけ」、たって「屈伸腰押し」をした。
 するとこれまでの痛みが半減した。寝る前にもう一回やり、明日の朝よくなっていれば病院にいくのは止めておこうと思ったのだった。
 今日は、台風のために池の水源がダメになり、取水をあきらめたもで、でっかい鉢を2つ買って、シクラメンを植えた。そして池に水溜まりができる大きな穴があるので、120キロほどのバラスを買って放りこんだがまだ200キロくらい足りないようだった。重いものを運ぶのに、いっぱい汗をかいて、くたびれた。
 それにしてもシクラメンは成功だった。1メートルもある鉢も成功だった。シクラメンが終わったら何にするか、考えるのも楽しみである。
 肋間神経痛と聞いて、それを調べたら、症状があっていて、なんだか安心した。


みぞおちが痛い

2019年11月23日 | 日記
 今年の5月に風邪をひいてから、くしゃみや咳きをすると、胸の肋骨辺りにキーンと痛むが走った。30年くらい前に、肋骨にヒビが入ったことがあって、同じような痛みだったので、いずれ治ってしまうだろうと思っていた。ところがいっこうに治らず、みぞおち辺りが痛くなった。昨晩は朝の4時頃目を覚まし、みぞおちの痛みをこらえた。ガスターも効かないので、何だろう、いよいよいきつけのN病院にいき、胃か、肺か、整形外科的なことか、総合病院のどこにいけばよいのかを訊かなければならないか、と考えた。
 バッハの無伴奏チェロ組曲を聴きながらうちらうつらしていた。変わらずみぞおちが痛く、咳きをすればピリッと肋骨が痛む。
 10時になってN病院にいくと、玄関に貼り紙があり、休診と書いてある。「まだ、先生も入院中か、困ったな」と思い、その足で、総合病院に行った。土曜日だから表玄関は閉まっている。
 地下に救急の人が搬送される裏口があるので、そこへ行ってみた。紹介状は要るのか。要らない。どの科にいけばよいのかわからないが、どうすればよいにか。とりあえず2階の受付でそう言ってくれればよい。ちゃんとしてくれるはずだ。
 わかりました。ありがとう、と言って、今日の不運にガックリときた。

 母のいる実家に行き、昼は何を食べたいかと訊くと、「ラーメン」というので、買い置きがなかったため、スーパーに行った。カップ麺を買い、惣菜コーナーにいくと、旨そうな「牛肉重」を見たので、衝動買いをしてしまった。あれ、食欲があるではないか。痛みと食欲とは関連性がないのか。どういうこっちゃと思いながら、月曜日を待つことに決めた。
 心臓ではないことは前の受診でわかっている。先生にどう言えばよいのか。書いておいた方がいいだろう。
 胃がワルクテ肋間筋が痛いということはあるのだろうか。肺が悪いためにみぞおちが痛いとか肋間筋の内側が痛いというのはあり得るのだろうか。

捨てていく

2019年11月22日 | 日記
昔会社で作ったCDリピーター用の教材。中でもぼくが書いたもの。音声はCDR盤である程度残っていた。ところが教材はもう焼いてしまったのか、事務所をいくら探しても、家を探しても出てこない。前にチラッと見た記憶があるので、どこかにあるのだろうと思っていた。が、ない。音源はソニーのCDリピーターがない限りかからない。しかし優れたソフトがあって、PCに取り込むことができるようになった。これを作るにもスタジオで、英語圏人とでたいへんだったのだ。教材があれば、合わせてそれで資産となる。まだどこかに隠れているかも知れない。

 22年前は知的財産権を資産勘定することはできなかった。現在ではそれを株にして資本にすることもできる。この点でも世の中は変わった。
 資産と言えば、土地、家屋。空き家が増えてどうしようもない状況である。家を昔建てたり、買った人も、たいへんである。子供が家に住むというのなら引き継いでいけばよいが、住まないとなれば壊すお金も用意しておかないと子供らに迷惑をかけることになる。大迷惑と考える人も少ないだろうが、それにしても200万円くらいは解体にかかる。その家と土地を売れればよいが、そうはうまく今の世はいかない。この前、テレビで200万円付きで家を一万円で買ってほしい、という人がいた。200万円払ってでも手放したいのだ。そこに様々な思い出も詰まっていることだろうが、平成、令和と不動産は都会の一部を除いて下がりっぱなしである。思い出もくそもない。手放さなきゃ、維持管理、税金がかかる。台風でも来ようものなら近所に迷惑かけないか心配もする。

