25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ピケティ 『21世紀の資本』を読む

2014年12月29日 | 社会・経済・政治
 今年の仕事はすべて終え、昨日は息子家族もやってきて、騒々しい日々が続くことになる。息子は31歳となり、これから最もエネルギーも充実し、会社の中核となっていく年代になる。資本主義が行き詰まりを見せている中で、どんな社会になっていくのか、彼らは追い続けている。
 彼の出版社から「人類700万年の物語」がでていて、内館牧子が紹介していたので、帰郷する前にもっているかと尋ねたら、もっているというので、持参してほしいと頼んだ。雑誌「現代思想」や「ユリイカ」は尾鷲の書店でも売っていて、このところ、「ロシア」「戦争」と興味ある特集を組んでいたのが尾鷲の書店で目にとまっていた。12月は「ピケティ 『21世紀の資本』を読む 格差と貧困の新理論」がとてもよく売れているらしい。やはりこの種の本を読む人もいるということには日本も捨てたものではないな、という気がする。しかし1億人以上の人口がいて、100万部売ったとしてもわずか1%。10万部となると0.5%である。書籍を1万部も売るというのはとても難しい時代になっている。芥川賞作家でも作家業だけでは食べていけない時代である。

 ネット右翼やヘイトスピーチを煽る人たちも、実はほんの少数である、それが情報発信力や心情に訴える言説を行うとなんだか大衆というものは感染されていく。左翼という言葉も、右翼という言葉も昔の時代の言葉で、新しい言葉が創出されなければならない。科学者たちの研究は日々進化していくのに、過去の概念に捕らわれている人も多い。悪しき因習はやめるほどの、例えば戒名をつけてもらうだけでお金がかかる、という風なことは新しい潮流の中で改革されていってほしい。
 また不労の所得でお金がザブザブ入り、ほんのわずかな人がお金を持ち、教育さえまともに受けさせられない人々。そんな格差は現在の資本主義の論理ではますます格差を広げていくばかりである。
 日本は近い将来に必ず破綻する日が来る。破綻なくして再生は有り得ないと僕は思っている。どのように破綻を防ぐかという処方箋をどの政治家もどの政党も提案することができない。

 僕個人にとっては2014年は忘れらない年になりそうである。悲喜交々であった。日本の政治の世界も悪い意味で大きな転換点であった。1000兆円を越える借金を脇におき、お金をばらまく政治をなおも行っている。すべて国民の貯蓄を担保にした借金である。日銀はいつまでも異次元の金融緩和、国債を買い支え続けるのだろう。

 僕は前向きな人間だが、この財政問題ばかりはネガティブに考えてしまう。楽観視できる材料がない。
 僕はただひたすら個人的に頑張るだけである。 

認知症解明の最前線

2014年12月28日 | 社会・経済・政治
この頃「週刊朝日」を時々読む。最新号ではいくつか貴重な情報を得た。

 認知症治療の研究が相当に進んできた。
 アルツハイマー型認知症では、まず脳にアミロイドβというタンパクが蓄積し、そのあとからタウというタンパクがたまりだし、神経細胞が壊れて脳が萎縮していく。

 つまり、この「アミロイドβ」と「タウ」というふたつのタンパクを、いかに早く見つけて、ためないようにするのが治療よカギとなる。

 わずか0.5CCの血液でアミロイドβの蓄積が判別可能となり、もうひとつの「タウ」も脳内のタウを可視化できるようになった。

 どれではどのように治療をするのだろう。

 脳の若返りに必要な遺伝子(マイクロRNA17)も突きとめられた。若返り遺伝子を人為的に操作すると脳の神経細胞は若返ったという。iPS細胞で脳の一部分に移植するという技術も進んでいる。

 いろいろな報告を読んでいると、新薬開発や実用化まであと5年から0年。おそらく加速化するにちがいない。

 科学が進化していく。だがこころの進化は2000年来進化しているようには思えない。人間のこころは2000年前よりも大量殺人を殺害とも思わないで行っている。  

探索はおもしろい

2014年12月22日 | 文学 思想
 朝起きると、ヨーグルトやコーヒーを飲みながらシューベルトの「ピアノ五重奏 鱒」を聴くことにしている。ウィーンフィルハーモニーの楽団員の演奏である。すると、澄みきった水の中で鱒が尾びれをくねらせて泳ぐシーンが浮かび、それを見るもののこころの静寂さやきらめきを感じ取ることができる。
 1曲を聴くのは1冊のよい小説を読んだり、詩を読む心持ちがする。それに何度でも聴くことができる。
 夜になると、ブラームスとかモーツアルトとかシューマンを聴く。テレビをつけっぱなしにするのをこの歳にしてやめた。寝る前に本を読む。そしていよいよ寝ようとするときにベートーベンの弦楽四重奏の各作品やショパンやリストを聞きながら眠る。
 今、これが一番気持ちがいい。
 クラシック音楽には知識が乏しいので、そんな解説書でも読んでみようと思ったが、やめた。自分で聴いて、自分で演奏家や指揮者の聴き比べをして、自分で考えたりしようと思ったのだ。

