25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

海につれていく

2016年02月29日 | 日記

  今日は娘、孫をつれてチャンポコをとりに行った。風があったが、さほど寒くも無くなってしまったバイ貝、シリタカなど、それにタカノツメを採った。

 なるべく海辺の体験をさせておきたいので、来る度に海に連れていくことにしている。男親というのはスキンシップということから言えば、絶対的に母親に劣るので、外で獲物をとってきて、静かに存在するのだぐらいに思っているので、孫にもそういうことをしようとする。

  ただ1歳と4歳だとなにかと注意しなければ鳴らないので、僕はときどき逃げだす。そして自分の世界に閉じこもる。

  娘の子育ての様子をみているとりっぱなものだと思う。母親資格検定を提唱している人がいるらしいが、娘は合格することだろうと思う。

  皮膚は第三の脳と言われている。母親とのスキンシップは重要である。さらに重要なのは母親の安心感である。その安心感は夫や環境によってもたらせられる。

  皮膚は内蔵や脳への入口であり、センサーであり、情報のやりとりをする光ファイバーのようでもある。

 で、今日はチャンポコで一杯飲むということになる。 


ビタミンB1の心配

2016年02月28日 | 日記

  酒を飲むと、ビタミンB1が欠乏しがちになるので、なるべくB1の入っている食べ物を豆類、豚肉をとろうとするが、不足しがちになることを恐れてマルチビタミンのサプリを摂っている。医者は笑うが、60を過ぎてから、ずいぶん意識するようになった。

 酒を飲み過ぎる人で長生きしている人をみたことがない。  ほどほどに飲むのがいいのだが、つい調子に乗ってしまう。

 この頃、カブの酢漬とイワシでまず日本酒を飲む。約1合半ほどである。 それが終わると、本格的な御飯となるが、その日のオカズによっては、芋焼酎にしたり、もう酒はやめることもある。

  7時からのニュースを見て、終わりかかるころになると、異様に眠くなってくる。耐えられずに眠ってしまう。 50代の頃はそんなことはなかった。こんなことからも、ビタミンB1のことを思うのである。

 ずいぶん日も明るくなってきた。春はもうすぐだ。やはり暖かいのがよい。


宗教の衰退

2016年02月27日 | 文学 思想

  ヨーロッパではキリスト教の衰退が激しいらしい。アメリカはプロテスタントの国であるが、ヨーロッパほどではないにしても、減少傾向にある。世界的カトリック教会の衰退が一番激しいのだが、プロテスタントも福音派が頑張っているが、減少している。

  日本では新宗教の衰退が著しい。立正佼成会、霊友会、PL教団、創価学会、天理教、どれも激減している。世俗化も激しいのだろう。経済成長期に信徒数を増やしたが、一億総中流社会と呼ばれるようになってから、減少し始めている。

 イスラム教もまた経済が安定していったら世俗化していくのだろう。日本では神道も仏教も世俗の極みである。しかし人々は適当に、慣習的に神道とも仏教とも付き合っている。

  僕などは「無神」と言おうか、「信心がない」と言おうか、宗教心がないので、今ヨーロッパで起きていることは、どういう意味をもつのか想像しがたい。イスラム教徒が2030年には10%になるという予測がヨーロッパの危機感になっているのかも知れない。

 どうやら宗教は経済の成長期に起こる格差の精神的な穴埋めの役割を担うものだと言えるのかも知れない。今の創価学会は「折伏」をあまりしなくなった。「エホバの証人」だけが家々を訪問しているのを見るだけだ。

 その点では日本では宗教対立や紛争はこれからも無いように思われる。

 自然崇拝のようなもの、自然のあらゆるものに神的なものを感じるという感性は生き残っていくよう気がする。

 25年ほど前に読んだアメリカの小説「リトル  トゥリー」はインデアンの男の子がお祖父さんから、自然と共存していくことを教わるとても優れた小説だった。しかし、それは宗教ではない。物の考え方のことだ。

 世界はどうなっていくのだろうと思うと、当面、中東の問題を解決しなければならない。

 まだまだの感があるが、第三次世界大戦だけは避けなければならない。

 

 


