花見をしようと以前から予定をたてて、万全の時期だと思い、東京にきた。千鳥ゲ淵はほとんど咲いておらず、おまけに雨。明日の谷中もまだ咲かないようだ。残念無念。雉丼でも食べて、江戸前寿司、ちゃんこ鍋に期待を寄せるか。
こんな大外れ、地球の温暖化ってホントか?
花見をしようと以前から予定をたてて、万全の時期だと思い、東京にきた。千鳥ゲ淵はほとんど咲いておらず、おまけに雨。明日の谷中もまだ咲かないようだ。残念無念。雉丼でも食べて、江戸前寿司、ちゃんこ鍋に期待を寄せるか。
こんな大外れ、地球の温暖化ってホントか?
小沢一郎にはすぐに検察が動いたのに、小渕優子の場合は証拠隠滅のためパソコンまで壊してしまったのに、おとがめがない。
森友学園問題でも、昭恵婦人病付きの谷という公務員から、FAXで丁寧に返事をし、それ以後神風がふいたように、すべてが森友学園にとって大満足の結果になっているにもかかわらず、昭恵夫人、谷職員、財務省の責任者は証人喚問されない。安倍首相の強い意向なのだろう。予算委員会は過ぎたから、よほどの証拠でもでてこない限り、自民党は卑怯にも幕引きにするつもりである。マスコミの動きをみていても、独自調査ができない能力順に幕引きを行っている。
教育勅語を唱える学校などに感動するとは、天皇対臣民の関係を説き、天皇およびこの国が危機のときには命をなげだせ、と書いていることも知らないのだろうか。クリスチャンであるという。天皇とどう整合性があるのだろう。
日本の伝統はよい伝統ばかりが継がれているわけではない。責任の曖昧さも、脈々と受け繋がられている。関東軍の暴走でも、責任があいまい、福島の原発でもしかりである。
この無責任さは受け継ぐ美しい伝統なんかではない。一般国民にも蔓延している「無責任さ」には辟易する。
株主は責任をとらない。いじめで自殺したら、学校や先生d人のせいにする。
サムライジャパンだのサムライを使いたがる風潮はあるが、武士ならば籠池は遠島であり、昭恵夫人も谷も城中で自刃ものである。肩書きで谷が財務省や国土交通省を回った、そして返事を書いたのは明らかではないか。
コメンテーターも腰が引けている。どこかに気骨のあるものがいないものか。デモでもあれば馳せ参じたい気分で、収まらない怒りがある。戦後71年で政治家のレベルとはこんなものかと思うのは情けないものだ。
照ノ富士に千秋楽の一番で、「モンゴルに帰れ」 というヘイトスピーチがあったらしい。嫌な雰囲気の一党独裁の国になっている。戦争はそんなところから忍び寄ってくるものだ。もし、明日、アメリカと韓国が斬首作戦を始めたら--------。
長編小説を試し読みしてもらうためには、印刷をして、紙を折って、ホッチクスで留める作業がある。ページ数が300ページを越えるとなればかかるお金もたいへんなものだ。
ところが、今の世の中、便利である。ネットでデータを送ると、一冊からでも印刷、製本をしてくれる。納期も守ってくれる。読んでもらうために、とりあえず20冊注文した。意見をきいてさらに加筆修正するつもりでいる。
さて、ひとつのものを作ると、次のものを書こうという気になる。
さて、と考える。羨ましい小説がある。漱石の「明暗」である。ファンタジーであるとか、サスペンスとかではない。結婚している主人公は結婚前にふられたぉとがある。なぜ急に、突然に自分から去って他の男と結婚してしまったのか。その理由を知りたいという衝動がる。人が殺されたり、極端な事件が起こるわけでもない。ところが読んでいると面白いもである。平凡な男であるにもかかわらず、読ませるのである。
この小説が未完成で、漱石も絶筆となっているぉととは関係はない。
漱石の小説は結構破綻しているものが多い。「こころ」を読んでいるとそう思うが、「こころ」は今も読まれている。
平凡に生きている人たちにもしっかりとドラマがある。抜き差しならないところまで行ってしまうことがある。
さあ、どうしようか、などと考える。こういうことあれこれ考えるのも楽しいことだ。
稀勢の里の逆転優勝にはびっくりした。左手が使えないから、組むことを避け、とにかく足を運ぶことに徹底していた。足を前へ運べば相撲は取れるものだと思う。それを実行したので、驚いた。