 極上の短編小説を紹介したい。村上春樹の「回転木馬のデッドヒート」にある「レーダーホーゼン」という短編と「レキシントンの幽霊」にある「トニー滝谷」である。「レーダーホーゼン」は夫から頼まれた「ドイツの半ズボン」のことで、苦労して探した挙句、夫に「離婚したい」と言って家に戻らない、という話である。「トニー滝谷」はようやくに愛する人ができ、その女もとても愛するのだが、服を見たら買ってしまう、この衝動だけはおさえられない、という話である。
 人間が、その脳やこころが突如として変わってしまう、奇妙にリアルに思える作品である。村上春樹長編小説特有の味の悪さやくどさ、パターンはない。

 僕は村上春樹作品は短編が優れていると考えている。これなら音楽のようになんどでも読んでしまう感じするらある。長編は「1Q84」が最高傑作である。そのヒントは「カンガルー日和」という短編集の「4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」にある。

 なにか知らないけれど、探索は面白い。
 

子供の国、日本

2014年12月21日 | 社会・経済・政治
 一仕事終えたが、まだその仕事の興奮がやまぬままに、音楽CDを買いに名古屋まで車でとばした。例年、名古屋駅の高島屋ではクリスマス用の巨大な飾りを展示する。それを見て、目が楽しいおとぎ話の世界になってしまって、洋と和の違いを感じたのだった。
  村上春樹の小説はほとんどすべて読み終えたので、三省堂で何か、こころにひっかかるものはないかと思っていたところ、今年のノーベル文学賞作家であるフランスのパトリック・モディアノの翻訳版がずらりと書棚に並んでいた。そのタイトルを見たり、ペラペラめくってみたりしていたら、「よし今度はこの作家の作品を読もうという気になった。黄昏ていくフランス。このフランス人はどんなことを考えているのか、知りたくなった。

 ルンルンとした気分で家に帰り、翌日、朝日新聞を読むと、「大人になれない、日本人」という題で白井聡の意見が載っていた。僕が考えてきたことと、ほぼ同じ意見だった。でも今頃、と思ったのでもあった。「敗戦」を「終戦」と呼ぶことはまさに日本人が自身の力で戦争犯罪人を処罰できず、反省せず、天皇でさえいかない靖国神社に戦争犠牲者を祀ったりする。ドイツは戦後諸外国に謝罪をし続け、その反省の上に立って、現在ヨーロッパのリーダー的役割を果たしている。日本は国家意識の強い者が大きな声をあげ、人を殺すための武器輸出までするような国になってしまった。工場で働く人はどういう気持ちだろう。来年、安倍首相は河野談話に代わる新しい談話を出すということだ。
 隣国の行為を嫌がらせのようにとり、過剰に子供のように反応する。交渉で、大人の知恵で解決を図る潮流ができない。石原慎太郎などは最後まで子供で、「支那をやっつけることができなかったのが残念だった」とまで言って嘆く始末である。
 東京駅100年記念SUICA カードにはJRのものに、八つ当たりのように反発するのに、原発や集団的自衛権やらには八当たりはしない。
 今週号の「週刊新潮」では経済学者たちはこぞって、日本は破綻すると言っていた。だれ一人反対する人はいないのは当然のことだ。
 1000兆円を超える借金をどうやって返せるというのだろう。この低成長期に重ねてしまった政治のツケがこれから10年~20年
に国民を犠牲にして破綻が起きる。僕の子供や孫たちの世代が最も困難な時代をくぐり抜け、再生する日本にしていかなければならない。現在の老人や老人予備軍は選挙は好きでも、新しい時代を描くことはできず、こころはすでに衰弱しているように思う。

 世界の1%の人が富をもち、地球上の経済や社会に君臨するこの資本主義は富の再分配を図る当たらな政治の枠組みが必要である。累進課税の再検討も必要だろう。中央集権的な国家体制も組み替える必要がある。

 選挙が終わって、「財政」の問題を扱い始めた日本の新聞社やテレビ局も子供を相手に情報発信をしているようなものだし、マスメディアの代表が政治権力の代表と会食をするなどということも「わかっていない子供」だと思う。新聞は政治権力をチェックするのが仕事だ。また日本の銀行は、中学生でもできる仕事をしている。担保と保証人をチェックしさえすれば、お金を貸すことなんて中学生でもできるし、集めたお金で国債を買ったり、投資をしたり、政府の保証でお金を貸したりすることなど子供の範囲である。

 日本には民主主義はまだ定着しておらず、選挙は相変わらず、地縁、血縁、コネ、義理、人情がはびこっている。天皇制を批判すれば右翼に殺されるおそれもある。

 どうなっているのか、バブル崩壊後の日本。株高などに浮かれているととんでもないことになる。貧困層がますます増える。貯金がパーになってしまう。そういうことが分からぬ日本人は大人になっていないということだ。
  

