25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ご近所さん

2017年05月31日 | 日記

 朝、事務所への道すがら、必ず寄る八百屋さんのメダカと金魚を見る。そしてメダカ談義となる。

「名取裕子が、青く光るメダカを四匹飼ってるって」

 というと、返事はすぐ返ってくる。

青いのも、金色も銀色のもおるで。紀伊長島のな、主婦の店知っとるやり、そこ過ぎるとトンネルがあって、それ抜けると左側にメダカ屋さんがあるんじゃい」

「へえ、メダカ屋さん?」

「ああ、そこにな、鍵掛けて青や金色のメダカがおるんじゃい。一匹500円やで。松阪へいく1000円づるらしいわ」

「へえ、蛍光色らしいで。青 光るって」

 とこんな風である。八百屋の前のおじいさんがやってきて話に加わる。おじいさんというけれど、ぼくより少々上ぐらいのもんだ。このおじいさんがこまめに金魚槽の掃除をしている。メダカ談義が弾む。「おれは水は換えんで。ほら水澄んどるやろ」

「そうやなあ。ぼくは毎日換えてますよ。昨日は水換えして一匹死なせてしもて。そう指導されたんやけどな」

「ふーん、わしゃあ換えんな。この赤玉土がええんやろか」

 となんだかんだと十分ほど話をして再び歩く。

 思えば、花を植えはじめて、近所の人が「楽しみやなあ」と声を掛けてくるようになった。これまでは挨拶程度であった。それが、うちの花はどうだの、よかったらとゼラニュウムの大輪の花を挿してみたらどうかと、何かと花談義をするようになった。

「あそこにほら、高い木があるやり、あれ切ってみらわんと、邪魔でな」「そこはDさんの土地やな。言うたろかな。好きにしてくれって言うわい」となってぼくはDさんの家にいくことになる。

Dさんと久しぶりに会うと、「悪かったなあ。挨拶してくるわ。好きなようにしてくれてかまわんのやで」となって、「ところであんたどないしとったん?」となるひとしきり話をして自転車でかえり、その回答を知らせにいく。

 近所の男どもはほとんど死んでしまった。一本筋の旧明慶町に男は三人である。ぼくとしてはこの筋がいざ南海トラフというときに肥えをかける犯意だな、と思う。

 とにかくも、憩いのものを持つことで、共通の話題ができ、親しみがわく。それが最近の変化だ。


 

 

 

 

 

 

 


宗教の最終的な姿

2017年05月29日 | 文学 思想

 今日は良いことがあった。六人の人がささやかな喜びを感じたことだろう。

 それで祝というこじつけをして、毎日、バリ島の風景を思い起こしていることから、ハイビスカスを買ってきた。黄色のものと朱色のものである。大きめの鉢を買って、ハイビスカスが大きく成長しても耐えられるようにした(つもりである)。

 昼、科学は宗教を越えるか、と題する項目を読んだ。岡本裕一朗の考え方と違うところがあって、ぼくは宗教についても段階論を導入した方がよいと思う。段階論というのは時間軸のことだ。

 宗教の始まりはおそらくどこも同じである。ところが経済や地理的環境等によって、段階が違ってくる。例えば、キリスト教で言えば、カソリックとプロテスタントを比較すると、プロテスタントの方が資本主義と合致し、最も先に進んだ段階であり、今や倫理、道徳化したというべきである。儒教が宗教から倫理観化、道徳化したようなものである。

 キリスト教とて、現在のイスラム原理主義適用な段階があった。世界のイスラム教国も原理主義ではやっていけず、世俗化していくのだろう。

 日本では仏教や神道もすでに世俗化している。僕の家は永平寺系の曹洞宗であるが、ぼくは曹洞宗の内容などは知らない。形式的には仏教の檀家であっても、こころの内実は仏教の一宗派である曹洞宗についてまるでしらないし、ありがたみもない。