千秋楽は面白かったが、白鵬の休場でどこか拍子抜けしたものの、相変わらず、宇良や石浦の相撲が面白かった。この小兵の力士たちは今後どのようにしていくのだろうと思う。いずれ十両から小柳や朝乃山、貴源治のような若い有望な力士が上がってくるだろうから、どうやら今後の一年は世代交代のような感がある。
大相撲があり、籠池喚問があり、忙しい。
いよいよ安倍昭恵夫人の行動が官僚に「忖度」させたらしい道筋が見えてきている。これを無視し、昭恵夫人や財務省の役人喚問を拒否し続けることは難しいように見える。
安倍擁護部隊も動員されてワイドショーで反論しているが、その反論もあまり効いているように思えない。
豊洲問題もだいたい終わりかけている。本当は豊洲市場を建設する談合の疑いまで行ってほしいが、どうやらあとは小池知事の判断である。その点では石原元知事の「不作為の罪」「なぜさっさと移転しないのか」という主張が出て来て、小池都知事側は受けの姿勢になっていおるように見える。
森友学園の新小学院の建物はどうなるのだろう。建てたものを更地にして返すのももったいない気もする。籠池氏を刑事訴追をして、幕引きとするのか、これの結末も見ものである。
稀勢の里の怪我も残念なことだ。照ノ富士の膝もまた悪くなったように思う。琴奨菊もあそこまで突進しなくても、組めば勝てたはずだと思うが、照ノ富士に膝隠しに見事に負けた。今日の千秋楽は負傷者同士の対決だということになる。
それにしても、故障力士が多い。相撲協会も考えたほうがいいのではないか。体重がありすぎるのである。この体重に膝が妙な動きをされたときに耐えられないのである。体重制限をかけた方がよいのではないか。身長を基本にして、計算式をつくるとか。
膝の悪い人だらけで、しらけてしまうのだ。年六場所制だから十分治す暇もない。
栃錦や若乃花で120から130キロ台で、十分相撲は面白かった。太り過ぎは体にも悪い。動きも遅くなる。やっぱり体重制限をしたほうがよい、とやっぱり思う。
土俵下にクッションマットを敷くことも検討してはどうか。
白鵬が早々と休場して、しらけ、稀勢の里以外の横綱は弱くて、しらけ、怪我同士の対戦などとドン引きする今場所だ。相撲協会もこれは危機的状況だと思った方がいいと思う。
財務省に大切な時期の記録がない。大阪府私学課にもある時期記録がない。安倍昭恵夫人の携帯メールもある時期から携帯が水没したためにない、というのは決定的な疑問だと思う。
森友学園の事件の真相は、籠池夫妻の個性と安倍夫妻のように思える。推測でしかない。しかし、そう考えれば、なにもかもつじつまが合う。国民の多くはひっそりとそう思っているのではないか。
僕らはみているだけだから、感想として言うことしかできないが、あまりにも都合よく回っていたものが、一市会議員と朝日新聞の記事によって、安倍が手のひらを返すと、急に、籠池側の勢いが反転し、落下した。
安倍も、昭恵夫人も、松井も、自民党も多くも共に仲間である。籠池も周辺での応援者だった。仲間がさっと手を引いたので、いつの間にか梯子がなかった。思想-信条は自由なのだから堂々としておればよかった。籠池に刑事訴追的なことがあきらかになりそうだと予感したら、思想-信条も主張より自分が関わっていると思われるのがヤバいと思ったのではないか。
辛いのは官僚である。人生のひとコマ、こんな災難もある。
僕らは必ず自分の人生を振り返るときがある。ここまできたら本当のことを言ってしまった方がよい。死に際が悪くなる。80%ぐらいの国民が思っていると思う。
それにしても、全国に数ある一幼稚園の園長。ごまんといる園長の一人が国会で権力の衣を被った政治家に囲まれ、テレビカメラにも囲まれて、憤怒で渡り合うとは結構よい開き直りである。いじめられている子供をみるようだ。こういう場合、ぼくは籠池側を応援する。もちろん、園児対籠池なら園児側を応援する。