未来を見据える

2014年12月16日 | 映画
天才のモーツアルト。その人が天才かどうか、理解ができるが、悠久の音楽までは作れないサリエリ。これは映画「アマデウス」のテーマである。
  天才のベートーベン。作曲家を目指しているベートーベンの写譜をし、第九初演で陰で指揮をするアンナ。この人もベートーベンには届くかない。これは映画「敬愛するベートーベン」の話である。嘘か本当か、どちらも僕は知らない。
 しかし、このような映画を作り出す現代のプロデューサーや監督の鋭敏な感性もよくわかる。
 このテーマは「理解できる人」と「理解できない人」の話でもある。この巷にはそんなことはいっぱいあるだろう。Aの能力をBは理解できない。Bの能力をCは理解できない。人は我が脳の中でしか生きていないから他人の脳がわかるはずもないのだが、ある位相のある面だけはわかることもある。あるいは、こころの芯にあるとても大事なところが勘や感覚でわかってしまう場合もある。

 遠い未来をみていた伊藤若冲。1枚する絵が売れなかったゴッホ。100年後にメンデルゾーンに見出されたバッハ。そんな人もいる。

 多くの人は多くの場合、理解されずに死んでいく。それが普通の人生である。この凡庸さに箔をつけたい人もいる。つまらぬことだ。過去の栄光だけで生きている人もいる。世間のことばかり気にして生きている人もいる。
 我々は未来を見てそこから現在を考えたい。我々は未来に見据えるものを持ちたい。我々は過去を見るなら大過去まで遡って考えたい。大過去というのは人類発生の頃や、国家が誕生する以前のことだ。僕は仮に90歳になってもそうありたい。100歳になってもだ。  
 

選挙のばかばかしさ

2014年12月15日 | 社会・経済・政治
  選挙に行った。母親も連れていった。足が悪いので、足もむくみ、靴も履きにくい。
 投票所は土足厳禁で、スリッパに履き替えなければならなたっか。
「どうして土足でもいいようにしないのか」と聞いてみた。すると「保育園が許可しないのですよ」と言う。
「こどもたちがこの床で遊ぶものですから、ということです」
 投票所には12人の役所の人や選挙管理委員会の人たちがいた。投票にくる人はまばらである。12人は要らないだろう。日当はわれわれ市民が税金でだすお金である。5、6人いれば上等だと思う。汚した床とて、終われば、ファブリーズでも使って、雑巾がけすればよいだけのことである。
 こういう習慣は変わらない。いつまでたっても変わらない。もっと効率的に変えていくのが改革というものではないか。

 また選挙前の日、役所の職員がスーパーの前で、「選挙に行ってください」とティッシュペーパーを配っていた。ティッシュペーパーはいくらか知らないけれど、これを全国でやっていたとするなら、相当な金額である。

 つまり、相当な無駄なことをやっているように思う。腹立たしいのは僕だけではない。口々にその奇妙さを口にしている人もいた。こんなことも変えれられないで構造改革などできるはずもないと思う。構造改革とは利権をもつ人々をはねてしまうことであるからだ。公務員とて、その層である。残業代が入る。座って、名簿を照合し、印鑑を押し、投票用紙を2枚渡すだけのことだ。

 1000兆円を越える借金がある国だというのに、無駄を変える意識もない。まして、これから介護、医療負担が増え、年金は下がり、さらに物価高で目減りしていくというのに、老人は怒らない。若い人は選挙にいかない。
 いっそ、選挙で投票したら1000円くれるという風にしたほうがそれが消費に使われてよい、というように思う。極端に言えば、逆の方法もある。選挙に行かなければ罰金を課す、という風に。これらの意見は正当とも思えないが、日本人はどうかしてしまっている。
 テレビ報道で選挙事務所を映すと、椅子に座っているのは老人ばかりである。矛盾している。老人の実質貯金は目減りしていっているのに、ある老人たちはその政策を実行する人に加担している。不思議だ。僕はとても不思議だと思う。

今日、用があって、ある老人と話をした。「なんだ、昨日の選挙は。バカバカしいにも程があるわ」と憤慨していた。こんな老人もいる。
 貨幣の価値が下がることで、国の借金の価値も下がる。国民の貯金が目減りするのと同じ割合で国の借金も目減りする。国にとってはいいだろうが、庶民はたまったものではない。そして国の借金は僕の孫たちに引き継がれていく。生まれたきた子は200万円の借金を背負って生まれてくる。
 これまでお金をバラマキ、無駄をしてきたツケが1000兆円を越えてしまっているのである。当然、破綻の日がくる。破綻がないことは有り得ない。だれにだってすぐにわかることだ。それを遠いことのように思っている。