 宗教の最終の姿想像すると、宗教歴史的最前線は民衆間に溶けていうのではないか。イスラム原理主義も、同じイスラム教徒が豊かになっていけば色を失って行くのではないか。

 ぼくのような戦争を知らない世代はづでに敗戦時から72年が経ち、宗教色は薄まり、宗教を俯瞰してみることができる。

 親鸞が行ったように、宗教は鎌倉時代に解体され、その後、隆盛もないまま葬式仏教になり、ある部分では道徳になっている。そこに輪をかけるのは伝統である。ようするに仏教は伝統で生きている。

 思えば、訳のわからない経典をどのように信じろというのか。「なみあみだぶつ」と生涯に一度言えればいいのだ、という極端なパラドクスが親鸞が仏教を終わらせたもので、現在ある浄土真宗は親鸞が起こしたものでもなんでもない。

 すでに仏教もプロテスタントのようになっていると言えると思う。それが宗教の最終的な姿なのではないか。

 

 

 

 


名取裕子

2017年05月28日 | 日記

 久しぶりに女優の名取裕子がテレビ出た。「京都地検の女」を地でいくように和服姿で、明るく真面目そうで粋で明るかった。

 なんと偶然。彼女は最近メダカの飼育に凝り始めたらしい。睡蓮鉢に飼っているという。中には夜になると青く光るメダカもいるらしい。ムムム、青く光るメダカ。そんな種はどこで手にいれるのだろう。

 この頃コメリを覗くのが楽しみである。花などは日に日に季節に応じたものがでてくる。そしてついに蓮が出てきた。早速蓮を買い、鉢を買った。ここにメダカでも入れようと思っていたが、蓮の泥がなかなか沈まず、今日はあきらめた。

 メダカは今のところ死なず、元気にいる。ぼくがメダカに姿を現すと餌をもらえると思うのか、集まってくる。

 どうやら縄張りもあるらしい。そんな気がする。

 それにしても、名取裕子はどこに住んでいるのか知らないが、家の庭で、鶴丸検事のようにメダカに語りかけているのだろう、と思うとなんだか可笑しくなる。

 梅雨に入る前のよい天気であった。もうすぐ、クチナシやアジサイが咲く兆候である。


いろいろと

2017年05月27日 | 文学 思想

 クロマニョン人の時代、人の平均寿命は18年。古代エジプトで、25年。1400年のヨーロッパで30年。1800年のヨーロッパやアメリカで37年。1900年のアメリカで48年。2002年のアメリカで78年。日本では80歳を越えて記録の更新中である。

 寿命が100歳になるのはそう遠い話ではないだろう。

 これが加速するのではないかと現在言われている。老化や病気のうち、医学的に予防可能な症状の50%を予防すれば、平均寿命は150年を超えると予測する学者がいる。さらに、そういった問題の90%を予防すれば、平均寿命は500年。99%ならば1000年以上生きることになる、と。

 この想定がどこまで可能か定かではないが、人類は寿命を伸ばし続けることは確かのように思える。

 想像するに、iPS 細胞の進展やゲノム編集技術が登場し、癌克服もカウントダウンの時期にきている。クローン技術を想像してみれば、じぶん、のコピーができるわけだから、内蔵や脳、血管、神経も自分の体内で作り出すことができるのではないかと、素人のぼくは思う。

 医療の目的は延命させることである。つまりは死を遠ざけていき、やがてどこまでも不老、不死を目指していくことだろう。バイオテクノロジー革命は人間自身を変えるというようになってきた。

 ぼくらは今、幾つかの興味深いテーマをもっている。

 IT技術は人間や、社会をどう変えるか。バイオテクノロジーはどうなっていくか。資本主義はどうなっていくのか。人類は絶滅するのか、とまでは考えないまでも、IT.BT、資本主義の変化はほんの身近なところにある。

 こまかなことも多々ある。交通事故のない社会は作れるのか。自殺を撲滅できるか。宗教は最後まで残るのか。

 そんなことを思っているうちに、人間の三角関係をえがいた漱石は人類の根源的問いかけをしたのではないかと思えてくる。これは人間の観念の世界がこころに及ぼす問題である。永久の問題だといえるのではないか。

 だから漱石はいつまでも読まれるのだ。ファンタジーなどはない。小さな日常にある男と女、友人、親兄弟の

ちまっとした世界であるがこれが底のない井戸のようだ。文学というのはこの底のに井戸を掘って行く作業だ、と思ったら、村上春樹の小説で、実際に井戸に入っていく小説があって、同じようなことを思ったのだろうか、と思うのである。漱石の方がおもしろいが。