日本の教育

2016年02月26日 | 社会・経済・政治

 日本は、姿勢の教育が家庭教育や学校教育で重視されなければならないと思う。

 腰痛、首痛、膝痛、股関節痛、肩こり、O脚、XO脚、偏頭痛、耳鳴り、巻き爪、外反母趾、浮き指、五十肩や四十肩、胸郭出口症候群、むくみ、など姿勢からくる病気が多い。そしてそれは健康寿命を短くすることになる。つまり寝たきりになる可能性がある。

 日本の教育の欠点としては、他人との距離、客観視、主張の違いの容認、あいさつなどがカリキュラム化されていないこともある。

 まだある。日本では国語も英語も数学や生物、化学、物理も高度でしっかりやっているのに、株式や資本についてはほとんど教えない。自己責任に「ついても教えない。第一、ある教師が不祥事を起こすと、肝心の教師は出てこない。教育委員会のものが出てくるという始末である。

 歴史は現代史の手前で時間切れとなってしまう。

 万遍なくいろいろなスポーツをやらせることもなければ、万遍なくいろいろな楽器を練習させてみるということもない。

 人の顔色や表情を見て者を言う人が街頭インタビューを見ていても多い。

 日本の教育も見直してもらいたいものだ。地方自治体独自の取り組みもあっていいのではないか。そんなことを思う。


2016年02月25日 | 社会・経済・政治

  「資本主義は宗教と心中する」という副題で、本題が「宗教消滅」というSB新書と、輪廻転生を真っ向から論じた竹倉史人の「輪廻転生ー <私>をつなぐ生まれ変わりの物語」を新宮まで行って買ってきた。なんとなく買うのである。我住む町はなんとなく買えないのである。本の数が余りにも少ない のである。

  こういうことはちょっとした楽しみなのである。気持ちにひっかかってくるものをペラペラめくり立ち読みをする。そしていろいろ考えて 、自分のの今の心境にあったものを選。全くの選択消費である。

  他の商品をみていると、買い物衝動がでてくるので、服も靴も、ウィスキーも見ない。おそらくこれが大多数の消費の仕方だと思う。

  僕は新書を読んで 知識を蓄える。僕が僕を表現するためには今それが必要である。ある人は服かもしれない。靴かもしれない。つまり消費の形が横並びになっていないのだろう。  

 こういう思いが「資本主義は宗教と心中する」を選んだのだろうと思う。そういう社会になっている。20年前とは 全くのちがう。

 

 

 

 

 

 

 


異界

2016年02月24日 | 文学 思想

 激しい情熱のある人がいる。冷たい情熱をもった人もいる。情熱そのものがない人もいる。限りなく優しい人がいる。限りなく意地悪い人もいる。どんよりと曇った空をしたような人もいる。青空のような爽やかな人もいる。堅い意思の塊のような人もいる。愚かな人もいる。平気で嘘をつく人もいる。人にちゃらちゃらとおべっかを使う人もいる。いつも疑ってかかる人もいる。話の裏を読もうとする人もいる。善人ぶった悪人もいる。悪人ぶった善人もいる。ぼんやりとした人がいる。楽天的にしか物事を考えられない人もいる。十年先を考えない人もいる。ネガティブにしか考えられない人もいる。黙りこくった人がいる。明るくおしゃべりする人がいる。噂話が大好きな人がいる。ひとりでは寂しい人がいる。性欲の強い人がいる。悪口をいう人がいる。他人を褒めることを惜しまない人がいる。

 人はいろいろだ。こっちとあっち。その間には見えない境界線がある。その線はどこにでもある。君と僕の間に。スナックのカウンターのように、あっちとこっち。それが「側」ともい言うし、「立場」とも言う。異界と異界が綿々とつながってこの世はできている。

 さらにもっと複雑なのは、個人の世界は身体だけであるが、この身体の中の脳というところの入れ子のようになって異界が存在している。

 


娘たちがくる

2016年02月23日 | 日記

  娘とその子供二人が4日前から来ていて騒々しいので、自分の部屋に引きこもったりする。1歳になった男の子(ぼくの孫であるが)は母親が少し離れると泣き出して、これには参ったのであるが、4日目になると少々離れても泣かなくなった。赤ちゃんというのはよほど母親が頼りなのだろう。この母親との密着感はもちろん歳をとっていくにしたがって、脳のブローカー言語野に「母親の大きな笑顔の像」が定着し、幼稚園にでもいけるようになってくる。