ブラームス ハンガリー舞曲 1番

2014年12月13日 | 映画
渋谷の「タワーレコード」の7階はクラシック音楽CDばかりが集まった売り場である。7階に到着すると、今まで聴いたことのない、軽快だけれども哀愁に満ちて、脳を揺らし、引っ張るような舞曲が大きな音でかかってきた。僕はすぐにカウンターの係り員に、今かかっている曲は何か、と尋ねると、そこに書いてあります、と言う。見ると。「ブラームス ハンガリー舞曲第1番」とある。早速購入すると、その盤には、その他に「ピアノ協奏曲第1番」という作品も入っていた。
 ブラームスの曲はバック音楽などで流しておくような音楽ではない。聞き手の心をつかみにくるのである。ヴェートーベンから始まるロマン派の曲とうのは、「聴け」といわんばかりの曲作りになっている。こころを掻きむしってくることもあう。
 ハンガリー舞曲は学校で習ったのは5番であり、21番まであるらしい。この1番は素晴らしい。ハンガリーのジプシーの音楽をブラームスが応用した。
 こんなところから始まって、クラシック音楽を聴いてみようと思い始めたのだった。
 モーツアルトのピアノ協奏曲20番を聴いた。出だしが感情を突き動かしてくる。これまた素晴らしいと思い、しばらくして、ヴェートーベンのピアノ協奏曲3番を聞くと、モーツアルトの20番の影響があり、まだ弦楽器の使い方などはときどきモーツアルトっぽいところがある。ヴェートーベンの後期になてくるとモーツアルト的なところは後退している。次の時代のブラームスになると全くモーツアルト的な弦楽器の手法は全くない。代わりにヴェートーベンの影響が多大になってくる。
 このように人から人へと影響を与えながら、徐々に音楽が変わっていくのを鑑賞するのもひとつのクラシックの楽しみ方ではある。

 クラシック音楽というのは楽譜が書かれて、初演から今日に至るまで、様々な指揮者や演奏家に演奏され、その指揮者はどのように作品を表現するか、また演奏者はどのように表現するか、それぞれの違いがあって、それを鑑賞するのも楽しみ方のひとつである。

 僕のような初心者にはまだわからない聴き方というのもあるのだろう。

 僕自身の音楽史をたどってみると、日本の歌謡曲、やがてキャロルキングなどを聴き始めた頃に、印象派のドビュッシーとかラベルをよく聴き、バッハもよく聴いた。やがてまた矢沢永吉やサザンオールスターズなどを聴き、歌謡曲は昭和の終わりまではよく聴いた。
 アマリアロドリゲスのファドを知り、ファドにはまり、モルナのセサリアエボラに惚れ込み、ショーロクラブにも惚れ込み、民族音楽も結構物色した。ジャズも結構聴いた。そしてモーツアルトの「レクイエム」を知ったのだった。それでもジャズもレクイエムもただよかったのでなんとなく寝床で聞くぐらいであった。それがワグナーによって聞く態度が変わった。まだ2年ほど前のことで、映画を真剣に見るように音楽を真剣に聴いてみようと思ったのは今年のことだ。

 極上の小説を読み、音楽を聴き、絵画集を見て何かを思い、酒を飲むなどというのはいわば「至福の時」でもある。そんな年齢になってきたのか、ますますこの世から避けたいと思い始めているのかわからないが、手元には「100年予測」という本があったり、「迫りくる日本経済の崩壊」などという本もテーブルにある。昨日は友人から「ほんとうの身体のほぐし方」というDVDも借りた。まあこんな調子で日々を過ごしている。
 

ややこしい問題

2014年12月12日 | 社会・経済・政治
 僕はとりたてて仏教信者ではなく、慣習上の檀家ではある。僕の両親は慣習を重んじる世代だったので、それは否定をすることはなく、なにかと菩提寺の世話になっている。
 今回、僕の「解決屋」の助っ人として、ある家のいろいろな処分を頼まれたので、調べていると、亡くなった方はキリスト教プロテスタントであり、先になくなった夫がプロテスタントに改宗し、また先に亡くなった息子さんも親の意思でプロテスタントになっている。その家に記念碑があり、そこには三人の骨も一部分納められているということがわかった。その家には先祖代々の仏教の位牌もあり、お墓も近くにあり、事は複雑なのである。骨の半分は仏教のお墓に、あとの半分はキリスト教の記念碑にいれているのである。
 仏教では戒名などという奇妙な「信士とか居士とか、院とかのヒエラルキーがあり、それによって支払うお金も違ってくる。家を売るときに仏壇でもあれば、お経をあげてもらい「性根抜き」などという儀式もある。三回忌、7回忌など故人を偲ぶ法事もある。
 僕は仏教徒とは思っていなく、お経の意味もほとんど分からず、意味のわからないお経を唱えてもらってもありがたみはなく、みなそうしているからしているだけのことで、本当は戒名のことも檀家のことも奇妙なことだと思っている。
 
 ちなみにプロテスタントには洗礼名はなく、お墓に霊はなく、故人の霊は天上にいるということで、「性根抜き(魂抜きともいう)」は本来しなくてもよい。しかし日本人のクリスチャンはやはりしたがる人が多いそうである。

 宗教人はそれでいいのだが、宗教に関係ない人には、偲びたい人がだれでも記名ができる何か墓や記念碑とも違うような形の、何かがあればとても僕にはすっきりする。それを家に置き、また故人を知る遠くにいる人はインターネットからでも偲べるのがよいように思う。

 さて多くの問題は、故人がもっているとされる農地や宅地、雑種地、山林などの相続の問題である。登記が先々代からのものになっていたり、農地を許可を得ず、勝手に平らな土地にしてしまい、そこに登記しないで建物をたててしまっていることもある。土地を分筆しているのに申し出ていない。公図にも記載されちないこともある。土地の境界線がわからない。土地と建物が別名義になっている場合もある。山林で言えば、山林登記だけでなく、立木登記をしていることもある。相続人のひとりが外国にいる場合もある。遺言書があればなんなくいくものがそれがないため、遺産分割協議書をとりまとめるのも厄介な問題となる。戸籍の附票も必要になる。また故人の出生から脂肪までの除籍簿も必要にもなってくる。遠いところにいる人は司法書士に委任状をだして、除籍簿をとってもらう必要もあるし、故人に貯金でもあれば、遺産分割協議書や除籍簿も必要になる。