読売新聞はどうなってるのか

2017年05月25日 | 社会・経済・政治

 読売新聞が文科省の元事務次官である前川喜一が出会いバーに通っていたという三文ニュースを一面に載せた。前川が「官邸の意向」「上からの意向」があり、その文書は文科省内で見せられていたことも暴露したことから、官邸側が報復にでたと憶測されている。読売新聞もサンモン新聞に落ちたものだ。

 非核三原則を破った沖縄秘密協定をすっぱ抜こうとした西山毎日新聞記者が女性問題を暴露されて、その女性と肉体的関係を持ち、外務省の機密文書を漏洩させたとして、起訴された。

 世間は女性問題に目が向き、西山の信用性が潰れてしまった。

 今回の読売も記事も同じ手法で、出会いバーに通っていたことだけを報じている。なぜ、出会いバーに行ってはいけないのか。気持ちの悪い話だ。監視されていたのだろう。

 長い間の友人である加計孝太郎への獣医学部認可への配慮は韓国の朴大統領の事件とよくにているし、森友学園の事件とも似ている。

 官僚が資料を断固としてださない、官邸が出させないのは強権的である。

 出会いバーにいくような男を信用できない、と読売新聞はいいたいのかもしれないが、当時文科省官僚として最高地位にいたものから参考人招致をするのは当然のことだろう。

 


疑問

2017年05月24日 | 社会・経済・政治

 いつもテレビニュースを見ていて思うことだが、アメリカが経済交流もなにもない北朝鮮に軍事行動を起こすことにどんな利益があるというのだろう。

 逆に北朝鮮がアメリカのみをターゲットにして、核保有国家として認めさせたいと考え、ミサイルの実験をする。そしてその先に戦争を想定した場合、北朝鮮にどんな利益があるのだろう。テレビでは実をいうと、そういう問いには答えていない。ミサイルの質がどうだとか、中国の経済制裁に、ロシアが割って入ってきたとか、そんなことしか連日伝えていない。

 毎日北朝鮮ニュースでうんざりとする。

 やがて核弾頭を搭載させ、アメリカ本土に届くと言っても、一発撃てば北朝鮮は数日で滅びる。どちらも得はない。

 テレビドラマ「クライシス」は共謀罪を意識したような警察ドラマである。格差社会になってしまった日本で、弱いものの側である若者が内閣の大臣の息子、娘を殺そうと計画をたてるが、事前に阻止されてしまう。小栗旬演じる刑事が犯人を捕まえたときに、こっそりと、「お前が殺そうとした男が、お前が自由になったときに、ちっとも変わっていなかったら、やっちまえよ」と言わせるところが製作者側の矜持でもあっただろう。

 年収600万円あれば借金することもなく大学にいかせられる。両親懸命にはたらいて、450万円では、大学進学の話をすると父母の顔が曇る。奨学金で行っても、マイナスの社会人スタートとなる、とテロのリーダーが言っていた。

 こんな話はまだ楽な方で、今や6人に1人が貧困である。教育が受けられなかったら、できる仕事の範囲は極端に狭くなっていくだろう。もはや近い将来、人工知能やロボットが現在の職業の47%を奪ってしまう、という発表すらある。

 パソコンができないと働けないように、プルグラミングができる人間が優遇されるように、社会は徐々に変化している。

 こういう変化によって、得する既得権益者がいて、一方に真面目に生きる若者がいたら、若者の方に応援したくなるのは当然だ。加計学園問題はそんな話とも繋がっている。とことがマスコミは怖じけてしまっている。「ひるおび」もすべての報道番組もである。

 もうひとつ馬鹿なと思うことがある。それは最近「朝まで生テレビ」に出演し始めた国際政治学者三浦るりの行動である。舛添と同じような類いかもしれない。安部首相の一日の記録が新聞に毎日載るが、三浦も会食しているのだった。こういうことしていたら、彼女の論評も疑わしくなる。取り込まれるのと同じである。ダメだなあ、と思う。存分に政治を斬ることなんてできやしない。そんな人は会食しない。ああ、つまらない。