籠池のような個性は好きではない。不思議なことだが、こころは籠池側に頑張れと応援する。彼は躓いたのだ。その躓きは取り返しのつかない破綻を意味している。こういうことってあるのだよ、籠池さん。誰にでもいつ何時、落ちるかもしれない穴。その穴から反撃しろ。もう遠慮もなにもないだろう。潰されたのだ。あなたが権力を慕ったばかりに。
都合の悪い奴は切る。見捨てる。犠牲となる代わりに裏取引をする。こういうのはテレビドラマや小説によくあることだ。
森友学園の幼稚園で教育勅語を暗誦し、軍歌を歌い、安保法制よかった、安倍首相頑張れ!というのをテレビニュースで知ったときには僕は驚いた。こんな世界があるのか、という風に。「日本会議の研究」を前に読んでいたので塚本幼稚園のことは知っていたが、まざまざと動画で見るのとでは迫力が違う。こういう幼稚園を「熱意ある幼稚園」とは言わないだろうと思うが、そう思う人もいるということにまたさらに驚く。
籠池理事長が「トカゲのしっぽを切ったって・・・」とメディアの前で言い、ついには安倍首相に100万円寄付してもらった、と発言した。先例主義の官僚が異例づくめのスピードで瑞穂の国小学院の認可と国有地払い下げをした。ここまで来て、あと数歩というところで、籠池一家の計画は破綻した。それは豊中市の一市議の情報公開請求という行動があったからである。日本にはチェック機能があったとうことだ。
官僚は政治家の忖度をして公共工事や補助金などのことをする。僕はそのような地域根拠地型の政治家は田中角栄の失脚で終わったのだと思っていた。忖度行政は脈々と続いているのである。いつも思うことだが、官僚というのは潔さがない。
思想・信条は自由であるから、しっぽなど切らず、トカゲとして応援し続けるという手もあったはずだ。不正さえなければ。
威勢のよかった応援者は掌を返した。隠れるものは隠れ、口を閉じ、すべてを籠池夫妻のせいにした。どんな幕引きをするのか注視したい。
日本は右傾化しているとよく新聞などの本の広告などで見るが、右傾化しているのは自民党の政治家だけであって、日本国民の多くは右も左でもなく生きているのだと思う。教育勅語の復活は憲法を変えないとあり得る話ではない。今上天皇とていい迷惑な話なのではないか、と思える。国民の半数以上が自民党を支持していないのがいつもの選挙の結果である。共産党も含めた(僕は名前を変えた方がいいと思うが)野党が統一できなければますます自民党は右傾化していくように見える。
本を読んでもいないコメンテーターや芸能人司会者は菅野完のことを「胡散臭い奴」とみているように思われる。彼の「日本会議の研究」を読むと、よく取材し、思想信条の自由があることにも十分注意しながら、この国を支配しつつあるあるグループ(生長の家原理主義者でわれわれこそが谷口雅春の宗教的思想を継ぐものとおもっている一グループ)による日本青年協議会、安部首相の政策ブレーンである「日本政策研究センター」
の中心的存在であることがわかる。自民党の政治家や民主党の一部も入会している「日本会議」は緩やかな理念だけの団体であるが、その影響力は地方議員、特に市会議員にまで及ぶ。日本会議の事務局は日本青年協議会が行っている。
籠池元理事長も生長の家原理主義者である。彼は幼児教育で、日本青年協議会の思想を実際に体現させたのだった。
この森友学園問題の発端となったのは、おもしろいことに、国有地払い下げの値が奇妙だと感じ、情報開示請求をしたことだ。この一市議の勇気と良心が政権を揺らすことになった。それは注目に値することだ。その開示請求拒否に朝日新聞が食いついた。
潔さがない政治家ばかりにようにみえる。瑞穂の国記念小学校に寄付をし、講演をした一連の人々も口を閉じる。応援していたはずだ。「だまされた」「利用された」
というかもしれないが、一市議が行動がなければ、教育勅語、軍歌、軍隊的規律で、安部首相頑張れという小学校ができていたはずだ。
現在疑獄事件として混迷している「森友学園への国有地払下げ問題と認可問題」
著述家として菅野完は仕事をよくやっていると思う。テレビ局も新聞社も独自の取材を必死になってやっておらず、テレビのワイドショーなどは新聞で書かれたものや記者会見などで、ジャーナリストの矜持というものは全くない。パネルにまとめて、コメンテーターに意見を言わせるだけである。菅野完は自分でネタを取り、自分の足で接触し、交渉している。