 ことことさように、死んでいくときはあとで面倒なことにならないように、ちゃんとしておくべきだと思うのである。普通は司法書士とか、行政書士とか、土地家屋調査士とか、宅地建物取引主任などがやってくれるのであろうが、夜逃げをしていたり、敷地内に別名義の土地があったり、その不動産の管理を近所の人がしていたり、抵当権が設定されていたりと、相当に難しく、ややこしく、面倒なものが多々ある。
 東京に空家が約20万戸あり、全国規模で言えば、100万戸ぐらいはありそうである。おそらく複雑な経緯があって、そのままで残っているのもその中には多くあるのだろう。

 各免許業者に行く前に、それらの整備をする人が、いよいよこの成熟期を過ぎた日本では必要なのではないかと思えてくる。すっきりさせ、手配もする業者、いわば隙間産業である。

高倉健 あ・うん

2014年12月11日 | 映画
高倉健の追悼番組で「あ・うん」を見た。涙がでてきてしょうがなかった。「遥かなる山の呼び声」は追われる身だったし、「幸せの黄色いハンカチ」は刑務所から出所してきた男であった。「あ・うん」の役は軍需景気で浮き沈みはあるものの金回りのよい会社社長役である。坂東英二が演ずる男とは戦友で、とても気が合う。この話のミソは坂東英二役の男が相当に鈍感だということである。鈍感でなければ20年も付き合えないはずだ。高倉健役の門倉は坂東英二の奥さん(富司純子)のことが内心で好きである。そしてあるときにこれ以上彼らの家を訪れるととりかえしのつかないことになってしまうと嘘の演技をして友人をけなし、絶交を言い渡される。
 
 見所がいくつかある。それは降旗康男監督はどのカットで富司純子と高倉健が魅力的に見えるかを知り尽くしていることである。高倉健のオールバックのヘアスタイルもよく似合った。帽子もよ似合う。富司純子の演技のうまさ、綺麗さにも驚かされた。
 次に、スリの三木のり平がでてくる。屋台で高倉健の告白話を聞いているときの演技のうまさは素晴らしいものだ。これは一見に値する。
 次に脚本の良さがある、原作の向田邦子でしか書けないと思わせるセリフがでてくる。「あたし、お酒を飲むと足のウラが痒くなるんです」と言って、それでもすすまれたコップ酒を飲むところがある。ここでは一杯いただいたほうがいいんだ、というのが「脚のウラが痒くなる」ということで、その気持ちが何倍にもなって伝わってくる。そんなセリフが随所にあらわれる。

 昭和12年。いよいよ中国に進出していき、軍国主義が色濃くなる頃である。富田靖子が18歳の役ででてくる。思いを寄せる帝大の学生は軍隊に招集され、おそらく最前線に行かされるだろう。

 僕の高倉健の作品のベスト5はこのようになる。

  1位 遥かなる山の呼び声
  2位 あ・うん
  3位 幸せの黄色いハンカチ
  4位 君よ、憤怒の河を渉れ
  5位 単騎、千里を走る

村上春樹の頻出用語

2014年12月10日 | 文学 思想
 村上春樹の小説の中で目立って頻繁にでてくるのが、サンドウィッチ、カクテル、ウイスキー、レコード、それに便所、そしてペニスと睾丸である。
 彼の作品では一切、寿司とかうどんやご飯という言葉は出てこない。
 翻訳しやすいようにわざとそうしているのかわからない。テーマは「喪失」そして「こっちとあっち」つまり現世と異界またはその間である。
 昔、「国境の南、太陽の西」を読んで、なんとつまらない小説かと思ったのだった。今回再読してみて、腑に落ちることが多くあって、よい小説だと思いなおした。
 主人公は事業に成功し、愛する妻と子供がいる。ところが二十年経って、12歳の頃好きだった女性が現れる。自分に欠けている部分、自分の中にある空洞のようなものを埋めてくれるのはこの女性しかいないし、その女性もそう感じているはずだ、と思い始める。最後の30頁ほどは物語の圧巻である。
 これを読んだのは確か主人公と同じぐらいの歳だった。歳をとってわかることもあるもんだと思ったが、僕より2つ上の村上春樹はその歳頃でよく書けたもんだと思う。
 この小説の中でもペニスや睾丸は頻出する。

 一体何人のことを書いているのだろうと思うが、登場人物は絶対に洋食なのである。お酒は日本酒ではないのである。これを「スタイリッシュ」と呼ぶのか疑わしいが、本の帯などには書いてある。