 政府が旗降って「マイホームを」とずっと言ってきたが、このザマである。
 鎌倉時代に「家も持つな、何も持つな、早くあの世に行こう」と一遍上人が村々を旅してまわり、人に説いた。その後「時宗」という宗教になった。日本では数年前「断捨離」が流行った。
 細君と話して、まず実家のものとぼくの家のものをゴミに出して捨てていこうか、ということになり、検分して捨てていくことにした。MDプレイヤーなどもう要らない。ハンドタイプのVHSビデオプレイヤーもカメラも要らない。食器も衣類もどんどん捨てていくことにした。3年ほど続ければ相当なくなるのではないか。
 さて最後には家をどうするかの問題がある。どちらもずいぶん傷んでいる。津波も来る。どうしようもない。

安倍政権の横柄さ

2019年11月21日 | 社会・経済・政治
 自分と自民党の選挙運動。安倍昭恵夫人の私的な仲間の招待。ケチケチしたことを言いたくないが言わなければならない。「桜を見る会」は税金で行われているのである。共産党議員が資料提出を求めたその日に「シュレッダーにかけてしまった」というのだから、破棄した官僚も嘆かわしい。きっとデータはどこかに残っているはずだ。税金を払いたくない。

 それにしても安倍政権の横柄さにはあきれる。「森友・加計問題」もひどかったが、今回のもひどい。芸能人を客寄せパンダにして(B級芸能人とはそんなものなのか)、嬉々として安倍首相と映っている姿は「アホかいな」と思うだけである。それでも支持率が高いのだからぼくは国民の意識を測りがたい。

 アベノミクスが始まってからでも実質賃金は上がっていない。株価操作を年金と日銀で行い、海外の株主と国内の株主を儲けさせる。一体一億二千万人いる人口の何%が株の売買をやっているというのだろう。輸出企業は生産量は上げず、為替差益でその差額を内部留保している。チャレンジするリスクはとりたくない。内部留保のお金も社員には渡したくない。設備投資をしても国内の市場は縮小している。連鎖して銀行がにっちもさっちもいかなくなっている。この銀行も知恵がない。IT革命のときにそれがなんだか実はわかっていなかったのだ。本当の奥に潜む可能性というものをだ。
 もちろん安倍政権はわかっていない。そういう人材がいない。加計学園が成長戦略のひとつになってしまう。
 たぶん世界に網を張ったGAFAの本当の意味などわかっていない。

 第一次安倍政権が倒れてから良い薬ができたのか、安倍議員は関西のテレビでタカジンと一緒に風呂に入って、のち金美齢とか三宅何某らと酒を飲みながら放談していた。まだ首相になる前である。みなヨイショして、タカジンなどは後見人であるかのように安倍議員を持ち上げていた。「自衛隊を国防軍と認めようよ」「憲法改正しようよ」「それができるのはあなたしかいない」
 するとその後、なんと野田首相が国会の党首討論で「解散しましょうよ。消費税上げましょうよ」と言ってしまった。安倍議員は目が点になったような顔つきであった。相手の方から言ってくれたのである。ここから安倍政権の時代が始まった。
 もう歴代首相在職最長になったらしい。
 デフレ脱却できず。借金1100兆円。大部分の日本列島の資産はどん減り。賃金上がらず、家計を助けるのに女性も働く。子供が犠牲となる。大きな会社の社員と小さな会社の社員との差も開いてくる。全く展望が見えない日本の社会。そんな中で「桜を見る会」をやって後援会サービスをする。それでもこういう政権が長く続く。日本列島人、どうかしてるよ。オリンピック後どうなるのだろう。

IT だけが指標ではない

2019年11月19日 | 文学 思想
 アメリカのGAFA(どうしてマイクロソフトとツイッターが入ってないのかわからないが)、中国のBAT、さらに控える15億人のインド。第三極を作ると、ヤフージャパンとラインが合併するという。もう遅いのではないかという気がする。パソコン、スマホ、タブレットにはユーザーがいて、ユーザーが便利なように、安全に使えるように絶えず更新されている。GAFA はそうである。マイクロソフトはもう度外視しなければいけないかもしれない。OSで独り勝ちしてしまっている。とにかくウィンドウズがないと始まらない。まず、これに対抗できるのがアップルである。中国、インドでも制作は可能である。
 グーグルもアマゾンもOSに乗っている。
 このグーグルは、検索エンジンとしてのグーグル。広告屋としてのグーグル、アプリを作らせるためのプログラミング道具を提供するグーグルなどなどいくつもの側面があって世界を席巻している。
 ホームページを作って載せるにもグーグル。それを広告するのもグーグルであり、アプリを作って売るのもグーグルなのだからもちろんLineアプリもグーグル無くして考えることができないものである。もちろんアップルのiOSにも二股かけなければならない。