 この時期、母親の「不安」や「虐待」「無視」「回避」「逃避」などがあると乳児のブローカー言語野に、不安や恐れの像が定着してしまう。

 これまで母親をひとり占めができていた4歳の娘は、この一年でずいぶん顔の表情が変わった。弟にかましすぎると、他人が弟について話すとちょっと微妙な顔をする。自分も弟のことを十分に相手をし、可愛がりもするのだが、関係性を意識しているように見える。

 一歳の孫は今、「舐め回し」の時期である。なんでも口にする。僕は「舐め回しの時期は大事な時期で、腸にたいしても抵抗菌をつくるために、よほど潔癖にするな」と言っている。

 小説もできあがって、「すばる」に出そうか、「相撲雑誌」に出そうか、考えている。「すばる」は3月末が締切である。

 次の小説を書き始めた。書けるだけ書きまくっておくのである。

 庭の木蓮が咲き始めた。これが全部散るとずいぶん暖かくなってくる。たぶん散る頃に娘たちは帰るのだろう。いつまでもムコさんをひとりにしておくわけにはいかないことだ。多くのことがありすぎて、休憩に来たのだから、存分に休憩して、帰ってくれたらよい。

 まだ僕らは帰って寂しいとか、そういうことはない。

 


後ろ髮を引くもの

2016年02月21日 | 日記

   庭の木蓮の花が咲き始めた。間近によって仰ぎみていると、青い空が見えるのだが、電線がある。日本というのはどこにも電線があって景色を台無しにしている。この面では成熟した社会ではない。以前から書いてきたように、日本の沿岸はテトラポットに覆われている。これも風景を台無しにしている。

  日本は教育に力を注がなければならないはずなのに、東北大震災以後、また土建国家に戻ってしまった。よほど土建業界の力が強いのか、僕は困った国だと思っている。

 明るすぎる電灯にも違和感をもつ。

尾鷲では「石炭火力発電所」の誘致が取り沙汰されている。バイオマスを使い、それを動力として水素発電所を描いた方がいいと思うが、その兆しはない。

  今年も片口イワシの季節がきたが、脂の少々もない。サンマも痩せて細く、値段も高い。この辺の海水温度がきっと高くなっているのだろう。これには僕はショックを受けている。東北からヤナギカレイとメヒカリの干物が届いた。ほどよい脂があって美味しい。

  楽しみな食材がふたつ無くなってしまったのは、自分の人生を考える上で、とても重要だと思ってきた。「尾鷲を離れるか」と思ったとき、この二つと、オニエビ、チャンポコ、ハゼ釣りが後ろ髮を引いたのである。

 


消費資本主義の時代

2016年02月17日 | 社会・経済・政治

  大学受験用の国語の問題集を買って来て、夜な夜な読んでいる。優れた文が選ばれている。思えば18歳でこのくらいの文が読めなければならないのか、たいしたものだと思う。また、平素では自分では気がつかず、選ぶことのない文も紹介されている。

 新聞に載る文は批評文であろうと、難しいものはない。平易に書かれている。

 さて、経済の話である。

 できるだけ単純に書きたい。現在の日本では、それほど、「消費 消費せよ」「設備投資せよ」と言われても、あんまり買うものがない。だから国内消費をいくらあおっても人は購買意欲がわかない。

 まして、政府は主に輸出企業の税金を安くしてあげ、69%を占める輸入企業には冷たい。値上げを狙っているからだ。輸出企業をいきうら優遇しても、政府の意に反して石油は下落、中国の経済減速があり、株価は乱交夏至、平均的には下がっているし、円は高くなりつつある。上がって消費者はなにをおいても値下げが好きなことは言うまでもない。

 どうしてインフレがよいのか、その意味は消費者から言えば理解しにくい。安いほうが有難いからだ。インフレでありがたいのは政府である。政府の借金がインフレで目減りするからである。だから政府は経済成長ばかりを叫んでいる。

 トリプルダウンなどというのは有り得ない。どの企業も先が見えないのである。何があるかわからない。だから内部留保してるのである。企業の実体生産力は落ちているのに、政府に支えられ、為替差に支えられているだけの話で、景気は上向きだ、などと言う経済学者がいる。だいたい経済学者のいうことで当たったためしがない。