多くの方が知っているように菅野完の「日本会議の研究」という本は、よく売れている。僕も読んだことがある。菅野の書き方には右も左もない。日本会議を冷静な見方で書き、日本会議が誕生した経緯も書かれている。
日本会議は椛島有三が事務総長であり、椛島有三は「日本青年協議会」の会長でもある。彼らがこまめに市民活動を行っている。しかし日本青年協議会にはひとつの悩みがある。青年協議会と言っても椛島有三や「日本政策研究センター」の伊藤哲夫とかが若かった頃にできたもので、生長の家が激しい政治活動をやっていたときに誕生したもので、もはや彼らは「青年」ではない。70代だ。彼らは本当の青年が数欲しい。後継していくものが身内のものばかりでは心もとない。だから「学校を作ろう」とするのも不思議はない。そういう問題が森友学園問題の底流にある。そのさらに深いところに「谷口雅春先生を学ぶ」誌を核とする「生長の家原理主義」のグループがいる
「日本会議の研究」を読んでいると、そういうことがよくわかる。よく取材している。この疑獄事件はお金の問題ではない。それは付随してでてきたことだ。教育勅語、明治憲法への復古主義を唱える極右の思想信条に賛同するもの、もしくは圧力を受けたものたちが籠池を中心として起こっている思想事件である。憲法や教育基本法に抵触する事件なのである。
元号制定法では成功し、幅広く日本会議に国会議員や地方議員、政財界、学者、法律家を取り込んで粛々とやっていたのに、とんだ問題となってしまった。テレビも新聞までまだそこの核心まで到達できない。日本には右翼のテロというのがあり、気色悪い面があるからだ。
籠池元理事長は極右の人である。安倍晋三総理を誕生させたのも伊藤哲夫や椛島有三らの強い意志だっただろう。政治家はカニのように悪さしたみたいに穴にひきこもる。これもおもしろい。思想・信条への潔さがない。
大風が吹いて、満開を四日ほど続けていた木蓮の白い花が家の前の庭や前の公道に散ってしまう。竹箒で取り除くのだが、また散ってしまう。木蓮と突風はそういえばコンビであった。つまり突風の時期に木蓮が咲く。
空は風が唸る音で恐ろしいほどだ。何かが飛んでくるかもしれないと注意ぢながら事務所まで歩く。八百屋でポンカンを買った。すでに普通のみかんは終わり、ポンカンや八朔に替っている。時は店に並ぶものも変えていくものだ。途中で耐震工事中の北川を覗く。昔は汚い川だった。今はすっかり透明である。また昔はボラの群れをよく見たものだが、川がきれいになってからは見なくなった。
今年、獲れなかったもの。サンマ、ボラのからすみ。サンマは一匹も獲れないという有り様だった。
カレイが驚くほどやすい。片口イワシも安い。ぼくはこれがあれば上等である。イオンにいけばやたらとマグロが多い。スーパーなどの大手は一船買いをするのだろう。マグロが減っているという実感はイオンでみる限りではないのである。
先週は鬼エビが並んでいたので、塩ゆでをして食べた。美味しかった。ガスエビも毎日並んでいる。
春になるとどんな魚が並ぶのだったか。メバルは春を告げる魚だというが、最近ではメバルも料理屋にあるときがある。市場に揚がる魚ではないから、誰かが釣ってくるのだろう。メバルのほかに何だったっけ? ああ、鰹。しかし初鰹までまだ日がある。
テレビは、稲田防衛大臣に火の粉が飛び、オランダとトルコの仲がやばい。金正男暗殺、朴大統領の弾劾から選挙へ。豊洲問題百条委員会のニュースが続く。
そんなニュースに割り込むように、プロ野球と稀勢の里の取り組みがはさまれる。
小学生の頃、大相撲の仕切りの4分が長くてしかたがなかった。今は、4分の間で徐々に気合いを入れていくようすや、何を思いながら仕切りをしているのかなどと思うからか、4分はすぐに過ぎてしまう。
物言いか、と思う相撲でも取ってる力士いはスローモーションのように見えるもでわかるものだ。3日めにそういう取り組みがあって、解説者がそう言っているのを聞いて、相撲を3年だけだが取ったことのあるぼくとしてはよくわかる話である。