 アプリが売れたらその30%はグーグルが持っていく。なににせよ、作る場合でも、売る場合でも、宣伝する場合でもグーグルがお金を吸い上げていくのである。
 20年前はヤフーとグーグルはライバルの検索エンジンだったのが、今やヤフーもグーグルの手のひらの上でやっているという感じである。つまりグーグルは一ランク上にあり、このランクに対抗できるのは中国かインドしかないだろうとぼくは言いたいのだ。
 昔日本は驚くほどちっちゃい物を作って絶賛されたが、世界をひとつの網で掬いとろうとする発想はなかった。NTTの携帯機能もすごかったが日本を出ることはなかった。
 日本は1995年あたりからに金融ドタバタ自由化、護送船団方式の終了以降、次の産業を産み出すことができなかったのだ。ソニーは先駆けてソフト産業にも行こうとしたが、製造業から脱することができなかった。長い停滞の時期が今も続いている。すでにIT関係は3周遅れとも言われている。追い付け、追い越せというのではない。GAFAやBATは何を生み出すかだ。大いなる分断、格差なのか、社内共産化なのか。中小企業は維持できていくのか。
 IT力だけが指標ではない。そこのところにぼくはまだ期待するのだ。
 5Gの時代がはじまろうとしている。人間はどのような未来を描いているのだろう。



 
 

中国と日本

2019年11月18日 | 社会・経済・政治
1970年代に入っても日本社会、および国民は日本軍兵士がどんなことをしてきたか、というようなことはあまり知らされることはなかった。ぼくはすでに大学生であった。日中国交正常化も成し遂げられていた。徴用された父も多くを語らなかったし、戦争に関する資料が集められ、それが公開されるのを見るということもぼくの場合、なかった。
 だから15年戦争で日本軍は1000万人以上かも知れない中国人を殺したことも知らなかった。中国に対する賠償は、1000万人、家や設備と補償の対象になっていけば日本はいつまでたっても払えず、どうにかなるものでもなかった。侵略に行き、殺したのだから、日本国民の総力を上げてお金を作っても無理であった。ぼくはこのようなことも学生の頃知らなかった。
 日中国交正常化の時、中華人民共和国の毛沢東と周恩来は国民の怒りを抑え込んで、戦後賠償を放棄する決断をした。理由はいろいろある。ひとつには当時のソ連との仲が悪くなり、アメリカや日本に近づいてソ連を牽制する。あるいはまた歴史を知る人であれば、第一次世界大戦でのドイツに対して戦後補償があまりにも多く、それがナチスを生んでしまったこと。あるいは、日中の幅広い経済交流や金融支援、技術供与などで、互いに実をとった方がその実の規模が大きくなるだろうと中国首脳は考えたのではないか、と今であればなんとか言える。
 1000万人も殺された者の家族や友人などからしてみれば半端な憤りではないだろう。その戦争責任者は東京裁判で裁かれ、その英霊は多くの兵士とともに靖国神社に奉じられている。日本の首相が靖国神社に公式参拝をすると必ず関係がぎくしゃくとするのは上記のような背景があるからだ。

 テレビも日本列島人は1000万人を殺すほどの狂気の民族だとは言い難い。このような汚れた歴史は汚れていないものとしてありたい。あるいは「なかったことにする」という手法で日本民族を汚さない。あくまで国民は戦争の被害者だ、というような雰囲気がずっとあった。

 歎異抄の中で弟子の唯円に親鸞が「人を百人殺して来い」という場面がある。数字は正確ではない。1000人だったかもしれない、10人だったかもしれない。唯円は「一人でさえ殺せません」という。親鸞は「ひとりとて殺すことができないだろう。しかし機縁さえあれば100人でも1000人でも人は人を殺すのだ」と言った。ぼくの記憶の中の言葉なので、正確ではないが、主旨は合っていると思う。
 普段の日常なら人を殺すなどと考えられない。恐ろしい。気持ちも悪い。ところが、エノラ・ゲイに乗ったパイロットは原爆を落として何十万人も一挙に殺すのである。あるいは奉天事件のように張作霖爆殺をするのである。南京に入れば、数字の正確なデータはないが、日本軍兵士の証言によれば虐殺を行ったのである。中国政府は30万人と言い、日本の「なかったことにする」人々は「南京虐殺などなかった」と言う。
 あるとき脳の共同幻想の観念領域が個人が死ぬという悲しみを感じさせないほど日本が負けない、日本のために、天皇陛下のためにという幻想に支配されるのだ。みんなで自決なんてこともやってしまうのだ。
 何かの拍子が共同幻想が悪魔となってロックされる。それが戦争である。
 今、当時、日中国交正常化のときの周恩来たちのふところの深さと寛容さを思わざるを得ない。そして戦争時に日本軍兵士が何をしたか。どのように生き延び、どのように死に、幹部はどのようであったか、という真実を後々の世の者たちに伝えなければならない。「なかったことにする」はいけないし、「汚れはない」もいけない。なぜそうなってしまったのか、戦後日本列島人は真摯に向かうことなく、やり過ごしてしまったように思える。