 政府のやっていることは僕には無茶苦茶のように思える。

 例えば東北の復興のことだ。津波は逃げるが勝ちである。逃げる訓練、逃げる場所の確保が優先されるはずなのに、高い堤防を作っている。1000年に一度という津波なのにである。東北大震災のとき、津波の第一波は20分ほどかかった。20分あれば、十分逃げられる。高台移転などはせずともまた元の場所に家を建てる助成をすればいいと思う。

 そのために高速道路の無料化は撤廃された。JRは高すぎる。それで地方創生という。もう地方のものは東京にでるだけでもたいへんなことである。そこへホテル宿泊ができにくくなっている。

 建築物は作ればメンテナンスが要る。メンテナンス料も馬鹿にできないだろう。それに団塊世代が病院に通い始める。

 何が大事か。維持することが大事なのだ。そして教育の格差の解消をなくすことが必要なのだ。土建に使うお金があれば、教育にいくらかまわし、建設業の人で不足を解消すればよいのだと思う。

 現在は「消費資本主義」の時代なのだ。消費者の手のひらに政府もあるのだ。それが政治家にはわかっていないように思えてならない。


狂った世界

2016年02月14日 | 日記

  ふくらはぎからやや下のところに、ヒラメ筋が分かれるところがあって、ちょうどそこのところ傷めてしまった。原因がよくわからない。とにかくひどい痛さで、三日間安静にした。ようやく今日は歩けるようになった。

  人間の体はちょっと痛いだけで、調子が狂う。考え事 ばかりしていた。You Tube では、高校相撲部や、大学相撲部、プロの相撲部屋の稽古風景をしっかりとみた。寝床で次々とみるものだから、いつの間にか、朝の4時を過ぎている。そんな中で、北の富士が横綱在位中に「不眠」を理由に本場所を休んだらしい。

  あの朝青龍が左手で、賞金を受け取り、横綱の品位を疑われ、休場中にサッカーをしていたと叩かれた。北の富士のころは場所を休んでハワイで遊んでいても、責められることはなかった。相撲界ものんびりしていたのかもしれない。

  井上陽水が、誰も知らない夜明けが明けたとき、とか、川沿いリバーサイドと、意味が重複したものを書いた。今だったら、編集者にチェックされ、それを許すものならさらに上のものに、何やってんだ、何のために、給料払ってんだと言われる、と語っていた。なんかせちがらく、細かく神経質になっているのだ。

 子供の夜歩きにしても、悪い 人がいるからと、心配し、塾も親も神経を配る。ホームに酔っぱらいが落ちたら、ホームに出入口のある遮断壁をつける。バイ菌が嫌いだと平気でいい、それが当たり前のように、潔癖な生活を披露する女性タレント。

  電話の苦情を恐れるテレビ局。育休問題がいつの間にか下半身問題になっている。沖縄秘密協定の暴露記事も、新聞記者の下半身問題にすり替えられてしまった。

  この国では人々はそれほど買うものもないのに、経済成長ありき、という考えがばっこする。経済など好調であるはずがないのに、株と為替だけが踊っている。輸出大企業だけが優遇税率で保護される。おかしな国、おかしな神経。1000年に一度と言われる地震に、巨大堤防、高台移転を進める自治体。

  トルコのクルド人への攻撃。サウジアラビアとイランの対立。ロシア、アメリカ、中国の存在。宗教的対立、民族的対立。世界恐慌の予兆。

  日本も世界も狂ってしまっているのではないか、と思った三日間であった。      


相撲小説

2016年02月09日 | 日記

 ようやく「相撲小説」が波に乗ってきて、毎日四時間ほど書いている。そこに芸術性や文学性を織り込むことはやめて、自分の理想としての人物と相撲を描けたらいいと思うようになった。まだ雑ではあるけれど、主人公は僕が追い求める人物になろうとしている。あともうちょっとだ。

 これもひとり稽古のようなもので、読んでくれる人がいない限り、ただのインクのついた紙であるが、すっきりとさせる清涼飲水になるかもしれない。

 丁寧に点検し、校正して、なにかの応募には出そうと思っている。

 この間、相撲の技の48手をひとつひとつ知ることになった。この技が集約して伝統的に土俵で起こりうる技だと思う。「居反り」は智ノ花の取り組みでしっかり見させてもらった。「三所攻め」は舞の海の相撲で。「波離間投げ」は若三杉の相撲で、という風に、ネットの動画ではとても便利に検索することができる。スフトバンクが自社の宣伝のために48手を次々と紹介している。