 という前置きはおいて、村上作品はやっぱり短編が抜きん出ている。中でも「回転木馬のデッドヒート」「神のこどもたちはみな踊る」「東京奇譚集」「女のいない男たち」は極上の世界を醸し出し、不思議さと面白さが中心にある。長く連れ添った夫に「半ズボン」を買ってきてほしいと頼まれて、それを探し、サイズを合わしているところで、突然、離婚しようと決意する話など、驚かされる。「羊をめぐる冒険」や「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」や「ダンスダンスダンス」は短編よりは数段劣るように思う。くどいのと無駄な文が僕には多いと感じられるのかもしれない。「謎」で引っ張る彼の手法にも少々辟易したのかもしれない。
 

栄養のこと

2014年12月09日 | 日記
栄養のバランスがとれた食事をしている人というのは少ない。若い世代にその数は多いそうだ。
 今日はいきつけのクリニックに行き、血液や肺、心臓、血管などの状況を見てもらい、ひとつ相談事をした。僕は毎日アルコール類をとり、休むことをしていない。肝臓でアルコールを分解するときにビタミンB12を使ってしまうということで、それが不足していることはないか、と尋ねた。すると僕の血液検査表を見て、「普段食べる食事だけで十分あるようですよ」と言われた。安心したのだった。
アルコールを飲むことで注意しなければならないのはビタミンB群とカルシウムの過剰な消費である。
 どうやら僕の肝臓はアルコールに屈することなくまだ正常を保っているようなので、このぐらいを維持していけばまあなんとか肝臓は維持できるようだ。
 他の内臓を脇に置き、どうしても直接的に影響してくるのは筋肉の減少というか弱体化である。確実に筋肉は少なくなり、その柔らかさも徐々に失っている。
 誤嚥も多い。尿意や便意を長くこらえることはできない。普段とは違う筋肉を使えば引きつったりする。筋肉は最も重要ではないかと思うことが多い。しかし筋肉は鍛えれば維持し、増やすこともできる。筋肉量が増えると血管もリンパ管も増え、代謝も上がり、体温も適度に維持できる。すると免疫力もつく。こういう論理はわかっている。

 それでも僕は安心しているところがある。それは母だ。エクササイズをすることもなく、あんなにひどい交通事故にあっても生きていたし、逆に事故による治療によって血圧なども正常になってしまった。まずは内臓、特に心臓と肺が強く生まれていたのだと思う。血管も全く大丈夫である。
 これまで便秘薬だ、降圧剤だ、睡眠薬だと、なんだかんだと多くの薬を飲んでいた。あきれるほどであった。それがもう89歳である。もう一人知っている人がいる。この人もすごい量の薬を飲み、いくつかの薬は微妙に調整されていた。彼も薬で苦しむのではなく、元気になった。
 こうなると薬などに神経質にならなくていいのではないかと思ってしまう。生まれもった真体力ではないかと思うのである。
 腎臓が弱く生まれていたら、腎臓が危ないだろう。
 自分はどんな体で生まれてきたのかということがわかればいいし、その生まれもった体とその後の栄養や環境やストレス、その後の人間の関係による性格形成などの仕分けをしてくれるといいと思う。
 そんな日が来ることはもう間近だと思う。

 さて、野菜信仰について一言がある。野菜を食べていればいいというものではない。野菜はその90%が水である。あとは繊維質せある。そこには僅かなビタミン類やミネラルが存在する。それはどれだけ取ればいいのか、テレビなどでは説明がない。野菜をとっていれば栄養のバランスがとれる、という常識が蔓延している。しかし野菜には血管の膜を作るアルブミンがない。せいぜい大豆がもっているぐらいである。このアルブミンが少ないと栄養失調ということになる。アルブミンは鶏肉にはないが、牛肉や豚肉、羊肉には十分ある。
 栄養表を見ているとすごいのは「レバー」と「うなぎ」である。これを食べていればたいていの栄養を十分にとることができる。

 いつまでも元気な人は肉や魚を食べる、というのは頷けるのだ。

ウイスキー

2014年12月08日 | 日記
 「余市」というニッカのウイスキーがある。「宮城峡」というのもある。これらはシングルモルトである。「竹鶴」というのはブレンドである。日本のウイスキーは何年ものかという表示がないので、調べてみると、余市でも10年、12年 15年、20年とある。何度か世界最優賞をとっている。今年はサントリーの「山崎」が世界最優秀賞をとった。
 「余市」は旨いのである。ややスモーキーでキリッとしている。辛いのではない。一度20年ものを飲んだことがある。やはり熟成度が違うのである。
 10年ものでも旨い。だから朝ドラでやっている「まっさん」を楽しみに見ている。

 尾鷲のスナックにいくとほぼウイスキーをおいてないか、あったとしてもせいぜい「サントリー角」である。スナックをやっている人からしてブランデイとウイスキーの区別がついていない。「いろんなものを置いても売れんから」と言われるとガックリとなる。
 沖縄の那覇にはウイスキーバーがいくつもある。種類が多く嬉しいのだが、「余市」「竹鶴」「山崎」を置いてあるところは少ない。こちらはこちらで日本のウイスキーを軽くみているような気がする。