脳は時間を速くも遅くもする。
話は違うが、美空ひばりも、石原裕次郎も早くに死んだ。どちらも酒が大好きだった。そのこともあろうが、52歳くらいで、人の普通の人生の時間を凝縮させたのだろうと思う。やりきった感があったかもしれない。
ぼくらはまだやりきった感がないから、まだおっとりと生きるのかもしれない。
これも時間の感覚である。
相撲に話を戻して、この3月場所は楽しみがいっぱいである。まず、北海道かえあ出てきたばかりの18歳の少年をテレビ局がドキュメンタリー番組で放送したことがある。その少年がりっぱな体になって十両にいる。旭大星である。今場所10勝でもすれば幕内に昇進できるかもしれない。
次に琴奨菊である。10番勝てるか。さらに白鵬と稀の里の横綱ぶりである。御嶽海や正代、高安、遠藤、于良、石浦らの取り組みをみるのも面白い。2週間はあっという間に過ぎるのだろう。これは面白過ぎるからだろうか。
庭に桃の木を植えた。もうすぐ花が咲きそうなので、毎日楽しんで見ている。大相撲が終わると桜が咲く頃だ。三月というのは思えば何事においても楽しみな月だ。受験で失敗した学生には申し訳ないが。
情況への発言だけは生涯やろうと思っている。今日は産経新聞、皿木喜久が書いた「日本の戦争」を読んだ。子供たちたちに伝えたい、あのときなぜ戦ったのあ、という副題がある。
この著者は日清戦争、日露戦争、朝鮮併合は日本の近代国家としての「自存自衛の戦いだった」となんとしても言いたいのである。
半藤一利は戦争を回避する場面がいくらでもあったことを主張する。どちらも本当なのだろう。と言って、戦争に国民を巻き込み、反対するものを弾圧し、外国に侵略し、土地や建物を奪い、人を殺したのも事実である。戦争の結果として、空襲で大人数の国民が死に、路頭に迷わせ、沖縄が占領され、広島、長崎という悲惨に陥ったのも事実である。自存自衛という言葉には国家存亡の危機みたいな意味合いがある。
押し付け憲法だ、東京裁判は間違っている、などと今さら言っても仕方がないというものだ。負けたものが、ヘイヘイと言うことききながら、あとになってほざくのと同じである。
しかし、国民の、しかも若者の多くの命を権力の力で戦争に行かせて奪ってしまったのも上にいるものたちである。
だから、もしも集団的自衛権の行使で戦地に赴くことがあったら、防衛大臣や閣僚が前線にいかなければならないとするよう言いたい。
戦争にも解釈があるなどとするのは不思議な話である。正義の戦争も、悪の戦争と分ける必要もない。戦争そのものが悪である。多くの人はそれを知っている。これにどう立ち向かうかわからない、わかりにくいのだ。
せめて先の戦争で多大な犠牲者をだした日本がとるべき道は永生中立国宣言だと思う。
日本人はなぜ戦争をしたのか。半藤一利が書いた「昭和史」を読み返してみた。そこには折々の判断ミスがあり、指示もないのに、ちょうど籠池元理事長が了解なく突っ走ってしまったような出来事があった。日中戦争、太平洋戦争の原因をさぐるには日清戦争前まで、つまりロシアの皇太子が元武士に斬りつけられる「大津事件」
にまで遡ることになる。
この時期イギリスやフランスやアメリカまでも東南アジア諸国を植民地化していた。資源のない日本はアメリカとイギリスから資源を輸入していた、一方港のないロシアは、シベリア鉄道建設が悲願であり、この計画が着々と進んでいた。シベリア鉄道ができれば、東側に港ができる。途中から下へ南下させれば満州である。
また当時、明治の28年頃は朝鮮半島は不安定だった。いつロシア占領されるかもわからなかった。
明治以降常に中国、ロシアは脅威であった。中国には外に進出する力はなかったが、朝鮮半島を守る力もなかった。
日清戦争の勝利で満州に鉄道を敷いた。ロシアと面と向かい始めた。緩衝地帯をおくためにか挑戦半島を併合した。しかし満州にはでるのは石炭くらいで、石油はなく、鈴や胴などの資源はほとんどなかった。
このときから昭和の戦争を解き明かすのかは解釈による。戦争をせずともすむチャンスはいくらでもあった。