 頭は相撲でいっぱいで、現在のところ相撲キチである。結構気合が入っているので、そういう気合は人にも通じるのではないかと思う。人生は短いようで長い。まだどれだけでも何事かできる。

 


また相撲のこと

2016年02月04日 | 日記

  相撲の小説を書いてみようと思って、相撲のドツボにはまってしまい、再度挑戦したが、またドツボにはまってしまった。素人ならでは書けることもあるかと思うが、そもそも、運動というのは重心の移動である。どの競技もこのことのバリエーションである。相撲は、力をいかにして伝えるか、相手方の力を殺すか、利用するか、バランスを崩すかの勝負である。力相撲などありえるはずもなく、見ていたらわかるように、逸ノ城にしろ、臥牙丸などは自分の体重をもてあましているだけである。技をかけることもままならない。少し重心をいじられると、あえなくころぶか、逆に押し出されるだけである。

 大相撲が六場所制になってから、相撲稽古のやりかたが変わらなければならなかったのだろう。しかし、制度を変えても、親方衆や力士の意識は変わらなかった。これだけ怪我が多いのも、とくに膝を故障させてしまうのも、股関節の使い方ができず、膝に直接負担をかけるからなのだろう。

 思うのだが、大工道具であるカンナの刃先を調節するのに、端の木の部分をコンコンと叩く。あれを裏側から手で引っ張っても動くものではない。叩くことで刃先がとびだしてくる原理がわかっていたからこそ、あの形になったのをかんがえると、先人の気づきに驚かされる。

  相撲道は制度変更以後、協会あげて、六場所に合わせた原理の研究をやってこなかったと思う。多くは怪我で泣かされている。白鵬はなにやら試行錯誤しているようである。まだうまくいっていないようだ。

 

 


ソドムの林檎

2016年02月03日 | 映画

  数年前に、練炭で次々と男が殺されるという事件があった。容疑者はえらく太った女木嶋佳苗だった。現在彼女は死刑判決を受け、控訴中らしいが、獄中結婚をしているそうである。

  この事件にインスパイアされて、「ソドムの林檎」という映画ができた。ブスの役ということで、寺島しのぶが演じていた。現代の孤独な中年、老人を婚活サイトで探しだし、近寄り、母性を大いに発揮する。お金がないとわかれば、離れるか、搾り取ってしまえば殺してしまう、というとんでもない主人公であった。この主人公をノンフィクションとして描こうとする女(木村文乃)は、実はブス顔だったのを美形に整形手術をしており、摂食障害ももっていた。一方主人公の犯人は美人顔をわざとブス顔にしていた。ブス顔の方が男は安心していられる、という考えがあった。脚本家はこの点では捻りに捻って、映画としての展開を図っている。宗教、親子関係と踏み込んでいく。取材する女は、美人になってから、内面をみてくれない男に傷つき、精神が荒んでいた。それが実は同じコインの裏表であることにも気づき、知り合った男性記者が顔かたちのことを気にしない男であることにも驚く。そして徐々にこころの傷が癒えていく。主人公はふてぶてしく、ケロリとしている。

  作品としては、ややうんざり系のトラウマドラマになっていた。

  本当の話は藪の中であるが、裁判は状況証拠のみで行われている。これも現代という時代が背景となって起こる事件である。


琴奨菊のこと

2016年02月02日 | 日記

 またトレーニングの話である。

 琴奨菊のトレーニングをYou-Tube で見た。全部の筋肉をバランスよく鍛える。彼の場合、必要なのは体幹の筋肉ではあるが全部の中には体幹筋も入っているので、トレーナーは「ケトルベル」を選んだ。錘に取っ手のついたものである。ロシア発祥らしい。こrを前に置き、両手で掴み、股関節を伸縮させることで胸の高さまで、振って上げる練習である。続いて、頭の上まで上げる練習である。相当きつそうである。

 別の動画では、バランスボールを二つ用意して、その二つのボールの上で四股を踏むというものである。普通の四股より十倍ほどきついらしい。バランスを取らなければならないので中層筋、深層筋も使う。