 「酒を楽しむ」というところが少なく、酔を楽しんだり、歌を楽しんだりすることに主眼が置かれる。
 ホテルのバーなどにいくとまさにウイスキーを楽しむ人がいる。一人で味わい、時にぼそぼそとバーテンダーと話をしている。音楽は決まってジャズがかかっている。女性目当てではないから、ワイワイしないし、就寝前にちょっと一杯という感じで来るのだろう。ホテルのバーは静かに会話がされる。
 僕は声が大きいとよく言われるし、方言丸出しで喋るので、時々自分をたしなめたりするが、心地よい場所であることに変わりがない。
 この頃音楽をよく聴くので、音楽に合わせて飲み物の種類を変えてみようか、と思うときもある。まだ試したことはない。バカルディを飲むときは「ショーロクラブ」とか、ある種のウイスキーでは「セサリアエボラ」とか、辛口のワインのときには「アマリアロドリゲス」とかというように。
 尾鷲で叶えられないなら自分の部屋をそうするしかないか、などと考えるが、それは都会での楽しみにしておいて、よい音楽に出会ったら、その盤の名前を聞けばいいから新しい出会いもある。

 ウイスキーが嗜むいう女性は少ない。最近那覇で一緒に飲んだ。初めて「ウイスキーが好き」といった女性に会ったのだった。そこでも「余市」はなかったから、よほど貴重品なのだろう。スーパーでは10年ものが売られている。この頃売り切れが続いている。ニッカのものが特別に並ぶようになってもである。
 東京にはいくつもウイスキーバーはあるんだろう。いきつけのバーをもちたいものだ。

これほどうまくいった日はなかった

2014年12月07日 | 文学 思想
 良いことがあって、翌日、「おとと」へ言ったら「殻付きの牡蠣」があった。イガミもあったので、今晩は鍋にしようとそれを買った。さらに松坂のBOOK OFF までCDを買いにいこうと思い立ったのだった。目当ての「ブラームスのハンガリー舞曲1番」とモーツアルトのピアノ協奏曲20番があるかもしれないと思ったのである。たぶんないだろうと思っていたのが幸運にもあった。宝くじに当たったようなものだ。するとヤナーチェクの僕の持っていないものもあり、その他6枚ほどを買った。大ラッキーでこんな良い日はないと思ったのだった。
 
 まず第一に「ハンガリー舞曲1番」を車の中で聴いた。もともとハンガリーにあった民謡のようなものをブラームスが編曲したらしい。出だしのすごいのである。ロマンチックで、頭とこころがメロディーで揺らされるのである。
 シューマンの弟子だったブラームス。シューマンは精神病院で死ぬが、その妻クララをひそかにブラームスは好きだったらしい。ブラームスは生涯独身を通した。そしてロマン主義の最後の人だった。すでに音楽の世界は変わろうとしていた。ワグナーの登場である。ワグナーの新しい音楽の試みに猛反対して強固にロマン主義の音楽を徹底した。その徹底ぶりは、バック音楽などでは聞かさない、一度演奏が始まれば、聴衆を捉えて、よそ事を考えさせないほどのメロディと起伏があり、音楽は気楽ではないのである。

 このところ、クラシック音楽にはまっている。学生時代にドビッシーやラベルの作品をよく聴いていた。一時マーラーを聴いたこともあった。しかし今度は古典から現代まで辿ってみたいと思うし、いろいろな作曲家の作品を聴いて、音楽の系譜のようなものを辿ってみたいと思うようになった。現代の音は何ゆえにこうであるのか、その積み重ねとはいかようであったのか。
 おそらく次は指揮者は誰でとか、何オーケストラでとかとなっていくのだと思う。こういう趣味の人は世にはいっぱいいるのだろう。僕も10年ぐらい没頭していたらそれなりのウンチクをもつようになるのかもしれない。

 村上春樹の作品については、どんどん読んでいる。読んでいなかった「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンスダンスダンス」「ねじまき鳥クロニクル」を読み、再読で、「ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」と続いている。たぶん、僕は作品を期待して読んでいるのではないと思う。言語の意味をさぐりながら読んでいる。村上春樹の優れた短編集はストーリーの展開とこころの有様の展開が糸が絡むように織られている。長編は総合小説と彼が言うように、サスペンスもエンタメも純文学も、冒険小説も、ファンタジーも漫画も音楽付きでごっそり混ぜている。長編ではおそらく「1Q84」は最高傑作のような気がする。

 それにしても村上春樹は僕が思うに、ねじまき鳥クロニクルあたりでもう書く事もなくなりそうであった。彼がさらに長編を意欲的に書き続けることができたのは偶然に起こった阪神淡路大震災とオーム真理教事件であった。そしてそれらの事件のことを小説化していくまでに彼は、「アンダーグランド」と「約束された場所で」というノンフィクションを書いた。日本に戻ってきて、日本人と関わりを持ち始めたのである。それがなければ「1Q84」は生まれていなかったと思う。