九州場所の女2019

2019年11月17日 | 日記
 今年の九州場所では休むことなく、テレビ画面の左上に身動きすることなく座っている。初日のみ洋装で眼鏡をかけていた。中入りになって、彼女の姿が見えないと、細君に、「おい、きょうはおらんぞ」と言うと、二人で「ウォーリーを探せ」みたいになる。あの小さな画面にぼんやりと何十人もの観客がおり、カメラが動くので、どこにいつのか一生懸命になって探す。すると、いつの間にかいつもの場所にいて、「ああ、今日はちょっと遅れたのだな」と思い、安心する。ぼくは「九州場所の女(ひと)」と呼んでいる。
 彼女は時々大阪場所にも東京場所にも顔を見せるときがある。よほど相撲が好きなのか。客筋から呼ばれたりするのか。毎日テレビ画面に品よく映っているから、NHKの人も、相撲関係者も、全国の相撲ファンもよく知っていることだろう。いんし日はきっとぼくと同じようにどこにいるのか探しているのだろう。一時、花道の前あたりにいたことがあり、その後、場所がコロコロと変わったものだった。
 喜怒哀楽を見せず、静かに観戦している。誰のファンデーションであるか、彼女の表情や動作からはわからない。仕事として観戦しているのだろうか。
 元NHKの相撲アナウンサーのスギヤマさを探すには細君の役割だ。姿が見えないと「どうしたんだろう」「病気でもしたのだろうか」と言い、見つけると安堵のこえで、「ああ、いたいた、よかったあ」と言う。ぼくが見つけた時は「おーい、いたぞー」と声にだす。杉山さんも15日間博多滞在なのだろうか。ときに東京にとんぼ返りするのだろうか。九州場所の女のバーに往くこともあるのだろうか。
 ところで九州場所の客はマナーが悪い。これは相撲協会も徹底しなければならない。立ち合い時は静かにしなければならない。テニスのサーブに入ったら声援を止めるのと同じだ。相撲もでは最後の立ち合いで両力士が蹲踞から立ち上がった時から声援は止めるべきである。

 ところで、早稲田大学対明治大学のラグビー決勝戦が12月1日にあるので、東京にいくから会おうと、台湾のKo さんからラインで連絡が入った。彼は台湾代表チームの元ラガーマンである。東京にいく機会があれば会いたい友達もいるので、2日にいくのがよいか、3日にいくのがよいか、なべちゃんにメールしたら、2日にIさんがミャンマーにいくので食事会をする、それへ来い、言う。Koさんと参加するから、と連絡して、ぼくもホテルを予約した。
 南アフリカのサイモンとエルミー一家が子供三人連れて尾鷲に来るとメールがあったばかりだ。3月の末あたりである。二人とは思い出が多くある。エルミーとはリュートを聴きに行ったこともあった。2年が経ってエルミーが南アフリカに帰った。サイモンは元気がなかった。いろいろと探りを入れた。「おまえ、エルミーのことが好きなんだな」。最後はそうなった。休みをあげるから南アフリカに行ってこい、と言った。サイモンは覚悟を決めたようだった。
 もう上の子が21歳である。たぶん事業も成功したのだろう。
 友遠方より来る、で、なんだかこころがせわしい。