 

 

 


いま 世界の哲学者が考えていること

2017年05月23日 | 文学 思想

「いま 世界の哲学者が考えていること」

(岡本裕一朗、ダイヤモンド社)を読んでいる。心理学にしてもそうだが、日本人の学者というのは先進国の学術研究を拠り所にしたがる。マルクス主義だ、実存主義だ、構造主義だの、ポスト構造主義、ポストモダン、言語論的転回、メディア 技術論的転回だの、哲学研究がフランスやドイツから英米に移ったことなどを知っても、相変わらずだなあ、と思う。日本の思想家の本でも読んでみろよ、と言いたくもなるが、翻訳でいる力がないと英文するのも、また出版事情からも難しいことだろう。

 心理学にしても西洋のものが日本列島人に当てはまるかといえばあやしいものだ。精神の奥深くには日本列島的なものがある。脈々と無意識の海に眠っているものだ。そう考えれば、哲学だってそうだと思う。カント、ニーチェ、マルクス、今通用するとは思えない。けれど学ぶべきところはある。

 ぼくは、身体とこころ、精神を、15年ほど前から、一緒に考える必要があると思ってきた。またこころは内蔵と脳もネットワークだと思ってきた。あながち間違っているとは思えないが、分子生物学も、解剖学も著しい発展を遂げ、細胞レベルで考えなければならなくなってきた。そう思っていたら、人間の原始形である腸からの神経発展形である脳との関係もあきらかになってきた。さらにはたんぱく質質でできる遺伝子の編集レベルまで医学も進んできた。

 ぼくらの思考は遠い、遠い過去にまで延長できることとなった。すると日本人というのもあやしくなってきた。曖昧になってきたのである。

 こころの成り立ちも、母や父の育て方ばかりを問題にするのもあやしくなってきている。

 しかし、三次産業社会は精神病が増え続けるという有り様であり、善し悪しは別として、繊細でか細い人が増えてきた。新しい産業病である。

 BT. IT. Iot. ビットコイン、ブロックチェイン、AI  という言葉が登場した。これらによって人間はどこへ向かうのだろうか、と問うテツガクシャが多い。革命だととらえている学者もいるようである。

 科学技術が進もうとも、人間は百年や二百年でそうそう変わるわけでもあるまい。相変わらず人は殺すし、国家の戦争もある。

 軍事力を振りかざす国がある。人類が目指すべき課題はいろいろあろうが、飢餓と戦争だけは無化しなければならない。哲学者の考えることは、学者レベルの世界から降りて、人の生活のレベルにも入り込み、飢餓と戦争を無化できる平易な言葉を使用することだ。

  この本から見えてくることはお粗末な翻訳と、お粗末な解説であるが、何が「世界最高の知の巨人が現代のとけない課題に答えをだす」だ。ちっとも答なんてなかったというしかない。

 

 


戦前の環境

2017年05月21日 | 社会・経済・政治

 今日は同級生のYさんにメダカを50匹もらった。育て方を教わり、それに必要な物を買った。汚れた水を引き出すポンプ。浄化用の竹炭。フンや餌残りを分解する微生物入りゼオライト。

 ちょうど実家にカナ盥があったので、発泡スチロールよりはずっと雰囲気があったので、そこに石を敷いた。住処にする鉢の欠片も入れ、ホテイアオイも四ついれた。尾鷲の水はカルキが少なく、水道水でメダカは生きるということだった。餌は朝夕2回。毎日3分の1ほどの水を替えるということだった。

 睡蓮を育てようとおもったらついでにメダカを、と思ったのだったが、何も知らないぼくは、トンマなことをでぃていたのだった。メダカは繊細でひ弱いのである。睡蓮のついでに、というものではない。