 もうひとつはハンマー投げを回しながら歩くというものである。

 膝の故障は股関節周囲の深い筋肉を強化することで、膝への負担を減らし、大胸筋を傷めたのはケトンベルで克服していったようだ。

 まだ32歳。今場所、相手のよこの動きや引きにもついていけるようになったのはこれらの練習のせいだろう。そして、大一番でも呼吸法によって緊張しすぎないメンタルトレーニングもできたのだろう。このことは優勝時のインタビューでも話をしていた。いわばルーテーンである。

 宮本武蔵からしてみれば、ルーティーンなどは小馬鹿にすると思う。剣術者はいつ闘うかわからないのだから、ルーティーンや準備運動などは有り得ないのだろうから。しかしながら琴奨菊はこの練習を続ければ、もっと強くなるに違いない。これまでと違う圧になっているのは、白鵬や日馬富士が一番よく知っていることだろう。

 柔道の三船十段74歳のときに試合を見た。彼はフワフワとしていて、巨体の八段や七段の柔道家がいくら技wかけても、鯉のぼりに技を掛けているようなものであった。そしてポイと三船十段に投げられるのである。投げる動作になってからの三船十段は目もとまらぬくらい動きが早い。ユラユラしていて、ポン、と投げるのである。十人と乱取りをするのも見たが、話にならないのである。昔の柔道とはそのようなものだったのか。合気道にも通じるところがありそうな気がした。今の柔道は、力柔道とレスリング柔道である。見ていておもしろくない。力でなぎ倒す、というのは現在の相撲もよく似てきている。舞の海みたいなのが出てきてほしいものだ。 


股割り

2016年02月01日 | 日記

 相撲取りになりたい少年を主人公にして、小説を書こうと思い立ち、出だしはスムーズに滑り出した。ところが途中から群像劇のようになってしまい、ただ上っ面のストーリーだけが進行していき、言葉も指示言語だけのようになってきた。朝日新聞に沢木耕太郎が連載している小説「春に散る」をいつも苦々しく読み、一方で、同じ新聞に連載されている夏目漱石の「門」を読んでいると、いつも沢木耕太郎の文を貶している自分がいる。そんな自分が同じようなものを書いていると思うと、考え込んでしまい、原稿用紙ですで200枚くらいは書いたものを捨てて、違うアプローチの仕方がないものか、また考え込んでしまう。

 それで、寝床で、村上春樹の二度か、三度ほど読んだ、「東京奇譚集」を拾い読みしていると、さすがに短編は上手い、表現力もさすがだ、と思うと、余計、どう書いていけばわからなくなってきて、頭の中で、ああでもない、こうでもないと思っている。

 エンターテイメント小説として仕上げたいのではない。そういう小説は山ほどある。トラウマ小説も書きたくない。純粋に相撲というものを追ってみたいのだが、才能がないのかなあ、と思ってしまう。

 実は才能があるかどうかということで、小説など書き始めたのではなかった。あくまでも自己慰安のためであった。十作ほど作ってみて、ちょっとした興味本位で、書き始めたら、ドツボにはまってしまったというわけだ。

 昨日、骨盤を前傾にしたり、後傾にしたり、股関節を旋回したりということを家のフロアでやっていたら、夜、骨盤周辺の筋肉がやや痛んだ。現在の相撲取りがやっている「股割り」を動画で見ていると、あれは「股裂き」であって、本物の「股割り」ではないような気がする。本物の「股割り」は股関節を前に重心移動させるもので、開脚180度にして、骨盤を立て、股関節をくるりと回して(腹部が床につき、胸がつき、顔は伏せることなく進むべく前面をみる)重心移動させるものではないか。つまり筋をゴムのように伸ばしてしまうストレッチェではなく、関節の運動と考えたほうがいいのではないか、と思う。

 ヨガをやっている人たちも「股割り」ができる。インストラクターの「股割り」を見ても、「構造動作トレーニングの動画を見ていても、やはり筋のストレッチではなく、股関節のスムーズに動かす練習であることがわかる。

 相撲取りに膝の怪我が多いのは、股関節の使い方ができていないからではないか、と疑ってしまう。股関節が使えていたら、膝への負担が少なくなると思う。ただでさえも体重のある力士が膝に負担を掛けているのである。六場所制だから治療機関が少ない。

 なんだかんだと考えたり、見たりしている毎日である。準備運動って必要なのだろうかとか、全身の筋肉の協調を使うようにするには、どんな筋肉トレーニングが必要なのかとか、興味は尽きないのではある。