大相撲に物申す

2019年11月16日 | スポーツ
 大相撲のことで、いつもいい忘れることがある。この前は体重規制を設けるべきだと言った。
 新聞のスポーツ欄では巡業の多さによる移動時筋肉硬直を言う力士もいるが、怪我大きな原因は体重だという意見が多いらしかった。
 今場所の怪我原因を見ていると、土俵から片足で落ちて、踏ん張ってしまうタイミングのズレから起きたのではないかと思う取り組みが3つあった。期待していた友風は一年を棒にふっている。
 土俵の高さと砂かぶりまでが80センチくらいのものだろうか。ぼくは砂かぶりの整備改革が必要だと思う。まず、砂かぶりの最前列に審判員と力士が並ぶが他の客も並んでいる。この最前列をもっと引っ込めたらよいと思う。80センチほど。これで心理的に思いきって倒れることができる。今は最前列に着物を着た目立ちがりやの女性もいて、土俵から飛んで落ちるときに力士の視界に入ってくる。このときにタイミングがズレる。
 次に力士が落ちる砂かぶりの前にはクッションマットを敷くべきだ。相撲は130キロぐらいの力士の四つ相撲が一番おもしろい。栃錦と若の花の取り組みが一番面白い。
 目標年を3段階とか5段階に決めて、2030年までに140キロまでの力士にする、130キロでもよいと思う。
 逸ノ城、碧山や臥牙丸が相撲に合っているとは思えない。

 馬鹿馬鹿しい体重競争は膝を壊すだけだ。早朝稽古をちょっとして、食って寝て体重を増やす。
 こういうものが伝統であるなら、守るべきものはなにもない。伝統も生き残れないものは無理して残すべきではない。


歴史認識?

2019年11月15日 | 社会・経済・政治
「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて (中公新書) 新書 大沼 保昭 (著) インタビュア 江川 紹子 の広告が載っていたのが記憶にあって、昨日TSUTAYA に行ったらその本があったので、さっそく買って読んでいる。

 そもそも「歴史認識」と言えば、ぼくであるなら、日本列島人の歴史は天皇家の歴史よりずっと長いよ、などと認識したり、今いる自分は延々と人類の誕生から途切れることなく生きてきたからこそ今ここにいるよ、と思うようなことが歴史認識だと思っていたら、あるほんのコマメな一部の人が歴史認識とは「日本と韓国」「日本と中国」との関係の中で1928年(張作霖爆殺事件)から1945年の敗戦に至るまでに起きたことに対する認識の違いが生ずることから「慰安婦問題」「南京虐殺問題」が取りざたされ、さらに戦後すぐの「東京裁判」、現在の「靖国問題」などを指して言うようになった。

 ぼくなんかはその時期には生きていなかったからいろいろな本を読んだり、人の話を聞いて判断するしかない。またその時代の渦中にいるときは人はわけがわかなくなるもので、それが馬鹿だった、愚かだったとは一般の大衆には言いたくないが、大衆とて、過ぎてみれば塗炭の苦しみを負ったのは大衆であり、大きな犠牲を払ったのも大衆であり、責任をとったのも大衆であったはずだ。なにせ310万人死んだのである。飢餓、病死、自殺・・・デスクの前でふんぞり返っていたのが内閣の大臣や軍部の幹部であったのは確かである。
 それでいろいろな本とは実にいろいろな本であるが、ぼくとしては半藤一利の「昭和史」と吉田裕の「日本軍兵士」、吉本隆明の「戦争論」を読んでおけばそれで判断はつくと思う。それに『「歴史認識」とは何かー対立の構図を越えて』を加えてもよい。「日本軍兵士」もこれも思いつきで言うのではなく、心情で述べるのではなく、調査、研究した上での著書であるからだ。

 ぼくは学校の歴史教科書を読んでも自虐史観だなどと思ったこともない。思うに日本には石油という資源はないのだから元々戦争などしてはいけない国なのだ。大日本帝国などと大言壮語がまかりとおる国ではないのだ。石油がなければ戦争はできないではないか。ないから他所へとりに行くのではないか。いわば戦争をやる資格がない、というよりも戦争する条件がない、と言ってもよい。そんなことはわかっているのに戦争をしたのだから、今に生きるぼくは「呆れる」のである。「人を殺しにいく」という心情にも呆れるのであるが。

 「しかたかった戦争」などあるはずはなく、しかたないのなら、グッと我慢してこらえばよかったのだし、リーダーというのはその判断をする人なのだ。

 ところでアメリカ。アメリカは中国を敵視し、責めるが、アメリカは悪いよ。イラク戦争を起こしてイラクやシリアをメチャクチャにした。空爆し、市民を殺し、イスラム国を生ませ、クルド人がやられる。中国は他所の国にそんな悪さをしていない。ロシアはする。アメリカは戦争大好き国家じゃないか。ずっと戦争をしている。戦争を終えたことがない。それでもって「えらそう」である。強いものの方が滅びるという人類の教訓を忘れている。これはぼくの歴史認識である。