 山水のでる池が一番よいというので、来年までは一匹もしなせず、曽根の池に入れようと思う。

 花やメダカの心がわからず、「あんた、花は女よりも難しんやで」と二週間ほど前にぼくより年上そうな女性にホームセンターで言われたことを思いだした。

 どうやらこまめに気遣いして、大切にして、と思うが、ふとバリ島では人々は蚊一匹殺さないことを思い起こした。

 NKKでは南アメリカのヴェネゼイラが不況のどん底で、国家破綻になりそうであると、と伝えていた。枯チェベス大統領はアメリカ合衆国のブッシュ元大統領を「悪魔」と呼んでいた。イラク戦争という大悪をした大統領に当時は胸がすく思いだった。世界一の産油国でありながら、経済がうまくまわらないらしいが、医療と教育の無料化政策の成果がこの国の希望であるそうだ。人を虫同様に扱うのが国家による戦争である。孫も時代徴兵制でも始まったらどう抵抗すればいいのだろう。共謀罪が成立づるのか。そうなれば、また戦前のような環境が整ってくる。


尾鷲市はどうであるか

2017年05月20日 | 社会・経済・政治

 道ですれちがった知り合いに、挨拶がてら、「尾鷲も死んでっきょるなあ」と言ったら、「何言いよん。もう死んどるわい」

 彼はビールケースを小型トラックから降ろしながら、そう言った。「おれも歳でこの業界最年少やで。あと継ぐものはおらん。みんなそうやがな」

 そこまで言う、と思いながら、歩いていくといつもの八百屋さんの金魚をみる。金魚ケースの掃除をしている。ここに集まる人もご老人ばかりである。

 30代、40代の人口が少ないのがこの市の致命的なところである。

 けれど、尾鷲市の市長選挙の候補者主張を読んでも、相変わらず、「地場産業の振興」を訴える。どの市長候補も訴え続けてもう30年齢や40年になるが、衰退するばかりで、上向く気配もない。20代、30代、40代に焦点をあてた政策がない。

 公共投資をするには土木工事のようなももでなく、三次産業に行うのが筋論であり、もっと未来を見つめれば四次産業への政策が必要になる。尾鷲という地方衰退都市であれ、三次産業従事者は60%は越えているはずだ。

 四次産業というものを定義しておくと、無形のものと無形のものによりものが活性化する産業振興センターだと言ってよい。たとえば地域医療において、遠隔でgazouとデータベースを送り、高度な判断ができることがそうだろう。衛星やネットを使った方教育もそうかもしれない。特許権など知的財産権の使用権などもどうだろう。

 三次産業が主役となった消費資本主義の社会が始まってから、もう30年以上くらいになるのではないか。水が販売されたころだ。水が売れるとはそれまで考えたことがなかった。しかし、自民党政権も、民主党政権も、産業構造に目を向けず、三次産業の意味がわからなかった。民間業者にまかせるまま、時は過ぎて行った。

 そして、昨日、名古屋の東急ハンズで物を見てまわった。そこにあるのは、絶対必要物もあるが、ほとんどが要らないんじゃないかと思うものばかりだった。

 これ以上物は要らない、とほとんどの人が思い、買わなくなった時が資本主義の終わりを意味することだろう。

 尾鷲の話に戻るが、これぞ、という有効な政策が打ち出せない感がある。議員の方からの独創的な案もなさそうである。このまま衰退し続けるシミュレーションが要るのかもしれない。四次産業を産み出す、若手グループシンクタンクの誕生を期待する。マンガ、イラスト

デザイン、写真、IT技術、プログラマーなどの集団である。

 


名古屋うろちょろ

2017年05月19日 | 日記

 鶴舞公園に薔薇と菖蒲を見に行った。薔薇は華やかで、種類も様々で、見事だった。薔薇に対抗できる日本も花(中国かもしれないが)は牡丹だろうと思う。薔薇をこよなく愛した人達がこれほどまでの品種を作ったもだろう。

 鶴舞公園から地下鉄で栄へ。ここには世界の酒とタバコ、葉巻がある。ハニーの味、コーヒー味、普通の苦いものと選んで、ウィスキーを飲みながら燻らせるのである。

 時事通信が安部政権お支持率が落ちてきたことがネットニュースでながれているのを見た。時計も針を何十年と戻そうとするこの政権の裏にいるブレインはどう思っているのだろう。とか、消費資本主義の社会では消費者がの手のひらに政権があることをおそらくこのブレーンや内閣の政治家たちは知らないのか、知っているからこそ、株価がまだ安定している間隙をぬって、共謀罪やご贔屓戦略特区を通させるのだろうか。