海軍は戦争回避を主張していたが陸軍は積極的であった。内閣には軍部の大臣がいて、その大臣一人が反対すれば物事は進まなかった。統帥権なるものも制度として存在した。内閣の議決、国会を無視できるものであった。国民は国民ではなく臣民となった。戦争に反対するものは投獄されたり、危険地域の最前線に行かされた。軍部ファシズムがきつく臣民を縛り始めた。
権力というものはいったいなにをしでかすかわからない。その手段が憲法である。権力の横暴を防ぐのが憲法であることを忘れてはならない。そして解決の方法は交渉しかないことは先の戦争から得た教訓である。ゆめゆめ、危機感を煽る一部メディアに乗せらてはいけない。
現在の「生長の家」はエコロジー左翼のようであるが、始祖、谷口雅春が存命の時は、政治活動を行っていた。生長の家の学生運動家。ここに安東巌がいる。次に入ってきたのが、日本青年協議会を作る椛島有三であり、衛藤晟一(内閣総理大臣補佐官)、日本政策研究センターの伊藤哲夫(安部内閣のシンクタンク)である。
生長の家は谷口雅春の死後、現在の生長の家と生活長の家原理主義に分かれた。森友学園の籠池夫妻も、稲田朋美夫妻も成長の家信者であり、稲田の夫は森友学園の弁護士をやっていたこともあきらかになっている。
思想信条は自由である。ぼくも、稲田が何教を信じようがかまわない。
ところが「森友学園」問題となると、生長の家の信者がなんだか繋がってくるのだ。そして、この成長の家の若きメンバーだった人たちが、現在の日本会議の事務局をし、政策を諫言している。
籠池元理事長が一方的に主張する内容は日本会議のホームページや神道政治連盟のホームページを見ればわかる。
愛国心ビジネスも幼児まで巻き込もうとするのではもうだめだ。いくら崇高な理念を成長の家や日本会議はもっていたとしても、そのつながりを行政に使うなどというのは言語道断である。もしもぼくのような人脈のないものが小学校を作るのに、こんなに早く物事が進むとは思えない。
教育勅語とは最終的に、天皇のために死ぬことも辞さないと言葉で刷り込むものだ。「教育勅語のどこが悪い?」と籠池元理事長は言うけれど、ちょっとは歴史の勉強もしたほうがよい。
愛国心と幼児教育は次元が違う。愛国心は教え込むものではない。よい政治学を行い、経済生活でも飢えることはなく、ああ、この国はいいなあ、と自然に出てくる心情である。
だから籠池元理事長のいうことは胡散臭いのだ。ちゃんと手続きをふめばいいのだ。それを、契約書3通をつくったり、経歴を詐称したり、補助金交付に嘘申請ぢたり、有名人の名前を無許可で広告に使ったりするからいけないのだ。
このところ謎の事件が続くので、国民もイラついているのではないかと思う。そんなとき、朴大統領が弾劾となる。金正男の息子がアメリカに匿われたという。
謎は豊洲から始まり、延々と続いている。
森友学園の籠池理事長には自民党はどうしても国会には出てほしくないようだ。彼が居直ると、何を喋りだすかわからない。つなぎ役、口きき役で新しい人が、出てきたら、その人物はメディアに調べられる。
稲田防衛大臣の夫が森友学園の弁護士をやっていたなんて。岡山理科大学の今治にある獣医学部の総長は安部首相の仲良しだなんて。これからどんどん疑惑がでてくることはまちがいあるまい。いもづる式に、人脈リストが出来上がり、一大疑獄事件となってしまうかもしれない。局長クラス以上は官邸が人事権を握っているというから、政治家の口利きはあったと思われる。その証拠探しはメディア関係者が調べるとして、 僕が腑に落ちないのは、営業に使われた安倍首相とその夫人がどうして森友学園を提訴しないのかということだ。寛大すぎるように思う。夫人には肩書きまでついているのである。安倍晋三小学校とまで書かれたのである。
それもさておき、小さな時に刷り込まれたことは、大人になっても、理性ではわかっても感情の中には残るものだ。教育者である大人がいちばん知っていなければいけないことだ。これが一番罪深い、と僕は思う。刷り込みの中で親の次に罪深いのは教育者である。