 その夜僕は知り合いの店が火事で燃える夢を見た。
 

インフルエンザから

2014年12月06日 | 日記
 頭寒足熱。三首温熱とは首、手首、足首を温めるということ。ふ~ん、なるほどとテレビを見ながら頷く。
 ところで脂肪組織には褐色脂肪と白色脂肪がある。白色脂肪とはストーブでいうところの灯油にあたる。この灯油を燃やすにはこれまたストーブで言えば、燃える芯が必要である。これが褐色脂肪である。つまり皮下脂肪や内臓脂肪を燃やすには褐色脂肪にスイッチを入れなければならない。この脂肪は首の後ろ、肩甲骨の間、腕脇2ヶ所、腎臓の裏2ヶ所にある。この脂肪が活躍するのは手のひらが15度以下になると褐色脂肪に点火され、白色脂肪が燃えるというわけである。
 サウナに入り、水風呂に入るというのは脂肪を燃やす方法としては理にかなっている。フィンランドではサウナに入り、雪の上に寝転ぶ人もいる。
 逆に言えば、褐色脂肪細胞を温めればあんまり寒さを感じないですむ。だからマフラーがあり、手袋があり、靴下がある。

 体は確かに老いていくのを実感的に感じる。テレビではそんなふうな番組が多いから、意識せざるを得なくなるし、車に乗っていても後部座席に手を伸ばすにも、体の捻りをしなければならず、それと多くの筋肉が連動して動くものだから、窮屈さを感じる。そんなとき小学や中学生の頃の自分と比較していまうのである。
 なるべく口の中が乾燥しないように心がける。口と鼻はつながっているから、口を湿らせていけば、鼻も乾かないですむ。すると喉や鼻の繊毛が活発化する。マスクはそのような天では有効なのだろうが、あれは妙に潔癖症的で、人を警戒しているようで、神経質的でいけない。
 現代人の10代、20代、30代はスマートフォンでうつむき、マスクというのが僕の印象である。頭が退屈なのを嫌い、ウィルスが入ってくるのを警戒する。僕にとってはそれは不格好なことなので、なるべくしない。風邪をひいているときなどはもちろん別である。

 免疫力があればたいていのものはやっつけるのだからと思い、知識はあっても実行をすることは僕の場合、ない。
 運動は10分ほどの効率的なエクササイズを2回。そして2日休み、3日目にまた同じことをするのが体に無理がなく、筋肉を維持するうえでもよいと言われている。でもできない。

 正しい歩き方でリズミカルに歩くのはもちろんよいことはわかっている。でもできない。東京のような大都会ではどんどん歩かなければならず、田舎の町ではどんどん歩かない、なにもかも車である。僕らは田舎のぬるま湯につかっているようなものである。
 他人とはげしい競争をするわけでもない。いつも他人と顔を合わせて、話し、齟齬や軋轢があるわけでもない。現代は田舎であっても超近代の都会生活的田舎生活である。
 はて、何でこんなことを書いているのだろう?そうそうインフルエンザだ。インフルエンザが流行し始めたらしい。その予防の事から、最初に書き出しになったのだった。
 それにしても今日は寒い。この寒いという感覚は5度の感覚である。北国ではお話にならないだろうが、形容詞というのは度合いのあるものなので、「寒い」以外言葉が見つからない。
  

菅原文太と高倉健

2014年12月02日 | 映画
高倉健に続いて菅原文太が逝去した。先週、今週号の各雑誌は「健さん特集」ばかりである。いろいろな関係人からのエピソード、写真などが組まれている。それにしても健さんは「他人に気配りする人」だった。マルシア・ガルケスの言うように、「与えられるよりも与えることが好きだった」のだろう。知り合いにプレゼントするだけでなく、年忌に必ず線香を送るとか、他人の飲み代のツケをこっそり払うとか、挙げればきりがないほどの美談が並ぶ。徹底的に神経質で、自分の個人的な見せ方にこだわった俳優だった。政治的発言もなく、社会的発言もなかった。
 一方菅原文太は生涯俳優に馴染めなかった。そして最後にには引退を表明した。引退表明の前から農業人となり、同時期から社会的発言をし始めた。戦争は絶対しないこと、原発にも反対し、無駄な税金使途にも敏感に反応し、反骨していた。

 今日は菅原文太の感想を書きたい。NHKの大河ドラマ「獅子の時代」はよかった。菅原文太こと銑次は生涯弱者の味方であった。格好もなにもなかった。そこはスタイルや写り方を重視する高倉健とは違っていた。「獅子の時代」は僕にとっては傑作の大河ドラマであった。最終回に、突然に銑次は消えた。それから、ずいぶんしばらくあと、十年は経っていたと思う。銑次が「わたしのグランパ」で出てきた。刑務所からでてくる菅原文太であった。僕には銑次に思えた。孫の石原ひとみと一緒にバーにいくシーンがあった。銑次はジャズの歌を歌ったのだった。それは高倉健が「ブラックレイン」で歌ったジャズなどとな問題にならなかった。菅原文太のほうが断然センスよく良かったのである。

 人の生き方は違うものである。菅原文太は「獅子の時代」以降、俳優業を避けてきたように思える。高倉健はいつまでもするという気持ちがあった。
 どちらでもいいのだが、どちらも生き切ったという感じがする。勝新太郎のような自分勝ってで、放漫な生き方ではない。自分にいつも問いかけながら、自分の人生を歩んでいく、という生き方である。
 平成26年。偉大な二人の俳優が死んだ。日本は大きな転換点である。転換するまでにまだ何年もかかる。80代はその歴史の転換を見ることはできないのかもしれない。