 休憩でコーヒーを飲みながらもそんなことを思う。

 またたく間に歩数が一万歩を越えた。これから名古屋駅にふぇきた新しいJRゲートタワーに行き、三省堂を見る。そして東急ハンズにも行く。さらに歩くことになる。

 


睡蓮、メダカ、大相撲

2017年05月16日 | 日記

 昨日も書いたのだが、今日もテレビは「北朝鮮ミサイル」云々である。本気になって、司会者やコメンテーターは心配しているのだろうか。放っておけばよいものを、なぜにかれらは共謀罪や憲法改正や森友問題よりも優先させるのだろうか。日本は後退ぢつつあると思うのは自分史だけだろうか。 

 昨日は待望の睡蓮を植えたので、ついでにメダカも投入。曽根の庭の池にも大きな鉢を二個。そこに睡蓮を植えたが、メダカや金魚はもっと調べてからと思い、今後のこととすることした。メダカが元気よく泳いでいるのもみると、こころも微笑む。生きている匹数の勘定もする。

 八月には友人たちがくるので、睡蓮であっと言わせてやろうと思っている。

 大相撲は4時からは目が離せない。きっと国技館内ではオチオチと焼き鳥など食ってられないだろう。小柳改め豊山、阿武咲、石浦、宇良、貴景勝、特に玉鷲は大化けした。今場所の勢いも強さを感じる。鶴竜には横綱返上をいいたいぐらいだ。

 稀の里が休場せずにやっていけるか。休場となると、熱戦の場所に水を差すことになる。両下肢と右腕でかてる工夫が突如できないものかと思う。飛車や角抜きの将棋のように。膝をグッと曲げて腰を落とし45度も角度でぶち当たれないものだろうか。

 


放っておけばよ

2017年05月15日 | 社会・経済・政治

 北朝鮮、北朝鮮とテレビ情報番組はかしましい。何を言いたいのかよくわからない。注意を促しているのか、防衛体制をちゃんしろといいたいのか、危機を煽っているのか、テレビ局の思惑がわからない。

 ぼくの意見では、北朝鮮の問題は、「放っておくのがよい」と思う。放っておいてなにか都合の悪いことがあるのか。核ならアメリカもイギリス、フランス、ロシア、中国の国連常任理事国に加えて、インド、パキスタン、イスラエルも持っているではないか。核などもたないのがよいと思うが、核をもっている国が、北朝鮮にけしからん、と言うのも大変な矛盾である。どう説明するのだろう。

 アメリカのやり方はあいも変わらずで、この国は人類として、先進国として進歩しているのか、不思議に思う。むしろ後退している。

 国家を開くという傾向の緒についたEU,ヨーロッパはずっと戦争を繰り返してきた。そのあいだに人々の交流も盛んになった。そしついにEU各国を国を開いた。

 おそらく、それが世界史の傾向であろう。

 第三者が干渉しないほうがよい。日本は忍耐と努力で拉致問題二か国でやるのが正当だろうと思う。

 


このくらいがちょうどよい

2017年05月12日 | 日記

 現在「うんぷてんぷ」と題した小説を書いている。それが佳境に入っている。人生は運を天にまかせるしかないのか、というのが主題である。そではないだろうと思って書いているが、偶然に怒ってくる出来事も、努力を重ねても幸がめぐってこないということも、突然の事故なども「天の采配」と言ってしまえば簡単なことであるが、やや抵抗を感じる。なるようになるものである。ここで死ねばここまでの人生が僕のすべてであった。もっと長く生きればまだ為すべきことは多い。それの努力をしていくのが人間だと思っている。

 そして、人間にとって一番必要なことは、と僕は思っているのだが、地位でも、名誉でもなく、また記憶力などでもない。理解力と自立と潔さと胆力だとぼくは思っている節がある。

 小説をどのように終わらせようかと考える。まだ結論はでない。毎日二時間と決めて書いている。これくらいがちょうどよい。あとの時間で推敲できるし、熟すこともできるし、一晩眠れば前に書いた文の不足するところや加筆するところも見えてくる。

 この頃朝起きるのが早くなった。十時起きとか十一時起きがずっと続いていたが、ある頃から夜眠くなり、早めに寝るようになり、当然早く起きる。今日などは7時に起きたのだった。十時から十二時まで執筆する。ああだ、こうだ、と思わない。手が動いていく。慎重さがないといわれればそれまでのことだが、それがオレなのだ、と開き直っているところもある。一度全部書いて、二、三度校正するがそれでも間違いが出てくる。これには参る。

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宗教のこと

2017年05月11日 | 文学 思想

 現代に生きていて、個々人の意識は違いがある。例えば「天皇は現人神」であって、その神に忠孝を尽くす、私よりも公を重んじようという極右の考え方はアフリカ的段階からアジア的専制段階、また中国で普及した儒教的道徳を歴史的意識を持っている。

 天皇家は各界の著名人に叙勲を与えて、象徴天皇家を継いでいこうとしている。

 しかしながら、傾向として、天皇も人間なのだから普通の人間らしい生活を送り、離婚することにも束縛っsれず、自由にやっていいのではないか、というような意見もある。ぼくには一般的庶民の感覚は天皇は尊重づるけど、それほど大きな存在ではないという傾向にあるように思える。

 西洋や中近東の人々は一神教で、日本は八百万の神である多神教で、宗教文化が全く違うという人もいるが、どの宗教も、アニミズムから始まり、自然崇拝になり、多神教を経て一神教となって世俗化している。ただ一神教の民は地理的、風土的に農業社会を維持するのが難しく、より厳しい戒律を設けて多神教から一神教に移っただけのことで、元をはと言えば、アニミズム、自然崇拝、多神教という道筋を辿っているおは日本も変わりはない。

 天皇という宗教的権威に、仏教や儒教が乗っかったというのが日本らでぃさと言っていいのかもしれないが、それが優秀であるわけでもない。優秀であったら先の戦争などはおこらなかったはずである。

 「 日本会議の研究」(菅野完)や「日本会議の正体」(青木理)を読んでみたが、物足りなさが残るのは、もっときちんと反論するとか、思想に対して青木たちがどう考えるのかわからないことだ。

  誰が事務総長で、それが元成長の家を出自としている。日本青年協議会の実体をいくら書いても、彼らは迷妄のまま活動を続けるだけである。彼らの草の根運動は一種の宗教心から発しているからだ。

 神話が本当か作り話しか、というところから論議を再度始めないと、我々はまた天皇収斂されていくことにもなる危険性がある。

 憲法論議となると、必ずやこの問題は出てくる。暴力なく、自由に論議ができる環境できなければならない。マスコミもこのようなことには及び腰である。そして言論の自由度はますますメモリが小さくなっていく傾向にあるよう思える。

 

 


あいまいさ

2017年05月10日 | 文学 思想

 国家という概念をはっきりしたい。民族という言葉の定義をしっかりしたい。その上で、国民国家という概念を論じたい。テレビ報道番組などを見ていていつも思う。国家とは何か。政府とどう違うのか。個人の頭の先から爪のさぃまで包含するものなのか。

 もっと言いたい。伝統とは何か。文化とは何か。祭りは伝統なのか。だから守らなければならないのか。茶道は守らなければならないのか。国家が。

 寺とは何なのか。寺と神社の関係は今どうなっているのか。

 曖昧なことばかりである。

 では日本人とは何か。南から来た人々と北から来た人々の混合? 日本人とてはっきりしない。帰化した元外国人は法的には日本人となる。

 このような言葉を曖昧にして、尖閣諸島を論じても、天皇の忠臣だと言われても、わからない。分かるのは話し合って決めればいいではないかということだ。テロ規模の攻撃より、国家規模戦争の方が犠牲が大きいではないか。国家が起こす戦争の方が大悪ではないか。イスラム原理主義を擁護するわけではない。これも悪である。真珠湾攻撃と同じである。テロを悪と言い、国家が介入するアメリカがやる戦争正義という。ちゃんちゃらおかしいではないか。

 尖閣も、竹島も、北方領土も共同統治をづればいいではないか。ここで国家をむき出しにしなくていいではないか。